第二十六話 京を焼く
本願寺との和睦が結ばれた翌年、天文五年(1536)春。
将軍家がにわかに慌ただしくなった。
将軍御台所の慶寿院が、男児を出産したためである。
この出産は、単なる足利氏の男児誕生とは意味が違っている。
男児の母、慶寿院は、摂関家近衛尚通の娘であり、将軍家の正妻たる御台所である。
しかも父は朝廷によって正式な宣下を受けた、現職の将軍義晴。
家格、血統、正統性いずれにおいても完全なる将軍世子が誕生したのである。
この男児は菊幢丸と名付けられる。
後の第十三代将軍、足利義輝の誕生である。
これにより、かつて堺公方と呼ばれ、今は阿波守護細川氏之のもとで逼塞しているもうひとつの将軍家、足利義維の系統が将軍位を継ぐ可能性は、大きく後退した。
ほとんど時を同じくして、京の街でひとつの事件が起こった。
一条通の烏丸観音堂にて、叡山の僧侶が説法を行っていたところ、法華宗に帰依する町人、松本某がその説法に論難し、しかも法理を説いて、問答で叡山の僧侶を打ち負かしたというのである。
京の市中はにわかに色めき立った。
山科本願寺焼き討ち以降、京の市街では法華宗がとみに影響力を増している。
近年は幕府や権門への地子銭納入も拒否するようになっており、権門からは幕府に対し、法華宗の専横に対する反発の声が上がっていた。
そんな中での事件である。
面目を潰された比叡山側は当然色めき立ち、法華宗への制裁を幕府へ訴え出るべしという動きとなった。
この状況に対し、叡山から提示された要求は過剰なものであった。
日蓮宗に対しその宗号使用の禁止、すなわち法華宗を名乗ることを禁止するよう求めたのである。
叡山側も当然、これがすぐに飲み込まれるとは思っていなかった。とはいえ、京の情勢を見れば、多少なりとも幕府は法華宗への牽制に動くはずであった。叡山の面目も、それによっていくらか立つはずと見ていたであろう。
しかし、叡山の予想は裏切られることになる。
幕府側が、譲歩もなくこれを拒否したのである。
こうして叡山は矛を収める場所を失うこととなる。
敷き詰められた火薬の上にもたらされた火種の如く、論争は容易く闘争へと発展していく。
将軍誕生の翌月には、すでに京の各所で、法華宗と他宗派との小競り合いが多発する事態となった。
将軍義晴はここに至り、大館常興を使者として近江に遣わし、六角定頼に事態の収拾を依頼する。
大館常興は、八代将軍足利義政のころから将軍家に仕える、幕臣の中でも長老といえる存在である。
その常興が、定頼の前に平伏し、ほとんど懇願するように両者の仲介を願った。
「霜台殿、公方様のご心痛、お察しくだされ」
「ふむ、場を整え申す」
定頼はそう応じた。
そして、木沢長政を呼ぶ。
間もなく、木沢長政および六角家臣の進藤貞治が使者に立ち、叡山との交渉が行われることとなった。
叡山側は、法華宗の寺院二十一ヶ寺に対し、これを叡山の末寺として、以降上納金を収めよとの条件を提示する。
以前の要求より、さらに過酷な要求である。
これを聞いた木沢長政は驚き呆れ、進藤貞治に相談を持ちかけた。
「進藤殿、叡山の要求あまりに無体なれば、これでは交渉になりますまい。明日、改めて条件の再検討を願い出ましょうず」
しかし、進藤貞治の返答はにべもないものだった。
「御屋形様(定頼)より、山門(叡山)の要求はそのまま伝えよとの命なれば、再検討は無用にて」
この言葉を受けて、長政はふと気づく。
もしかすると、あの夜、蓮淳と定頼の間で行われた交渉とは、このことだったのではないか。
だとすれば、もはや定頼には事態を円満に収める気などない。
むしろ火に油を注ぎ、対立を煽る腹であろう。
いや、それどころか、いったいどこからが定頼の仕組んだ筋書きであったのか。
長政は、ぞろりと恐怖が背筋に這いよって来るのを感じていた。
定頼が仲介した叡山と法華宗との最終交渉は、当然の如く決裂した。
法華宗側にも、叡山の要求を撥ねつけるだけの自信があった。
山科本願寺焼き討ちより五年、京における法華宗の躍進すさまじく、すでにその動員兵力は二万を超えるとも言われている。
約二十年後に行われた桶狭間合戦において、今川義元が動員した兵力がおよそ二万五千といわれることを考えれば、もはや大大名に匹敵する兵力である。
これに対し、叡山は従来より敵対してきた圓城寺、興福寺、東寺に加勢を要求。
圓城寺、東寺はこれを応諾し、有力寺社連合による法華宗討滅の軍を近江に集結させる。
将軍義晴は、もはや戦が避けられぬと見て、若狭武田氏、越前朝倉氏、そして六角氏に対し、護衛の兵を要請。
自身は東山山上に陣を敷き、戦闘を避けた。
対する法華宗は二十二日、京の市中にて打廻を行い、軍勢を集結。叡山ら連合軍を迎撃する構えを見せる。
そして、七月二十三日。
京の東より、大軍勢が押し寄せる。
その数、およそ六万。
誰の予想をも上回る、圧倒的兵力であった。
そのうちおよそ四万は叡山および寺社勢力の兵。
残りの二万は、六角勢である。
これを指揮するのは、六角弾正少弼定頼。
連合軍入京の翌日、戦端は開かれた。
もはや六角氏の目的は将軍の護衛などではなく、法華宗の殲滅にあることは明白であった。
戦闘を指揮する将は、定頼の実弟にして右腕たる大原高保。
これに進藤、蒲生、三雲、後藤、永原、夏見らの六角家臣が従う。
定頼の本陣は京の東、洛外に置かれ、全軍を統括した。
対する法華宗側は、これまで本願寺との戦いを重ねてきたとはいえ、武装した町人たちである。三倍の軍勢を受け止めるに足る将はいない。
この戦闘は三日間に及んだ。
三日目、雲霞のごとき兵力で間断なく攻め寄せる連合軍の攻勢に耐えきれず、堀に拠って抗戦を続けていた法華宗が、戦線を下げる。
戦場は、京の市街に移った。
「御屋形様、敵勢、市街に退いた様子。いかがいたしまするか」
大原高保からの使番に、定頼は悠々と答える。
「焼いてかまわん」
かくて六角氏は躊躇なく市街に兵を入れる。
蒲生、三雲ら六角氏の鑓隊が先陣を切り、法華門徒を蹴散らしていく。
蹴散らすそばから、次々と市街に火を放っていく。
京の街が、燃える。
六角勢はもはや寺院も民家も区別なく、手当たりしだいに焼き尽くしていく。
昼夜を分かたず火は赤々と燃え続けた。
阿鼻叫喚の地獄と化した京の街で、なおも戦いは続く。
主戦場となった下京はそのほとんどが灰となり、上京もまた三分の一が焼けた。死傷者は万を数えたであろう。
応仁の乱をも凌駕する、途方も無い災厄であった。
世にいう、天文法華の乱である。
そして、開戦から五日後の七月二十九日。
東山に陣取る将軍義晴のもとに、大原高保が訪れた。
高保はまだ煙の臭う具足のまま、将軍の前に座して言う。
「戦勝のご報告にござる。京の法華二十一ヶ寺、悉く焼き払い申した」
義晴は、震える手を抑えながら、声を抑えて言う。
「いったい、これは何としたことじゃ。内裏からも、六角勢の狼藉を止めよとの仰せがあった。定頼は何をしておる」
高保はその言葉に対し、定頼から預かった言葉を返した。
「天下を贖うに、その代価、安くはありませぬ故」
その言葉に、義晴をはじめ、幕府の誰もが息を飲み、そして、六角定頼という男は狂人なのではないかと疑った。
しかし、彼らが定頼の真意を悟るのは、およそ一ヶ月後のことである。
――京が焼けた。
その報せを受けて、最も戦慄した男は、大坂本願寺の蓮淳であった。
「晴国の首を差し出せ。さもなくば大坂を焼く。蓮如の血、悉くを絶つ」
定頼の言葉が、蓮淳の脳裏で繰り返し響いていた。
定頼は本気だ。
将軍が在する京の街を焼いたのである。
大坂を焦土にするのも、定頼にとってはもはやついで程度でしかない。
蓮淳は、決断を余儀なくされていた。
そして、乱の終結からひと月が経とうという八月二十八日、夜半。
細川晴国がわずかな手勢とともに、摂津天王寺へと入った。
摂津の防備を担当する三宅国村から、晴元方の大規模な襲撃の予想が報じられたためである。
「殿、ここはお味方少なく、危険に。夜陰に紛れ、堺へ入ってしまうべきかと」
そう進言する近習の言葉を、晴国はいら立たしげにさえぎった。
「分かっておる。しかし、今日ここで人と会わねばならん」
晴国は焦っていた。
京の街を焼いた六万もの兵は、その大部分がすでに帰還したものの、定頼本人は未だ洛外に兵を留めている。
いつその牙が晴国へと向けられることになるか、生きた心地がしない。
そんな中、晴元方急襲の報せとともに、三宅国村はもうひとつ、秘密の報せをもたらした。
本願寺が再び晴元を見限り、晴国方に就くことを約す。そのために、ここ天王寺で蓮淳との会見を行いたいというのである。
都合の良すぎる話ではあった。
しかし、定頼への恐怖におののく晴国は、自分に都合よく事態を解釈した。
「蓮淳殿もわしと同じ心地であろう。なにしろ定頼は山科本願寺を焼いた張本人。まして此度、同盟者であるはずの法華宗すら焼いたのだ。法華宗の次は本願寺となるのは明らかじゃ。先手を打って立つしかあるまい」
不安を塗りつぶすようにひとりごちながら、ふと、晴国は違和感を覚えた。
寺内に人が少なすぎる。
急な逗留であるから、歓待などないことは当然としても、寺に人の気配自体がほとんどない。
気づいたとき、見張番が悲痛な声を上げた。
「てっ、敵襲! 敵襲にござる!」
途端、寺を囲むように、次々と灯火が点っていく。
晴国がその灯火の先に目を凝らすと、旗印は輪宝紋。
三宅氏の家紋である。
「……謀ったな、蓮淳」
晴国は敗北を悟ると、静かに言った。
「刀の手練を選べ。せめて見苦しい死に様は晒すまいぞ」
暁闇の中、三宅国村のもとに、細川晴国の首が届けられた。
よく見知った顔である。薄明かりの中でされ、紛れもなくそれが晴国のものだと知れた。
国村は激しい吐き気を感じ、その場で嘔吐した。
その国村の背後の闇から、巨きな体を揺すって、一人の僧が現れる。
蓮淳である。
「三宅はん、これは罪やありまへんで。でっかい功徳や。この首ひとつで、本願寺の門徒十万、それから摂津の国人数万の命を救えるんやからな」
翌日、晴国の首が晴元のもとへと届けられた。
天文二年より続いた晴元と晴国との戦いは、陰惨にも謀略によってその終わりを迎えたのである。




