第二話 あないに奇妙な釜、日の本のものとも思えまへん
三好長慶について語る前に、ひとりの男を登場させておかなければならない。
この男、とにもかくにも、美しいものが好きだった。
特に、“物”に対する執着は人一倍だった。
幼いころからそうだった。
数え七つの歳に、父にともなわれて京の商家を訪ねた折のことである。
店の棚に見つけた、道風の書という歌切をいたく気に入り、離れるのを泣いて拒んだことがあった。
父は摂津国五百住の土豪である。
歌切に泣いてすがる我が子を、奇妙なものでも見るかのように見つめていたが、やがて「奇貨置くべし」と大金を払い、それを買い与えた。
料紙に古渡りの唐紙を用い、縹色の絵の具を引いて、雲母で描いた唐草が浮かぶ中に、
おろかなる 涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへず たぎつせなれば
(玉になるくらいの涙しか流してくれないのですね。
私の涙はせき止められないほどなのに)
と、小町の恋歌がしたためられた見事な書であったが、七つの子が興味を示すには、いささか風雅に過ぎる品だった。
五百住に帰る道々、何度も歌切を日にかざし、食い入るように眺める子の姿を見て、父は思った。
(こいつは将来、どっちかだな。大人物か、手の付けられない遊び人か)
そのとき。
人影が後ろから駆け寄り、歌切をひったくろうとした。
「宝、よこせや!」
「……嫌だ!」
見れば、盗人はまだ十歳そこらの少年である。
押し合いのすえ、ようやく歌切を奪い取ったときには、すでに供の者たちが白刃を抜いている。
「こいやあ!」
少年はそう叫んで、腰に差した剣を抜いた。
抜いたときには、もう斬られていた。
「ぎゃうっ!」
肩から袈裟斬りに胸まで切り下げられ、少年は倒れた。
少年は、息絶える間際につぶやく。
「真剣がありゃあ、おれだって……」
果たして、少年が握っていたのは、粗末な木剣だった。
どっ、と笑いが起きた。
大した小僧だと少年をほめたたえる者もあった。
しかし、誰一人、少年を助けようとはしなかった。
そういう時代であった。
自力救済の世。
自らの身は自らの力で守らねばならない。
そうした考えが、下々の者どもにまで及んでいた。
土豪の子はそっと少年の亡骸に近づき、その手から盗られた歌切を取り返す。
歌切には、小さく、しかしはっきりと、血の跡がついていた。
七つの子は血のついた歌切を見て、それをぎゅっと抱きしめた。
捨ててはいけないもの。尊いもの。
なにか決定的に今の時代に欠けているものが、この血の跡にこもっているような気がした。
以来、その歌切は彼の最も大切な宝物のひとつとなった。
この子が、長じて久秀と名乗るようになる。
のちに天下の大悪人と呼ばれる、松永弾正久秀である。
ときは流れ、「大物崩れ」で細川高国が敗死した一年後のこと。
久秀、齢二十二の夏である。
身の丈は六尺(180cm)を超えながら、容貌に野趣と甘さが同居し、美男子と評判だった。だというのに本人は自分の甘い風貌を嫌って、常に無精ひげを生やしている。
父の案じた通り“物数寄”はいまだ治まらず、家業を嫌って弟の甚助に任せ、自身は遊び呆けていた。
暇さえあれば京へ上り、古今の宝物を漁るように見物する。
天稟があり、一度目にしたものは忘れず、一度耳にしたことは即座に諳んじた。
京の旦那衆はこの奇妙な才人、久秀を面白がり、いつしか連歌の会などに呼ぶようになっていた。
「松永はんは摂津の方どしたな。堺へはよく行かはりますか」
酒席で旦那のひとりが、久秀にそう問うた。
「堺ですか。あまり参りません。ちかごろ物騒ですから」
答えながら、久秀の頭には、一人の男が思い起こされている。
かつて一度、遠目に見たことがある。
軍勢を率いて京の街を征く、堺の支配者の姿を。
三好筑前守元長。
都の動乱に乗じて阿波で挙兵すると、たちまち畿内を席巻し、堺公方と呼ばれる巨大な権力機構を築いた男。
今、日本で最も強く、最も多くを持つ男。
今、命の価値が最も高い男だ。
「実は先日、堺公方のご用命あらはりましてな。三好殿のお屋敷に参上したんどす」
「何か珍しいものがありましたか」
旦那の自慢げな口調に、久秀は柔らかく応じる。話の内容によっては、堺に行ってみようと思っていた。
「二つありましてん。一つは、三好の若殿。今年で十歳にならはりますが、あら傑物どす。王者の風とでも言いますか、阿波の田舎侍とはとても思われへん。世継ぎがあの殿なら、三好家も安泰や」
「もう一つは」
「もう一つは、ほんに奇妙な茶釜どす」
茶釜と聞いて、久秀は眉を動かした。
近年、優れた茶器は好事家たちの間で最も興味深い蒐集の対象となっている。
特に貴重な「名物」と呼ばれる品は、茶器一つで城一つ建つほどの、莫大な額で取引されると聞く。
「お武家はんは古天明やと言うてはりましたが、はて、あないに奇妙な釜、日の本のものとも思えまへん。いや、今思い出しても、この世のものなのかどうか。伊弉諾尊が黄泉の国から持ち帰ったと言われたほうが、納得できるんと違いますか」
「ほう」
「地蜘蛛が蟠るが如きその様相から、銘を“平蜘蛛”とか」
その名を聞くと、久秀の中で、何かがごろりと動く音がした。
この物語の主人公、その一人目が松永弾正久秀です。松永久秀に関する評価は近年大きく変化しており、裏切り者、義理ワンのイメージから、終生三好家に尽くした忠義ものへとほとんど反転しました。武士ですらなかった彼が、なぜ三好家にそれほどの忠義を尽くしたのか。それを描いていくことが、この物語における大きなテーマのひとつです。
参考文献:
『松永久秀』(宮帯出版)著/天野忠幸 など
■TIPS ※ステータスはキャラをイメージするための目安です
甚助:松永久秀の実弟。のちの松永長頼(内藤宗勝)。
松永久秀(若年期):統率62 武力83 知略90 内政72 外政78
久秀の出身地は諸説あるが、本作では摂津国五百住(現大阪府高槻市)出身説を採用。久秀の名前が一次資料に確認されるのは長慶が摂津に拠点を得てからであり、そのころにはすでに相当の地位と職責を獲得しているため、彼の前半生はほとんど謎である。
摂津国:畿内の令制国のひとつ。現代の大阪府北部、兵庫県南東部にあたる。瀬戸内海における海運の起点であると同時に、淀川・大和川といった豊かな河川を有し、古代から水運が栄えた。室町時代は管領・細川氏が守護を世襲。
阿波国:四国の令制国のひとつで、現在の徳島県。三好家の本拠地。細川家の分家である阿波守護家が守護職を世襲している。この時期の阿波守護は細川六郎(晴元)の実弟とされる細川氏之。三好家の本来の主君はこの氏之である。