第十八話 十楽の津
評定ののち、千熊と久秀は阿波へと向かう船に乗り込んだ。
船中、千熊はいら立った様子で海を見ていた。
その千熊の肩に、久秀ががばりと覆いかぶさって言う。
「よう、ご主君。六郎殿のことなら気にするな。お前が奴に劣っていたわけじゃない」
主君と臣下という関係にはあるまじきほど気安く肩を抱かれて、千熊は無図がるように反論する。
「別にそんなこと気にしてはおらん! ただ……なんだか釈然としないだけじゃ」
「ほう、なにが釈然としない?」
千熊は久秀の腕を振り払い、いら立ちをぶちまけるように言葉を吐き出した。
「六郎殿が父上を裏切ったのはよい。いや、よくはないが、父上も従順な家臣ではなかったことは、わしもよく存じておる。だからそれは、六郎殿と父上との相克の結果じゃ。しかし、今回六郎殿が救われたのは、いろいろ理屈をつけてみたところで、結局のところ我らのおかげではないか!?」
「はっは、まあそうだな」
思っていたよりずっと子供らしいいら立ち方に、久秀は思わず顔をほころばせる。
千熊はその反応にさらにいきり立ち、言葉を続けた。
「実際、木沢殿も宗三殿も、兵を出せておらんではないか。もしわしが愚鈍で、堺への奇襲に気づかなければ、あるいはもし久秀が間に合っておらなんだら、六郎殿はどうなっていた? 堺で晴国方の兵に殺されていたのではないか?」
「その通りだ。それで、お前はどうしてほしかったんだ?」
久秀の問いに、千熊はむっとした顔で答える。
「どうしてほしいということもないが……そうじゃな、わしはただ、ありがとうと言ってほしかっただけかもしれん。感謝の言葉もないのかと、皮肉のひとつでも言ってやればよかったかな?」
千熊は真面目な顔でそう聞く。久秀は笑った。
「それを言っていたら、お前の器は二周りほど小さく見られていただろうよ」
「むう、腹が立つのは狭量か?」
「いや。結果、お前はそれを飲み込んだ。それが器だ。誰しも腹は立てるが、いったんそれを飲み込むには、器のでかさが要る。簡単そうに見えて、意外とできないもんさ」
久秀が千熊の頭をくしゃくしゃと撫でる。
千熊はその手を振り払いながら、いったん吐き出しておちついたのか、すっきりとした顔で鼻息をふいた。
「ふむ、まあ此度は六郎殿にしてやられたが、わしも成長した。少し前までなら、父上や六郎殿は、雲の上の人々のように感じておったところじゃ。それが、直接言葉を交わし、考えを理解できるようになり、決して手の届かぬ相手ではないとわかった。それでよしとするか」
そう語る千熊に、久秀は畏れに近いものを感じた。
(お前が向き合っている相手は、細川京兆家の継承者だ。実質的な武士の頂点だ。それを、手の届かぬ相手ではないと感じたのか。まだ十五にもならないお前が)
久秀が何かを言おうとしたところで、二人の後ろから声がかかった。
「若殿、松永殿、よろしいか?」
声をかけたのは、三好家家老、篠原長政である。長政は白い髭を撫でながら、声をひそめて言う。
「本願寺のことにござるが」
その一言で、緊張が走る。
本願寺との和睦交渉は、最大級の秘匿案件である。
「阿波に着き次第、残る重臣一同連署で急ぎ書状を用意いたしまするが、問題は使者にござる。なまなかな者では、この使者務まりませぬ」
道理であった。
この時代の外交交渉は、大名と取次がそれぞれに用意した書状によってなされるが、敵国との交渉において大名や重臣が直接敵地に赴くわけにはいかない。
必然、使者自身の資質が問われることになる。
「重大な役目じゃ。久秀に任せるがよかろう」
千熊がそう言うと、久秀は目を丸くして驚く。
「おれが!? おいおい、おれは新参者もいいところだぞ。武家の礼法もまだよくわかってないやつに、使者が務まるか?」
久秀の反論に、千熊は真剣な顔で答える。
「使者の資質も重要じゃが、この件、晴国方へ漏れることが最もまずい。すべて経緯を把握しており、動いて目立たず、裏切らぬ者といえば、久秀しかおらぬ」
千熊の言葉に、長政が応じる。
「ふむ、それがしも松永殿がよろしかろうと存ず。正直なところを申せば、三好家は崩壊寸前。相当の重臣を遣わしたところで、裏切られる危険が大きゅうござる。加えて、相手は僧侶。武家の礼法はかえって押しつけがましいというもの」
こう言われては、久秀も断りようがない。
「わかった、わかったよ。使者のお役目、お受けしよう」
かくして腰を落ち着ける間もなく、久秀は船を乗り継ぐ。
紀伊水道を抜け、紀伊半島を大きく迂回し、伊勢国へ。
鳥羽湊を経由したら、長島のある桑名はすぐそこである。
――伊勢国、桑名。
この港湾都市は、規模こそ堺に及ばぬものの、その高い自治性は当時の日本で抜きん出た存在であった。
人はこの湊を、“十楽の津”と呼んだ。
十楽という言葉のもとは、仏教に言う極楽の別称であるとともに、その極楽における十の楽しみを指す。
ここから転じ、武家から地子を取られることもなく、権門に座料を支払う必要もないこの桑名の自治を指して、十楽と称したのである。
つまり十楽とは、中世における「権力からの自由」そのもののことだ。
その自由都市に久秀が降り立ったのは、三月も半ばに入ってからだった。
「潮に恵まれやした。予定より丸一日早い到着です」
船長が、久秀にそう声をかけた。久秀は礼を言い、湊に降りる。
密使である。
船は堺の天王寺屋が用意した商船であり、久秀の供回りも下士が二人のみ。大身の武士であれば心許ないところだが、かえって久秀には気楽な旅であった。
街に入ると、人が集まっている。
「大層な人の出ですな。いつもこうなんで?」
久秀は人の良さそうな旦那を捕まえて、物腰柔らかくそう聞いた。旦那は久秀らを商家の者と思ったのか、さして警戒もせず、にこやかに答える。
「いやいや、今日は訴訟があるんや。見物でんな」
「訴訟。よほど大きな揉め事ですか?」
久秀が大げさに眉をひそめてそう聞く。
この時勢、裁判は町人たちの見物の対象であり、同時に、悪質な場合は敗訴した者に対し見物人たちが石を投げ追うこともあった。
旦那は笑って否定する。
「大げさなもんやありまへんわ。ただの土地相続の問題やて」
「ほなら、この人出は?」
「そら、中人が評判の美人検断人やからでしょうな。そろそろ判決の出る頃ですわ。あんさんらも見物どないだす」
誘われるままに、久秀は旦那についていく。
中人というのは、訴訟の間に立って、その理非を判ずる者のことをいう。
武家が関わるような訴訟は領主がこれを務めるが、訴訟の規模によっては僧侶や有力町人がこの役目を担うこともある。
どうやら訴訟は一向宗の道場がその軒先を貸し出して行うらしい。
すでに見物人がぞろぞろと集まっている。
とはいえ、久秀は六尺を超す長身である。人集りの中であっても頭一つ二つは抜け出していて、はっきり女の顔が見えた。
「たしかに、なかなかの美人だな」
広げられた書類を前に座る女を見て、久秀がうなる。
細面で切れ長の目に、薄い唇はいかにも知的で、怜悧にすら感じられる。無駄な贅肉のない整った肢体もまた、強い理性による節制のたまものであろう。
いかにも女検断人という風情の見た目であった。
間もなく、見物人たちの間で声がかわされる。
「しーっ、静かに! 判決が出るみたいや!」
喧騒が、波の引くようにすうっと静まっていった。