第十七話 臣従のとき
三好千熊、そして細川晴元を乗せた船が、淡路に着いた。
船を降りると、山上に真新しい城が見える。
淡路の国人、安宅治興が築いた洲本と呼ばれる城で、まだ築城から十年と経っていない。
安宅氏はもともと淡路守護細川家に仕えていた国人である。その淡州細川氏が三好氏に敗れて以来、安宅氏は三好氏に恭順の姿勢を示していた。
久秀は晴元を伴って、その洲本城へと続く石段を登っていた。
周聡の死を受けて、晴元はしばらく沈鬱な表情のまま押し黙っていたが、今はその瞳に力が戻っているのがわかる。
(……あの爺さんが死んで、こいつは成長した。堺で初めて見たときとは、まるで別人だな)
久秀の主君である千熊にとって、晴元は父の仇である。
ならば今日はその命を久秀が救ったとしても、おそらくは宿命のままに、いずれ刃を交えることになるのだろう。
しかし、久秀はいま、この若者を憎むことができなかった。
最大の理解者であった忠臣の死を前にして、晴元の内側に気高い志のようなものが生まれつつあるのを、久秀は感じていた。
(いいさ。敵も強く、美しいほうがいい。千熊の才は、そうした敵にこそ磨かれるだろう)
そう自分を納得させて、久秀は城へ登る。
間もなく、二人は本丸へと入った。
広間には、洲本城主の安宅治興と、三好家家老の篠原長政がいる。
そして三好家当主三好千熊が、彼らの上座に座していた。最上位に晴元の席が空けられている。
久秀は末席に加わり、晴元はごく自然に上席についた。
そしてごく自然に、
「此度の来援、大儀でした」
と言った。
その言葉には、いかなる気負いも感じられず、武家の慣習の外にいる久秀ですら、ごく自然な流れとして平伏してしまった。
(なるほど、“家格”とは、これか)
二百年の時を重ねた室町礼法とその様式美が、生まれながらに上位者たる宿命を与えられた人間に染み付き、その権威と正統性という目に見えぬ力をもって人を縛るのだ。
晴元の言葉を受けて、まず口火を切ったのは安宅治興だった。
「洲本城主、安宅治興に。まずは六郎様のご無事なによりにござる」
治興の言葉に、晴元は鷹揚に応じた。
「淡州安宅家は我が父・澄元の代より忠勤のこと、聞き及んでおります。此度の水軍働きも見事。頼もしきことです」
「有難き御言葉にござるが、安宅家の家格低く、我が兵力にては淡州の守り覚束ず、このたび、亡き三好元長殿の御遺言に従い、三好家より元長殿の第三子を我が養子に迎え、安宅家は三好一門に加わり申した次第」
「ほう」
晴元はわずかに眉を寄せ、しかし穏やかな口調を崩さず、治興に問う。
「三好家は英邁なる当主元長を喪い、後継の千熊は聡明なれどもまだ幼い。その三好家に家運を委ねる本意は?」
「まさにその千熊様」
治興は千熊を見て続ける。
「先々代之長様、先代元長様、ともに軍才余りありといえども、力にて人を統べる方なれば、政争に敗れお味方を失い、終には命を落とされ申した。されど千熊様は違う。人を敬い、人と和す才を持ったお方にござる。柔は能く剛を制すものなれば、戦乱の世にこそ安宅家の家運、この御当主に預け申す」
淀みなくそう言い切ると、治興は頭を下げた。
晴元は千熊のほうを向き、問いかける。
「人を敬い、人と和すという三好千熊。あなたは、父の敵と和し、敬うことができますか?」
重い、実に重い問いだった。
それは、千熊に代わって誰かほかの者が答えることの許されぬ問いであった。
ゆえにこの瞬間、晴元と千熊は一対一で向かい合うことになる。
晴元はこの問いを以て千熊と直に対峙し、その器を量ろうとしているのだ。
晴元は、じっと千熊を見据えている。
久秀はその様子をうかがいながら、膝の上でぎゅっと拳を握る。
(千熊、まっすぐに答えちまえ! 器のでかさなら、お前は負けねえ!)
千熊はたっぷりと熟考した。
長い沈黙のあと、千熊は口を開く。
「できます。その相手が、真に敬服すべき人であるならば」
それは明白な答えであり、同時に辛辣な問いだった。
できる。
たとえ父を殺した晴元とであろうと、和し、仕えることができる。
ただし、晴元にその器量があるのならば。
その器量、晴元に有りや無きや?
この問いは、今の晴元には苦しい問いだ。
圧倒的に優位な戦局から一転、本願寺に不意を突かれて堺を追われ、千熊に命を救われてしまっている。
自らの将器を示す必要があった。
「……よろしい。ならば私は、あなたが示したのと同じだけの覚悟を示しましょう。私が父とも思い、腹心としてきた可竹軒周聡。その彼を弑した本願寺と、和すことにいたします」
しばし、沈黙があった。
晴元の言葉の意図を正しく理解できた者がいなかったためだ。
「わかりませんか? しかし、あなたたちは知っているはずだ。どうして私を助けるべきだったかを。ただ哀れに思ったから助けたわけではない。そうでしょう?」
問われて、千熊は答える。
答えざるを得ない。
「……それは、そうです」
「なぜですか? 私を見捨てれば、大坂を囲む木沢長政、摂津で調略を進める三好宗三、ともに自壊したでしょう。いずれもあなたにとっては父の仇だ。そうしなかった理由があるはず」
千熊は沈黙する。
晴元はかまわず続ける。
「おそらくは堺に現れたあの軍勢、細川晴国のものだったのではないでしょうか? あなたが私を助けざるを得なかった理由も、それなら合点がゆきます」
千熊は、はっきりと己の不利を悟った様子で、静かに答えた。
「我が臣、松永久秀の諜報によれば、細川晴国殿、軍を率いて上洛間近とのこと。すでに若狭より丹波に本拠を移し、密かに摂津、河内にて兵を集めつつある由。京への進軍は早く見て四月。とすれば……」
「ふむ。私の目算とほぼ合致します。それなら仮に私が死に、長政、宗三が共に敗れれば、次は阿波三好家が晴国の標的となるのは間違いない。なにしろ晴国の兄、細川高国を殺害したのは、誰あろうあなたの父、三好元長なのですから」
晴元は流々と弁ずる。
その理路は明晰であり、しかも反論を許さぬものだった。
晴元が続ける。
「元長は高国の仇だ。その子である三好千熊を殺してこそ、晴国は京兆家を継ぐ資格を得られると考えるでしょう。高国には養子とはいえ子として氏綱があり、継承順位から言えば、晴国は氏綱より下位と言えます。晴国は自身の家督相続を正当化するためにも、ぜひとも三好家を生贄にしたいはず」
晴元はそこで言葉を切った。
誰も異論を挟まないことを十分に確認して、晴元は言う。
「ですからあなたたちは、私を助けざるを得なかった。それはよい。次に考えるべきは、晴国の軍勢にどう対処すべきかです。これは決まっている。二正面に敵を受けて勝つことができないならば、本願寺と和睦するほかない」
そう言い切ってから、晴元は一同に向かい、宣言するように言った。
「以上のことを、この城の石段を登りながら考えました。私はこれまで、深く考えること能えども、疾さがなかった。だからこそ元長を従えることができず、腹心の部下を死なせてしまった。これより先、私は誰よりも疾く考え、誰よりも疾く動く。これは私の覚悟です。三好千熊、私に従いなさい。それが天下のためです」
千熊は、万感の想いを飲み込み、頭を下げる。
「……御意のままに」
晴元は大きく息を吐くと、続けて下知する。
「和睦をまとめるのは、千熊、あなたです。あなた以外に、この和睦をまとめられる人間はいません。この戦いは本願寺が三好元長を殺したところから始まっており、その恨みを解消せずには彼らも和睦を信じることができないからです。そして、交渉すべき相手は、伊勢長島にいます」
「伊勢……? 大坂ではなく?」
千熊が問うと、晴元は確信を持った声で答えた。
「晴国の決起までを含め、すべての絵図を描いた者がいるとすれば、和睦を交渉できるのはその相手だけです。その相手は大阪の蓮如ではなく、伊勢長島の願正寺住持。名を、蓮淳」
ここに三好千熊は、父・元長の仇である男、細川晴元に仕えることが決定した。そして、その最初の任務は、蓮淳との間の和睦交渉となったのである。