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第十六話 幼年期の終わりに

 明けて、天文二年(1533)二月。


 六角定頼との取次を終え、大坂本願寺の包囲網を視察していた可竹軒周聡が、堺の細川晴元の逗留する顕本寺に戻ってきた。


 法華宗と細川家の軍勢が大坂攻撃開始から三ヵ月が経とうとしていたが、この要塞はいまだ包囲を許さず、攻め手のつけ入る隙を見せていない。


「大坂は、攻めがたいですか」


 晴元は周聡にそう問う。

 周聡は陰鬱な顔をさらに歪めて、苦々しげに答えた。


「まことにもって。彼の地、淀川よどがわに面して流れはぐに海へと注ぎ、城を囲えども夜陰にまぎれた小舟の往来すべてを差し止めることはあたいませぬ。完全包囲せんとすれば、大船団をようし、水上(ことごと)く封鎖するしかありますまい」


 晴元は目を閉じ、思考に沈み込む。

 法華宗および六角氏と結び、一向宗の本山、山科本願寺を電撃的に壊滅させたところまでは、計画通りと言ってよい。しかし、第二の拠点であるはずの大坂本願寺がこれほどの堅城とは、明らかな誤算だった。


 もっとも、晴元の誤算は無理からぬことでもある。

 一向宗は各地で一揆を起こしてはいたものの、畿内の本願寺本体が武家勢力と本格的に対峙するのは、この戦いがはじめてなのだ。


 大坂御坊が要塞としての力を発揮するのも、これが史上はじめての実戦である。

 この城が後に織田信長と十年に及ぶ闘争を貫いてなお落ちず、やがて大坂城として日本史上最大規模の攻城戦の舞台となることを、まだ誰も知らない。


(誤算を嘆くな、私の悪い癖だ。次の手を打てばよい。元長なら、そうしている)


 晴元はおのれを叱咤する。

 その思考を読み取ったように、周聡は言う。


「ご案じ召さるな。大坂攻め難しといえども、諸寺からの支援なくして籠城を続けることは不可能。大坂を囲いつつ、これを支援する拠点を各個に攻め潰せば、やがては本願寺も降伏せざるを得ますまい」


 周聡の言葉に、晴元はうなずきながら言う。


「急がなければなりません。春になれば、高国の残党どもが晴国はるくに氏綱うじつなを擁立して決起するでしょう。それまでに……」


 晴元がそう言いかけたとき、近習の悲痛な声が響いた。


「てっ、敵襲! 敵襲にござる! 南方より数千の軍勢!」


 周聡は晴元と顔を見合わせ、怪訝な顔をしながらも聞き返す。


「何方の勢力じゃ」


「一揆衆のように見え申すが、大軍なれば、抑えきれませぬ!」


 しらせを聞き、晴元は唇を噛む。


(大坂包囲から三月、なぜ今になって大坂でなく堺に軍勢が来る? 戦力を大坂に集中させたのは間違いだったのか? いや、そもそも山科焼き討ちが……)


 黙考に沈み込もうとする晴元の肩を、周聡がつかむ。


「六郎殿、危急のときなれば、脱出を」


「……そうですね。供回りを集めなさい」


 晴元の号令を受けて、急ぎ近習が手勢をまとめる。

 二十余名が集まり、ひとまずの部隊ができた。が、具足を整えている暇はない。

皆、弓槍を手に腰に刀を履いたのみの軽装である。


「まずは堺からの脱出を。その後、最も近い友軍を確認し、合流します」 


 しかし、顕本寺の寺域を出たところで、周聡が足を止めた。


「な、なんたること」


 堺の街、その大通りの至るところで、刀による切り合いが始まっている。


「敵が堺の内にまで入り込みおるではないか!」


 狼狽する周聡に、晴元が言う。


「あれは恐らく、外の軍勢が来る前から、堺の中に潜り込んでいた手勢でしょう。いずれにせよ、ここで籠城戦は不可能です。急ぎ脱出しなくては」


 言いながら、晴元はその困難さを計算し、絶望しつつあった。


(あらかじめ手勢を街の中に潜伏させていたということは、相当な準備期間を経て計画された侵攻だということだ。狙いは間違いなく私だろう。とすれば、摂津の友軍と合流する道にも、ことごとく兵が伏せられていると考えるべきだ)


 現在の供回りだけでは、どんな小勢であっても軍と戦うことはできない。

 敵のいない道を通るしかないが、敵の正体もわからぬ今、どの道に兵が伏せられているか、推測すらできない。


「見よ! あれじゃ! あれに大将首があるぞ! 細川六郎と見たり!」


 白兵戦を演じていた敵の兵が、晴元の姿を認めて叫ぶ。


「六郎が逃げるぞ! 追え追えい! 逃がすでないぞ!」


 街中から、敵の兵が集まってくる。

 金襴きんらん直垂ひたたれまとった晴元の姿は、見通しのよい街の通りにあって目立ちすぎる。隠れようもなかった。


「くっ……ともかく逃げるのじゃ! 手薄な方面へ進めい!」


 周聡が叫び、味方が動き出す。

 晴元もまた、流されるようにそちらへと向かう。


(手薄なのは当然だ、そちらは港だぞ) 


 そう思うが、しかし、逆方面に進んだところで突破できそうにない。

 走るしかなかった。

 道はすぐに終わり、目の前に海が広がる。

 晴元は海を前に立ち止まった。


「……進退極まったか。誰ぞ介錯を。雑兵の刃に斬られるわけには参りません」


 諸肌もろはださらし、脇差を抜こうとする晴元を、周聡が制す。


「なりませぬ! 六郎殿はこのような場所で死ぬべきお人ではない!」


「されど、もはや」


 敵勢がこちらに向かって弓を引き絞っている。

 晴元は、放心したようにその様子を見ている。


(ここで終わりか、私の道は。もう少し、何かできると思ったが)


「……六郎殿、お退きを!」


 瞬間、周聡が六郎を突き飛ばした。

 矢が、晴元の顔をかすめていく。


「周聡!」


 晴元は身を起こし、周聡に駆け寄る。


 矢が一本、老人の背に突き刺さっている。

 深く、位置が悪い。


「……六郎殿、諦めては、なりませぬ……」


 晴元を叱咤する周聡の口から、血が溢れた。

 敵勢は大将首を取らんと、白刃を抜いて迫ってくる。


 そのとき、声が響いた。


「急げ! 金襴の直垂が御大将ぞ! 御大将を救い出せ!」


 常人のものとも思えぬ大音声とともに貝が鳴り、数十もの武者がどっと押し寄せてくる。

 そして、不思議なことに、彼らは晴元を守るようにして、敵を押し返していく。


 さきほどの大声の主と思しき男が、晴元に駆け寄ってきた。

 六尺にも及ばんとする長身に、野趣強く美しい面立ちの見事な武者である。


「細川六郎殿。不躾ぶしつけながら、おれがあんたを逃がす」


「貴殿は……?」


 晴元の問いに、男が答える。


「三好千熊(せんくま)が家臣、松永久秀」


 それだけ言うと、久秀は敵を押し返した兵たちを呼び戻す。

 加勢が来たとはいえ、味方は敵に対し圧倒的に少ない。港を背にして、追い詰められた状況は変わらない。


 数を増した敵が、再び押し寄せてくる。


「松永殿、後ろは海だ。どこへ、どう逃げる?」


 晴元が再び問う。

 しかし、その答えは久秀の言葉より先に、晴元の眼に届いた。

 波を蹴立てて、船が来る。

 見上げるほどの巨大な船、安宅船である。


「貝は、これを呼んだのか」


 安宅船の船上に、弓を構えた射手が並んでいる。

 その射手らの中心で、わずか十歳ばかりの少年が、指揮の声を上げた。


「各員、最前列を射抜き、敵の勢威をくじけ! 一斉射!」


 軍装に身を包んだ三好千熊丸である。

 そして彼が率いるのは、飯盛城の戦いを生き抜いた、三好家の精鋭たちであった。


 迫りくる敵勢に対し、一斉に矢が放たれる。

 歴戦の武者たちが放った矢は正確に敵の肉体を射抜き、こちらに向かってくる者たちの戦意をくじいていく。


 斉射で敵を追い払い、船が接岸する。


「船に乗る。走るぞ」


 久秀が晴元の腕を引く。


「待て、矢を受けた者がいる」


「誰かに任せろ、あんたがたれたら元も子もない」


 久秀の腕を振りほどき、晴元は言う。


「嫌だ。私が運ぶ。この者は私の父と同じだ。他の者に任せるわけにはいかない」


 晴元が周聡の体を背負う。

 老いた周聡の体は、驚くほど軽かった。


「……行きましょう。敵が来る前に」


 久秀はうなずき、二人が走る。

 晴元の手勢と、久秀の兵たちを回収すると、船は早々に岸を離れた。

 陸からは矢が放たれたが、安宅船はそれを物ともせず、悠々と進んでいく。


 かくて細川晴元は、窮地を脱した。

 ほんのわずかの運の差が、人の生死を分かち、歴史を書き換えていく。




 ――船の中で、晴元は周聡の背に刺さった矢を折り、彼を横たわらせた。


「周聡、周聡、助かったのです。目を開けてください」


 晴元の言葉に、周聡は口元を歪ませて、不器用な笑顔をつくった。


「……六郎殿……死なずに……」


「ああ、そうだ。周聡の言ったとおりだった。あなたが私を守った」


 枯れ枝のような周聡の手を、晴元が握る。

 もはやその手は、血の流れを感じることができないほど冷たかった。


「必ず……細川を……ひとつに……」


 そこから周聡の言葉は聞き取れなくなった。

 老人は、戦で死んだ者とは思えぬほど、静かに息を引き取っていった。

 しばらくの間、久秀と長慶の視点を離れ、細川晴元を描いてきました。

 主人公側の話が少なくてダメだというメッセージもいただきましたが、細川晴元との戦いは三好長慶の人生そのものでもあります。長慶にとって宿命の敵の登場に1万字強、お付き合いいただいてしまいましたが、大河でもヘタレとして描かれてしまう晴元をしっかりと描くのは、三好長慶を描くのに必須のこととして、いったん飲み込んでいただければ幸いです。

 次回からは久秀の視点から三好家畿内復帰の契機を描いていきます。

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