第十一話 天文法華の乱
「おい……なんや、これ?」
木沢長政が細川六郎との交渉を約して帰ってから、十日が経ったころ。蓮淳はその手に一通の書状を握り締め、怒りに震えていた。
書状は、細川六郎の家臣、茨木長隆が発したもので、宛先は法華宗の末寺である。書状にはこう記されている。
本願寺の事、別儀無き旨これを申さるゝと雖も、
(本願寺は他意なしと言っているけれども)
一揆等恣まなる動き、造意歴然なり。
(一揆衆の振舞いを見れば、侵略の意思は明らかである)
然る上は、諸宗滅亡、此の時たるべきか。
(このままでは一向宗以外の宗派はみな滅亡してしまうだろう)
所詮、当宗中この砌相催され、忠節をぬきんでらるれば
(法華宗にはこの機に決起して忠節を示していただければ)
ご快然たるべきの由候なり。仍執達件の如し
(かつての秩序が回復するだろう。よって件のように申し伝える)
享禄五 八月二日
(茨木)長隆 (花押)
念仏寺
要は、法華門徒に対し、本願寺打倒のために立ち上がれと説いているのである。これは明らかな檄文であった。
「六郎め、話がちゃうやないけ……」
脂ぎった指先を怒りに震わせながら、しかし蓮淳の頭脳は冷静に彼我の戦力を計算していた。
細川六郎の軍事力の中核は三好元長の兵力だ。しかし、元長はもう死んだ。本願寺が殺した。六郎の手元に、本願寺の勢力に対抗できる力は残っていない。
だから六郎は、元長に代わる勢力として、法華宗を扇動した。
法華宗の助力を得ることで、本願寺に対抗しようというわけだ。
しかし、法華宗は武士の集団ではない。本願寺と同じく、一揆衆がその中心だ。
同じ一揆衆同士の戦いなら、数の勝負だ。門徒の数で本願寺が法華宗に劣るわけがない。
「ほならちょうどええ機会や。京の法華門徒、皆殺しにしたろ」
そう決めた。そして、即座に動いた。
檄文の入手から三日後、本願寺勢は早くも、細川六郎の本拠地である堺を再包囲した。
しかし、今度は拙速に過ぎた。
堺南部の丘陵地帯に広がる森林、その森の中に、木沢長政率いる軍勢数百と、法華門徒数千が、息を潜めていたのである。
「長政様、本願寺勢、包囲にかかった模様」
「……部署した法華門徒たちに伝令しろ。半刻後、一斉に出るぞ」
数が揃わぬまま勢いに任せて堺を包囲した本願寺勢の側背に、木沢長政の軍勢が襲いかかった。
統率の取れていない一揆衆は、攻めている間は強くとも、予期せぬ襲撃に遭うと脆い。包囲陣はたちまち崩れた。
飯盛城の戦いで三好元長が敗れた形、そのままの再現。
本願寺勢は、あっさりと撃退されてしまったのである。
敗報を受けた蓮淳は、首をひねった。
(おかしい。こないに鮮やかな手口、六郎の手下どもが用意できるわけあれへん。そもそも木沢が使てる兵の数もおかしい。法華宗やない。なんか別のもんが動いとるとしか思えへん)
蓮淳の頭に、一人、細川六郎の背後に立つ人物の顔が浮かぶ。
(もしあの男が後ろ盾におるんやったら、六郎の強気も理解できる。こら、山科では太刀打ちできひんかもしれんわ)
蓮淳は後手にまわったことを痛感しつつ、左右に命じた。
「証如を石山に移すで。めぼしい宝物もいっしょにや。近いうち、山科は戦場になるかもしれん」
たちまち僧侶たちが山科本願寺を駆け回りはじめた。
蓮淳が軍勢の立て直しに奔走する中、堺での緒戦に勝利した法華門徒たちは勢いづき、京の東山、そして本願寺膝元の山科周辺で「打廻」を開始する。
打廻は法華一揆独特の行進で、武装した一揆衆が早鐘を打ちつつ練り歩く。もともと京の法華門徒は武士や僧兵から市街を防衛する自警団的存在であったことから、打廻もまた破壊を伴わない示威活動であるが、今回はその規模が異様であった。
鐘が鳴る。
法華経が口ずさまれる。
そのたびに、打廻は数を増やしていく。
やがて、行列は雲霞のごとき軍勢となった。
こうして八月十五日には、約一万におよぶ法華門徒が清水寺に布陣した。
堺での衝突から、わずか十日後のことである。
翌十六日には東山のふもと(京の東端)で本願寺勢と法華門徒が衝突。
数の揃っていない本願寺勢はこれに敗北する。
本願寺は勢力の再結集を図るが、二十日、摂津からの加勢も狙いすましたように西岡周辺(京の西の入り口)で撃破された。
でき過ぎたほどに見事な各個撃破である。
そして、露払いは済んだとばかりに、ひとつの大軍勢が京に入ってくる。
このとき、本願寺はこの連鎖的敗北をもたらした真の敵を知ることになる。
近江守護、六角定頼の入京である。