第十話 本願寺の怪物
京の東の端に、山科という土地がある。
京と近江との間に位置する土地で、ここから山をひとつ超えればもう近江だ。
ここに、一向宗の総本山、山科本願寺がある。
山科本願寺は、寺というよりひとつの城塞都市と言うべきだろう。堀深く土塁を巡らし、要所に矢倉を構えた堅牢な外郭が、訪れる者を圧している。
このほとんど城塞となった大寺院を、夜間訪れる一人の武将がいた。
「細川六郎家臣、木沢長政にござる。申し入れの通り、宗主殿にお目通り願いたい」
木沢長政が山科に到着したのは七月二十日の夜であった。
寺内はすでに武装した門徒が充満しており、殺気に包まれている。これらの一揆衆が京へ乱入してくるのではないかという危惧は、誇張や憶測ではないことが知れた。
「木沢殿、こちらでしばしお待ちを」
僧兵たちに囲まれたまま、長政は御本寺の一室で待たされた。
やがて、みしり、みしりという床のきしむ音が聞こえてきた。
「ふぅ。ふぅ。ふぅ」
あまりに、あまりに肥え太った、もはや人であることすら疑いたくなるような怪僧が、小柄な少年を連れて、長政の面前に座る。
肉食妻帯を許す一向宗の僧とはいえ、これはあまりに異様な姿であった。
「ふぅ。ふぅ。六郎殿の名代ともあろうお方をば、お待たせしてえらいすんまへんな。こちらが本願寺派第十世宗主、証如におます」
大肥満の巨漢はそう言って、自分の脇に座った少年の肩を抱く。
少年は、柔和そうな顔でにこにこと微笑んでいる。
「……細川家臣、木沢長政に。拝謁仕り、恐悦に存ずる」
「証如です。よろしゅう」
少年証如は笑顔のまま応じる。
汗をぬぐいながら、巨大な男が言う。
「証如は若年じゃによって、あたくし蓮淳が後見をしとります。以後よろしゅうに」
蓮淳。
長政も、この男の名は知っている。
一向宗中興の祖蓮如の六男でありながら、苛烈な権謀術数によって教団を牛耳り、仏教の宗派としては特異な、血統による権力継承の論理と中央集権体制を敷いた男。現在の本願寺における事実上の最高権力者と言っていい。
「証如殿、蓮淳殿、まずは此度の飯盛城救援、まことに感謝申し上げる」
長政が頭を下げると、蓮淳は腹を揺らして笑った。
「ほっほ、あの悪鬼元長をば討ち果たしましてな、わてらもこれで枕を高うして眠れますわ」
「祝着至極。されど未だ武装を解いておられぬのは、いかに」
長政が単刀直入に聞くと、蓮淳は渋面を作って答える。
「そらあんた、一揆衆ちゅうのんは武士団とちゃいますよってに。一度蜂起さしたら、戦終わってはい解散とはいかんもんでっしゃろ」
「とはいえ大和への侵入は甚だ遺憾。京洛では、今宵にも本願寺門徒が京に攻め入ってくるのではないかとの風聞が流れており申す」
長政がそう口にしたとき、蓮淳の表情ががらりと変わった。
「はぁん?」
蓮淳は鬼のような形相で立ち上がると、ゆっくりと長政のそばに寄り、触れそうなほど顔を近づけて言う。
「 ……何か勘違いしとらんかおどれこらぼけぇ」
長政は、背筋にぞわりと怖気を感じたが、顔には出さない。
蓮淳は低い声で続ける。
「あの元長を殺させといてよ、てめえらは城に籠って戦いもしねえ。おまけに戦が終わったからさっさと武装解除しろだ? なめんじゃあねえぞこの野郎」
「落ち着かれよ、蓮淳殿。要求があるなら、我が主君に伝え申す」
長政はあくまで平静を装ってそう答えたが、心臓が早鐘を打っている。長政を囲む僧兵たちは、蓮淳の怒気に当てられ、殺気を放ち始めた。
殺気が室内に満ちたまま、しばしの間があった。
蓮淳は無言のまま、長政をじっと睨みつけている。
長政の額から、一筋の汗が垂れる。
ようやく蓮淳は顔を離し、再び口を開いた。
口調が、元のおどけた調子に戻っていた。
「さいでっか。ほんなら、六郎はんには興福寺との間に立ってもらいまひょ。奈良侵攻は正直、わてらの本意やありまへんよってに。奈良の永代禁制、これ勘弁したってくんなはれ。そしたら一揆衆にも振り上げた拳ィ降ろさせられますわ」
「……承った。必ず伝えるゆえ、しばし待たれよ」
応じて、長政は立ち上がる。
「それでは、これにて御免仕る」
「あんじょうよろしゅう。ほれ、なにぼさっとしとんねん、お客人がお帰りや。丁重にお送りしたってや」
来た時と同じく、長政は僧兵に囲まれながら、本願寺を出る。
背中に、びっしょりと汗をかいていた。
蓮淳もまた歴史マニアと一般的なファンの間で知名度に大きな差のある人物だと思います。かつては加賀大小一揆に乗じ一族を粛清して権力を握った大悪人として有名でしたが、近年ではその評価も変化してきているようです。
本作では、石山合戦以前の本願寺を象徴する人物として登場します。地味に見られがちな戦国初期の畿内史ですが、濃いキャラクターがたくさんいるので、彼らを魅力的に描いていければと思います。
■TIPS
蓮淳:統率67 武勇65 知略87 内政88 外政90
蓮如六男。第九世法主実如の同母弟であり、第十世法主証如の母方の祖父として、幼い証如を補佐した。山科本願寺焼き討ちの際には証如を見捨てて逃げたという伝説があるが、当時証如は摂津に出兵中と考えられ、逸話に過ぎないと見られる。