便宜上の浮浪者
「イタイ」
首を寝違えたのだろうか。
いや、公園のベンチでクッションも敷かず、毎日スーツ姿で6時間も睡眠を取れば、痛みの無い日は無い。
それになにやら不快な夢を見ていた。気がする。
おそらく、この肉体にとって具合の悪い睡眠状況が、無意識に作用したせいであろう。
「おあようさん。くざがり、やんね?」
陽光を遮る人影。
鼻をつく、すえた匂い。
いまいち聞き取れないノイズだらけの声。
その視線は、ベンチも私も通り越して、左右異なる方向で揺れている。が、これは私に話しかけていると判断。
即座に返答を考える。
「クザガリ――草刈り、シナイ」
そう応えると、一言も無く立ち去る老人。
こちらは荷物も持たず、雨晒しでヨレたスーツを着た、カタコトで喋る金髪の外国人。
中級不審者から、特殊進化した初級浮浪者。
そう客観的に下した自分に対する印象は、長年ここで生活してきたであろう彼の経験的推測と大差無かったはず。
しかし私は――、
私は――、
ナンナノカ。
ああ、そうだ。
私はマロリー。ミラ・マロリーという名の20代女性。
この新しい肉体と、この複雑な世界に馴染めず、ただ苦悩する事しか出来ないただの人間。
ただただ途方に暮れるしかない異邦人。
「草刈り、シナイ。デアレバ、ナニスル、ワタシ?」
言語が馴染まない。が、それだけではない。
中枢の働き全般に問題がある。だが、具体的な所は把握出来ない。よって、対応の優先順位も定まらない。
つまるところ、様々な過剰な変化に、処理速度が追いつかない。
不具合だらけのデッドロック。
特に、制御不能なセンサー周りが――身体感覚が、全てにおいてネックになっている。
しかし、このどうしようもない、意識に対する脆弱性が、このボディの――人間の正常な仕様だというのだから、全くもって意味が分からない。
「イタイ。クサイ。アツイ。ネムイ」
何も考えられない。
何も考えたくない。
デアレバ、不本意だが、この不具合だらけの中枢が訴える要求にそのまま従う他ない。
空腹を、解消しなければ。
――――
「――そんなところで座っちゃダメ。日本語、分かる? 邪魔。床、汚れる。お客さん、迷惑。ジャパニーズ、おーけー?」
知識としては知っている。
この人間は警備という役割を持っており、この商業施設の治安を担う存在なのであろう。
その要求は妥当なもの。それは理解出来る。
だが、応える事は難しい。
「チガ、タリナイ」
絞り出した声。
なんとか返答は返せたが、反応は芳しくない。
後退しながら、腰に帯びた棒状の何かを引き抜こうとしている。
発音の問題であろうか。
『血が足りない』
そのままの意味なのだが、もう少し言葉を足すべきか。
そう思ったが、この脆弱な肉体は既に、それすらも許さないほどに機能不全。
重さと倦怠、息苦しさと寒気。それら以外の感覚はどうにも表現出来ないが、とにかく不快で耐え難い苦痛に見舞われ、腰から崩折れてゆく。
ツライ。
オモイ。
目が、濡れている。
ツメタイ。
クライ。
赤く、黒く、沈む。
クルシイ
――――
――苦しい。ああ、なんとも寝苦しい。
肌に張り付いたヤス布団を、剥ぎ取るように捲り上げる。
カタカタと、小気味良い打鍵音が聞こえる。
時代遅れなヘッドセットからは、古臭いR&Bも。
微睡みの中で耳をすませば、すぐに不快さは消えて、心地良い安堵感に包まれる。
――が、眩しい。
カーテンの隙間から差し込む夏の陽光。
窓の外にはエノコログサ――猫じゃらしと、小さな黒い実をつけるイヌホオズキと。
見た目は悪くないが、黒い実は有毒なソラニンという成分が豊富で、どちらも雑草でしかない。
そう。雑草。
であれば――、
「クザガリ」
あまり思い出したくない痛々しい過去。
それでもこの季節になると想起されてしまうもので、こんな呟きも漏れてしまう。
「初めての日本語、だっけ。ふふっ」
狭いワンルームで、旧式とはいえエアコンをフル稼働させても寝苦しさが拭えない真夏だというのに――いや、彼女は年中いつでも黒いワンピースを重ね着している。
そんな彼女が、いつも通り私の思考を読み取って笑う。
「雑草が増えてきた」
「ん、あの黒い実と猫じゃらし、けっこう好きなの。残しといて欲しいかも。あ、でも、そっから見るとボーボーだね。気になる?」
「キニシナイ。クザガリ、シナイ」
「ぶふっ! ナニソレ。そのフレーズコンボ、ちょーヤバイ。先輩っぽさが爆発してるかも」
あれから何年経ったか。
記憶もはっきりしないほど身体機能を損なった私は、いつの間にか彼女の家で保護、もとい介護されていた。
そして、生活に必要な全てを与えられ、彼女の仕事を手伝うようになった。
しばらくして、私個人でもエンジニア業務を請け負うようになり、一度は離れたものの、孤独感に苛まれた出向先で再会。
そこでなぜか先輩と呼ばれるようになり、そしてなぜか今も一緒に居る――居てくれる。
――ありがとう。
そのような単純な言葉による感謝など求められていない。それくらいは、未だ順応しきれていない不具合中枢でも理解しているのだが。
「――ん、変な夢見てションボリ、みたいな? あ、違うかも。この感じ、ゴハンだね」
この感じとは、どの感じなのか。
けれど確かに、その感じなわけで。
ベッドサイドに置かれたのは、お盆に乗ったお椀と小皿。しかし、中身はカラ。
それを見つめていると、ぼんやりと浮かんでくる。
今、体が欲している食材が。
「あ、この感じ、先輩は分かりやすくてイイね」
私の思考は読みやすいらしい。
しばらくして、パック玄米と卵、醤油と旨味調味料が並ぶ。
それにこれは、
――かつお節、か? それにしては、
「ううん。違うかも、シャケ節、だったかな」
なるほど。分からない。
読まれてしまう思考も、シャケ節と卵かけご飯の相性も。
であれば、頂くしかない。
「いただきます」
まずは卵を割り、ゆるくかき混ぜる。
そしてパック玄米を解し、茶碗に盛る。
そこでふと、迷いが生じて手が止まる。
先に溶き卵へ醤油をかけるか。
あるいは、そのままご飯にかけて一度食してから、醤油を垂らすか。
卵そのものの風味をご飯の湯気に乗せ、味わう。
これは卵かけご飯という名に恥じない、素材の在り方を尊重した王道と言えよう。
だが、あらかじめ卵全体に醤油を均一に混ぜた場合、両者がしっかりと馴染んで、風味の混在が初めから調和する。
黄色と黒が不可分に一体となり、その一貫した味わいは一口目から最期まで、揺るぎない安心感をもたらす。
これもまた、実践的で安定した正道と言えよう。
「ん? どうしたの?」
どちらの道も、等しく尊い。
つまり、どちらであっても――、
「キニ、シナイ」
からこそ、選べない。
であれば、小皿をもう一つ用意して、半分づつ。
それがこの状況における最適解。
そう思い立ち、立ち上がろうとした瞬間、ふと気づく。
既にもう一つ、小皿があったはず。
――シャケ節。
そう、シャケ節の小皿だ。
だが、お盆の上には見当たらない。
「――しょーゆとしゃーけと、たーまごーとごっはん。チープに混ぜ混ぜ、しちゃうと見せかけてー、はい、あーん」
顔を上げればスプーンが目の前に。
唄はフェイク。
私の思考がリセットされる。
そうか。なるほど。
どちらかを選ぶ。どちらもと驕る。
思案する事自体、おこがましかった。
これは彼女が与えてくれた物。
ここは彼女が住まう世界。
私は、先輩とは名ばかりの新参者。
「むあ」
呆けるように開いた口が、勝手にスプーンを咥えていた。
醤油と旨味調味料が染み込んだシャケ節。
ご飯と共に溶き卵へ潜らせたそれは、滑らかな舌触りから、香ばしい風味へと繋がる起承転結。流れるような楽章の移行。
このフローにおいて、主体となるのはシャケ節の香りであり、卵黄のコクではない。
つまり、卵かけご飯としては邪道と言えよう。
しかし振り返ってみれば気づく。
彼女はメニュー名を明かしていない。
卵かけご飯というのは、私の思い込みでしかない。
「美味しい」
「ふふっ。そんなビックリした顔で言わなくても、ちゃんと伝わってるよ」
この感動を彼女にも伝えたくて。胃腸の不具合で卵を食べられない彼女にも知って欲しくて。
しかし、この世界では感覚情報のコンバート、転写や同期など出来ない。
だというのに、まるで本当に伝わっているかのような演技に、あっさりと騙されてしまう。信じてしまう。
「ホントウ、に?」
「んー、タマゴのコクがきてー、ちょっとだけご飯が熱かったけど、シャケが香ばしくて甘みが残る感じ? あ、でも、私はやっぱ玄米より白米かなー」
そう言いながら、ラップを広げてシャケ節を玄米で包み込むと、赤紫蘇のふりかけをまぶして軽く握る。
「これなら卵アレルギーの私でも食べれるし、玄米にも合うかも?」
半分に分けたオニギリを、二人で食べる。
頬張る彼女の笑顔に、ホッとする。
良かった。
卵をかけなくて。
思考が遅く、迷って躊躇して。
不具合だらけでも、かえって具合が良いなんて。
心地良いほど、意味がわからない。