2切れ目 滴るは涙だけじゃない
※2025年1月24日 一部修正しました。
ものごとの理解というのは、ある一部分だけだと実感がわかないように思う。
今目の前にある事実…自分の頭がスイカになってしまったということ。それはそうなのだから、時間をかけて受け入れていかなければいけないのかもしれない。しかしそれにくっついてくる疑問があまりに多様すぎて、頭の中が整理しきれない。ところで、今、頭の中とは果実なのだろうか。
なにか現実離れしたようなものを見たときに、これは夢かと疑い、自分の頬をつねって確かめようとする場面は色んなところで見た記憶がある。が、リアルにそういう反応を人はするものだろうかという疑惑を実は持っていた。夢か現実か、区別が本当につくのかという問題提起も、まともに取り合うようなものではないだろうというのが本音だったところもある。
自分は間違っていたのかもしれない。
本当に今いるこの次元が現実なのか、全く確信を持てない。夢の中では一度も頬をつねったことのなかった自分が、ボンヤリした頭のまま朝の僅かな時を過ごしたこの現実の中で、それを試そうとしている。それほどに受け入れがたい状況だったのだろう。しかしそれは叶わなかった。
どうやったってつまめない…固く、ツルツルしたその表面が指先に操られる事を許してはくれなかった。ただしその代わりに、左肘の辺りの痛覚が騒ぎ出していたのに気づいたので、現実だとなんとか結論づけることができた。慌てて洗面所から逃げ出した時にぶつけたかもしれない。
つまめないながらも、直に自分の顔…と呼べるかも分からない部分に触れた事で、ひとつまた実感のカケラを得ることはできたかもしれなかった。スイカといえばあの独特な手触りを楽しむのも一興だろう。10cmほど浮かして、両手で挟み込むようにキャッチする。その瞬間、小気味良い音と共に、優しく強い摩擦が手先指先に馴染み、その圧倒的な存在感を痛感する…その記憶のままの感触が、今の自分の顔になっている。しばらく指先で色んなところを叩いて遊んでしまったのは現実逃避だったのだろうか?
そうこうしている内に、いたずらに時間だけが過ぎてしまっていたことに気づき、我にかえった。
状況が少しずつ飲み込めてきたのと同時に、色んな不安が押し寄せてくる。一歩家の外に出れば、好奇の目にさらされるのは明らかだ。かといって、いつまでも引きこもるわけにはいかない。ある程度の備蓄はあっても、やはり買い物にはでかけなければならないし、仕事をずっと休んでいるわけにもいかない。幸いにも、今日は早起きだったため、少しは考える時間がある。そこに安堵はするものの、いつも通りのローテーションをキメようとしていたことと、そしてそれが完遂できなかったことにも思い至り、ほのかな悲しみが胸中をよぎった。
…そういえば、この便宜上顔と呼んでいるスイカの皮には、穴らしい穴が見当たらない。
いずれやってくるであろう空腹や渇きに、どのように対処するべきなのだろうか。おそらくそれがこの状況における喫緊の課題となりそうだ。なんとなく、あまりに瑞々しい皮の具合から、渇きなどこないような気もしてしまうが、あまり楽観的でいない方が良いだろう。もはや常識の通用する段階ではない。
今、できることは全て試してみるべきだろう。
まずは水分の摂取から考えてみることにした。頭こそスイカになってしまったが、体の方は今まで通りである。感覚で、内臓が変わらず働こうとしていてくれていることを実感する。頭の中身(中実)の感覚は、正直よく分からない。ただ、かつて感じていた脳や眼球、歯や舌などの存在は感じられなくなっていて、なにかこう、一様な感じだけがそこにある。意識を集中すれば、種の存在が感じ取れるかもと思ったが、どうにも実態が掴めなかった。だが、おそらく肝心なのは喉とスイカの接点だ。
今この自分の直感しかない、情報の少ない中で一つ想像するのは、水分を補給する際になんらかの方法で頭の中実を水で湿らせ、それが伝って喉を潤すというシステムだ。つまりこの頭の果肉が水分を保っていられれば、渇きの課題はクリアなのかもしれない。しかしそうなると、問題はその果肉へのアプローチだ。
試しに水道の栓をひねり、蛇口から流れ出る水流に頭を突っ込んでみた。
ひんやりとした感覚が上から下へと綺麗な円弧を描いて伝っていく。妙な感覚だ。
しばらくして顔を上げ、栓を閉めた。目の前の鏡には、それはそれは瑞々しいスイカが佇んでいる。
しかしこの光を反射する艶めきも、あくまで表面的なものに過ぎなかったように思う。喉が潤う実感も無ければ、これから水分が注がれていくことを予感する水分的な充足感も感じられない。予想はしていたが、当たり前かもしれない。シャワーを浴びて喉が潤う人間がどこにいるものか。
もう少し具体的に水を得ることが必要なのかもしれない。
そうなってくると、割と厚く丈夫にできているこのスイカの皮が、より一層大きな壁となって立ちはだかるような思いがした。例えばこのスイカを避けて直接喉に水を通そうとしても、そのために首に穴を開けたり切り開いたりすれば、基本的にそれは死を意味する。
この系統で一番現実的なのは、おそらく点滴だろう。水分のみならず栄養も取れるとくれば、延命措置としては申し分ない。しかし、そのためには、この奇奇怪怪な姿を人に見られながら、騒ぎにならないような対策が必要だ…。
一方、自力でどうにかするならば、この皮に穴を開ける等の方法にも思い至る。この場合一番恐ろしいのは、痛覚がどのようになっているのか全くわからないことである。
試しに爪を立て割と強めにスイカの肌を突っついてみると、これは問題なかった。何かが触れているようなことは感じ取れるが、痛みはない。自分の肘の皮をつねっているような感覚だった。
しかしこのスイカの中実も同じかはわからない。むしろ、この中実に関しては漠然とした感覚が存在しているので、痛覚も存在することは大いに考え得る。仮に鋭敏な神経のようなものがそこに通っていた場合、皮と実の間の僅かな境目を見極めなければならない。そしてそこに、かつてテレビで一度見ただけなくらいの超繊細なカービングナイフさばきを包丁で行い、その技術を以って皮のみを切除するという無理難題が待っている。失敗すれば…
注射器のようなものがあれば、より簡単に解決できそうだ。しかし今手元にそんなものはない。
水分の摂取という生命維持の要とも言うべきものさえままならないとあって、いよいよこれは病院に行って、検査なりなんなりを受けた方が良さそうだという結論になりそうだった。その為には、協力者が必要になると思った。なるべく人に見られず、騒ぎを起こさないようにし、接触する人間を必要最低限に抑え、その接触者にもスムーズな理解を促せるよう、普通の人間にお供してもらうのが得策に思えた。では、誰に手伝ってもらおうか?
もう、そんな自問をした時点でほとんど自分の答えは固まっていた。あいつしかいない。
覚悟を決めたような、物怖じしたような、すこしぶれた足取りで携帯電話を取りに行った。どのような順でどのように説明しようか。そうしていて、あいつの電話番号を呼び出すまで、20分ほどかかった。