神様との日々
【8 神様の初仕事 隼人】
「これから行く会社の担当者って、苦手な人なんだよね」
鄙が苦虫を潰したような顔をして言うので、俺のほうまで緊張してくる。
「電話では、結構、愛想もいいし、アポもくれるし、好感持てる感じのおっさんなんだよ。でもね、実際に会社に行くとさー、これがまた嫌な奴なんだよね。人の話、聞かないし。だから、ここに行くときはいつも憂鬱なんだ。今日は、隼人も一緒に来てくれると思うとなんか安心するよ」
「安心する」その言葉は、嬉しい反面、まだ半人前の俺には十分なプレッシャーになった。一緒に行ったところで、俺は何か彼女の役に立てるのだろうか?
当面は、こうして金魚の糞みたいに彼女の近くをまとわりついて、彼女が願いごとを絞り込むのを待つつもりだった。せっかくの機会だし、ただなんとなく現世をぶらつくよりは、彼女の仕事先にも同行させてもらって、体験したことのないビジネスマンライフを楽しんでみるのも悪くない。そう思って、早速、彼女の営業に同行することになったのだった。
それにしても。このでかい鞄を持って、自転車で営業に回るというのは体力的に結構キツイのではないだろうか…。彼女の会社は、「儲かっている会社」という印象が強かったけれど、下々の営業社員達はこうして泥臭い仕事を強いられているんだなとしみじみと思った。
「ここ、ここ」
神社から、川沿いに自転車で20分ほど走ったところに、その会社はあった。
「ここ?…プレハブじゃねえか」
FINEシステムという横文字の社名から、てっきり今風の社屋をイメージしていた俺は、いささか拍子抜けした。
「ああ、お待ちしてました」
ガラガラと鈍い音を立てて引き戸を開け、中から小柄な男性が出てきた。歳の頃は五十代半ばといったところだろうか。肌の張りや身体の線の崩れ具合を見れば、そのくらいの年恰好だ。だいぶ薄くなっている頭髪には、かなり白い部分が混じっている。
怒っているわけではなさそうだった。まずは一安心だな。ふと安堵の息をもらし、鄙を見る。さきほどまで、あれほど嫌だ嫌だと脅えていたのが嘘みたいに、すっと背筋を伸ばして凛とした笑顔を浮かべている。やっぱり、彼女は営業さん、なんだな。
通された応接間は、中央には見るからに座り心地の良さそうなソファーが、その隣には観葉植物、そしてくすみ一つない壁には絵画なども飾られており、外観とのギャップに戸惑いを隠し切れなかった。
「見た目ほどひどくないんだよ」
社長が席を外した隙を見計らって小声で言う鄙に、思わず目で同意した。
「今日は、先日、お問い合わせいただいた資料をお持ちしました」
鄙が、丁寧に閉じられた資料を鞄から取り出すと、それを一瞥して社長は言う。
「ああ、あれね。わざわざありがとう。でもねー、やっぱりどう考えても採用にそこまでお金をかけるのはどうかなって思っちゃうんだよねー。おたくの会社みたいに景気のいいところなら別なんだろうけどね」
カチン。鄙が言っていた意味が、なんとなくわかるような気がした。人を侮るような目線と、皮肉。俺もこういうタイプは苦手だ。
「それにしても、今の日本の大学っていうのは、一体何を教えてるんですかね?…いやいや、そうじゃないな。簡単に卒業させ過ぎてるのかねえ?この前入ったうちの新人なんて、大学出たってのにノートの作り方もままならないし、教えている途中に居眠り。ほんと、困っちゃうよね…そもそも求人広告なんて出してもさ、うちみたいなところに来る奴なんて、所詮、そんなレベルで…いやいや、うちなんて出したっていい人材はこないって。きたってどうせ、すぐ辞めるだろうしさ…そうそう、今度うちの会社、社屋を新しくするんだよね。だけどさ、資金繰りのことで女房がいろいろうるさくってさ。女って、これだからさ、あ、いや和賀さんはそんなことないだろうけど」
社長は、脈絡のない話を次々に繰返し、鄙に話を振っておきながら鄙が口を開きかけるとそれを制止するように再び話し始める。それの繰返しだった。
これは単に、誰かに愚痴を聞いてもらいたいだけなんじゃないのか?おそらくそれは鄙にもわかっているのだろうけれど、彼女はずっと、社長の話に相槌を打ちながらにこにこ微笑んでいる。
こういうのが営業の仕事なのか…。客先の社長とはいえ、見ず知らずのおっさんの愚痴にまで付き合ってやらなければならないなんて。俺には到底、耐えられない。
「問い合わせで連絡してくるやつは、冷やかしばっかりださ。給料の額につられて応募してくるやつか、派遣で、あっちこっち転々としているようなヤツばっかりだ。一つのところに腰を据えて、たとえ給料安くたって手に職つけてやろう!って気概のあるヤツはいないのかねえ。転職はキャリアアップのためだ、なんて発想が出てきたばっかりに、みんな美味しいところ取りになってるんじゃないのかなあ?日本はね、狂ってますよ。日本を支えてきたモノ作りだって、近いうちには中国に逆転されますよ」
放っておいたら、一日中でも話し続けそうな勢いの社長の話を、はい、はいと丁寧に聞いている鄙を見ていたら、じっとしていられなくなった。
気配を消しているので、俺の姿は鄙にも社長にも見えていない。
俺が念じたところで、どこまでのパワーが発揮できるのかは自分でもわからなかったが、思い切って社長の手元の空気を動かしてみる。
「あ、あれ?」
社長の手が、勝手に動き出し、鄙の手元のファイルから申込書を引き抜く。
「しゃ、社長?」
さっきまで、マリア様のような微笑を浮かべてつまらない話の相手をしていた鄙も、訝しげな表情で社長を見ている。社長の右手は、今度は胸ポケットからペンを取り出す。
自分の意志とは関係なく、ペンをもって申込書を記入し始めた自分の腕を見ながら、社長は口をパクパクさせて驚いている。
鄙は、一瞬驚いたように目を見開いていたが、俺の仕業だと気づくとふっと笑った。さっきまであんなに偉そうにしていた社長が、幽霊でも見たように青ざめていく様子を見て、俺も彼女も、大笑いしたいのを必死にこらえていた。
結局、鄙は五十万円の受注をきめた。社長は、最後まで腑に落ちない表情だったけれど、申込書の筆跡は紛れもなく自分自身のものだっただけに文句のつけようもない。
「傑作だったね!あの社長の顔!」
客先の敷地を出ると、もう我慢できないというように、鄙は笑いを爆発させた。
「あのおっさん、ひょっとこみたいな顔してお前の顔見てたもんなあ」
「ほんと。びっくりしただろうなあ。いきなり自分の手が勝手にハンコ押しちゃうんだもんね。すごいなあ、隼人。あんなことができるなんて、ほんとに神様だったんだね!」
鄙は、押印済みの申込書が入った鞄を、慈しむように両手で抱きしめた。正直、自分でも驚いていた。このカラダになってから、自分にはどんなことができるのかが正確には把握しきれていないのが本当のところなのだ。ちょっと念じれば、人の動きまで操れるなんて。なんだか怖い。
「なんだよ、信じてなかったのかよ」
俺は、別に気分を害してもいないくせにわざと不機嫌そうな声を出してみせた。
「あっ、ごめんなさい。信じてなかったわけじゃないんだけど…。だって、神様、だよ?私みたいなごくフツーの一般市民の願いことを叶えるために現われたなんて言われてもさ。なんだか信じられなくて」
「やっぱり信じてないんじゃねえか」
「だって…」
言葉に詰まって黙り込む鄙に、軽く念力を送ると、彼女はふわりと宙に浮かび上がった。 「ひゃあっ」
奇声をあげて手足をばたつかせ、必死にバランスをとろうとする彼女の姿があまりにも滑稽で、俺は笑った。その瞬間、つい気を抜いてしまって、鄙はそのまま重力に引き戻された。バランスを崩したまま地面に転がり落ちた鄙は、よほど驚いていたのか呼吸を荒くして叫んだ。
「びっくりするでしょっ!」
怒っているのだろうが、膨らませた真っ赤な頬がかえって彼女を幼くみせて、睨まれているほうはかえって拍子抜けしてしまう。
「ごめんごめん。俺、まだ神様になったばっかりだからさ。力が足りないわけよ。ちょっと気ぃ抜くと力が抜けちゃうんだよな」
謝りながらも、俺は悪びれずに笑っていた。からかい甲斐のあるヤツ。いちいちリアクションが大きいので、一緒にいるとついついいたずらをしたくなってしまう。本当は、こんな風にむやみに力を使ってはいけないのだろうけど、つい、試してみたくなる。どうも自制できないのは、久しぶりの人間界で、俺はちょっと羽根を伸ばしすぎているからなのかもしれない。父ちゃんやじいちゃんに知られたら、小言を言われるだろうな。再び川沿いの道を歩き始めた鄙の隣を漂いながら、俺は少し憂鬱になった。
「それにしてもあの社長、ほんとに面倒くさいタイプだったよな」
「そうそう。いつもあんな感じ。二時間もずっと喋りつづけて受注なし、ってパターンを何度も繰り返してるんだ。苦手なんだよねー」
「あそこはなんの会社なの?」
「工場の設備関連の電気配線を設計する会社だよ。この辺は、製造業が盛んだからね。自動車の部品関連のメーカーが多いんだよ。電気設計技術者って、採用が難しいんだよ」
「電気設計?」
「そう。工場のラインって、いろんな機械があるじゃない?でも、機械は機械のままじゃ動かないでしょ。電気が通って初めて稼動するじゃない。まあ、機械にとっては命みたいなものなんじゃない?」
「へえ・・・」
電気は機械にとっての命。電気が通わなければ動かない機械。それは、肉体と魂の関係によく似ていた。だとすれば、電気設計者に当たるのは誰なんだろう?おそらく、この地上に生きる人間達は、それが神だと思っているのだろう。俺だってそうだった。けれど、肉体を失って魂だけのカラダになった今になっても、そこだけは謎のままだ。
日本といえば自動車というくらい、自動車業界は元気がいいという。もちろん、車の免許すらとる必要に迫られずに一生を終える俺のような人がいれば、一生のうちに何台も車を買い換える人もいる。日本では、後者の人が多いゆえに自動車産業は衰えることがないのだろう。たとえ交通事故でどんなに人が死んでいようが、政府が車の製造を制限させることなんてきっとないだろう。結局、人間という生き物は、目の前の命や未来の命の連鎖よりも、目の前の利便性をどこまでも追究していく生き物なのだ。
「でも、ありがとね。」
「ん?」
「正直、助かった。あの社長、こっちが何を言っても、どうせ若いやつの言うことなんて、って耳を貸さないから。私の苦手なタイプなんだよね。情けないけど、こんなことでもなかったら、受注できなかったと思うし」
こうして改めて礼を言われると、なんだか照れ臭い。
「なんだよ、あのくらい。楽勝だよ。俺は神様なんだって。あのくらいのことで良けりゃあ、いくらだってハンコ押させてやるよ。なんなら、トップセールスマンにしてやろっか?」
くすりと小さく笑って、鄙は静かに首を振った。
「あ、お前の場合はセールスレディか。なんかいんちき臭せぇ響きだな。保険の外交おばちゃんみたいだな」
鄙は、ははは、と声を出して笑って、今度は大きく首を振る。
「ありがと。でも、もう今日みたいなことはしないで」
「え?」
「これは、私にとっての修行だからさ。いんちきはしたくないんだ。」
修行…。それはなんだか、今の俺の立場と似ている。神の世も現世も、魂はみんな目標とか希望とか夢とかいう言葉に縛られてるってわけだ。現世で就職していても、結局は同じことだったんだろうな。
「営業、だからね。もちろん、売れない時は辛いし、苦手なお客さんもいるし、業績が上がらなければ会社でも怒られるし。正直、逃げ出したいと思うことのほうが多いくらいだよ。でもね、例えば自分が担当していい人が採用できた会社の車と街の中ですれ違った時とかさ、担当した会社の看板を見かけた時とか…なんだか、自分がその会社を大きくしてるような気分になるんだよね。私が作った広告が誰かに勇気とか希望とか与えて、それでその人の人生が動いて、会社もこの街も変わっていく。…ちょっとおおげさかもしれないけど。だから、もしかしたら自分には営業は向かないのかも、って思っても、この仕事からは離れられないんだと思う」
見た目は、まだ学生みたいにも見える彼女だが、その童顔の中で一点、前だけを見据える眼差しだけは強い意志と使命感に研ぎ澄まされた鋭さを持っていた。そうだ、俺は彼女序のその凛とした強さに惹かれたのだった。
俺は彼女が羨ましかった。逃げ出したいほど苦しくてもしがみついていたい、そういう対象に俺は出会ったことがなかったから。
鄙の一日は、想像していたよりもずっとハードだった。
ドラマなんかで見ていた営業のイメージとは、だいぶ違う。適当に「行ってきます!」と出て行って、ゲームセンターで遊んだり喫茶店で時間をつぶしたり、公園で昼寝をしたり…営業なんて、みんなそんなものなのかと思っていた。それであの額の給料がもらえるのなら、楽勝なんじゃないかと。
しかし、現実はそんなに甘くはない。昼間の空いた時間は、リストアップした会社にしらみつぶしに電話をかけ、「採用のご予定がなくても、資料だけはお届けしたいので」と粘り、一軒でも多くの企業を訪問する。ハローワークに出向き、あたかも求職者であるかのように振舞って求人票を手に入れたり、競合の求人媒体をかたっぱしからチェックしたり。顕在化したニーズを当たることと、潜在したニーズをかぎ分ける。その両方の探客活動が、彼女達のミッションなのだ。
営業の同行中、街の中を歩くと、たった一年の間にも地上の世界はいくらか変化したように見えて改めて驚かされる。人間という生き物は、つくづく合理的で器用な生き物だと感心する。与えられた身体能力を克服する道具を次々と開発するのだから。足が遅い、という移動能力の限界は、チャリンコから車、電車といった乗物によって克服したし、空を飛べないというハンディは飛行機を作って克服した。長く水中に潜っていられないから船があるし、容易には繋がりあえないからメールやネットで誰かと繋がろうとする。
けれど一方では、字が書けるのに、計算ができるのに、パソコン任せ。逆に、せっかく授かっていた能力を退化させようとしているんじゃないのか?と思ってしまうこともある。
人間は、不思議な生き物だ。
「それって、結局は時間なんじゃないのかな?」
「時間?」
鄙は、自分にだけ分かっている結論を突然口にするところがある。だから、言われたほうは最初、「は?」と頭を傾げてしまうのだ。営業としては、ちょっと会話力に問題があるのかもしれない。けれど、じっくり話を聞いてみると彼女の話は意外と的をえていることが多かった。
「だって、寿命は決まってるんでしょ?」
「うん」
「身体能力の限界も?」
「うん。まあ、個体差はかなりバラツキはあるけどね。いくら鄙がトレーニングしたって、いまさらアスリートには叶わないだろ?」
「そうだよね。だからさ、限られた寿命の中でできることは限界があるってわけじゃない?東京まで毎回歩いて行ったり、海外まで泳いで行ったりしてたら、それだけで何日も、下手すれば何年も費やしてしまうわけでしょう?同じようにさ、一言伝えるために何日も歩いたり、書類を何部も手書きして何キロも歩いて届けたりしてたらあっという間に寿命が終わってしまうじゃない?結局は、人間の能力の限界って時間なんじゃないのかな?その限界を乗り越えようとするから次々と新しいものを開発したがるんじゃないの?」
確かに、無限に時間があるなら、手書きでも手計算でも歩きでもさして苦痛ではないかもしれない。けれど、朝がきて日が昇って日が傾いて暗くなって眠くなって…というサイクルの中に生きていて、しかも自分には寿命があるのだということを知っている限り、どうしても時間というものを意識せずには生きていけないだろう。
「でもさ、長電話したりとか一日中メールを打ってたりとか。逆に時間を浪費してるってこともあるじゃん?」
「うーん、確かにそれはそうだけど。作った人と使う人は別だからね。当初の目的とはちょっと乖離してきてるところはあるんじゃないのかな。隼人くんが言ってたみたいに、身体が魂の思い通りにはならないのと一緒のことなんじゃない?」
ちょっと違っているかもしれないけれど、鄙の言うことはもっともだった。与えられた身体を使うのは、魂。身体の機能を限界まで使いこなせる魂もあれば、身体との相性が合わずに早くに限界を迎えてしまう魂もある。それと同じで機械も、設計者の意図通りに活用してくれる人もいれば使い方を過って壊してしまう人もいるだろう。構造はよく似ている。俺たち神様の役目は、言ってみれば人間が機械を使いこなすためのアドバイザー、つまりは電気ショップの店員みたいなものなのだろう。
「まあ、でも、長電話って言ったってわざわざ会いに行くよりは時間も短縮できるし労力もかからないし。メールだって、口で伝えられることの限界を克服するための手段になってるってこともあるしさ。遺伝子の可能性も広がるでしょ?」
「イデンシ?」
彼女が、パリパリと小気味良い音を立てておにぎりを頬張りながら、あまりにもさらりと言うので、それが遺伝子のことだと理解するのに時間がかかった。
「そう。だって、普通に生活してたら一生のうちに出逢える人の数なんて限られてくるじゃない?メールとかネットとかあったら、もっとたくさんの人と出逢える可能性が広がるってことでしょう?そうすれば、男女が出逢う機会も増えて、遺伝子の多様性も広がる。」
確かに、こうして出逢いのきっかけが増えれば増えるほど、人が誰かを好きになる確率も高くなるのかもしれない。ネットもケータイもなかった時代には出逢うはずのない二人が、距離や人種を越えて出逢う。けれど、それが直接的に子孫を残すことに繋がっているかといったらそうとはいえない。現に、この国の出生率は減っているじゃないか?遺伝子を残すという目的のためでもなく、こうも人が人を求めるのは一体どういう意味があるんだろう。
「だって、オスは、自分の遺伝子を残すために浮気するんでしょ?」
遺伝子のために誰かと愛し合うのなら、遺伝子の鎖から解き放たれた俺にはもう人を愛することはないということになる。
「ところでさ、何か欲しいものとかないわけ?」
「欲しいもの?」
「夢、とかでもいいよ」
「ああ、例のネガイゴトのことね。そうだなー…そりゃあ、欲しいものはいっぱいあるけどさ。そんなの自力でも叶えられるし。もったいないよ。どうせなら、自分じゃ叶えられない願いごとを叶えてもらうほうがいいじゃん。隼人くんのことも、鍛えてあげなくっちゃ」
「…こえーなぁ」
「じゃあさ、誰か好きな男とかいないの?片思いの相手、とかさ。」
「古っ。少女漫画とかドラマとか観すぎなんじゃないの?いまどき、二十六にもなって片思いなんてないでしょ」
そういえば、この一週間で気になっていたことがあった。彼女には男の気配がない。目立って美人というわけではないし、派手さや華やかさはないけれど、彼女は男の俺から見て、悪くない。それなのに、どうして二十六にもなって彼氏の一人もいないのだろう。ここ数日間の鄙の生活は、仕事と家の往復だけだった。会社でも、それっぽい雰囲気を感じさせる男はいなかったし、電話やメールのやりとりをしている素振りもない。
「彼氏とか、いないわけ?」
「その質問は、今ではセクハラで訴えられるよ」
う、と言葉に詰まった俺を横目で笑って、小さく息を吐くと彼女は空を見上げた。
「もう、ずっと誰とも付き合ってない。今は、好きな人もいないし」
「そうなんだ」
彼女は、寂しいと感じることはないのだろうか?生まれ故郷から遠く離れた土地で、家族も彼氏もいない一人暮らし。確かに、仕事柄、プライベートの時間を充実させる余裕はほとんどないのかもしれない。それでも、彼女が一人でいるのは何か理由があるような気がしてならなかった。
彼女は、立ち上がると俺に背を向けて歩き始めた。それ以上、聞いて欲しくない。その後ろ姿がそう言っているように見えて、俺はそれ以上、その話題に触れるのをやめた。
【9 空の下で 隼人】
営業職というのは、おそらく世間一般の人が思っているよりもずっとクリエイティブな仕事だ。営業なんて、客や上司にペコペコ頭を下げて、プライベートもなく夜遅くまで働いて、挙句の果てには鬱病、自殺…ここに入るまでは、そんなイメージしか持っていなかった。けれど実際は、探客の方法から受注に至るまで営業スタイルにはその人の個性が出るし、受注した後の原稿作成も営業が指揮することになる。言ってみれば、転職という一作のドラマを演出するディレクターのような仕事なのだ。
売るという行為には、エネルギーが要る。商材に対する自信、顧客に対する熱意、顧客を納得させる誠意、自分という人間を知ってもらうためのアピール、顧客を受け入れるためのキャパシティー。全てにパワーが必要だ。初対面の相手と一時間も顔を付き合わせて話をすること自体がすでに相当のストレスだ。テンションをガンガン上げていかなければ、怖気づいてしまう。実際、営業をやってみろといわれても俺には難しいかもしれない。そう思うと、父ちゃんを内心馬鹿にしていた自分が情けなく感じる。父ちゃんはきっと、外でエネルギーを使い過ぎて、家の中では充電することしかできなかったのだ。
けれど、鄙には、臆することなく次々と企業の扉をたたくパワーがある。
彼女は今日一日で、二十社に飛び込んだ。
「今週の目標は、二件の新規受注。そのためには、飛び込み訪問が百件と、先週の飛び込み先百件に電話をかけるのとで、最低でも二百社には当たらなくてはならなくちゃならないんだよ。広告の営業なんてさ、冷たくあしらわれることのほうが多いし。この仕事を始めてから、人に嫌われるの、怖くなくなっちゃった気がするよ」
設定させた目標を達成するためにはどういう動きをすれば良いのか?彼女達のような営業マンは、常にそれを考えている。自分の受注確率と、営業スキル、そして営業日数との兼ね合いから、自分がとるべき行動を数字で割り出す。目標があって、その目標を達成するためにどう動けばいいのか。シンプルなようでいて、それを実践するのは難しいと思う。
それはたぶん、仕事だけではなくて、人の生き方とか人生にもいえることなんだろう。自分の行動と結果を振り返る機会を作らない限り、自分の目標が達成できたかどうかを確認するのは難しいのかもしれない。人生なんて、目標達成の繰返しなのに。
同じように与えられた時間の中で、何度も何度もマスコミに取り上げられる人間がいるのは、彼らには、その都度自分の位置を確認しながら進む癖がついているからなのかもしれない。金持ちになりたいとか、偉くなりたいとか、有名になりたいとか。二十一歳にもなって、明確な将来像を描けないばかりか、漠然とした目標すら見出せずになんとなく生きていた俺にとっては、「目標達成のためにどうするか?」を自問自答しながら日々を過ごすというのはそれだけでも刺激的だった。たとえそれが、会社から一方的に押し付けられた目標数字だとしても、達成すべき目標がある生活というのは、自分もちゃんと「枠」の中に収まっているのだという気がしてなんだか安心感すら覚える。たぶん、あのまま生きていたとしたら俺は、明日死ぬと言われても戸惑いもせず同じような一日を送るだろう。あれも、これも、やりたくてできていないこと。いつかやろうと思いながら「いつか、いつか」と先延ばしにしてきたこと。「目標」にすらなりきれないままに散らかったままの未練をかき集め、途方に暮れて、それなら今日と同じままの一日でいいやと開き直っていたことだろう。目標なんてなくても、気の向くままに好きなことをしてそれなりに自由に楽しく生きていけるつもりになっていたけれど、「いつかいつか」と先延ばしにしてきたことのほうが多かった。俺は一体、どれくらいまで生きるつもりでいたのだろう?
絵の具で塗りつぶしたみたいに真っ青な空を、白い雲が綿菓子のようにふわふわと漂っている。空の隅から隅まで、一点の斑もなく続く完璧な青を見ていると、生きていた頃を思い出す。家の屋根、この川原、学校の屋上。俺は、空を近くに感じられる場所にこうして寝転んでまどろむのが好きだった。暖かな日差しに誘われて次第に重くなっていく瞼の隙間から、いつもこの青空が見えた。その青の向こう側に何があるのか、薄れていく意識の中で俺は必死に瞼をこじあけようと格闘するのだが、逆にその青に吸い込まれるようにして眠りに落ちてしまうのだった。そして次に目を開けるのは、世界が薔薇色に染まり始めた頃。
「ねえ、この空も神様が創ったものなの?」
俺が死んだ件の川原に寝転んで、遅いお昼の休憩をとっていると、鄙がふと呟いた。
この世界を見下ろし、誰がつかもうとしても手にとることもできない空。こんなの、神様にしか創れない。生きていた頃の俺は、圧倒的な美しさや威力を前にするといつも、「神様」の存在を感じていた。
けれど、実際には空は神様が創ったものではない。この地球自体が、「神」と呼ばれている俺たちには預かり知らぬところで操られている。いや、操られているのか、独立して存在しているだけなのか、それも俺たちにはわからない。もしかすると、星も生き物と同じなのかもしれない。星も生物の体と同じように寿命だけが定められていて、その寿命が終わるとその星の魂はどこかへ昇華されて次の命を与えられるのを待つのだろうか。じゃあ、星という体を作ったのは誰なんだ?…世界は、そんな尽きることのない層状の構造になっているのだろうか。果てしなく思いを巡らせていると、なんだかひどく心細いような気分になるのだった。
生きていた頃、大学の学生実験の度にいつも、俺は言い様のない無力感を感じていた。枝から落ちたりんごがそのまま地上に落下するのも、光が干渉し合うのも、生物の卵が孵化するのも、そこには人間の意図なんか介在しない。神様に祈ったところで、自然の現象は止められないし変えられない。
それなら、一体、誰がこの世界を操っているんだ?やっぱり神様がいるとしか考えられないんじゃないか?テストの問題なんかは、「神様!」と願えば時にはその願い通りの問題が出たりすることもあったから、やっぱり神様はいるのかもしれない、悪いことさえしなければ案外、神様は人を見捨てないのかもしれないな、なんて調子のいいことを思ったりしたこともあった。
けれど、自然の前では神様はなんの救いの手も伸ばしてくれない。自然災害は、天罰ではない。もしも、地震や洪水が人間に対する神様からの裁きなのだとしたら、どうして東京はあんなに平和なんだ?田畑を耕し、自然の声を聞き、つつましく暮らしているように見える地方ばかりが天災の餌食になるのはなぜなんだ?自然の中で、与えられた能力や定めに抗うことなく生きている生物も災害で命を落とすのはなぜなんだ?
死ねばきっと、その謎は解けると思っていた。死後の世界なんて、どんな研究家や占い師がどんなもっともらしい説を唱えたって、結局は死んだ人間にしか分からない。死んだ後、楽になれるのかそれとももっと辛い日々が待っているのか、それともすぐに新しい命として地上に産み落とされるのか。そんなことは死ねばわかることで、死ななければ誰にも一生分からない。あの世に行けばきっと、俺たちの正体も神様の正体もわかるはずだと思っていた。
けれど、実際は違った。地上に生きているというのは、魂の長い長い一生のうちのほんの一部にしか過ぎない。死んだ後に待っているのは、茫漠とした時間だけだ。
空を見て思うことは、生きている間も死んだ後も変わらない。変わったのはただ、見ていることしかできなかったこの空を、鳥のように自由に移動できるようになったということだけ。そもそも、肉体を失った今でもこうして何かを思ったり考えたりできるのはなぜなのか、俺にはわからない。人が動いたり思考したりできるのは、それを制御する脳があるからだ。それなのに、こうして脳という実体を失った俺が悩んだり思ったりできるのはどういうわけなのだろう?人間が、自分達で解明したのだと思い込んでいる脳とか神経とか遺伝子とか細胞とか、そういうものは実は全て物質に過ぎなくて、「魂」が最終的な答えなんだろうか。電気が通わなければ動かない機械は、逆に言えば電気があれば働ける。それなら電気って一体なんなのだろう?電気の働きを目に見えるものにするためには、やっぱり機械が必要なんじゃないのか。所詮、魂も、肉体を持たなければ何も形に残せないということなのだろうか。じゃあ、こうして鄙と疎通できるのは、一体どうしてなんだ?声帯を持たない俺の声を、彼女が声として認識しているのはどういうわけなんだろう?…こんなことに疑問を抱くのは、死んでから初めてのことだ。
「簡単なことだよ。お前が会話だと思っていることは、実は会話じゃないんだよ」
近くで、父ちゃんの声が聞えた。ふと鄙の横を見ると、いつの間に来たのか父ちゃんも寝転んで空を見上げている。
「は?どういうこと?」
「正確に言うと、地上の世界で言うところの会話ではない、ってことかな」
静かに雲が流れていく。川面に反射した陽光は、キラキラと光の粒になって再び空にかえっていく。鄙には、父ちゃんの声も聞えていないのか、横になって目を閉じたままうとうとし始めているようだ。
「地上で、会話って言ったら、声帯を震わせて出した声が相手の鼓膜を振動させることで声として認識するということだろ?そして、その言葉の内容を脳が処理する」
「だから、会話には喉と耳と脳が必要ってことだろ?つまり、お前が今この子としている会話は、声帯とか鼓膜とかを介在していないんだよ。確かに、この子は声を出している。でも、お前はその声を耳で聞いているわけじゃないんだ。そして、お前は声帯を震わせて声を出しているわけでもない」
「じゃあ、俺たちはどうやって話してるんだよ。確かに、俺には鄙の言葉が伝わってくるし、俺が思ってることも鄙にはちゃんと伝わってるんだよ」
「それが、魂なんだよ」
「お前は、あの子の肉体と会話しているわけじゃないんだ。魂と通じ合っているということなんだよ。…俺のこんな拙い説明じゃあ、お前は納得できないかもしれないだろうけど…。でも、もう、地上で学んだ科学でこの世界のことを理解しようとするのはよしたほうがいい」
「人間ってのは、不思議な生き物なんだよ。あの探究心は、すごい。自分達が与えられた肉体や能力に、あそこまで関心を持てる生き物は他にいないよ。魂よりも、脳が一人歩きをしちゃったんだろうなあ」
「なんだよ、自分だって人間だったくせにさ」
「ははは、まあ確かにそうなんだけどね。でも、死んでから思うんだ。この地球や生き物を作った誰かがどこかにいるのだとしたら、そいつはこうなることを予想できていたのかなあ、ってさ。本当は、誰かが作ったんじゃなくて、やっぱり自然に出来上がったものなんじゃないのかなあ」
「生きている人間がさ、死んだらどうなるんだろうって色々と思いを巡らすみたいにさ、死んだ後の俺たちもこの先のことをあれこれと考えるわけだよ。魂が最期を迎えた後は、本当にそのまま地上に舞い戻るだけなんだろうか、とかさ。その間に、また別の世界が待っているんじゃないか、とかさ」
「宇宙って、生きてるのかな」
「だとしたらさ、この次は地上の生き物じゃなくて、星になったり宇宙そのものとして生まれ変わったりする魂もあるのかな」
俺は、途方もない気分になった。
日が沈み始めた西の空は、眩いほどの鮮やかな赤に染まっている。ふと上空を見上げると、吸い込まれそうなほど透き通った青だった空に紫紺のカーテンが下りている。空が次第に宇宙と溶け合う姿はあまりに美しく、何度見ても飽くことがない。
遠く、町のほうから『夕焼け小焼け』の音楽が聞こえてくると、俺は目を閉じて、夕暮れのひんやりと湿った空気を体の中にそっと染み込ませた。そうしていると、自分いるあの世も、鄙が生きる現世も、世界全体がなにか巨大な響きに包まれているかのように感じられた。圧倒的なスケールの大きさをもった響きが、世界全体を包み込んでいるように感じる。その響きは、ほのかな青みを帯びた透明なヴェールのように世界を包み込み、暮れなずむ町をひっそりと通り抜けていく。生い茂る木々も、道を覆い尽くすようにして繁茂している草も、建物も。その巨大な響きに満たされている。大気に含まれた目に見えぬ時の断層をすり抜けるように、その響きは世界の隅々まで響き渡っていくかのようだった。やがて、『夕焼け小焼け』の最後の余韻が淡い夕闇の中に吸い尽くされた頃、鄙は短い午睡から目覚めた。
「ふあー。よく寝たああ」
まだ半分寝ぼけた顔で、鄙が起き上がった。
「はれれ。もうこんな時間なんだあ。やばいなあ。サボりすぎちゃった・・・」
時計を見て、一瞬慌てたような顔をしたものの、
「でも、まあ、たまにはいっか。予定、入ってなかったし」
そう言って、大きな欠伸を一つして、呆けたように夕日を見ている鄙を見ていたら、なんだか胸が苦しくなった。枯草と寝癖がついた栗毛色の髪、夕陽を浴びてホオズキのように染まる頬、一つ一つのパーツは小さいながらも凛として意思の強さを感じさせる横顔。
キスしたい。彼女の横顔を見ているうち、唐突に、そう思った。
彼女に、触れたい。俺はそんな自分の気持に動揺しながらも、その衝動を抑えきれずにそっと彼女に手を伸ばした。
けれど、俺の手は彼女の体をすり抜けていく。俺の指先には、すり抜けて流れていく水のような冷たさすらも感じられない。彼女の肩にはきっと、そよ風が通り過ぎた後ほどのほのかなぬくもりも冷たさすらも残らないだろう。俺は確かに彼女に触れているのに、俺は彼女になんの感触も伝えられないのだ。それは、箸を持って食事することができないことよりも、ドアノブを掴むことができないことよりもずっとショックだった。
俺は死んだ人間で、彼女には温かな血が通っている。頭ではわかっていたのに、どうあがいても変えられないその現実を突きつけられた気がした。つかみたいものに触れることもできないもどかしさと、やり場のない悔しさ。俺は死んで初めて、泣きたい気分になった。
【10 桜を待ちわびて 隼人】
出会ってから二週間が過ぎても、鄙の願い事は決まらなかった。最初の頃こそ、鄙の部屋にまで姿を現すのは遠慮していた俺だったが、最近は朝から晩まで彼女と一緒に過ごすようになっていた。
「だって、どうせ私が気づかないように様子を見てたりするんでしょう?だったら、堂々といてくれたほうが安心だから。それに、襲われる心配もないしね。なにしろ、神様には体がありませんからね」
と彼女は笑ったが、俺はなんとなくわかりかけていた。彼女は、本当は寂しいのだ。誰かに一緒にいてもらいたいのだと。一人でも寂しくないように見せているのは、誰に対する強がりなんだろう?
2DKの新築マンションには、やはり男の影は全くない。部屋も、必要な物以外は置かない主義なのか、女性の部屋にしてはひどく殺風景だった。俺の最初のイメージでは、小物や雑貨を集めるのが好きだったり、部屋のインテリアにもこだわりがあるような、そういう女の子らしい印象があった。実際の彼女の部屋は、家具のセンスこそ近代的で一風変わったデザインのものばかりだったが、小物の類はぬいぐるみ一つないシンプルな部屋だった。もっとも、彼女の日々の生活を見ていると、家電とベッドがあればそれで十分のように思える。
ただ、その部屋で、俺は思わぬ再会を果たしたのだった。
「鄙、その犬・・・」
初めて彼女の部屋を訪れた時、部屋の奥から鄙を目がけて一目散に突進してきたそのモップのようなかたまりを見て、俺は目を疑った。
「え?ああ、タビトのこと?」
「タビト?」
「そう。旅人って書いてタビトと読むんだよ。この子ね、たぶんすごく長い間旅をしてた犬だと思うんだよね。拾ったときは、毛玉がいっぱいでね。使い古したモップみたいな色で。でも、なんか妙にすがすがしい顔をしてたんだよね。頻繁に見かけるようになって、気づいたらうちの一階で寝泊りするようになったの。そんならうちで飼ったほうが温かいだろうなと思って」
間違いない。あの時の犬だった。タビトと呼ばれたその犬は、吼えもせずただ尻尾を振って俺の顔をまじまじと見上げていた。
「ビックリ!タビトには、隼人くんのことが見えるんだね。それに、知らない人にこんなになつくなんてこともめったにないんだよ。やっぱ、神様は違うもんだねえ」
いや、違う。コイツは、俺が神様だから吼えないわけじゃない。コイツには分かっているんだ。あの日のことを覚えている。こんな犬でも、命の恩人は覚えてもんなんだなと、思わず笑みがこぼれた。
おそらく、海に辿り着くまでのどこかで陸に上がることができたんだろう。あんなに小さくて、きっと餓えで体力も衰えていただろうに。きっとこいつは、最後の力を振り絞って生き延びたんだな。そう思うと、川に入ったくらいで死んだ自分が、ますます間抜けに思えた。
それにしても、まさか鄙のところにいるとは。巡り合わせというのは不思議なものだ。生きている頃、俺は、運命とか巡り合わせなんて神様の気まぐれと娯楽だと思っていた。けれど、生き物の運命は、こうして神である俺の知らないところで着実に動いている。
「鄙は、偉いよ」
「え?何、突然」
「だってさ、ちゃんと働いて、こうやってちゃんと家賃も払って、犬まで面倒みてさ。ちゃんと生活してるんだもんな」
「そんなの、世の中の人達はみんな当たり前にやってることじゃない。やだなあ、急に」
即席で作ったバジルスパゲティーを頬張りながら、彼女はけたけたと笑う。
「俺、正直自分が何をやりたいかとかどういう会社に入りたいとかよく分かんないままだったな…。あのままいってたら、たいして罪悪感とか挫折感とか感じることもなくフリーターになってたかもしんないな」
「それが、いまや神様だもんねー」
「うるせーなー。神様こそ、未経験歓迎の仕事なんだよ」
「でもさ、子供の頃のネガイゴトってたいてい将来の夢じゃない?神様ぁ、大きくなったら歌手になれますように、とかさ」
わがままに甘える、ちょっとませた子供みたいな口調を真似て、鄙はおどけてみせた
確かに、大人達に連れられてやってくる子供達のほとんどは、将来の夢をお祈りする。パイロット、宇宙飛行士、総理大臣。歌手、モデル、美容師、看護婦。その夢に辿り付くまでどんな難関が待っているのか、その仕事がどれだけハードなのか、そんなことを知る由もなくただ無邪気に将来の夢を口にできるというのは子供だけの特権だ。最近の子供は、よくそんな仕事を知ってるよな、と成人した俺が驚いてしまうような夢を祈る子供もいる。それでも、彼らの将来候補に上がらない職業が世の中には五万とあるのだ。子供の夢にも上がらないような仕事の中にこそ、この世の中を支えている重要な仕事があるんだけどな…。そういう会社を、広告という形で輝かせるのも鄙の仕事なのだろう。
「ねえ、世の中の人ってさ、どんなことを願いながら生きてるんだろうね?」
不意に、鄙が呟いた。
「毎年、不思議に思って、初詣に行くとついつい人の顔をじぃって見ちゃうんだよね。」
「そうだなあ。一番多いのは、健康かな。あとは、漠然と、幸せとか。でも、子供だけじゃなくて若い人間はやっぱり将来の夢とかが多いよ」
「やっぱり、そうなんだー」
けれど、子供だって大人だって同じだ。本当に自分の望みを叶えられる人間は、一握りの人間だけだ。神に選ばれるにはそれなりに日頃の努力が必要だし、自分の力だけで願いを叶えるには現世は厳しすぎる。
「なんかさ、不思議だなあって思って」
「なに?」
「困ったことがあったときってさ、瞬間的に神様!って思うものじゃない?神様、助けて!って。でも、その願いが届くのって本当に限られた場合だけじゃない。それでも、毎回神様に頼っちゃうのって不思議な性だよね」
生きていた頃は、俺もそうだった。どうせ叶うわけない、祈ったくらいで叶ったら世の中の人はみんな幸せだ。そうは思うのだけれど、なぜかいざとなると「神様!」と口走っていた。それはもしかしたら、神様に願い事を叶えてもらったときのことを魂が覚えているからなのではないだろうか。願い事が叶ったら神様についての記憶は消されてしまう、ということにはなっているけれど、何かの拍子で神様のことを思い出してしまうのかもしれない。だとしたら、鄙もいつか俺のことを思い出してくれるのだろうか?
彼女の部屋からは、星がよく見えた。
「誰かいるかな?あっちからも、誰かこっちの様子を窺ってるんじゃないかな?」
俺も、生きている間はそうだと思っていた。死んだら星になる、なんて、子供の頃に聞いた話がいつまでも記憶に残っていたせいかもしれない。けれど実際は、地球で生まれ死んだ魂は、次に命を与えられるまでは地球に留まり続けることになる。
「でもさ、なんだか不思議だね。こっちの映像もあっちの映像も、リアルタイムで送られてきてるわけじゃないんだもんね。タイムラグがあるでしょ?」
「うん。この瞬間にあの星で何が起こっているかはわからないんだもんな」
「もしかしたら、あの星はもうないかもしれないんだよね・・・」
鄙の何気ないその一言は、なぜか俺を不安にさせた。
「光が届くまで、何年もかかる星ばっかりじゃん?何百年とか何千、何万、何億・・・。なんだか、もう、想像できないよね」
生きている間には決して辿り着くことのできない星が、こんなにもたくさんある。
気の遠くなるほど遠くにある星からも、遥か昔の光が送られてきているのだ。そう考えると、時間という概念そのものさえあやふやなものに思えてくる。この空間を流れる時間は、どこからどこへ流れていくのだろう。時の流れが川に例えられるのなら、時の海は一体どこにあるんだろう。あらゆる星々からの時の流れが集まる海。時の流れに乗って、そのまま時の海の渦に飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
「ねえ、宇宙がどんどん広くなっていく、ってホントの話なの?」
「へえ、そうなんだ…?」
首をかしげた俺を、神様なのにそんなことも知らないのと鄙は笑う。俺は、じいちゃんから聞いたマメ知識を付け足した。
「でも、宇宙の中心部は薄まらないんだってよ」
「拡散してるのに、濃度は薄まらないんだぁ…。なんか、科学の範疇を超えてるような気がするね」
こうしている間にも、あの黄色く輝く星も、静かに青白い光をたたえている星も、僕らから離れていっているのだ。いや、もうとっくに実体すら星も数え切れないくらいあるだろう。何億年も前に消えたかもしれない星の、最も若くて鮮やかな時代を僕はこうして眺めている。今の僕の姿も、途方もない遠くの星の途方もない未来の誰かが眺めているかもしれないのだ。それは、なんだか奇妙な感覚だった。僕は、宇宙の片隅に輝く惑星を思った。地球と同じように水と大気に守られた、青く輝く星。その存在は、俺のこの曖昧な人生にどんな意味をもたらしているだろう?
鄙と一緒にいると時に俺は、自分が神様だという立場を忘れてしまう。自分が鄙に近づいた使命も。このままずっと、こうして二人でいられる毎日が続いていくような錯覚を覚えてしまう。そしてたぶんそれは、俺がそう願っているからなのかもしれない。
「わあ、桜、もう蕾つけてるね」
神社の敷地内にある桜を見ていた鄙が、嬉しそうに顔を綻ばせた。
この神社には、全部で二十本以上の桜がある。満開の季節には、正月の初詣さながら家族連れの花見客などで賑わう。夜中まで大騒ぎする彼らを、うざったく思いもするが、どこか微笑ましい気分になってしまうのは、たぶん桜の魔法だ。
考えてみれば桜は、ひどく地味な植物だ。花さえ咲いていなければ、何も自己主張せず、ひっそりと目立たぬように佇んでいる。けれど、一度開花すれば、その圧倒的な存在感で人の心を魅了する。空気を彩る妖艶な美しさは、昔も今も時代を越え、人の心を惹き付けて離さないのだ。
中学生の頃、国語の教科書で読んだ記憶が脳裏をよぎる。桜の樹液は、桃色なのだと。花が咲いていないときでも、あの太い幹の内側には、桃色の血が脈々と流れているのだという。外観からは想像さえつかない、内側に秘められた桃色の美しさ。ただ茫然と雪に埋もれているかのように見える冬の桜の内側は、密やかにふつふつと燃えているのだ。
その話が本当なのか、俺は確かめたことはない。本当に桜の樹液がピンク色なのか。確かめようとすれば簡単に確かめることができたはずなのに。その話を聞いてからしばらくは、そんな桜が物言わぬ人間のように思えて、桜の木の下を通る度になんだか恐ろしささえ覚えて避けるようにして通っていた記憶だけだ。
「うれしいなあ。もう春だ」
「だいぶ、暖かくなってきたもんな」
すでに寒さを感じる体ではない俺は、寒暖の差を感じることもないけれど、空気の色や人々の浮き足立った様子でなんとなく春が近いことを感じていた。
「こっちってさ、雪が降らないじゃない?だから、秋と冬の境目がよくわかんなくって。私の実家なんて、今はまだ雪の世界に埋もれてるよ」
「あ、東北だっけ?」
「そう。豪雪地帯だからね」
ゴウセツチタイ。聞きなれない言葉だった。生まれ死ぬまでこの街から出て暮らしたことのない俺には、たった一つの四季しか知らない。確かに、この地域は冬に雪が降ることなんてめったにない。俺が生きていた二十一年間で、雪を見たのは二回か三回だけだ。しかも、アルプスで雪を降らせ乾燥した強い北風が吹くこの地区は、雪が降っても積ることは決してない。冬ほど晴れた日が続くのだ。
その温暖な気候のおかげもあって、山の幸にも海の幸にも恵まれている。ある意味では、その恵まれた環境が、俺みたいな生ぬるい性格を育てたとも言えるのかもしれない。だから、背丈ほどまで雪の積る生活というのは正直、実感が湧かなかった。けれど、冬になると全てが深い雪の中に閉ざされてしまう地域に生きる人々は息を潜めて春を待つというイメージが強くて、雪国の人間は我慢強いのだろうとイメージが俺の中では勝手にできあがっていた。
鄙と出会って納得した。鄙の芯の強さは、雪によって鍛えられたのだろうと。
「あっちはさ、三月の半ばくらいから雪解けが始まるんだよ。桜は、その後。四月の半ば過ぎないと、咲かない。だから、こっちにきた時は嬉しかったー。こんなに早く桜が見られるなんて、って」
「でも、散るのも早いんだよね。それが、ちょっと寂しいけど。」
「鈴木隼人としての俺の人生、って、桜にも及ばなかったよな。結局、満開の時期を迎えることなく終わっちゃって。桜って偉いよ。毎年、こうやって力を振り絞って花を咲かせるんだもんな」
「人間は、蕾になったとか花が咲いたとかいう結果が姿形に表れにくいから、なんじゃないの?隼人くんの人生だって花は絶対咲いてたよ」
「そうかな・・・」
二十一年間の記憶が走馬灯のように甦る。俺の満開の時期って、一体いつだったんだろうな。高校に合格した頃?サッカー部で県大会に行った頃?それとも大学に合格した頃か?一つ一つ思い返してみても、どの時期も自分で自分に満足していたとは言いがたい時期ばかりだった。
桜も、実際はそうなのかもしれない。ああやって毎年花をつけるのは、課せられた一つの義務をこなしているようなもので、体の構造上、必然的に起こるというだけの現象で、桜自身はさして充実感は感じていないのかもしれない。
どうなんだ、桜。と、桜の木の魂に語りかけていると、鄙はまるで心から願うように言った。
「あーあ、早く桜が見たいなあ」
大きく伸びをしたまま空を振り仰ぎ、まるで空に祈るように言う鄙の姿は、俺の心を切なくさせた。人にとって、桜が咲くことがどんな意味があるのかは分からないが、人は毎年桜が咲くのを今か今かと待ちわびる。
いつまでも、桜を待ちわびる鄙の姿が脳裏に残って忘れられなかった。