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私の神様

【プロローグ】


「神様、お願いします!」

 人は一生のうちで、一体何度、神様に祈るのだろう?

神様に祈ったからといってその願い事が叶う保証なんてないことくらい、誰でも知っているはずなのに。それでも、時に人は神様を求めてしまう。

ピンチの瞬間や絶望の淵に立たされた夜、わずかな可能性を神に托すのだ。

 「神様!」と。

 それはきっと、魂が、神様と一緒に過ごしたいつかの日々を覚えているからなのかもしれない。

 私は、今でも思い出すことができる。神様が一緒にいてくれた頃の、私を包む空気の温か さ。話し掛ければ、いつだってすぐに応えてくれる安心感。

 ちょっと頼りない神様だったけれど、私はずっと、彼と一緒にいたかった…。


【1 神様の憂鬱 隼人】

 「有名になれますように」

 「お金が溜まりますように」

 「宝くじが当たりますように」

 「出世したいんです」

 「ケンちゃんと両思いになれますように」

 …忌々しい。

 ったく。どいつもこいつも、欲深いやつばっかりだ。俺の前で良い顔なんかしたって、そう簡単に願い事なんか叶えてやらねえっつーの。

 俺は、境内に次々に参拝にくる人間達を尻目に毒づいた。

 どうせこの中には、正月しか顔を出さない連中もたくさんいるのだろう。一年に一回、たった五円の賽銭で祈っただけで願いを叶えてもらおうなんて、虫がよすぎるんだよ。

 自分の人生をかけた願い事に賽銭をケチってるような奴は、きっとその程度のエネルギーしか投資しないのだろう。たった五円の投資で「ケンちゃん」の彼女になったと知ったら、その男はどんな気分になるだろう?

 かといって、「世界中の人達が、みんな幸せに暮らせますように」なんてしらじらしく恒久平和を願うやつはもっと嫌いだ。自分の願い事を飲み込んでまで、顔を見たことない他人の平和を願うなんて虫唾が走る。そういうやつに限って、心の中は自己愛でいっぱいなんだよな。私欲を抑制して、人のために祈る自分。そういう自分に酔っている。そうでなければ、神様から祟られるのを恐れているだけだ。人のために祈っておけば、自分におこる災いを避けられるとでも思っているだけ。神様に祈ったって、死ぬ時には死ぬし、災害は無差別に人の命を奪うものなのに。

 こういう連中よりは、金が欲しいだの長生きしたいだの欲張りな人間のほうがちょっとはかわいげがあるように思える。案外そういう人間のほうが、いざという瞬間には自分を犠牲にできたりするものだ。その人が、自分の身を犠牲にしてまで他人を守れるかどうかなんて、死ぬ瞬間までわからない。

 もっとも、本気で願いを叶えたいなら、神様なんてえたいの知れないものは当てにせず自力で手に入れるか、逆に毎日ここに通って願い続けるか、のどちらかだ。けれど、実際のところ初詣の時期を過ぎるとこの神社に参拝に現われる人間は激減する。…結局は、願い事に対して中途半端な奴が多すぎるということか。

 年が明けてから二ヶ月あまり、俺はこうして毎日、くだらない悩み相談や祈りごとの品評会をしている。最初の四日間は、朝から深夜までひっきりなしに人が訪れた。いつもは閑散としたこの境内に、人々の華やいだ笑い声や屋台の甘酒や汁粉の甘い匂いがあふれ、夏の祭りさながらの賑わいだった。

 けれど、一週間経った頃からその賑わいも鎮まり、潮が引いていくように人々の足も遠のいていった。二週間もすると、いつもの静けさが戻ってきた。人々の日常から忘れ去られたような空間。市内でも規模の小さいこの神社は、正月といっても参拝に来るのはこの地区の住人ばかりだし、普段からまめに足を運んで祈るのは近所のばあさん達くらいのものだ。あとは、子供連れの親子が時々散歩に訪れるか、中学生や高校生がたむろするか、夕方から男女がいちゃつきに来るか。賽銭の一つもよこさず、ただ場所として利用されるだけだ。

 無理もない。生きている人間の毎日には、神社なんてただの通り道に過ぎない。日本では特にそうだ。海外でいうところの教会のようにはありがたがってはもらえない。

 神社に寄って祈ったところで、その日のプレゼンが成功する保証もないし、テストで一番になれる保証もない。空腹を満たしてくれるわけでもないし、悩みの解決策をもらえるわけでもない。神社に寄って祈る余裕があるくらいなら、コンビニに寄ったほうがずっといいと思うだろう。コンビニは、夜になっても煌々と町を照らし続ける。有り余るほどの満腹と、娯楽と、他人との接触。もはや人は、神に祈らなくても欲しいものを手に入れることができる。そんな錯覚をしても無理はないのかもしれない。

 そのうち、神社なんていらないなどと言い出すやつも出てくるかもしれない。神社なんて、コンビニ以下だ。それならもっとコンビニを建てよう。

 …それはそれで、ある意味で正しい選択なのかもしれない。

それでもまあ、一年に一度は仰々しく神社を訪れようという気になるだけでも、まだ救い甲斐はあるのだろう。少なくとも、ここで遊ぼうとか、ここでエッチしようとか思えるだけの安心感は持ってもらえているみたいだ。市民の憩いの場ってやつか?そう思ってもらえているうちは、俺たちがここにいる価値もあるというものだ。

 

 けれど、彼女は他の連中とはちょっと違っていた。

 コツ、コツ、コツ。

 今日も、彼女の足音が聞こえてくる。姿を現す時間帯は日によってまちまちだが、彼女は毎日一度は必ず境内に現われる。ベンチに座って休んでいく日もあれば、境内で手を合わせただけでさっさと行ってしまう日もある。どんな日も賽銭を欠かさない彼女は、けれど、他の連中のように願い事を呟いたりはしない。ただ、手を合わせて目を閉じ、じっと祈る。深く、深く頭を下げて。

 俺が彼女の存在に気づいたのは年が明けの初詣の時期だったが、この様子だと、おそらく彼女は何ヶ月も前からこの神社に通っていたのだろう。

 俺は、いつしか彼女が訪れるのを待つようになっていた。祈る彼女を社の中から眺めながら、俺は考える。彼女の願い事は一体どんなことなんだろう?


【2 神様になった俺 隼人】

 毎日、朝から晩まで、しゃもりの扉の格子越しに人間共の願い事を値踏みする。それが最近の俺の日課だ。

 生きていた頃は、まさか死んだ後に自分が神様になるなんて思いもしなかった。それどころか、自分もいつか死ぬのだという意識すら希薄だった。そしてそれと同じくらい、生きていることの充実感も薄かった。

 使命感だとか正義感なんてものを一度として感じたこともなかった俺が、神様として人の願いを叶える・・・神様になった今でも、まだ、何か間違っているような気がしてしまう。自分で言うのもなんだけれど、俺は人を助けるよりも助けられるほうが向いているキャラクターだったはずなのに。

 俺には、現世の連中をとやかく言える資格はない。生きていた頃は、ろく初詣にも行かないようなやつだった。神様に何かを願ったこともなかったし、神様がいるとも思っていなかった。

 所詮、信仰なんて、信じて信じて錯覚していくものとしか思っていなかった。それなら、信じて試して確認していくことで成り立ってきた科学の作業のほうがずっと信頼できる気がしていた。

 神様なんて人間が勝手に作り上げた虚像で、俺たちも含めてこの世界にあるものはいくつかの偶然が連鎖的に起こった結果だと考えるほうが、ずっとシンプルだと思っていた。

 だから、死後、自分の死んだ親族がみんな神様になっていることを知って驚いた。

 大酒飲みで、親族が集まるたびにくだを巻いていたじいちゃん。家では母ちゃんの尻に敷かれて言いたいことも言えないで、会社に行っても中より下くらいの業績しかあげられなくて出世もできず、挙句の果てには、道路に飛び出してきた猫をよけようとして電柱に衝突して即死してしまった、父さん。

 冴えない人生だ。

 現世でどんな人生を過ごしたか、ということは、死後の世界では関係ないということなのか?それとも、現世で恵まれない人生を送ってきた者こそ死んだ後にチャンスが与えられる、そういう世界なのか?現世で目立たない人生を送ってきたヤツほど、死んだ後には報われるってことなのか?それとも…貧乏人は死んでからもせっせと働けってことか。

 俺だって、父ちゃんやじいちゃんと、さして変わらない人生だ。人より優れた特技があったわけではないし、特別に成績が良かったわけではない。ちょっと努力すれば入れる地方大学の、普通に頑張ってさえいれば卒業できる工学部に通う、趣味なし金なし彼女なしの冴えない二十一歳だった。

 俺が死んだのは、大学三年生の冬。周りに連られてなんとなく焦り始めて就職活動を始めた頃だ。

 これといって大それた夢も誇れるようなポリシーもなかったけれど、野良猫一匹のために命を落とすなんて、そんな間抜けな死に方だけは絶対に嫌だと思って生きていた。十八歳の時に父ちゃんが死んで、それからずっと。

 母ちゃんも親族も、みんな揃いも揃って、父ちゃんの死に方は「あの人らしい死に方だ」と、どこか誇らしげに言って、さめざめと泣いた。でも、俺はそうは思っていなかった。俺は嘲笑った。父ちゃんは、最後まで他の者のために自分をすり減らすんだな、と。けれど、遺伝というものは恐ろしい。体のつくりだけではなくて、死に方まで受け継がれるなんて。

 俺は、真冬の川で溺れていた犬を助けて死んだ。どこの犬だかわからない犬が溺れていたって、素知らぬふりで通り過ぎる。父ちゃんみたいな生き損はしたくない。自分はそういうやつだと思っていた。それなのにあの日、通りかかった橋で、橋の下から聞こえてくる悲痛な鳴き声を聞いた俺はそのまま知らぬふりをして通り過ぎることがどうしてもできなかった。

 今にも消え入りそうなその鳴き声の主は、橋の上から川を覗き込むとすぐにわかった。橋の真下に大きな流木があって、そこに小さなダンボールが引っかかっており、声の主はその中にいるようだった。わずかに開いたダンボールの蓋の隙間から、薄汚れた白い毛が見え隠れしていた。

 いくら近所とはいえ、そんな川で泳いだことは一度もない。当然ながら、その川の深さも冬の川の水温がどのくらいなのかも知らなかった。けれど、気づいたら俺はそのまま川に飛び込んでいた。考えるよりも先に身体が勝手に動いていたという感じだった。その川は、予想よりもずっと深く、身長百八十センチの俺でさえ脚がつかなかった。しかも、遠くアルプス山脈から下ってきたその川は冷たい雪解け水を運んでいて、その水の冷たさに俺の心臓は縮みあがった。水分を吸ってどんどん重くなった衣服が身体にまとわりつき、俺はとうとう身動きがとれなくなった。無我夢中で泳いで、犬のダンボールを川の流れに戻してやったところで、俺の心臓は止まってしまった。…らしい。

 水の冷たさで気を失って、死ぬ瞬間のことは全く覚えていない。死の直前には過去の出来事が走馬灯のように甦るだとか、時間の流れがスローモーションになるだとかいう話を聞いたことがあったけれど、俺の場合は、睡魔に負けてストンと眠りに落ちるような感覚で、授業中の居眠りに近い感覚だった。

 次に気づいた時には全身が温かい光のようなものに包まれ、橋の上から眺めた空のように淡い青色の空間に浮かんでいた。


 死んだはずの父ちゃんとじいちゃんが、二人揃っていきなり目の前に現われた時は驚いた。死んだのに、「おめでとう!」と、晴れやかな表情で現われた二人は、生きていた頃よりもずっと生き生きして見えた。

 「えっ。俺、どうなっちゃったの?」

 まさか、あんな川で自分が死んだとは夢にも思わない俺は、最初は状況が飲み込めなかった。ただ、まばゆいほど明るい白い光の中に自分があお向けになっていることはわかった。  最初は、病院のベッドにでも寝かされているのだろうと思っていた。水の中を漂っているような曖昧な意識の中で、あんな川で溺れて救急車で運ばれたなんて、俺ってつくづくついてないヤツだよな、と自分で自分に同情した。そして、母ちゃんに知られたらなんか格好悪いよなとか、そういえばあの犬はどうなったんだっけとか、ぐるぐると頭の中を巡らせていたところに、二人がぬっと姿を現したのだ。一瞬、父ちゃんとじいちゃんがすでに死んでこの世にいない人達であることすら忘れていたくらいだ。

 状況がうまく飲み込めずにぽかんとしている俺をよそに、「隼人。よかったな。お前も神様になれるぞ」と嬉しそうに父が言い、「そうだ、名誉なことだぞ」とじいちゃんが頷いた。

 「こんな歳で…気の毒だが、でもお前みたいな若いのが来てくれると助かるなあ」

 酒でも飲んでいるのか?この二人がこんなに陽気に笑うのを、俺は初めて見た気がした。俺の記憶の中では、この二人はいつもどこか居心地が悪そうで、誰に対しても過剰に気を遣い、心からリラックスしてばか笑いをするということのない人達だったのに。

 「…父ちゃん?じいちゃん?なんでここに?」

 二人のペースについていけず、俺が間抜けな声で訊ねると、二人は声を揃えて笑った。何が可笑しいのか、可笑しくてたまらない、という風だった。俺はただ、ボーっとして二人を交互に眺めていた。死んだ当時のまま年齢が止まっているのか、背格好も肌の様子も服装も、俺が覚えている最期の二人と変わっていないように見えた。

 「そうか、そうだよな。俺もそうだった。その瞬間というのは、何がなんだかわからないものだ」

 「そうそう」

 父ちゃんは、両手で俺を抱き起こした。不思議なことに、抱きかかえられているような感覚はあるのだけれど、父ちゃんの掌の感触は感じられない。それどころか、自分の体の重さを感じられなかった。

 「隼人。お前は、肉体の不自由さから解放されたんだよ」

 「は?」

 「これからは、腹もへらないし、痩せもしないし太りもしない。痛みも苦しみも感じない。疲れも感じないんだぞ」

 良かったな、とでも言いたげに父ちゃんが笑う。けれど、その表情の中にはちらりと哀れみの翳りが見えた。それで俺は悟った。ああ、そうか。俺は死んだのか、と。

 あまりにもあっけなく、一瞬の出来事だったせいなのか、俺は自分でも驚くほどあっさりとその事実を受け入れられた。自分が死んだというのに、取り乱すでもなくさめざめと泣き伏すでもない。生きていた俺は、そんなに「生きる」ということに執着がなかったのかと、自分で自分に呆れたくらいだった。

 「犬を助けて死ぬなんて、誰かさん達と似たようなもんだよな」

 二人が遠まわしに俺を気遣っているのがわかったので、俺はことさらに明るくおどけてみせた。「あの世」に行ってまで、湿っぽくなるのは嫌だった。

 「ははは、そうだな。俺は猫を助けて死んだし、じいちゃんは巣から落ちたヒナ鳥を助けて死んだ」

 「えっ、そうだったんだ」

 「そうだ。台風の日、庭の木からチーチーうるさい声が聞こえてな。見てみたら、風で巣が傾いて、ヒナが一匹振り落とされそうになってたんだよ。餌を探しに行ってたのか、親鳥もいないみたいだったし。助けられるのは俺しかいないだろ。それで木に登って救出してやったんだよ。木から下りようとしたところに、突風が吹いてきてな、気づいたらここにいたんだ。今のお前と一緒だよ」

 じいちゃんが、台風の日に庭の杉の木から落ちて死んだことは知っていたが、まさか鳥を助けるためだったとは知らなかった。酔っ払った勢いで木に登って、足でも踏み外したんだろうと思っていた。少なくとも、残された親族はみな、今でもそう思っているはずだ。我が親族ながら、親子揃ってなんて間抜けな人達なんだろうと、俺は馬鹿にしてさえいたのだ。

 「へえ、知らなかった・・・」

 じいちゃんは、誇らしげな顔をしてその武勇伝を語った後、ちょっとばつが悪そうな顔をして続けた。

 「まあ、でも、俺が助けた鳥は、結局のところ親鳥に見放されたんだ。俺の匂いがついてしまっていたもんでな。結局、死ぬまでの時間を数日間先延ばしにしただけだった。かえって余計なことをしちまったんじゃないかと、死んでから後悔したよ。あの時、あのまま死んでいれば・・・親に見離される孤独も味わわずにすんだだろうに。やっぱり、人間が自然界の営みにちょっかい出そうなんて考えちゃいけねえんだよなあ」

 肩を落として、しゅんと俯いたじいちゃんの姿は、昔、酒を飲みすぎて失態をやらかし、ばあちゃんに小言を言われているときの面影そのままだった。

 もともと気が小さかったじいちゃんは、しらふに戻ると一日くらいは反省して酒を控えるのだけれど、結局翌日の夜には我慢できなくなって呑んでしまい、また同じ失敗を繰り返す。そんな繰返しだった。    

 確かに、酒癖が悪いところは困ったもんだったが、じいちゃんの人柄の良さや、人情の厚さは誰もが認めていた。きっと、酒に酔わなければ言えないことがたくさんあったのだろう。

 葬式の日は、遠方からもじいちゃんの好きだった酒を持って駆けつけてくれた人も大勢いたし、つけられた戒名も「人徳」という意味が含まれたものだったという記憶がある。

 「でも、今はコイツも幸せなんじゃないか?こうして命の恩人と巡りあえたんだし」

 父ちゃんが、じいちゃんを慰めるように言う。それに同調するように、ちーちーという鳴き声が聞こえて、見るとじいちゃんの肩には、首が頼りなく傾いて身体の血管が透けてみえるほど小さなヒナ鳥がちょこんと座っていた。

 「うわっ。これ?じいちゃんが助けた鳥?」

 「ああ。俺より数日後に死んでな、真っ先に俺のところに飛んできたんだよ。それ以来、ずっと一緒だ」

 じいちゃんは、見方によってはエイリアンみたいにも見えるそのヒナ鳥を、いとおしいものを見るような優しい表情で見守っていた。その様子を見ていた俺は、そういえば、とふと思い出した。俺が助けたあの犬はどうなったんだろう…?もし助からなかったのだとしたら、あと数日したらあの犬も、このヒナ鳥みたいに俺のところに駆け寄ってくるんだろうか?

 よくよく考えてみれば、あのまま川に流されて行ったとしても、助かる見込みは薄かった。おそらく、誰にも助けてもらえずに海まで行ってしまって遙か沖まで流されてしまっただろう。あの先、何日も何週間も餌ももらえず、餓えと寒さに耐えて、だだっ広い海の上で死ぬのを待つよりはあの時に死んでしまったほうが幸せだったのかもしれない。俺は、余計なことをしたのかもしれない。余計なことをして、自分の命を落とした。

 …これじゃあ、この冴えない先祖と全く一緒じゃないか。

 「まあ、とにもかくにも、他の命のために自分の命を投げ出せる勇気はすばらしいことだ。現代っ子のお前も、そういう心がけを受け継いでいてくれたことがわかっただけでも俺は安心した」

 じいちゃんは、心から満足そうに笑って言った。

 「こちらから見たところ、お前、あんまりパッとしない人生を送ってたみたいだけど・・・」

 「ほっとけ!」

 図星だっただけに、かちんときた俺はついむきになって言い返した。

 「いやいや、まあ、聞け。確かに現世ではお前は不運にも活躍する機会を与えられていなかったかもしれない。でもな、これからは違うぞ。なにしろお前は、神の道に進む権利を与えられたんだからな。誰でもこの道を歩めるわけではないんだぞ」

 「神?」

今度は父ちゃんが、俺を諭すように言った。

 「そうだ。この天上界では、神様業を任せるにふさわしい魂にだけその権利が与えられるんだ」

 「カミサマギョウ?父ちゃんとじいちゃんも?」

 半信半疑で俺が尋ねると、父ちゃんはいつになく自信に満ち溢れた表情で頷いた。

 「そう。じいちゃんも俺も、神の道を選んできた」

 父ちゃんの話によれば、死に方によって神となる権利が与えられるかどうかが決まるのだという。例えば、自分の命を捨ててまで他の命の身代わりになるという俺たちのような死に方は、「私利私欲に走らない者」と評価される。他の命の運命に干渉したことで自然界に及ぼす影響よりもむしろ、その瞬時の判断が評価のポイントらしい。いざというとき、自分を犠牲にするような判断ができるか否かで評価されるということか。

 「一年間に、日本人だけでも百万人もの魂が肉体と別れを告げるんだ。動物だとか植物だとかを含めると、気が遠くなるような数の生き物が死ぬ。そうやって魂は循環してるんだよ。でもな、その中で神様になる資格を与えられる者はほとんどいない。しかも、お前みたいに若い魂はなおさらありがたいんだよ」

 キリストは生きていた頃から神だったんだっけ?それとも死んでから神になったんだっけ?そんな疑問が唐突に浮かぶ。信者でもないくせに、「神といえばキリスト」、という貧困な発想が、俺の信仰心の薄さをそのまま表しているように思えて思わず苦笑する。

 じいちゃんは、そんな俺をよそに熱心に語っている。とにかく、神様になれるのは名誉なことなのだ、と。

 しかし、権利を与えられたからといって必ずしも神の道に進まなくてはならないということではないらしい。そんな大役は無理だ、俺はもう楽になりたいのだ、と望めば、天国へ進むことも許される。どうやら死後の世界は、本人の意思に関係なく天国や地獄に送り込まれるのではないらしい。どんな生き様をしてきた者にも、死後は楽に生きたいのか、それとも現世での償いをしたいのかを選ぶ権利は与えられるのだという。

 「なあ、隼人はこれからどうしたいんだ?」

 「どう、って・・・」

 できることなら、楽に暮らすのだ一番幸せだ。別に現世で悪いことをしたわけでもないし、誰かを傷つけたわけでもない。誰だって、天国でのんびり暮らす道を選ぶだろう。

 けれど、即答できないのは俺の中に釈然としない後悔が燻っているからだった。

 「死んでからも、そんな安易な道ばかり選んでいて、お前はそれでいいのか?」

 自分の心の声とじいちゃんの声が重なったので、俺は驚いてじいちゃんを見上げた。

 「頭の良さとか才能とか、家柄とか、財産とか。そういう表面的なものじゃないもので評価されるなんてこと、現世ではほとんどなかっただろう?」

 俺を試すようなじいちゃんの視線が、痛い。

 「いや、決めるのは隼人自身だから。俺たちは口出しすべきじゃないよ、親父」

 やけに冷静な口調で父ちゃんがじいちゃんを諭したので、俺は再び口を閉ざして俯き、じいちゃんも黙り込んだ。その痛いくらいの張り詰めた空気で、二人がどれだけ俺に期待しているのかを肌で感じた。

 確かに、性格的に目立ったことが嫌いだった俺は、リーダー的な役割を務めることを避けて生きていたし、誰かに頼られることも、責任感とか重圧感とかいったものを感じたこともなかった。就職すらしたことがないまま死んだ俺は、二十歳を過ぎて自分の力を試すということをしたことがないのだ。自分でそういう生き方を選んできたのだとはいえ、一度くらいは自分にも何かに挑戦するチャンスみたいなものがあってもよかったんじゃないか?という気はしていた。

 悪事を償う必要がない代わりに、俺は生ぬるい二十一年間の代償が必要なのかもしれない。 俺みたいなヤツでも、何かできるんだろうか?

 その答えは、すぐ目の前にあった。父ちゃんとじいちゃんも、きっと俺と同じだったのだろう。パッとしなかった人生の代償に、楽園での生活を捨てて神様としての道を選んだのだ。今、挑戦の機会を逃せば、俺はこの先何度生まれ変わっても冴えない人生を繰り返すだけのような気がした。

 「でもさ、カミサマって具体的にどういう仕事をするわけ?やっぱり、人の願いごとを叶えるのが本業なんだろ?っていうか、そもそも死んだ後は身体もなくてどういう生活をするんだ?なんか、身体に力が入らねぇし・・・」

 「まあ、そう焦るなよ。この世界では、時間がない、ってこともないんだから」

 じいちゃんは生きている頃から時計とは縁のない人生だっただろ、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。じいちゃんのそういうのんびりした性格や生き方に、たぶん俺たち家族は救われていたと思うから。

 「神様ってのは、神社を拠点にして町を守るものなんだよ。最近でこそ、神社にお参りに通う人間も少なくなったけどなあ、昔の人々は神社に集ったもんだったんだよ。うちのばあさんも、お前の就職のためにお百度参りに行ってたんだぞ」

 不意に昔の話をふられて、父ちゃんはきまりの悪そうな顔をして笑った。

 じいちゃんの言うように、神社が古の人々にとってどれだけありがたい場所であったかは俺にも理解できた。確かに、最近ではそういう風習が失われつつあるようにも思える。

 それでも、俺が子供の頃、近所の友達と遊ぶときはきまって神社だった。社の下や樹木の影など、隠れる場所がたくさんある神社は、かくれんぼには絶好の場所だった。けれど、子供達が神社を遊び場に選ぶのはそれだけではなかったと思う。幼心に、なんとなく大きなものに守られているような安心感があったのを覚えている。 

 日本国内には、規模の大小を含めて八万を超える数の神社が存在しているらしい。県内だけでも二百社はあるというわけだ。そのうちの多くは、古事記や日本書紀に登場する神々を祀っている。八百万神、という言葉があるだけのことはあって、日本人はなんでも神様として祀りたがる民族のようだ。万物創造から動物、歴史上の人物、戦争で亡くなった人々。

 「で、この神社は、何を祀ってるわけ?」

 父ちゃんとじいちゃんが拠点とする神社は、俺の家のすぐ近くの小さな神社だった。俺が幼い頃にかくれんぼをして遊んでいた件の神社だ。

 敷地内にある公園には、今日も小さな子供連れの母親達が集う。馴染みの神社だというのに、一体どんないわれがある神社なのか俺は全く知らない。

 「うん。何百年も前に、落雷から人間を救って命を落とした桜の木があってな。その桜を祀っているんだ」

 「へー。あ、だから俺たちがこの神社の守り神になったんだ?自分を犠牲にして死んだから?」

 「まあ、そういうことだ」

 現世の人々は、いまだに桜の樹を祀っている気でいるだろうに。実際には、その桜の魂はとっくにリセットされて現世に戻されていて、今は俺たちみたいな元人間がこの神社を拠点にしているなんて誰も思わないだろう。現世の人々が祀っているつもりでいる神様とは全く別の神様が宿っているなんて、皮肉なものだ。

 「神社ってのは、それぞれ祀られてる神様が違うんだよ。そもそも日本人はな、まず自然を神として祀ったんだ。農耕民族は、自然を敬わなければ食べていけないからな。豊作を願って自然を祀る。それは、ある意味では正しいんだ。自然現象そのものは、俺たちにも操ることはできないからな」

 「え、そうなの?じゃあ、台風とか地震とか、自然災害の時は黙って見てることしかできないってこと?」

 天変地異から人を救えないんじゃあ、神様なんている意味がないんじゃないのか?そもそも、自然災害そのものが神様からの何らかの警告だったんじゃないのか?

 死んでから分かる事実は、生きていた頃に聞かされたものとは内容がだいぶ違っているようで、俺は軽いカルチャーショックのようなものを覚えてさえいた。

 そもそも、父ちゃんやじいちゃんの話を聞いている限りでは、神様というのは現世の人々があれこれと想像を巡らしているような偉大な存在ではないようだ。そう思うと、試しに神様としての生活を送ってみるのも悪くないような気がした。興味本位でやってみても、罰は当たらないだろう。なにしろ、その罰を当てるも当てないも、決めるのはこの神様の仕事なのだから。

 「・・・俺、やってみるよ。カミサマ」

 俺の言葉に、父ちゃんもじいちゃんも驚いたように静止した。ほんとか?やるのか?いいんだな?俺は、ひるみそうになる自分に向かって問いかけた。

 一瞬の間の後、万歳でもして飛びついてきそうな勢いでじいちゃんが顔を輝かせた。

 「そうか!やるか!さすがわしの孫だ。いやー、ほんとに助かるなあ。いくらこれ以上歳を取らないって言ってもなあ。やっぱり、この仕事、この歳にはこたえるんだよなあ」 

 おいおい、そんなにキツイ仕事なのかよ?と尻込みしそうになる自分に我ながら呆れてしまう。神様をやる、なんてたんかをきったばかりだといういうのに。やっぱり、性分というものは死んでも変わらないらしい。

 

 「ところで、なあ、隼人。お前は、現世に未練はないのか?」

 「別に・・・」

 「さっきから、お前、泣きもしないしわめきもしないから・・・なんだか俺は心配なんだよ。まだ死んだばかりなんだから、無理しなくてもいいんだぞ。泣きたかったら、気の済むまで泣きわめけ」

 はは、とカラ笑いを返しながらも、頭の中では死ぬ直前の数日間の出来事が巡る。

 始めたばかりの就職活動は、とりたててどうしても入りたいと思う企業もなく、一つの業界に拘っているわけでもなく、まあどこか一社くらいは内定をもらえるだろうという程度の気持だった。

 卒業研究のために選んだゼミでは、与えられたテーマに対してそこまで強い興味や関心があるわけではなかったが、まあ指導通りに実験を繰り返していればなにかしらの結果は出るだろうし、卒業には支障ないだろう。

 半年前に彼女と別れて以来、なんとなく女と付き合うのも億劫になって、最近は合コンの誘いも断っていた。けれど、性格は、この通り犬を助けて死ぬくらいのお人好しだし、容姿も端麗とはいえないまでもまあ悪くはないと思うし、ファッションセンスも流行のポイントは抑えているつもりだ。本気でアプローチすれば、彼女ひとり作るのはそれほど難しくはないだろうと思っていた。

 要するに、流されるままに抗うことなく進んでいけば、人並みの人生、人並みの幸せはもらえるだろうという程度だ。その、ある意味では受動的ともいえる人生に、悔いや未練があるのかないのかと問われれば、まあ別にどっちでもいいと答えるしかない。あのまま生きていてもよかっただろうし、死んだからといってどうしても生き返りたいと思うほどの執着心もない。

 「お前、そんな若い歳で死んだってのに、ずいぶんと飄々としてるなあ。夢とか、大事な人とか、いろいろ残してきたんじゃないのか?」

 「じゃあ、父ちゃんはどうだったんだよ?人生に執着なんかあったのか?」

 「俺は、もっと生きていたかったよ」

 いつも優柔不断で、母ちゃんに対しても俺に対しても自分の意志を示すことができなかった父ちゃんがいつになくきっぱりと言い切ったので、俺はなんだか調子が狂った。

 「そう?」

 「ああ。母ちゃんも残してきてしまって」

 さきほどまでの勢いを失って、呟くように言った父ちゃんは遠い目をした。

 母ちゃんの尻に敷かれて、小言ばかり言われているように見えていたけれど、やっぱり父ちゃんにとって母ちゃんは大切な人だったということなのか。こんな風に、死んだことを悔やむほど大切な人なんて、俺にはいただろうか?もし、彼女がいたとしても、俺は相手に対してそこまでの愛情を持てなかったような気がした。

 「ま、でも、こうして立派になった息子にも会えたし。やっと報われた気分だよ」

 父ちゃんがしんみりと言うので、なんだか照れ臭くなった俺は思わず目を逸らした。

 「ああ、それから」

 「うん?」

 じいちゃんが、思い出したように付け足した。

 「言っておくが、お前にも我々にも、もう肉体というものはない。ただ、魂として存在しているだけだ。だから、今、お前に見えている我々の姿は虚像だ」

 「えっ。でも、じいちゃん、口動かしてしゃべってるじゃん?これ、幻ってこと?あっ、幽体離脱みたいなもんか?」

 「そうだな・・・。俺は、幽体離脱ってのがどういうものなのかよく知らんが・・・」

 俺の口からするりとそんな言葉が出てきたのは、死ぬ前日の晩にテレビの特集番組で観たからだ。

 確か、夢と現実の境目、眠る瞬間に体験することが多い現象だと言っていた気がする。記憶だとか、意識だとか、脳の機能に関係するものなのだとしたら、これは死んだ後の脳の中で起こっている現象なのだろうか?

 「我々が今いる世界は、お前がさっきまで生きていた現世とは異なる時空の空間なんだ」

 「ジクウ?」

 「現世の時間の流れから独立しているんだよ」

 「なんか、うまくイメージできないけど」

 「お前、大学に通ってたんだろ?」

 じいちゃんが呆れた顔をする。そこで父ちゃんが口をはさんだ。

 「お前、ドラえもんを観たことあるだろ?」

 「うん」

 俺の歳で「ドラえもん」を観たことがない人間はいないだろう。

 「でさ、のび太の机の引出しがタイムマシーンになっててさ、ドラえもんはあのタイムマシーンを使って未来と行き来するじゃないか」

 「ああ、現実にはあり得ないっぽい話だけどなあ」

 父ちゃんが、微笑む。笑う、というよりは「微笑む」と表現したほうがしっくりくる。生きていた頃と変わらないその笑い方に、思わずほっと安心感を覚える。

 「ドラえもん達が、あのタイムマシーンで未来と現実を往復する時にさ、不思議な空間を通るじゃないか?」

 「ああ・・・なんか、うねうねしたような空間のこと?落ちると、どこの時間に行ってしまうかわからないってやつだったけ?」

 「そう。イメージとしては、あんな空間を想像すればいい。その空間のある一部に、時間のひずみがあるんだ。スポットって言ったほうがいいのかな」

 「つまり、過去でも現在でも未来でもない空間ってこと?」

 なんとなく納得はできたものの、周りを見回すと空に浮かんでいるような淡い水色の世界が広がっているし、あの漫画で観た空間とはいささか違っているように思えた。

 「ドラなんとかよりも、浦島太郎のほうがわかりやすいぞ」

 また、じいちゃんが口をはさむ。

 「浦島太郎?亀に乗って龍宮城に行った話?」

 「そうだ。太郎が龍宮城で過ごしていた間に、現実世界ではものすごい時間が経っていたじゃないか?」

 得意げに言うじいじゃんの隣で、父ちゃんが微笑む。

 「ああ。じゃあ、この世界も龍宮城と同じってこと?」

 「イメージだよ。イメージ。最近の若いのは、想像力がなくて困ったもんだな」

 「要するに、時間の軸が現世とは違うってことを言いたいんだよ。じいちゃんは。軸、というとちょっと違うな・・・やっぱり、時のひずみ、とでも思っておくのがいいんじゃないかな」

 ああ。たぶん、と俺は納得した。父ちゃんにもじいちゃんにも、本当のところはよくわかっていないのだ。ただ、死んでみたらこういう世界だったということだ。

 難しく考えようとすると、ますます分からなくなる世界なんだろう。宇宙の果てとか、タイムスリップとか、死んだ後のこととか。誰も体験したことのない世界をもっともらしく描いた映画だとかドラマだとかの粗探しをするような真似をしてはいけないのかもしれない。なにしろ、これは物語ではなくて俺がリアルに体験している世界なのだ。理屈はどうあれ、そうだと言われればそうなのだと受け入れるしかない。

 「現世で命を与えられていた者は、死ねばみんな魂になってこの世界に戻ってくるんだ。動物も、植物も、魂になってしまえばみんな一緒だ」

 「魂?」

 頭の中に、火の玉が浮かぶ。我ながら、発想が古典的だ。

 「肉体と魂は、別物なんだよ。命を与えられるってことは、肉体の中に魂が入り込むってことだ。魂を吹き込まれて初めて、受精卵は成長を始めるし、成長した体が動くんだよ。だから、魂を失った体はもう動かない」

 「つまり、それが死、ってこと?」

 「ああ。だから、肉体を失ったお前は魂の状態になって、現世からこの世界にスリップしてきたんだよ」

 「現世とは時間軸が違うから、我々の姿は現世の者には見えない」

 「これが、俺たちの本当の姿だ」

瞬間、二人の姿は夜空で咲いた花火のように眩い光を発し、俺は思わず目を閉じた。

 「これが、魂だ」

 うっすらと目を開けると、二人の姿があった場所には、頭の大きさほどの青白い光の玉が浮かんでいた。朧月のようにぼうっと宙に浮かぶそれは、明滅を繰り返しながらふらふらと動き回った。生き物はみんな、闇に浮かぶ蛍みたいな、海に漂うクラゲみたいなこの光で動かされているのか…。

 真っ暗な家の中、ひとりぼっちで小さく灯る母ちゃんの光を想像して、俺はなんだか哀しくなった。

 「夢か現か、って言葉があるだろ?地上に生きている生物にとっては地上の世界が現で俺たちのいる世界は夢みたいなものかもしれない。でも、死んだ人間にとってはこの世界が現になるんだよ」

 「お前はまだ死んだばかりだし、こんな説明してもすぐには納得できないかもしれないけど・・・この世界と地上の世界を見比べていれば分かるようになるよ」

 要するに、死んでしまえばはい終わり、ってことではなくて、次のステージが待っているということなのだろう。もしかしたら、この世界自体が夢なのかもしれない。はっと目覚めると、二十一歳のあの冬に戻っていたりするのかも・・・。

 「なあ、この世界は一体いつまで続くわけ?病気も老いもないんだったら、終わりようがないんじゃないの?このまま延々と続いていくわけ?」

 「魂が、地上で生きていた頃の記憶を忘れるまで、だよ」

 「え。それって、無理じゃねえ?だって、自分の名前とか親のことも忘れなくちゃなんないってことだろ?何年経ったって、全部を忘れるなんて無理だよ」

 「そうだな、記憶という言い方はちょっと違うな。未練とか執着と言ったほうが近いな」

 「未練?」

 「そうだ。お前から見て、今の俺の姿はまだ生きていた頃の姿をしているだろ?それは、前世の体の名残が残っているからなんだよ」

 「それって、自分の意識とは関係ない、ってこと?」

 「うーん・・・。確かに、俺が鈴木修吾という人間として生きていたことはこの先も消えることはないだろうけど・・・少しずつ、魂が肉体の感覚を忘れていくんだよ。箸の持ち方や、歩き方、笑い方、自分の顔も。そういう肉体がないとできないことや感覚の一つ一つを忘れていくんだ。たぶん、自分が当事者だったことを覚えてはいても、鈴木修吾っていう人間の人生が他人事になってくるんだよ。リアリティーがなくなるんだと思う。そうすると、少しずつ形が失われていくんだ。そして、火の玉みたいな状態になったら、新しい命として再び生まれ変われるんだよ。卵とか種の状態から、肉体の感覚を掴み始めるんだ。今はまだ、リアルに残っている。だから、俺は魂になっても鈴木修吾の形を保っていられるんだよ」

 つまり、こういうことなのだろう。

 新しい生を与えられる時、次は植物かもしれない。また動物として生まれるかもしれない。その時、前世の肉体の感覚が残っていると、肉体と魂の適合がうまくいかない場合がある。それを防止するために、魂はこの世界でリセットされるのだ。そして、魂が古い肉体の記憶を失った時、その魂はまるで星の最期のように爆発を起こして昇華し、ハードディスクの中身が消去されるようにリセットされ、新しい魂として地上に戻されるのだという。

 もともとの魂には血筋とか家系とかいったものがない。生物種もなければ国籍もない。それが、地上では身体上の血縁があった者同士が親族として暮らすようになるから、魂の上でもつながりができる。そして、魂にも家系のようなものができてくるのだ。

 だから、死んだ後でも俺は、父ちゃんやじいちゃんを認識できるというわけだ。けれどそれもこの一世代限りのことであって、魂がリセットされて再び現世へ戻ればまた新しいつながりの中で家系を築いていくことになる。俺たちの家族としてのつながりも、次の生では断ち切られてしまうというわけだ。

 その魂の循環の根源を司っているのが誰なのか、それは俺たち神様にもわからない。この宇宙の果てにどんな世界があるのかも、俺たちは知らない。つまり、現世も天国も地獄も実は紙一重で、宇宙を司る何かがもし存在するのだとすれば、それは魂の最後を迎えるまで知る由もないということだ。

 鈴木隼人としての人生に、たいした執着も未練も残っていない俺でも、二十一年間を共に過ごした肉体の感覚はしっかり染み付いているらしい。この感覚が消えるまで生まれ変われないなんて…なんだか冗談みたいだ。パソコンやゲームだったら、たった一つのボタン操作で削除できるのに。

 

 こうして、神様としての俺の新しい人生がスタートすることになった。

 神様になったからといって、ふんぞりかえって好きなように世界を操れると思っていたら大間違いだ。神様になったからといって、未来が分かるわけでもない。現世とこの世を隔てる透明な壁を通して、現世の時間が流れていくのを見ているだけだ。こちらの時間は止まったままだから、黙って見ているだけだとまるでドラマでも観ているような感覚だ。現世の出来事はリアルタイムでしか分からない。だから、事件や事故を未然に防げるわけでもない。

 魂だけになったカラダは、文字通り「カラ」になり、空腹も寒さも暑さも疲れも感じない。食事も睡眠も必要ない。つまり、二十四時間働きつづけたところで、カラダにはなんの不都合もない。

 そもそも、二十四時間という時間の概念自体がない。なにしろ、死ぬということがないのだから、どんなに無理をしても病気になるということがない。時間がない、時間がないと行き急いでいた仕事人間にとっては、この世界はこの上ない世界だろう。そういう人間が神様になればいいのに。なんでよりによって俺が神様に?という疑念をどうしても払拭できずにいるままだ。

 困っている善人の前に、文字通り神々しい光に包まれて現われ、スッと手を差し伸べる。悪事を働いた者には罰を下す。漫画でもドラマでも、神様というのはそういう存在のはずだった。けれど、神様としての俺のこの一年には、そんなヒーローみたいな格好良いエピソードは一つもない。

 神様なんて、半分は役所の職員みたいなものだ。

 あの世とこの世に溢れる魂を、正しく統制しなくてはならない。どうやら、魂というものは、生きている間も死んだ後もこうしてなんらかの形で統制しなければ秩序が保てないものらしい。

 神様というくらいだから、地上の人々を救ったり願いを叶えたりするのが本来の俺たちの使命だ。けれど俺はまだ、誰一人の願いを叶えたこともない。死んだばかりの俺のようなレベルでは、まだ人の人生を操ることはできない。地上に生きる者の願いを叶えたり、人を諭したり、いわゆる神様らしい仕事を一人前にこなせるようになるのはざっと死後二十年を経てからだと言われている。

 けれど、神様の仕事というのは、なにも人の願いごとを叶えることばかりではない。例えば、肉体と分離されたばかりで彷徨っている魂をこの世界に誘導することや、本来あるべき姿からバランスを崩してしまった魂を元に戻したりする仕事もある。

 肉体との間の適合性が悪く肉体が一人歩きしているような生物の魂は、少しずつ形が歪んできてしまう。最近は、そういったケースも増えてきていて、そういう歪んだ魂を見つけ出し、もともとの姿に修正してやるのも神様の仕事だ。

 一人前の神様として必要なのは、それが叶えて良い願いなのかを見極める判断力や、魂の歪みを直すための言ってみればカウンセリング能力が必要だ。それを養成するには、こうして日々、現世の様子を空から観察するのが一番の修行なのだ。あの世とこの世を隔てる透明な時空の壁を通して、迷っている魂を誘導したり死んだことを納得できないでいる魂を説得したりする、そんな警察みたいな仕事が新米神様としての務めだ。

 要するに、それなりの修行期間を経なければ本当の意味で神様にはなれないということだ。確かに、あんないいかげんな生き方をしていた自分が、死んですぐにそんなに立派に変われるはずがない。

 そういう意味では、俺も父ちゃんもじいちゃんもレベルはほぼ一緒だ。まだ、神様としては半人前。現世の時間に換算すると、死んでからの年月はじいちゃんとは五年年、父ちゃんとは三年しか違わないのだから無理もない。

 ただ、肉体を離れてからの魂は歳をとらないので、死んだ時点での年齢がそのまま魂の歳になる。だから、死んだ歳が若ければ若いほど、新しいスタートをきるには有利なのかもしれない。

 現世の生き物を助けるという仕事柄、神様という仕事には人生経験がものを言うというのも事実だ。いわゆる年の功というやつだ。けれど、最近は若者世代の文化の変化が激しく、歳をとった神様ではたちうちできない場合が増えいるという。なにしろ、言葉遣いそのものが変わっていて、言葉が通じないというのだ。最近は特にそういう傾向が強くなっていて、そういうこともあり若手の神様誕生が望まれているのだ。


【3 神様の試練 隼人】

 彼女にしようかな。

 俺は、春先の柔らかな朝日の中を、ぴんと背筋を伸ばして境内に向かって歩いてくる彼女の姿を眺めながら呟いた。

 ピシッと糊のきいたシャツと身体にフィットしたスーツに身を包んだ彼女は今日も凛として見える。

 特別に人目を引くような美人というわけでもないし、どちらかといえば顔の造りも控えめなほうだと思う。けれど、境内に向ける彼女のまっすぐな眼差しの中に、何か芯の強さのようなものを感じるのだ。

 俺は彼女のことがずっと気になって仕方がなかった。

 だから、この三ヶ月、彼女の爪先から頭のてっぺんまで何度も値踏みしてきたのだ。彼女は、神様のご加護を受けるにふさわしい人間だろうか?俺が、彼女の願い事を叶えることは間違っていないだろうか?

 何度見ても、彼女は、俺の初仕事にふさわしい人のような気がした。

 死んでから、現世の時間に換算するともうじき一年。肉体を失ったカラダの感覚にもだいぶ慣れ、神様としての雑用も板についてきた俺も、神様としてステップアップする時期にさしかかっている。

 普段は、警察か市役所の職員か判然としない公務員みたいな毎日を送っているが、こんな生活がのんべんだらりと続くわけではない。いくら現世の時間の流れから隔絶されているとはいえ、なにしろ、一体いつ生物として次の命をもらえるのかもわからない。特に、人間として生を受け、目的とか目標とか進歩とかいう考え方を刷り込まれてきた俺たちにとっては、なんの区切りもないまま過ごす日々はいくら神様という大役を仰せつかったからといってもやはり無為に感じてしまうものらしい。さすがの俺も、先の見えない日々に飽き始めてもいた。

 「そろそろ、お前も誰かの願い事を叶える練習を始めたらどうだ?」

 退屈そうに現世の様子を眺めていた俺に、ある時父ちゃんが言った。

 「練習?」

 「神様っていうくらいだから、現世に生きている者たちは毎日俺たちに何かを祈ってるんだよ。お前だって、初詣くらい行ったことあるだろ」

 「ああ・・・。でも、自然災害とかはどうにもならないんだろ?だったら、一体どうやって、どんな願い事を叶えろっていうんだよ」

 俺には、魂だけのカラダになって自分達にどんなことができるのかが今ひとつ掴めていなかった。せいぜい、現世の空気に触れて、自分が触れている空間の分子を操ることくらいしかできない。それだって、自分の肉体が実像を結べないことの代償くらいにしかならないだろう。

 「魂の力っていうのはな、いざというとき信じられないようなパワーが出るんだよ。もしかしたら、自然を相手にデカイことだってできるかもしれない」

 「そうそう。過去には、台風と戦った魂だっていたんだぞ。そんなに簡単に自分の力を限定するもんじゃない」

いつの間にいたのか、じいちゃんも口をはさむ。

 「そうなの?」

 「ああ。必ず勝てるという保証はないけどな」

 がっくり。

 そうなんだ。この世界は、どうやら現世の次のステップでしかないらしいのだ。神様、神様とはいうけれど、あくまでも現世からみた神様というだけであって、この次にくる世界から見たら俺たちも現世も大差ないのかもしれない。

 「とにかく、だ。俺もじいちゃんも、少しずつ人の願い事を叶える練習をしてきたんだ。お前も、そろそろいい時期だと思う。一度、誰かの願い事を叶えてみたらどうだろう?」

 「うん。今のままじゃあ、警察とか市役所と変わらないからね。そろそろ、神様らしい仕事がしたい気もするけど・・・」

 「ははは。警察か市役所か。確かにお前の言うとおりだ。でも最近はカウンセラーの仕事も増えてきてるぞ」

 じいちゃんの笑い声が、青い空に響く。

 確かに、じいちゃんにはカウンセラーの素質があるらしい。この陽気さが功を奏してか、死んだのにいつまでもぐずぐずと現世に留まり続けようとする魂もじいちゃんが相手をするとすんなりと死を受け入れられるようになるのだった。

 「手始めに、誰の願い事を叶えるのか決めないとなぁ」

 「何事も、最初が肝心だからな。雑用は俺たちに任せて、お前はとにかくトレーニングだ」

 こうして、俺は人の願い事を叶えるトレーニングをすることになった。

 最初のミッションは、特定の人間の願い事を一ヶ月以内に叶えること。その一人を選ぶために、俺はこうして毎日境内に座り込んでいるのだ。

 じいちゃん曰く、この街の住人はほとんどがこの神社で初詣を済ませる。だから、正月の間ずっとここに待機して参拝客たちを見ていれば、この街のだいたいの人間を把握できる。その中から、誰か選べばいいだろう、と。

 神様の世界にも、こんな試験みたいなものがあるなんて、最初は冗談じゃないと思った。

 生きている間なんて、試されることばかりだし、死んだ後くらい他人の評価を気にせずにいられると思ったのに。

 けれど、よく考えてみれば、次の生を与えられるまで茫漠と続く時間を目標もなく過ごすのは気の遠くなるような話だ。

 神様として地上の生き物の願い事をかなえれば叶えるほど、その数で神様としての階級が上がったりするのだろうか?

 そもそもこの世界では、俺が知る限り神様はそれぞれの神社ごとに独立していて横のつながりというものがほとんどない。自然災害のように、現世でよほど大きな問題が発生しない限り、各神社の神様同士が力を合わせあうということはない。

 もちろん、稲荷神社だとか八幡神社だとか、全国規模で広がっている系統の神社同士は繋がっている。おそらく、そこではなんらかの形で評価システムが確立していて、いわゆる出世するために神業に励むのだろう。

 けれど、この神社のように、そこだけが独立して神様を祀っている神社は他との交流もなく統制も受けない。それなら俺たちは、なんのために人の願いを叶えるのだろう?

 「神社も、競争社会なんだよ。この神社はご利益がない、なんて言われ出したら、存続自体が危なくなるんだ。それに最近はああいう世相だからな。ビルを建てるために神社一つつぶすくらい、なんてことないと思ってるやつもいる。そういうとき、全国展開してる神社はターゲットにならないのに、こういう地元の小さい神社ってのは目をつけられるんだよ」

 「最近の人間は、畏れって感覚をなくしてるからな」

 最近の人間は、というのはどうやらじいちゃんの口癖のようだ。

 要するに、俺たち神様が叶えた願い事の数と、叶えた願い事の中身でその神社の価値が決まるということか。なるほど。まずは、どんな人間のどんな願い事を叶えてやるかという選択が重要なポイントになるらしい。動物でも植物でもいい。とにかく、地上に生を受けている者の中からターゲットを選び、そのターゲットが一番望んでいる願いごとを一つ叶える。

 …馬鹿げたゲームみたいだ。けれど、今の俺にはまだ、叶えてもいい願い事とそうでないことの区別がつかない。俺たち神様が判断を誤り、本来叶えてはいけない願いことを叶えてしまったために、生態系にとりかえしのつかない影響を与えてしまうことだってありうるのだ。

 俺たちの役目はあくまでも地球上に生を受けた魂を管理すること。それを逸脱することは許されない。だから、こうしてその判断力を試される。どういう魂ならば救ってもいいのか、魂を救うことと生態系に影響を与えることのギリギリのラインを見極める力があるのかどうか。この課題をクリアするごとに、俺たちは一人前の神様に近づいていくのだ。


【使えない五円玉 鄙子】

 もう、水曜日かぁ。

 境内の階段に腰を下ろして手帳を開くと、無意識のうちに溜息が出た。

 今週に入ってから一件も受注がない。タウン求人雑誌に掲載されていた求人広告を見てアポイントを取った今日の会社は、会社の規模といい、売上高といい、採用力といい、絶対に受注できると踏んでいた。営業トークも、マネージャーに刷り込まれた通りの内容で進めたつもりだった。

 けれど、商談は最初から最後まで客先の人事担当者のペースで進められてしまった。受注できる時の、「やってみようかな」「本当に大丈夫なの?」「でも、これ、いいよね」という、あの緊張感と和やかさの入り交じった独特の小気味よい空気が全くなかった。

 楽勝のはずだった今日の商談の誤算は、担当者が私の最も苦手とするタイプだったことだ。 歳は、五十代後半といったところだろうか。私の父親と同じくらいの歳なのかもしれないけれど、黒い部分よりも白い部分が目立ってしまう頭や、不機嫌なのかそれともそれが地の顔つきなのか、眉間に深く刻まれた皺や相手を射抜くような眼光が、彼を歳よりも老けてみせていた。

 営業先でこういうタイプが出てきてしまうと、私は足がすくんでしまう。訪問前の事前準備をどんなに綿密にしていたとしても、相手の言葉に切り返す勇気も萎縮してしまうのだ。あとはただただ、会社に対する愚痴とも、部下に対する愚痴とも、私も含めた世の「若者」と呼ばれる世代達への不満とも区別のつかない愚痴をだらだらと聞かされるだけだ。団塊世代の一斉退職、とか、二〇〇七年問題対策、とか、もっともらしいキーワードを並べてみようがこちらがどんな提案をしようが、ああいう相手は聞く耳を持たない。どうせ、「お前みたいなヒヨッコに何がわかるんだ。偉そうに」そう鼻で笑われて終わりなのだ。

 とはいえ、今週はあと二日しかない。あと二日のうちに少なくとも一件は受注しないと、月曜の朝がツライ。マネージャーの指示どおり、若い社長の会社に当たってみるのが得策かもしれない。なんだかんだ言って、あの人の言うことに間違いはないのだ。

 私は、インターネット上の求人広告を作っている会社に勤めている。この会社に入るまで、一週間がこんなに速いスピードで過ぎていくものだなんて感じたことはなかった。

 水曜日のブルー。水曜の午後は、週初めの二日間の成果と、次の二日に残された課題を思って途方に暮れる。小高い丘の上にあるこの神社からは、街の中心部を見渡せる。天気の良い日は富士山も見える。富士山の凛とした佇まいは、神々しささえ感じさせる。一見、静かに佇んでいるように見えるけれど、あの中には熱いマグマが流れているんだ。富士山が気高く見えるのは、内に秘めた激しさと熱さがあるからなんだろうか。気高くなるためには、熱が必要なんだろうか。

 ここにくると、いつもそんなことを考える。

 通勤途中、または外回りの休憩時間。日に一度は、通勤路にあるこの神社に立ち寄るのが私の日課になっている。そして、一日一枚の五円玉に、今日一日の幸せを託すのだ。

 幸せ?それが何を指すのか。自分が何を望んでいるのかは自分でもよくわからない。本当は、何も望んでいないのかもしれない。けれど、そうでもしなければ、五円玉だけで財布がはちきれてしまうのだ。

 ひかりモノを集めるカラスじゃあるまいし・・・。膨らんだ財布を見て、私は思わず苦笑する。五円玉を使えないのは、子供の頃からの癖だった。

「幸せが逃げるぞ」

 幼い頃のお兄ちゃんの言葉が脳裏を離れない。五円玉を使うと、幸せが逃げる。根拠もないそのジンクスは、いつまでも私を過去に縛り付ける。お兄ちゃんの財布も、こんなふうに五円玉で溢れているんだろうか。

 お兄ちゃんのことを思い出すと、今でも鼻の奥のほうがつんと痛くなる。とりたてて、叶えて欲しい願いごとがあるわけでもない。それでも、ここに来るとついこうして律儀に手を合わせてしまうのは、祖母といる時間が長かったせいだろうか?祖母に連れられて行った神社で、私とお兄ちゃんは並んで小さな手を合わせたものだった。

 神様を信じているわけではない。それなのに、人が吸い寄せられるようにこうして神社に来るのはなぜなんだろう?ここなら、全てのことが許されるような気がするからなのだろうか?

 まだ二月だというのに、まるで春先みたいな陽気が眠気を誘う。私が生まれ育った東北の町は、まだ雪に埋もれているだろうに。同じ国で、同じように四季は巡ってくるはずなのに、こんなにも気候が違うなんて、なんだか不思議だ。

 転勤でこの街に越してきてからもう二年になる。一年目は、起きているだけで体力を奪われるような容赦ない夏の暑さと、雪が積らないどころか降りもしない冬に驚かされた。

 温暖な気候で住みやすい、一生住むならここだよ。会社の上司も客先の地元人もどこか緊張感のない能天気な笑顔を満面に浮かべて言うけれど、北国で過ごした私にとっては、この町を照らす近すぎる太陽が痛かった。同じ日本の中で、東北よりも東海のほうが太陽に近いなんて物理的にありえないのだろうけれど、めったに雨が降ることもなく雲ひとつない青空に一日中照り輝く太陽は、故郷の町で見るそれよりもとても近くにあるように見えた。

 食べ物の味付けや、言葉のイントネーション、文化の些細な違いにはすぐに馴染むことができたというのに、気候の違いだけはいつまでも体が慣れてくれなかった。日照時間の短い東北の町で育った私には、ここの太陽は明るすぎる気がした。

 そんな太陽から隠れるように、私はこの鬱蒼とした木々に覆われた神社に逃げ込むようになった。ここには、桜や杉、欅といった樹木が神社の敷地内を取り込むように植わっていて、瑞々しい葉を繁らせていた。

 外回りの途中、昼食や仮眠をとるのはいつもこの神社だ。一人でファミレスやファーストフードに入るのはなんだかためらわれる。ここなら、平日の昼間はひと気もないし、とはいえ大通りからそれほど離れてもいないので万一変質者が出ても大声で叫べば誰か気づいてくれるだろう。

 今の広告の仕事は、東京の本社で編集のバイトをしていた頃から数えるともう四年近く続けていることになる。この町に、営業として赴任することになったときは「口下手で、どちらかといえば押しの弱い自分に営業なんて務まるんだろうか」と不安になりもしたけれど、それでももう一年半になる。広く浅い人間関係を好む自分には、営業という仕事は案外向いているのかもしれない。

 東京から新幹線で約二時間の場所に位置するこの地方都市は、製造業が盛んな街として知られている。特に、この東海地方には大手自動車メーカーが拠点を構えていることもあり、自動車部品関連のメーカーが軒を連ねている。

 この仕事を始めるまでは、「自動車部品メーカー」という言葉からイメージできるものがまるでなかった。子供の頃からプラモとか玩具とかにはほとんど興味がなかった私は、正直、人並み以上にメカに弱い。時計とか家電とか、分解してみたこともないし興味もなかった。まして、自動車の構造がどうなっているのかなんて全く知らない。

 例えば一台の自動車一つをとってみても、数え切れないくらいの部品が詰まっていて、その一つ一つを設計する人がいて、そしてそれらを組み合わせて動かす電気系の技術者がいる。私と同じような一般市民の多くが車を買うときに気にするのは、おそらく自動車メーカーの名前だとか車種だとか、表面的なことだろう。けれど、車は自動車メーカーだけの力で作っているわけではない。その背景には、どこのメーカーのどの車種に組み込まれるか、部品メーカーの生存競争が繰り広げられているのだ。そして、一台の車の中には、プラスチック製の部品もあれば金属の部品もある。それぞれで、設計方法も加工方法も違う。コストも違う。それらを視野に入れて設計できる技術者、そして実際に加工する機械を動かすマシンオペレーター一社の中に、幾つもの職種のニーズがある。

 だから私たちのような求人の仕事は、一職種の募集が成功したからといってそれで終わりではない。継続的に訪問し、提案して、その企業が別の職種の募集をするタイミングを窺って受注しなくてはならない。

 必然的に、人事担当者とは長い付き合いになる。今日も、これから得意先に資料を届けに回らなければならない。桜の下の特等席に腰掛けた私は、手帳を開いて今日のスケジュールをチェックする。

 今日のアポイントは五件。日頃から、電話の数の割にはなかなかアポイントが入らない私にしては充実した一日だ。もっとも、明日以降の空白が目立つスケジュールには目を伏せておくとして。

 自動車のサンバイザーを作っている部品メーカーが九時、かまぼこの製造メーカーが十一時、この地域では知名度の高い人材派遣会社が十三時、システム開発関連のメーカーが十五時、最後は配管工事業者が十八時半。

 それにしても、と、ほぼ二時間おきに並んだ企業名を眺めて私は改めて思う。世の中には、いろんな仕事があるんだな、と。そして、ふとお兄ちゃんのことを思い出す。お兄ちゃんは、今、どこにいるんだろう?

 手帳から顔を上げて、眼下に広がる街並を眺める。

 お兄ちゃんのことを思うと、無意識にこうして鳥海山を探してしまう。けれど、視界の中心に聳えているのは、うちの支社が入っている三十階建てのビルだ。製造業と漁業の街にはいささか不似合いなこのビルをこうして遠くから見ると、ふと懐かしさを覚えることがある。それは、小学校の、中学校の、そして高校の帰り道に、夕映えに染まる山並みにひときわ高く聳えていた鳥海山を眺めていた頃の気持によく似ていた。人間は、時代が変わろうが歳をとろうが、何かこう、心の拠り所になるような対象物がなければ安心しない生き物みたいだ。山々に名前をつけるみたいに、自分達で作った高い建物にも名前を付けてこうして遠くから崇拝する。目印というより、崇拝みたいなものだ。

 子供の頃、最初に鳥海山の名前を教えてくれたのはお兄ちゃんだった。

 「お兄ちゃん、なんであの山だけ違う形してるんだ?」

 「鳥海山はなあ、日本で一番高けえ山なんだど」

 「えっ、日本で一番?」

 「んだ。神様っていうのは、あのてっぺんさいるんだど」

 日本一の山は富士山だと知ってからも、私は心のどこかではやっぱり鳥海山が日本一の山だと信じていた。富士山のような猛々しさとは対照的に、どこか女性的な、白鳥のように凛とした佇まいをたたえる鳥海山。まるでスポットライトで照らされてでもいるかのように澄み切った日の光が降り注ぎ、山頂の残雪が空の青に映える。その眩いまでの神々しさが今でも瞼の裏に焼きついている。

 東京にいた頃は、晴れた日には富士山がよく見えたものだったけれど、この街では、同じ県内だというのに富士山の姿を探すのは難しい。鳥海山も富士山も見えない風景の中で、人々を導いているのはあのタワーなのかもしれない。お兄ちゃんは、見つけただろうか?お兄ちゃんにとっての新しい鳥海山を。

 ふあーあ。

 あまりに陽気が気持よくて、ちょっとのつもりでベンチに寝転んだら大きな欠伸が出た。

 眠い。ここにくると、何か大きなものに守られているような気分になって、その安心感につい緊張感が解けてしまってうとうとしてしまう。

 昨日は、三社分の原稿を入稿した。今週に入ってから寝不足が続いていたせいなのか、どっと疲れが肩にのしかかってきた。

 鼻腔をくすぐる生温かい風に一つくしゃみをすると、私は思い切り背伸びをして空を見上げた。あわあわとした空に、ピンク色の霞みがかかっているような気がした。気配はいつもこの季節にやってくる。土の中で息を潜めていた生き物達がもぞもぞと目覚めはじめ、少しずつエネルギーを蓄えた桜が、蕾を膨らませる季節。

 はやく桜、咲かないかな。ふとそう呟いた自分に驚き、苦笑する。かつての自分は、桜が恨めしかった。桜が咲かなければ、春なんてこないのに。春がくるから、人は新しい世界へ飛び立とうとする。人をむやみに急かす、春が、桜が大嫌いだった。春さえこなければ。そう思って縮こまっていた自分が、桜の開花を望むようになるなんて。

 五分だけ…。

 春を告げる鳥のさえずりを子守唄に、私はそっと目を閉じた。


【出会い 隼人】

 俺は、しゃもりの外に出て、現世の空気に自分のカラダを接触させて彼女を待った。 俺が存在している空間は、現世とあの世の境界になっていて、その一部分の空気の分子だけが活性化している。言ってみれば、プラズマのような現象だ。上空に雷でも発生すれば、俺の姿は青白く浮かび上がって人間の目にも見えるだろう。そうでもしない限り、俺たちの姿は人間には見えないはずだ。

 それでも、むやみ地上世界をうろうろすることは禁止されている。何も知らない人間達が俺たちの体にぶつかってそのまま時間のひずみに放り込まれたりすると厄介だからだ。  

 だから、この目線の高さから世界を見ること自体が久しぶりだった。死んで以来ずっと、いつも高い場所から地上を眺めていたせいか、目線の低い世界はなんだかリアルで新鮮だった。俺は幾分高揚していた。五感を持たない俺のカラダは、大地を踏みしめることも風を感じることもできないはずなのに、風が運ぶほのかな春の匂いまで感じることができた。 

 さて、どうやって彼女とお近づきになるか。

 俺はゆっくりと、神社の敷地内にあるベンチの背もたれによりかかって眠る彼女に近づいていった。当然、俺が歩いても、砂利を踏みしめる足音も聞こえない。空気中の分子を操ることくらいしかできない俺は、お近づきになるといっても声を出すことくらいしかできない。

 彼女は、よほど疲れているのか、傍から見ても熟睡に近い眠り方だった。身体からどんどん力が抜けていっているのが見て取れる。こんな人けのない屋外で、その眠り方はあまりに無防備だった。変なヤツに襲われたらどうするつもりなんだろうと心配にすらなったが、その潔さがかえって好ましく思えた。夢でも見ているのか、なにやらむにゃむにゃと口を動かしては笑っている。

 「地震だ!地震だ!」

 大げさに叫んで、彼女が横になっていたベンチを空気の振動で思い切り揺すった。

 飛び上がるような勢いで起き上がった彼女は、「えっ!?うそっ!どこにっ?!」と半分寝ぼけたようなことを叫びながら、枕代わりにしていたバッグで頭をかばい、脅えるような顔で辺りを見回した。ちょっと驚かすつもりが、彼女の予想以上のリアクションに、俺は思わずふきだしてしまった。

 「…地震がどこに?って、普通、言わないんじゃないのか?」

 「は?」

 気持ちよく眠っていたところを突然起こされてまだ意識がしっかりと覚醒していないのか、何が起こったのか分からないというように目をしばたかせながら、彼女は振り返った。

 カア、カア。俺たちを馬鹿にするようなカラスの鳴き声が、日が傾いた境内に響く。

 「嘘だよ、嘘。地震なんてどこにもない」

 「はぁ…」

 呆けたように、上目遣いで俺をまじまじと見る。

 それは、生身の人間と一年ぶりに目が合った瞬間だった。黒目勝ちのビー球みたいな瞳の奥に、確かに光が灯っているのを俺は感じた。その光を捉えた瞬間、俺と彼女の魂の明滅が重なり合って共振を始めた。魂と魂とがお互いの光を認め合って強めあう瞬間。その一体感が奇妙に心地よくて、俺はそのまま目をそらせなくなった。目が合う、っていうのはこういうことだったのか。生きているときには気づかなかった。

 「あの…。…何か用ですか?」

 彼女は、訝しがるように眉をひそめた。その時になって俺は気づいた。彼女には、俺の姿が見えているのだ。

 久しぶりに自分を認めてもらえたようで、小躍りしたいような気分になった。しかし、彼女のほうからすれば、寝ているところをいきなり見知らぬ男に起こされたのだから、不審がるのも無理はない。

 格子越しに見ているだけだった彼女が、手で触れられそうなほど近くにいる。魂の色や年輪から読取ると彼女の年齢は二十六歳のはずだったが、その顔の小ささと軟らかそうな頬の輪郭が彼女を歳よりも幼くみせていた。あどけなさを残す小動物みたいな目、そして小造りの鼻を見ていると、つい、からかいたくなってしまう。

 「和賀鄙子?」

 「えっ!なんで私の名前を知ってるんですか!?」

 丸い目をさらに丸く見開いて、彼女は後ずさりする。俺は、得意げに続ける。

 「生年月日は、1982年1月31日」

 元旦に彼女が書いた絵馬から読取れる彼女に関する情報は、ここまでだ。

 「ええっ!な…なんなんですかぁ!?」

 彼女はバッグを胸に抱きかかえたまま、ずりずりと俺から離れていく。

 「あっ、もしかして!寝てる間に、財布を抜き取ったんでしょう」

 彼女は、慌てた様子でバッグの中身をまさぐり、財布らしきものを取り出し中身を確認すると安心したように息をついた。そして、上目遣いで俺を睨んだ。童顔ながらも、凛とした眉が意思の強さを感じさせる。

 「免許証、見たんですか?」

 「そんなこと、してないよ」

 「嘘。じゃあ、なんで私の名前とか生年月日とか知ってるんですか?私はあなたのことを知らないのに」

 一見、頼りないようにも見えるけれど、彼女は意外と気が強くて勇敢な女なのかもしれない。俺に食って掛かってくる目つきには、怖さはないものの有無を言わせぬ迫力があって、俺はちょっとびびってしまった。人間として生きていた頃から、女との喧嘩にはかなわないのだ。こういう局面になった場合は、とにかく女の機嫌を取ろうと平謝りだ。神様になったからといって、そういう部分は変わらないものらしい。

 「ごめん。驚かせて。悪気はないんだよ、ほんとに」

 誤解を解こうと、俺はさっきまでの偉そうな態度を改めて低姿勢で歩み寄った。

 この人、相当怪しい。彼女の目が、そう言っていた。彼女は、俺を睨みつけたまま少しずつ後ろに下がり、立ち止まった。そして、どうしようかと思考を巡らせるような顔をした後、くるりと身を翻して走り出した。

 「待って!」

 俺は夢中で叫んでいた。彼女は立ち止まらずに神社の門に向かって猛ダッシュする。ここで逃げられるわけにはいかない。最初の信頼関係をうまく築けなければ、後々仕事がやりにくくなる。ガードの固そうな女に心を開いてもらうためには、誠実と正直をアピールするのがコツ…とかなんとか、いつかのテレビ番組で誰かが言っていたっけ?ダメで元々だ。生きている頃のあやふやな記憶が甦り、俺は咄嗟に叫んでいた。

 「俺はっ、君の願いごとを叶えるためにきたんだっ!」

 言ってから、しまった、と思った。こんなことを言われたら、誰がどう聞いても頭がおかしい奴としか思われない。けれど、彼女が、はたと立ち止まる。

お、正直作戦成功か?彼女の後ろ姿に向かって、振り向け、振り向けと念じていると、彼女はわけがわからないという顔で、振り向いた。

 「ネガイゴト?」

 あからさまに、こいつ、頭おかしいんじゃないの?と、胡散臭いものを見るような顔をしている。落ち着け、落ち着け。威厳を保て。俺は大きく息を吸い込んだ。…ような気になった。

 「そうだよ。君は、毎日ここに通ってるだろ?なんか叶えて欲しい願いごとがあるんじゃないの?」

 「…」

 大きく目を見開いてまじまじと俺を見た後、隠していた気持を言い当てられたように、きまり悪そうに彼女は俯く。

 「なんであなたが、そんなこと…」

 半分、つっかかるように、けれども消え入りそうな声で呟くように彼女は言った。まるで、悪事を見破られた子供みたいだ。

 やっぱり、彼女にも何か叶えて欲しい願いごとがあるのだ。彼女の様子を見て、俺は確信した。願い事のない人間なんて、いるはずない。けれどもそれは、いつもみたいに俺をいらつかせはしなかった。それは単に、毎日ここに足を運んでいた彼女が俺にとって気になる存在だったせいなのか、それとも、彼女が欲深さを感じさせない何かを持っていたからなのか。

 その時俺は、損得勘定なしに彼女の願いを叶えてあげたいと思った。神様に祈る彼女を、愚かだとは思えなかった。

 「俺が、その願いごとを叶えてやるよ」

 思わず、さらりと言葉が出てきた。彼女は、ぽかんとした顔をしている。彼女に向かって近づいているのに、俺の足音は聞こえない。砂利を踏みしめる感覚も、とうに忘れてしまった。辺りには、木々の葉をくすぐってすり抜ける風の音しか聞こえない。時折、遠くを走る電車の音、近くを走る環状線の車の音がかすかに混じっているだけだ。俺に気配や熱がないことを、彼女は気づいているだろうか?

 「あなたは…?」

 眩しそうに目をこらして、彼女はじっと俺を見ていた。力を込めると魂の光量が増すから、虚像とはいえ俺の外見もいくらか光って見えるのだろう。

 「私の先祖だ、とか言うつもり?」

 彼女は、再び後ずさりしながら顔を引きつらせる。

 「俺は…」

 彼女と目を合わせたまま、俺も一歩彼女に近づく。彼女の中の波と重なり合う感覚が、ぞくぞくするほど気持がいい。俺は再び、目をそらせなくなる。彼女もまた、挑むような目で俺を見つめる。

 「神様なんだ」

 きまった!とガッツポーズをとりたくなるくらいきっぱりと俺は言い、お互いの動きがぴたりと静止した。

 「だから…」

 俺が言い掛けて、彼女に歩み寄ろうとした次の瞬間、彼女は思い切り顔を歪ませて俺に向かって思い切りバッグを振りかざした。

 …当然のことながら、彼女は身体ごと見事に俺の身体をすり抜けて、その場に勢いよく転倒してしまったのだった。


 「だって、普通、信じないでしょ。いきなり、神様だなんて言われたって。しかも、こんなフツーの格好してたらさ」

 日が傾いて、青い空が押し上げられるように地平線が赤く染まり始めていた。春先とはいえ、夕方の風はまだ冬の冷たさを残している。寒さで赤くなった鼻が、鄙をさらに幼く見せていた。ベンチに座った鄙は、並んで腰掛けた俺の頭のてっぺんから足の先までまじまじと見ながら、俺の身体に触れようとしては自分の手がすり抜けていくのを面白がっているようだった。最初は、何度言っても半信半疑で、釈然としない様子で目を白黒させて俺を見ていた彼女だったが、俺が死んでからの生活や神様の世界の仕組み、俺が彼女の前に現われた理由なんかを話して聞かせると、彼女は声を出して笑うようになった。

 「遊んでんじゃねえよ」

 わざと不機嫌を装う俺って、まだまだガキだな。これじゃあ、照れて女の子とまともに口がきけない小学生と一緒じゃないか?俺は苦笑する。こうして生身の女と話すのは久しぶりで、なんだかこそばゆいのだ。

 そういえば生きている頃から、俺は女友達と話すのが苦手だった。女ってのは、どうでもいいことで笑ったり、よくわからない理由で泣いたり、俺にとっては理解できない生き物だった。それはたぶん、今でも変わらないだろう。

 「前から不思議だったんだあ。ねえ、この身体、実像じゃないなら、何なの?幽霊って、どういう仕組みになってんだろうって興味あったんだよねー」

 「幽霊、って言うな!幽霊、って」

 「じゃあさ、どうしてないはずの体が目に見えるの?」

 「…うーん。まあ、分かり易く言えば雷みたいなものだよ」

 「雷?」

 「雷ってさ、地上で暮らしてるとめったに起こらないようなイメージだけどさ、実は地球上で毎日すごい数だけ発生してるんだよ」

 「へー」

 「あれってさ、空気がプラスとマイナスに電離して、本当は電気を流さないはずの空気が電気を流すようになるから発生するんだよ」

 「そうなんだ?」

 「言ってみれば、俺らもそれと同じでさ。俺たちみたいに肉体から独立した魂が存在する場所っていうのは空気が軽く電離してるような状態なんだよ。うーん、電気が流れてるわけじゃないからちょっと違うんだけど…まあ、空気が現実世界とあの世の世界の境界に接するわけだから、そこだけ空気の組成が緩むような感じなんだよね」

 「へー、そうなんだ。知らなかったぁ。霊とかそういう不思議現象も、ちゃんとした自然現象なんだねえ」

だから、霊って言うなってさっき言っただろ。と俺は軽く鄙の頭を小突く。

 「普通は、生きてる人間の目には見えないはずなんだけどなあ。なんで鄙には俺が見えるんだろう?」

 「えっ。やだ。変なこと言わないでよー。まるで、私、死期が近い人みたいじゃない?」

 近くで雷が発生するとUFOや火の玉の目撃情報が増えるという話を聞いたことがある。あの現象と同じで、空気の状態が不安定になることが人間の脳に影響を及ぼすのかもしれない。

 「神様なんだから、白い着物とか着ればいいのに。そのほうが説得力あるんじゃない?顔も普通の人と変わらないしさー」

 そういって、鄙はけたけたと笑った。あれほど警戒されて、正直この先どうなるんだろうと不安にもなったが、数十分も経つと彼女はすっかり打ち解けた雰囲気でため語を使うようになった。思ったよりも、物怖じしない性格らしい彼女とのやりとりは、居心地がいい。彼女は、たとえ初対面の人間でも、相手を緊張させないやわらかさをまとっている。

 「やっぱり…」

 「え?」

 「いや、やっぱり、そういうイメージなんだろうなあと思ってさ。俺も生きてた頃は、神様って白い着物を着て、金の杖とか持ってて、金色の光に包まれてて…とか、そういうもんだと思ってたからさ」

 「ははは。それって、キリストの影響受けすぎじゃない?…まあ、でも、大抵の人間はそうなんじゃないの?特に日本人なんてさ、無宗教の人多いし。怪しい宗教に入ってる人も多いしさ。さっき、そういう変な宗教の人かと思っちゃったよー」

 苦笑しながらも、それも無理もないと思った。改めて考えてみると、俺の近づき方は怪し過ぎた。いきなり現われて神様だなんて言われても、普通の人は信じないだろう。鄙が言うように、新興宗教の勧誘か、ちょっと頭のイカレタ危ないヤツだと思われるのがオチだ。

 本当は、俺の正体を明かさずに近づくこともできた。けれど、彼女には本当の俺の姿で向き合うべきだと思った。この子には、人にそう感じさせる真っ直ぐさがある。直感的に、そう感じたのだ。

 「それにさ、神様なんていないんだって思ってる人のほうが多いくらいなんじゃないの?神様に祈ったって、運の悪い人は一生パッとしないままだし。神に祈ったりしなくても、運に恵まれた人は一生成功し続けるものじゃない?災害だって、無差別にくるしさあ。神様って、人を選んでるわけ?」

 「まあ…選んでるといえば選んでるかな。災害とかは、俺たちの力でどうこうできることじゃないし。ま、今回に関して言えば、俺は君を選んだんだけど」

 言ってから、なんだか照れ臭くなって、俺は宙に視線を泳がせた。

 「へえ!じゃあ、私はラッキーガールってことだ」

 鄙は、嬉しそうに足をばたつかせる。いちいちリアクションが大きく、喜怒哀楽がはっきりしているらしい彼女は、見ていて面白い。

 案外、すんなりと受け入れてもらえたし、あとは願い事を聞き出してさっさと仕事を片付けるだけだ。せっかく久しぶりの地上だっていうのに、あっけなく終わるのもなんだか拍子抜けだなあ、なんて俺はすっかり緩みきっていた。ふと、電源が落ちる瞬間のパソコンのように、しゅるしゅると彼女のテンションが落ちていった。

 「でも、私、願い事なんかないよ」

 今度は急に力なく呟くように言った。

 「え?」

 「この神社に来てるのは、別に願い事があるからってわけじゃないんだよね…。ただの休憩だよ。ここなら人もいなし、一人でゆっくりできる場所なんだよ」

 「…そうなの?でも、毎日賽銭入れて手を合わせてたろ。そんなやつ、他には一人もいない」

 「やだなー。ずっと見てたんだ。なんか、やらしい」

 「やらしい、ってなんだよ。やらしい、って。俺はこれでも一応、神様なんだからな」

 「それはそれは大変失礼しましたー」

 こういうやりとりの一つ一つが、いちいち新鮮だった。

 舌を突き出してあっかんべーをしてみせてから、彼女はふと真面目な顔に戻って言った。

 「いつもお昼寝させてもらってるし、賽銭くらい払わなくちゃ罰が当たるよなあって思ってただけなんだよ。本当に。だからさ、私じゃなくて他の人の願い事を叶えてあげてよ。せっかくだけど…」

 それは困る。絶対困る。俺の神様としての初仕事はもう、彼女に決めたのだ。

 「それは困るんだよ。もう、君には俺の正体を知られちゃったわけだしさ。知ったからには、願いごとを一つ決めてもらわないとさ」

 「そうなの?」

 俺は、事情をかいつまんで説明した。

 「へー。神様の世界にも、そんなノルマみたいなものがあるんだ。そうなんだー。いつでもいい、誰でも良い、ってわけじゃないんだね。なんだか、神様の世界も大変そう…」

 「そうだよ。死んだからって、楽になれるわけじゃないんだよ。神様なんて、ボーっとしてる時間もほとんどないしさ。二十四時間稼動だぜ」

 「じゃあさ、私、この一ヶ月で願い事を考えてみるよ。せっかくきてくれたんだもんね。神様に選んでもらえるなんて、なんか嬉しいし」

 きてよかった。彼女の笑顔につられて俺まで顔が綻んでしまう。彼女の笑顔は、そんな力を持っていた。

 やれやれ、楽勝のはずが思ったよりも長期戦になりそうだ。

けれど、その時俺は、久しぶりの地上での生活にわくわくしてもいたのだった。


【5 突然やってきた神様 鄙子】

 彼が現われたときは、まだ半分夢を見ているのかと思った。

 頭の芯が痺れているみたいにくらくらして、自分の視界が定まらないような感じがした。そのせいか彼の輪郭が朧月みたいにぼうっとしてみえて、私は何度も瞬きをした。

 横になっていたベンチから起き上がって、彼と目が合った時の彼の表情をよく覚えている。なんだか、まるで幽霊でも見るように不思議そうな顔で私を見ていた。その彼の目には不思議な光が宿っていて、私は思わずその光に見とれていた。

 だから、信じてしまったのかもしれない。神様、だなんて。

 もちろん、手で触れられる身体を持たない彼が普通の人間でないことは明らかだった。身体を持たないその虚像が、私に向かって笑ったり話し掛けたりしていること自体、やっぱり私は夢を見ているんじゃないかと何度も何度も自分の肌をつねってもみた。

 けれど、彼は、その輪郭がちらちらと不安定に歪みながらも、確かに私の目の前にいて私と会話をしている。

 神様、だって。まるで、手の込んだ冗談みたいだ。神様、という単語を舌の上で転がしているうち、思わず笑えてさえくる。けれど、仔犬のような、屈託のない無防備な顔をして、「願い事を叶えてやる。」なんて真顔で言う彼を見たら、きっとほとんどの人間は信じてしまうんじゃないだろうか?

 キリストや釈迦のようなオーラも威厳も感じられないけれど、私みたいな普通の人間を救ってくれるのはきっと彼みたいな神様なんだろうと。思わず、彼に何かを託したくなる。彼にはそういう独特の雰囲気があった。


【6 時代は変わる 隼人】

 「ところで、君、仕事は何やってんの?」

 「営業。広告の」

 ぴんと糊のきいたスーツを身につけてはいるものの、一見したところ彼女には、バリバリのキャリアウーマンを彷彿とさせるような鋭さや派手さは感じられない。とはいえ、営業というだけあって反射的にそうしてしまうのかすかさず名刺入れを取り出し、慣れた手つきで名刺を差し出した。

 手渡された名刺を見ると、俺でもよく見知っているロゴが印刷されていた。大学新卒者や転職者向けの求人広告や、無料のタウン情報誌を作っている企業だ。俺が就職活動をしていた時も、ここが運営しているWEBサイトを活用していた覚えがある。学生のほとんどは、こういったネット上のサイトを使って就職活動をしているはずだ。

 この会社が発行しているフリーペーパーは町中のいたるところで見かけたし、テレビCMもしょっちゅう放映されていたものだ。おそらく、あの会社の勢いは一年経った今でも衰えてはいないだろう。

 「へえ。大手企業じゃん?内定もらうの、難しかったんじゃないの?」

 「ははは、まあね。」

 彼女は、謙遜するでもなく、得意げに鼻にかけるでもなく、受け流すようにさらりと笑う。けれど、大手の企業に入るにはそれなりの努力と意思が必要だ。面接官を納得させるような動機と、面接官を魅了するような自己PR。俺の就職活動が遅々として進まなかったのは、その動機と自己PRがうまくまとまらなかったからだ。少なくとも彼女は、自分でこの会社を選んだ動機と、十分に魅力が伝わる自己PRがあったからこの会社に入社できたのだろう。

 「なんで、この会社選んだの?」

 具体的な夢も目標もなく就職活動をしていた最中に死んだ俺としては、自分以外の連中は一体どうやって数多の企業の中から一社を選ぶものなのだろうということに興味があった。

 「えー?なんか面接みたいだね。願いごとを叶えるには、そういう情報も必要なわけ?」

 「いや、別にそういうわけじゃないけど。個人的な興味だよ。俺は、二十一歳で死んでるからさ。もちろん就職したこともないし、就職活動も途中だったから。」

 「そっか。だから、死んでから頑張ってるってことかぁ。人生って、死んだ後にもチャンスがあるんだね。」

 感心したように笑い、それから考え込むように俯くと、ハイヒールの踵でリズムをとりはじめた。この仕草は、社の中からも何度か見たことがあった。考え事をする時の、彼女の癖なのかもしれない。

 「この会社に入ったきっかけねえ…。もともと、広告を作りたいって気持が強かったからなのかな。今もそうなんだけど、特に子供の頃とか、ほんの一瞬のテレビCMとかほんの一行の雑誌の広告とかのちょっとしたワンフレーズがさ、なんか心のすごい深いところまで突き刺さってきた、っていう経験ってない?」

 「フレーズが耳に残って離れない、とかはいっぱいあったけど。何のCMだったかっていう内容までは覚えてない」

 「私はね、そういうのって、神様みたいだよなあってずっと思ってて。だって、顔も知らない人の心を、たった一言でえぐっちゃうなんてすごいよ。そのワンフレーズで、ものの価値観とか人生観とか変わっちゃうことだってあるでしょ。それってあるいみ神わざだと思わない?」

 「…それってさ、なんかよく町の外れたところにある電柱とかに貼ってある“天はすぐ近くにあります”とか怪しいポスターみたいなもの?」

 「真面目に話してるんだよ!」

鄙は、子供みたいに頬を膨らませて俺に手を上げたが、またしても空振った。悔しそうな表情にも見え、反面、楽しんでいるようにも見える。

 「お寺とか教会の前に貼ってある紙なんて、どんなにいいことが書いてあったって、普通の生活を送っている人はどこか胡散臭いと思って見ちゃうでしょ?でも、広告は、なんの先入観もなくさらって人の心に入ってくるものじゃない。だから、広告の仕事がしてみたかったの、ずっと。誰かの人生を動かせる影響力っていうのに、魅力を感じたんだよ」

 誰かの人生を動かせる影響力。その言葉が、俺の中でリフレインする。これから俺が続けていく神様という仕事もまた、誰かの人生に影響を与える仕事なのだ。そう思うと、急に自分のカラダが重くなったように感じた。

 「あとは、求人って言葉のニュアンスかな」

 「キュウジン?」

 「そう。人を求める。求人広告ってさ、結局は企業が良い人材を確保するために自分の会社のアピールをする手段みたいなものなんだけどさ、なんだか人探しをしているみたいでスリルがあるんだよね」

 鄙は、求人広告の中でも、新卒学生向けのサイトではなく転職者向けの企業情報を掲載するサイトを担当しているらしい。転職、と言われても、就職すら経験したことのない俺にはいまひとつ実感が湧かなかった。

 「ああ。そうだよね、隼人が就職活動してた頃って、景気悪くて就職が難しかった頃だ?」

 どうだっただろう?景気は、すでに上向いてきた時期だったと思う。けれど、俺のエントリーシートはなかなか選考の網を通り抜けられずにいた。まあ、熱意とか努力とかいうものが欠けていた俺には当然の結果だったのかもしれないけれど。

 働くこと=自己実現、みたいな図式は、一体誰が作ったんだ?なんで就職活動に自己分析が必要なわけ?そういう全てに反抗するかのように、おそらく俺は、就職活動から少しずつ遠ざかっていっただろう。どいつもこいつも、強迫観念にとりつかれている。当時の俺にはそう見えていた。

「最近はね、団塊世代のおっさんたちが一斉に定年退職を迎えたってこともあってさ。企業のほうでも、優秀な若い人材を採用しておきたいっていう考えがあるわけよ。だから、求職者よりも求人数のほうが多くなってたんだけど、この不況でね。この先はまた就職の厳しい時代になるんじゃないかな」

 あの世もこの世も、若手不足っていうわけだ。身体もないくせに、疲れただの仕事がキツイだのといつもぼやいているじいちゃんを思い出して、俺は苦笑する。

 団塊の世代。生きていれば、父ちゃんももう退職する歳だったのか。果たして父ちゃんは、定年を迎えるまであの冴えない日々を続けるつもりだったのだろうか?父ちゃんの口から「転職」なんて言葉を聞いたこともなかったから、きっとそうだったのだろう。だとしたら、父ちゃんは死んで正解だった。今の父ちゃんの方が、ずっと生き生きしている。

 「たぶんね、隼人が生きていた頃から少しずつ転職市場が活発になってきてたんじゃなかったかなあ。転職、って言葉自体のイメージがここまでポジティブになったのもここ最近だと思うしさ。あれだよ、今なんて、都内の電車なんか乗ったら、転職と派遣と携帯電話の広告競争だよ」

 そうか。仕事もとっかえひっかえできる時代なんだ。生きていたら、俺みたいなやつは何度も何度も転職を繰り返していたかもしれないよな。そういう時代なら、それはそれでよかったかもしれないな。俺は他人事のようにそう思った。

 「結局、人生なんて、いつも何かを探してるようなもんじゃない。人とか仕事とかお金

とか、幸せ?とか」


【7 私は幸せ? 鄙子】

 「幸せ」という言葉を何気なく使ってから、「幸せ?」と頭の中で思わず反芻していた。

 私は、一体何を探して生きているのだろう?どうなることが幸せか、なんて、訊かれてすぐに答えられる人がこの世にどのくらいいるだろう?

 少なくとも、二十六にもなって彼氏の一人もおらず、仕事でも怒られてばかりいる今の自分は、「幸せ」だと胸を張って言うには抵抗があった。

 今朝の上司とのやりとりを思い出すと、半日かけておさまった胸のむかむかがまたぶり返してくる。

 「お前、なんでコンビニなんかに商談に行ったんだ?受注できるわけねえだろ」

 「でも…電話では人が足りない、いい人が欲しい、って言ってたので…」

 「そんなところに電話するなよ。そんなスカアポに行くくらいなら、デカイ会社に飛び込みでもしたほうが効率がいいだろうが」

 「はあ…。でも…」

 上司は、私の言葉を遮って続けた。

「いいか、よく聞け。コンビニの店員なんて、誰がやっても同じなんだよ。欲しいものがある奴は店員の愛想が悪くたってコンビニに行ってものを買うし、用が無い奴は行かない。コンビニの店員の能力でコンビニの質が変わるわけじゃねえんだよ。だけど、メーカーは違うだろ?設計者の能力一つで、会社のレベルが上がったりも下がったりもする。だから、メーカーは人の採用を重要視するんだよ。採用資金に何百万も投資するのは、誰でもできる仕事じゃねえからなんだよ。エンジニアってのは、誰でもいいわけじゃないんだ」

 誰でもいい仕事なんてあるんだろうか?そう思った時、自然に、近所のコンビニ店員の顔が脳裏に浮かんだ。

 確かに、設計とか開発とか、専門的な技術を要する仕事にはそれなりの知識や経験やスキルが必要だろう。優秀な人材が入れば、それだけ新製品も開発できるし会社の売上もあがる。企業は、金を積んでも優秀な人材を取りたがるはずだ。

 じゃあ、コンビニの店員は?

 結局、世間一般の人にとって近い場所にいるのは、コンビニ店員のほうではないのかと私は思う。人々は毎日車に乗るけれど、その車のエンジンの設計をした人がどんな人なのだろうなんて考えもしない。それどころか、パーツの一つ一つが別々の会社で設計されたり製造されたりしているなんて知らないのかもしれない。

 けれど、憂鬱な朝、疲労困憊の夜、どんな店員がコンビニで商品を手渡してくれるかは重要な問題だ。もしかしたら、その人の1日の機嫌を左右するかもしれないのだ。

 朝のコンビニがいい例だ。あーあ、今日も1日が始まっちゃった、早く帰りたいな。早く寝たいな。そう思いながらレジの前に並んでいると、「おはようございます!」という店員の元気な声にはっとさせられることがある。そりゃあ、接客態度もなっていなくて、愛想の悪くて、「もう二度と来ないよ!」と毒づきたいような気分にさせられる店員もたくさんいるけれど、中には、そんな風にエネルギーを分けてくれる店員もいる。声の張りや気遣い、笑顔。彼女達は、別にカウンセラーでも医者でもないけれど、彼女達に元気をもらっている人ってきっとたくさんいるんじゃないだろうか?おおげさかもしれないけれど、毎朝、この笑顔に生きる張りをもらっている人はきっといる。あの笑顔に、あの若さに救われている人がどれだけいるのだろう?なにも、遠く離れている不特定多数の人々に影響を与えることだけが偉大なことではないのだ。近くの人々を幸せにすることもできないくせに外ばかり見ていても。

 だから、と私は思う。どんな仕事だってバカにはできない。

 この仕事を始めてから、私はことさらに感じるようになった。テレビに出てるから、とか、名前が知られているから、とか、賞をもらったから、とか。そりゃあ誰だって、有名にはなりたいし、人に羨まれるような、カッコイイと言われる職業に就きたいし、お金はたくさん欲しいし、でも自分の時間も欲しい。でも、概して、カッコイイ仕事はハードだし、名前が知られればそれなりのリスクもある。人はみんな、妥協点を見つけて仕事を決めるんだ。

 人は、何を見て人を判断するのだろう?

 これは、屁理屈だろうか?業績が伴わない限り、何を言っても理想論だと切り返されてしまう。

 この会社に入ってから、私には「でも」が増えた。私はずっと、自分は素直な人間だと思って生きてきたのに。思っていたよりも私は頑固で我が強いわからず屋みたいだ。

 人間、働いてみないと本質がわからない、だから男も就職してみないとわからないと言っていたばあちゃんを思い出す。

 仕事なんて、結局何をやっても大変なことには変わりない。


 どんなに落ち込んだときでも、この神社に来るとなんだか気持が落ち着く。いつも、「私、もういっぱいいっぱいだ」と思って気が付くと、私の足は自然に神社に向かっているのだ。

 けれど、まさか自分の前に神様が現われるとは予想もしていなかった。この、ちょっと頼りなさそうな神様と一緒にいれば、私の毎日ももっと面白くなるかもしれない。そう思うと、自分にもツキが回ってきたような気がして顔が綻んでしまう。

 くだんの神様は、私のボディーガードさながらに私の隣をふわふわと漂いながら自転車で走る私にしっかりとついてきている。ジーンズにTシャツ、その上に薄いコートというその格好は、どう見ても神様には見えない。けれど、カラダの仕組みをみる限りでは、やはり普通の人間ではないことだけは明らかだった。こうして自分の隣に、その気配を感じているだけで、なぜか私は奇妙な安心感を覚えるのだった。


【8 】

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