■非共感 ~ Jabberwock VII
「どうかな? これで少しは緊張感が増したんじゃないかな?」
横たわる少女の死体と、血を浴びて真っ赤になったミイナという子。そして流山海美の言葉に有里朱は震えていた。それは恐怖からじゃない。彼女が初めて感じた他人を許せないという衝動だ。
あの松戸美園にさえ寛容になろうとした有里朱が本気で怒っている。
「あの子に命令したのはあなた?」
だけど、それを有里朱はさらけ出さない。勝つためには自己の感情のコントロールが必要だ。今の彼女にはミスは許されない。それは自分だけでなく、かなめの命もかかっているからだろう。
「そうだよ」
「他人の命を弄んで楽しい? あの子はあなたを恨みながら死んでいったのよ」
「さあね。ボクは心から楽しいと思った事はないんだ。それにボクはね、他人の心がわからないんだよ。理解は出来るけど共感はできない」
「そうね。わたしも、あなたの心がわからないという点には共感するわ」
「さて、もういいだろう? ゲームを始めるよ。キミたちにはあの檻の中で殺し合ってもらう」
檻の中に入れば助かる確率が急激に下がってしまう。その前に最後の時間稼ぎを行わなければならない。形勢を逆転するチャンスを失うことだけは避けるべきだった。
「待って、きちんとルールを教えて。ゲームをするならフェアにやりたいわ。それとも、檻の中に入ってから後付けのルールをいくつもつけて、ただの茶番劇にしたいわけ? あなたは純粋にわたしがどう行動するのか見たいんじゃないの?」
有里朱の問いかけに流山海美は口元をやや緩める。
「ルールは簡単だよ。檻の中に若葉かなめと二人で入って殺し合うだけ。中には人を殺すための武器やら薬やらが用意されている。相手を想うなら、眠るように死ねる薬を飲ませてやればいい。ただ殺すだけならナイフで刺すのが効率がいいだろう。ただし、いつまでたっても相手を殺せないっていう状況にさせないためにも、時間制限を設けさせてもらうよ」
「どれくらい?」
「六十分だ。これだけあれば、話し合いもできるだろ? ただ、制限時間を過ぎても相手を殺せない場合は、二人とも酷い目に合うよ。そうだな、リョーカの案ではたしか……キミたちの両手両足を切り落とし、飢えた男どもにキミたちの身体を弄んでもらう。その後にキミたちはリョーカとミイナにそれぞれ切り刻まれる」
流山海美の周りの男たちが、一斉に気味の悪い笑いを有里朱たちに向ける。
「……酷い事考えるのね」
「相手を想って殺さないでいると、もっと相手を酷い目に合わせるという『罰ゲーム』のようなものだ」
「罰ゲームなんて軽いもんじゃないでしょ? これは犯罪だよ」
「それがどうした? 法律で人間の行動を完全に縛ることなんてできないんだよ。いじめだって同じじゃないか? 誰もが法律を犯すとわかっていても、いじめという名の下に相手を弄ぶ」
「そうだね。人間は自分の思い通りになる人間を手元に置きたいもの。だからこそ、自分より弱い者を支配したがる」
悲しいけどそれが人間だ。古代に奴隷制を作り出した頃となんら変わらない。
「それが人間の本質だよ」
「あなたもそうなの?」
「そう見えるかい?」
「違うわね。あなたはそういう人間を利用して実験を行いたいだけ」
「そう、ご名答。なんだ、ボクのことをわかっているじゃないか」
「理解はできるけど共感はできない」
「ボクも誰かを大切に想うというキミの気持ちには共感できない。だからこその実験なんだけどね」
そこで流山海美はポケットからスマホを取り出す。何かメッセージが届いたのだろうか。それを一瞥すると、彼女はこう切り出した。
「稲毛七璃は死んだよ。キミに恨み言のようなものを言っていたそうだ。トモダチを切り捨てた感想を聞きたいね」
彼女の質問と同時に、それまで沈黙を保っていたイヤホンマイクから央佳ちゃんの声が聞こえてくる。
――『ナナリセンパイは救出完了。実行犯は拘束済みみたいです。カナメセンパイを救出できたら連絡をください。警察に通報する準備は整っています』
それを聞いた有里朱は目を閉じる。そして、流山海美へこう告げた。
「わたしはみんなを信じてるから」
その言葉を合図とばかりに、部屋を照らしていた照明が次々と消えていく。
消える前にパリンと電球の割れる音がしたので、物理的に何かを投射されて破壊されていったのだろう。エアライフルか何かと思われた。
ライトが消えると、もともと地下で明かりの入らない構造なので、その場は真っ暗闇となる。
だが、事前に目を瞑っていた有里朱は、少しだけ闇に慣れていた。
その中を一人の男が動き回り、脅威となる男たちを次々と倒していく。有里朱は僅かな明かりを頼りにその者へと近づいていった。
「アリス!」
男から渡されたのは、ゴーグル型の暗視装置。
実は有里朱が廃病院の最寄り駅に着いた時点で、師匠である千葉孝義が彼女たちを尾行していたのだ。彼の存在は【J】たちにとっては完全にイレギュラーなものだからな。
有里朱は暗視装置を装着すると、かなめを探す。だが、どこにもいない。注意深く周りを観察すると、有里朱たちが入ってきた入り口とは違う場所に扉があり、そこが開いていた。
「千葉さん。かなめちゃんが連れてかれちゃった」
「ああ、たぶん、あの扉から出たんだろう。行くぞ!」
有里朱は師匠の後についてその扉から階段を上がる。と、すぐにかなめを連れた二人組を見つけた。
かなめは首元にナイフを突きつけられながら流山海美に強引に連れられ、ミイナと呼ばれる子がこちらに気付いて襲いかかってくる。
「ケケケケケ……殺していいんだよね?」
「排除しなさい」
「Aye, Sir!」
有里朱に突きつけられそうになったミイナのナイフを、師匠が腕で弾く。いや、師匠が持っているのは突武器兼防具であるトンファーだった。弾いたのはアレか。
「アリス行け! こいつはボクが相手をするよ」
「うん。千葉さんも気をつけて」
「ああ」
「できれば無傷で確保できるといいんですけど」
自分を殺しにかかってくる相手を、ただ無力化するのがどんなに難しいかを有里朱は理解していた。それでも有里朱は、その子には生きて自分の罪を知って欲しかったのだろう。さらに正当防衛とはいえ、師匠に殺人を犯させるわけにはいかない。
「わかってるって」
師匠がミイナに突っ込んで打撃で牽制をしている間に、その脇を有里朱はすり抜けていく。
少し時間をとられたが、かなめを連れた流山海美にはすぐに追いつくことができた。
彼女は外へ逃げることなく屋上へと上がる。人質を連れたまま外に逃げるのが無理なのはわかっていた。ただでさえ人目に付く。ナイフを持って脅している姿を通報されて終了だ。
それならば、かなめを置いて逃げればいいわけだが、屋上へと逃げた彼女の行動は理解できなかった。
「もう逃げられないよ」
有里朱がそう告げた。
かなめの首元にナイフを突きつけながら、流山海美はじわじわと後退する。
廃墟となった病院のため、屋上の一部の鉄柵は壊れていた。そこからは、地上への落下を防止するための柵はない。
「そうだね。逃げる気はないよ」
屋上の縁のギリギリの所で彼女は止まった。とはいえ、下手に刺激をすると二人とも落ちかねない。
「なぜ、屋上に来たの? 逃げるなら病院の外に行けばいいのに」
「キミとは、もう少しだけ話したかったんだよ」
有里朱にそう告げる流山海美の顔は、とても穏やかに見えた。こんな事件を起こしてなければ、学校で友人同士が語りあうような、そんな表情にも感じる。
「話?」
「ついでにボクの身の上話でも聞くかい? たいした話じゃないが」
「話したいなら話せばいいよ。わたしがあなたに同情すると思ってる?」
「思ってはいないよ。ボクがやってきたことを考えればね。ただ、キミの反応を知りたい。それがボクがここに来た理由だよ」
「聞いてあげる。その代わりかなめちゃんには手出ししないで」
少し視線を逸らし小さく息を吐くと、有里朱は彼女をまっすぐに見つめた。
「ボクは小学校に入るまでずっと家に閉じ込められていた。一部の人間以外、他人とはほとんど関わらなかったと言っていい。けど、人間自体のことは学んでいたよ。姉に何かがあった時に、すぐに替われるようにとね。ボクは姉のスペアだったから」
平成の世も終わりだというのに、時代を逆行した古びた家のしきたりか。だとしたら、やはり有里朱のあの入れ替わりの推理は正しかったのかも知れない
「スペアって……やっぱりあなたは妹の空美さんだったのね」
「そうだよ。だけど、曾祖母が亡くなってボクの環境も変わった。六才になって初めて外の世界に触れたんだ。もちろん、知識はあったから戸惑うこともなかったよ」
何か、これと似た話をどこかで聞いたことがあったな。
「肉親に閉じ込められていたってこと? それって虐待じゃないの?」
「そうだね。その虐待によって、ボクは感情を失った。哲学的ゾンビという言葉を知っているかい? 見かけは普通の人間とまったく変わらない。けど、意識をまったく持たないんだ。すべては自動的、機械的に人間を演じる。だからボクは誰を演じることも可能だ。だが、キミは違う。様々な人格を持つのに、まったく演じていない。一つ一つの人格が強い意志を持っているかのように」
なるほどディビット・チャーマーズの哲学的ゾンビか。
たしか、哲学の思考実験の一つだったはず。けど、そもそも哲学的ゾンビの論法では、自身を哲学的ゾンビだと認識できない。意識がない、感情がないと疑問を抱いた時点で、それはただの人間の妄想なのだ。
「話を聞く限りだと、あなたはチャーマーズのゾンビというよりはジャクソンのメアリーだね」
「メアリー?」
「あれ? 知らないの? フランク・ジャクソンのメアリーの部屋。発音によってはマリーの部屋とも言うかな。これも一種の思考実験だけどね。白黒の部屋で生まれ育ったメアリーは、当然色というものを見たことがない。けど彼女自身は知識として色というものを知っていた。そんな彼女が色のある世界に出た時、彼女は何を学ぶのかって話。知識だけでは到達できない経験、つまりクオリアの存在を……って、ほんとにあなた知らないんだ」
流山海美はぽかんとしている。まるで初めて聞いた話のように。
そうか、さっき思いだしかけたのはこの話か。ここらへんの知識は俺やロリスとの共有で得たものだろう。そこから、有里朱なりの解釈を行っている。
「そんな話、知らない……」
「そうでしょうね。そもそもこの思考実験は、物理主義を否定するためのものなんだから。心がないと思い込んでいる人には認められない知識論法なのよ」
「ボクには感情がないんだ。だから、平気で人を操れるし、酷い事をしても心が痛まない」
流山海美の言葉に綻びが見えてくる。感情がないと言いながら、僅かに感情的な口調が窺える。すでに有里朱は、彼女の根本的な問題に気付いていた。
「メアリーの部屋はね、経験を通して新たなものを学べることを証明するもの。つまり、あなたは新しい世界に触れたときに何かを感じたはずだよ。だからこそ、常識を逸脱してしまった。哲学的ゾンビなら、当たり障りのない人物を演じ続けたはずなのにね」
「ボクは……違う」
言葉だけじゃなく、その表情にも綻びが出る。感情がない人間が、困惑したような顔などしないはずだ。
「あなたの境遇には、たしかに同情の余地はあるかもしれない。けどね、今のあなたの状態には相応しい呼び方があるのよ。知ってる?」
「呼び方?」
「残念ながらあなたは、ただの『中二病』よ。意識がないんじゃなくて、自意識が過剰なだけ。それだけ行動力があって、感情がないとかありえないから」
有里朱は彼女に哀れみの目を向ける。他人を散々操って惨状を引き起こした黒幕が、ただのイキったガキ……つまり中二病だとしたら、こんな滑稽な話はない。
つまり自分を特別なものと思い込んで、周りを巻き込んだだけのこと。無害な勘違いの中二病キャラなら、まだ周りに愛されただろうに。
下手に行動力と策略を練る頭脳があったため、それに寄生しようとする狂人に囲まれて彼女は人としての道を踏み外した。ただ、それだけのこと。
「……ははは、ボクがただの中二病だって?」
「あなたは周りの影響を受けやすかったんだよ。あなたを閉じ込めた肉親や、あなたの味方をしてくれた柏先生。そして、一番影響を受けたのはお友達の青田さんじゃないの? 彼女を実験に使って操ったとあなたは思っているけど……そもそも彼女自身が人を殺めることに快楽を得るタイプだったんでしょ? あなたはそれに引き摺られただけ。わたしとかなめちゃんにさせようとしたゲームだって、企画したのは彼女だと言ってたよね? それって本当はさ、操られていたのは彼女じゃなくて、流山さん本人だったんじゃないの?」
「……そんなはずがない。ボクは……」
明らかに動揺を隠せない流山海美。
その時、階下から上がってきたと思われる小型のドローンが流山海美の視界を遮った。それに気をとられた彼女のナイフを持った右手がわずかに緩む。
「今よ!」
有里朱が叫ぶと同時に、かなめが手を振りほどいてこちらに走ってくる。ドローンは師匠が持ってきたものだろう。そして、その操縦は部室にいる央佳ちゃん。
「あっちゃん!」
「かなめちゃん!」
感動の再会というわけではないが、愛おしそうに抱き合う有里朱とかなめ。
「ごめんね。わたしの友達だったばかりに、こんな酷い事になって……」
「ううん。私はあっちゃんの友達で後悔なんかしてないよ」
左耳のイヤホンマイクからは央佳ちゃんの声が聞こえてくる。
――『こちら央佳です。カナメセンパイの救出は完了しましたか?』
「ええ、通報をお願い」
――『わかりました』
有里朱がそう返答をすると、かなめと抱き合いながら、流山空美の方を見る。彼女はそんな二人の様子をしばらく呆然と見つめると苦々しく笑った。
「ははは……これはやられたな。なるほど、ボクは誰かを利用しようとして、利用されていたというピエロなのか。いや、中二病だったな。たしかにボクは自意識が過剰なのかもしれない」
「終わりだよ。今、警察に通報したって。もう誰も死ぬ必要はないから」
有里朱がそう告げる。これ以上争う必要はないのだからと。
「そうだね。もう誰も演じなくていいんだね? ……お姉ちゃん」
流山海美……いや空美は、誰も居ない中空に向かってそう問いかける。
「待って!」
何かに感づいた有里朱が駆け出す。そして彼女がこちらに向かってこう告げた。
「さよなら」
流山空美はそのまま屋上から飛び降りる気だ。
「ダメ!!!!」
駆け出した有里朱は自分も落ちるような勢いで、彼女の腕を掴む。だが、その重量で上半身は屋上の外に出てしまっている。ずるずると、引き摺られて有里朱も落ちる寸前であった。
「あっちゃん!」
だが、その有里朱の下半身をかなめが引っ張る。それでなんとか落下は免れた。
「ボクを助けるのかい? ボクのせいで大勢の者が不幸になった。取り返しの付かない人生を送る者もいれば、ボクの命令で殺された者もいる」
「それでも、あなたを死なせるわけにはいかない」
「なぜだ? ボクが死んだ方がいいとは思わないのか?」
「助けるんじゃない。あなたを逃がさないだけ」
「逃がさない?」
「死は逃避だよ。わたしは一年前、いじめられて居場所がなくて、それで死を選ぼうとした。なぜだと思う? 現実から逃げたかったからだよ。だから、死が逃避先だってことを、わたしはよく知っている。死は罰なんかじゃないことを!」
『逃げる』こと自体は罪ではない。だが、『自殺』は不可逆性を持つ『逃亡』だ。つまり、逃げたまま現世に戻る事すらできなくなるのだ。
追い詰められて自殺した者は再起のチャンスさえ与えられない。そして悪行を犯した者は、死ぬことで償うどころか罪の意識からも解放されてしまう。死は無なのだから。
そしてそれは、卑怯なただの逃走だ。
死んで神の裁きを受けるだと?! そんなのは都合の良い生者の解釈だ。罪は生きていなければ償えない。苦しみだって、生きていなければ味わうこともできないだろう。
そう思った瞬間、有里朱と俺の心が同期する。
「だから逃がさないのか? キミらしいな」
「そうだよ。わたしはあなたを許さない。あなたは罪の重さを知るべきよ。それを知らずに死なせるなんて……わたしが納得すると思ってる?!」
「キミは怖いな。まるで三人分の怨念がこもってそうだ」
「あなたが感情がないと思い込むなら、あなたに感情を植え付ける! 恐怖を植え付ける! 後悔するという気持ちを植え付ける! それがわたしの復讐!」
有里朱のその言葉は流山海美……空美自身の心を取り戻すきっかけになるだろうか?
彼女に改悛の念が生まれるかどうかはわからない。少なくとも、死んで無に還り、犯した罪を無かったことにされるよりはマシなのだと、有里朱は思っているはずだ。
だから有里朱は「自殺」という「逃げ」を許さなかったのだろう。
とはいえ、後味の悪い事件である。
黒幕だという彼女も所詮、中二病のピエロ。操られたと思っていた松戸美園でさえ、操られたのではなく最初から歪んだ性根であったということ。青田涼香とミイナという殺人狂は流山空美にただ寄生していただけ。
狂人たちが奇跡的に集い、残虐な宴を開いたというオチだ。
宴の後に残るのは、燻った火種。
誰かを排除したところで、この世界は何も変わらない。
**
あの後、師匠の助けで流山空美は屋上に引き上げられ、さらに警察の到着で有里朱たちは一連の事件に終止符を打つことになる。
ミイナという子は、師匠のおかげでどうにか無力化できたそうだが「あんな狂人相手は当分勘弁してくれ」と愚痴を言っていた。トンファー使いの師匠でも、かなりきつかったようだ。
そして、流山海美という表面上の黒幕の失墜で、すべてのいじめ問題が解決したと思いきや、まだ一つ重大な案件が残っている。
この小さな世界に燻るたくさんの火種。さらに、有里朱の最大の敵である同調圧力。この最も厄介な『見えない空気』にどう立ち向かうのか?
もちろん、これに関しては俺も頭を悩ましていたが、有里朱自身が一つの回答を導き出した。
美浜有里朱のさらなる成長が始まる。
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次回 小さな世界
同調圧力にどう立ち向かうか?
彼女が出した一つの答えとは?
次話(1/3投稿予定)から最終話までの三話は三日連続で投稿します!




