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名もなき散文の集積と語られたことのすべて

作者: 山羊正樹

目が覚めてから、自分がどこにいるのかを正確に把握するために時間がかかった。

自分が誰であるかを思い出すことですら、ひとしきりの時間がかかった。

正確に言えば、タクトを掲げた指揮者が第二楽章を演奏し終えたオーケストラをコミカルな第三楽章へと導くくらいの時間を使って、僕は自分が生まれた町のことや、一昨日の11時に飲んだ現地のビールの鼻に抜ける匂いなどを思い出していた。

次第に断片として立ち現れ、一種の走馬灯のように脳裏をよぎって行くイメージが集積してゆき、結果として僕という人格を再構成して、自分が昨日の自分と連続的に存在する、ぽつんとした個人であることを認識してゆく。

その過程においていわゆる私自身は世界の混沌の中に溶け合っていて、そこから集めた断片で私は再構成されてゆく。時々、頭がさえたままベッドに入る夜に自分という存在をいったん放棄することがかなり恐ろしいことに思える時がある。結局のところ自分を再構成する作業は呼吸とまったく同じようにごく当たり前に無意識的に行われる作業であるので、そのやり方だったり、ちょっとしたコツだったりを僕は何も知らないのだ。

チャーハンを作るときに香ばしく仕上げるためのフライパンとヘラの使い方や、仕上げにオイスターソースを入れることによって風味がよくなることなどといった実践的な技術を手に入れることに比べて、世界そのものといえる混沌の中から自分にまつわる断片を拾い出すことのコツを身につけるのはかなり困難である。

なんといっても朝というものは気だるいものと相場が決まっているのだ。

ものを考えたところで、先のほどけてしまった糸のようにどうにもまとまらない。



***



彼女と初めてのキスをしたのは、毎日(1年経った今でも)寝ている淡いイエローのシーツの上だった。お互いに良くも悪くもそういったことにはいささか不慣れだったから、僕たちは絵にかいたようなキスをした。何につけてもそれらしいやり方というものはぼんやりとつかみどころのないイメージとして、輪郭のない煙のように存在しているようであって、その日のキスは「オールカラー 初めてのキス」だったり、「少年少女の描き方」の キス① ファーストキス などといった教本に掲載されるものに十分ふさわしいものであるように思えた。

そこには、初々しさと本能的で動物的な荒っぽさがちょうどいい割合で混ざり合っていた。

誰にとっても初めてのキスは一度きりで、それはほとんどの場合に長い時間をかけて記憶という樽の中で熟成してゆき、とびきり美味なものになってゆく。そのくらいのことは分かっていた。(と思っている)

ただ、僕たちのキスは熟成を抜きにしてもとびきり素敵なものだった。

自信をもってそのように回想にふけることができるようにするために、君を駅まで送り届けた後に100円のホットコーヒーを飲みながら、君の上唇を力加減もわからないままにくわえただけのキスが最高に素敵なものだったことを信号待ちのたびにゆっくりと確かめたのだ。少なくとも3回は繰り返して確かめた。

その女の子とは、半年もたなかった。



***



「いやはや、どうにかなってよかったよ。」

春学期最後の試験を終えた僕は、行きつけの喫茶店のゆったりしたソファーに座って、いつものように君と話をしている。

「これからどうするつもりなの?」

「月にでも行ってこようと思う。」

僕の手帳の八月のページには、週に3回のアルバイトの予定がきっちりと並んでいる。

火曜日と木曜日と日曜日は忙しいのだけれど、それ以外の予定が恐ろしいほどに空っぽなので、少し離れたところから見るとそのページは、ややアンバランスな縦じま模様のようにも見える。

これといってやりたいこともなかったので、何となく始めた喫茶店のアルバイト以外は何もしていないに等しい。

慣れないうちは、まるで突然庭先に油田が見つかって大金を手にした人のように、有り余る時間を持て余していたのだけれど、ゆっくりとした時間の流れに慣れてからはむしろ週五回通勤電車に乗って朝から晩まで馬車馬のように働くことへの、憂鬱さとなにやら虚しさをひしひしと感じるようになってきた。

うちの猫など一日20時間は寝ているというのにどうして人間ばかりこうもせこせこ働かなければならないのだろう。

挽きたての豆を使っているであろう鮮やかな味わいのコーヒーをちびちびと飲みながらそのような漠然とした将来像に思いを巡らせたり、道ですれ違った小柄な女の子のことをどこまで正確に、細部まで思い出すことができるかというゲームをしていたら、突然右のほほに鋭いものを突き付けられた。

多分、僕が1800年代を生きていて、暴力的に引かれたアフリカの国境線を次から次へとまたぎながら、文明の存亡にかかわるようなスケールの重要な国家機密が込められたひとまとまりの書類を運んでいる最中であったならば、それを鋭くとがれた刃物かピストルかなにかであると思ったかもしれない。

ただここは21世紀で、僕のかばんには使い込んだシャープペンシルと、くたびれたブックカバーに入った一昔前の文庫本だったり、おそらく二度と開くこともないであろう試験の終った科目の黄色とピンクのキャンパスノートが2冊入っているだけだった。(僕はそのような色たちはあまり好まなかったので、それらの学科に対する投げやりな気持ちをそれとなく感じる)そもそも僕はただのいっぱしの学生でしかない。国家機密を背負うことは今までの人生ではなかったし、おそらくこの先もないのだろうと思える。別に何か根拠があるわけでもなく、必要以上に卑屈になっているわけでもない。ただなんとなく、そういう気がするというだけのことなのだ。

結局、それは君の指先の尖った爪の感触だった。

「あんた、人前でよくそんなにぼーっとできるわね」彼女はざっくばらんに作られた不機嫌そうな顔をしながら唇を尖らせる。

「ごめん、少し考え事をしてたんだ。」

「何を考えていたの?」

枕詞がその後に続く言葉を導くように、僕の発言は彼女を誘導していた。

恐ろしいことに、僕にはそんなつもりは毛頭なくて、だからなおさら困った。

まるで、女の子と付き合い始めたわけでもなく、賭けマージャンで大勝ちしたわけでもないのに、「なあ、最近何か変わったことあった?」と聞いてしまった時のような状況に陥った。

一座は何かしらの刺激的な話が始まることを期待している。

さらにまずいことに、その時僕は、自分の持つ最高の機密事項は何かと考えを巡らせた挙句、3年半付き合っている、野球部のファーストをしている彼氏がいる幼馴染と成り行きで寝てしまったことを思い出していたのだ。それはなにか背徳的な興奮に満ちてはいたものの、人に知られて得をするようなことではない。ただ、核兵器の作り方やタイムマシンの設計図のような重要性はまるでなく、どこまでも僕と、たぶん僕の幼馴染の個人的な問題である。(共通の秘密は人と人との結びつきを強めるとかいうけれど、今のところそういった気配が全くと言っていいほどない。一日に2往復以上メールでやり取りすることすら難しい。)結局のところ、いくら古い記憶をたどっても僕は世界を揺るがすような秘密を持ち合わせているわけではなさそうだった。数代さかのぼったところで、やはり世界規模の機密事項はどこにも見当たらないような気がする。

僕の記憶そのものはかなりおおざっぱで、パソコンのハード・ディスクのようにあらゆることを隅から隅まで記憶しておけるわけではないけれども、目立った出来事については文章的な形ではかっちりと記憶することができる。

ただ、その時の匂いだったり感触だったりそうした類の五感で感じたことについては、時間がたつにつれてどんどん薄まってゆき、最終的には薄めすぎたスポーツドリンクのように味気ないものになってしまっていた。何にせよ、五感で物事を楽しむことができるのはその瞬間と数回眠りにつくまでの間であるということを思い知ったのだった。写真を撮ったり、記念品を買うなどしてどうにかこうにか記憶が零れ落ちるスピードを遅く遅くしようとするのだけれど、タオルにお湯をためておくことができないように記憶をとどめてゆくこどはやはりどうしてもできない。

「ううん、なんでもないんだ」身もふたもない嘘だ。どうせならもっと大それた嘘をつきたい。

「ねえ、もしかすると世の中には「そう。」ってたった一つの音節で納得したふりをしてくれるような、犬みたいに従順な女の子もいるかもしれないけれど、私がそういうタイプじゃないのは知っているでしょ?」

「猫の方が好きだな。なんていったって人間にこびてない感じがいいよね。犬は暑苦しいよ。」

「私は犬でも猫でもないの。」それもそうだ。

「わかったよ。もう一杯コーヒーを飲んでいかない?ここはサイフォンで淹れてくれるからかなりおいしい。そのカフェラテだけだともったいないと思う。ちょうどドリンクは二杯目から200円引きみたいだ。気前がいいね。」

「おあいにくさま。コーヒーなんて時間を買った時についてくるおまけみたいなものよ」

そういう考え方もある。でも子供はマクドナルドのハッピーセットの音や光の出る玩具欲しさに好きでもないハンバーガーを食べているかもしれないし、おまけが実質的なメインになることだってあり得ることだよ。と理屈をこねることはやめた。それじゃまるで、彼女がコーヒーについてくるおまけみたいな言い草になる。

「あなたがそんなに長い時間何を考えていたのか気になるんだけど」こめかみのあたりに中指を突き立てて頭のマッサージをしている。これは彼女がいらいらし始めている兆候だ。このままいくと首を鳴らし始める。その先は、まだ知らない。

「マイケル・ジャクソンがスリラーの間奏の間にいったい何を考えているのかについて考えてたんだ。」

「あんなに激しく踊ってるじゃない。全身の筋肉の動きをまとめることに集中するんじゃない。」君は好きでもないコーヒーを気だるげに持ち上げて口の端っこから流し込んでゆく。

マイケル・ジャクソンの「スリラー」はすべての女の子との共通の話題だ。

ただ、付き合いの浅い相手とのぎこちない会話の温度を無難に上げていくためのきっかけとして持ち出すのならまだしも、彼女と知り合ってからは、もう干支を半周まわった。

「確かにステージではそうかもしれない。ただ、歌の収録の時は。」

出だしが間違っている数学の証明のように、いくら進んだところで事態が好転することはもはやどこにもなさそうだ。そしていつものように、会話にやり直しはきかない。

「変な人ね、いやになっちゃう。」

「意外と、死ぬほど暑いとか思ってそう。知ってる?本格的な照明を浴びるとかなり暑いんだよ。まるでカリフォルニアの日差しを10倍に凝縮したような圧倒的な熱量なんだ。」

オレンジ以外にカリフォルニアとの接点などない。

「高校生のころ一度だけ表彰されたことがあったんだけど、賞状の文句が長すぎて受け取りに行くころには顔が汗だくになっちゃってさ。」

「相変わらずなのね。」彼女は追及をやめた。

僕はこういう時にはまずもって本当のことを言わないし、彼女もそれを知っているのかいないのか、コーヒーカップを口元に運んでとりあえずは気にならなくなったふりをしてくれる。彼女は同じような状況においてはほとんど飲み物を口に運ぶ。興味をそそられたということをまるごと一緒に飲み込んでくれているのかもしれない。

聞いてしまったことは忘れることはできないかもしれないけど、気になっていたということについては驚くほどあっさり忘れる。どんなに興味をそそられていたとしても、語られなかったことはいつまでも語られなかったことのままで、その可能性さえもすぐに忘れ去られてしまう。



***



コーヒー専門店のレジに並んでいるときに、昔つきあっていた女の子のことを思い出した。

その頃の僕は、マスメディアによって築かれた幸せの形をなぞるような付き合い方をしていた。それは確かに無難だったように思う。指と指をたがいちがいに絡ませて、有名な公園の並木道を泳ぐように歩いたり、観覧車に乗って高いところが怖いとおびえる君の肩を軽く抱き留めたりした。それは確かになかなか悪くはなかった。

その女の子とは一度だけ、少しずれたデートをした。君は僕よりも遅れて大学に入った。そしてそのあとすぐに足枷を外すがごとく離れていったのだが、そのデートのことをなぜだか僕は今でも覚えている。

街にある二つの駅のうち、小さいほうの駅の近くで待ち合わせていた。そこは大きな港の近くで、要介護老人向けのマンションだったり、街の中心から吐き出されるように追いやられた人々が集うようなパチンコ店だったり、街並みにあまり馴染んでいない妙に豪華なホテルだったり、とにかく何か物寂しげで不調和な空気が一面に漂っていた。そうした街並みということができるかどうか怪しい、実際的な生気を感じさせない建物が並ぶ通りが、駅からまっすぐに海に向かって続いている。その通りを海に向かって歩いていくと、緩やかな下り坂を下りているような感覚を覚えることがある。その感覚は東京駅から出る電車を下り電車と呼ぶ感覚とどこか似ていた。物理的な傾斜はいざしらず、その道に沿って歩いているときは僕は確かに何かを下っている気がする。奇妙なことに海から駅へと戻る道を同じように歩いていても、それはただただ平坦なだけで、降りた分の高低差をどこで登っているのかがわからない。もしかしたらその道を海に向かって歩いてゆくたびに、僕はいつの間にか、何らかの意味において何かの比喩としての高低差を下っているのかもしれない。

その日は駅前のロータリーで君と待ち合わせていた。こちらに気が付くと、肩から掛けた小さなバッグを腰の高さで揺らしながら、速足で向かってきた。もうそのバッグの色も、君の着ていた服も何も覚えていない。季節だけを思い出せるのは、その時の温度だったり、君の洋服の厚さだったりを覚えているからではない。ただ、終った時期だけを忘れることができないから、というよりも覚えているから、それを足掛かりにして思い出せるだけのことだ。

「ちょっと歩くけど、素敵な場所だから。」

何も知らずにうれしそうにしている君を連れて、僕はなぜだか道を下っていった。誰かと歩くことで、上り坂になるような道じゃあないんだなとしみじみと感じる。君にとって何の意味も持たないあの道は、君にとってはやはり平坦なものだったのだろうか?それとも、戸惑いながらもやはり何か低い所へと向かっていたのだろうか。そんなことはとてもしらない。



***



家の門をくぐると、まず初めにポストを開けるようにしている。これは別に誰かからの連絡を心待ちにしているわけではないし、カラフルなダイレクトメールを読むのが好きなわけでもない。シューズを買っていた店から届くセールの案内を眺めると、その頃のことを思い出したりする。ただ単に、ポストを開けることは、寝る前に窓を閉めることと同じようなレベルで習慣化されているのだ。

門を開けたそのままの勢いで、体をひねって郵便受けのハンドルを持ち上げる。その一連の動作は郵便物を受け取るという役割を割り当てられてからというものの、数百回、数千回と繰り返すうちに体の中に染みついてしまっているものなのだ。

そもそも今の時代には、自分にとって大切なことはほとんどネットワークを経由して届くので、役に立つ情報をポストから得ることは少ない。

だからその日もあくまで習慣の一部として、何の気もなしにハンドルを持ち上げて中に入っているものを取り出した。

リビングの黒いソファーに座って、読みかけの本の続きを少しずつ読み進めることにした。

一枚、また一枚とページをめくっているうちにどうにも今日は本を読む気にはならない日であるということを悟った。文章を目で追うスピードはさして変わらないのだが、驚くほどに内容が頭に入ってこない。本を読むのに最も好ましい状況においては、内部の情景が自分なりの解釈で鮮明に浮かんでくるのだが、どうも調子が出ない今日のような日には、まるでうさぎの薄い皮膚には触れずに、その体毛だけをふわりとなで回すときのように、どうもうわべだけをなぞるような読み方になってしまう。それはそれでいいのかもしれない。何か退屈な作業をするときに背景に流す音楽のように、それはどこまでも無害で空気のようにその存在を主張しない。そういう音楽は確かにあるし、そういう小説があったって何ら不思議ではない。ただ、もはや文字にピントが合わなくなり、文章を読むことよりもピントを合わせることにエネルギーを使うような状態に陥っていた。ピントが合わないままに目だけが惰性でうすぼんやりした黒い影を追ってゆくのだ。そしてなにせその時の僕は自分がそうした状態に陥っているということを自覚するために数ページ分の時間がかかったのだ。

僕は意図的におそろしく冗長に作られた資料に目を通さなければならない弁護士のように、自分の意思に逆らって不本意な気分で文章を読むことを強いられているわけではない。

ただ好きな時に好きなものを読めばいいのだ。

そこで、主人公が縄梯子を一段一段降りながら、どこか奈落のようなところに下ってゆくところで僕は本を閉じた。

近くの棚まで本を戻しに行くような気力はもはや残っていなかったので、現実的な世界と眠りの世界との境界線をおぼつかない足取りでうろうろとしながら胸の上に本を置き、転がり落ちるように眠った。本もまた一時的に語り部としての役割から解放されて、グレーのケーブルニットのセーターの上に静かに横たわっていた。本は能動的には語らなく、それは時に寡黙な男の姿を思わせる。彼はきっとカウンターの端の席に座って、ウイスキーをロックで静かに飲むことを好むだろう。もしかしたら本を読んでいるかもしれない。残念ながら本にウイスキーをこぼしてしまったことはまだない。

少しののちに目覚めて、ひとしきり意識がはっきりしてコーヒーを入れようと起き上がったときに、机の上にやや乱暴に置かれている郵便物の中に、石造りのカラフルな街並みがプリントされている絵葉書があることに気が付いた。



***



下り坂を歩き切った先にはだだっ広い公園があった。その公園はただただ漠然と広いだけで、それ以上の何も備えていなかった。誰もいないレストランで僕たちは安いコース料理を食べた。

海までの道を歩いて、人工海岸のほとりで律儀なキスをして、安いコース料理を食べた。

もう自由にさせてほしい。数日ののちに言われた。下り坂を歩いたのことなのか、寒がっていることに気が付かなかったことなのか、レストランが安かったことなのか。たぶんそのどれとも言えないし、どれでないとも言えない。それを知ることは原理的にできないように感じる。思うのではなく感じる。



***



「つまり、昔の人がエストニアにいたということなのね。」

彼女はテーブルの上の細長いグラスに刺さったストローで、氷がとけてだいぶ味の薄くなっていそうなモスコミュールを無感動な動作で吸い上げていた。

その姿勢は、あまりおいしくないものにしかありつけず、げんなりした気持ちで花の蜜を吸い上げる何かの蝶を思い起こさせた。

特別に大きなものではないが、僕の家にはちょっとした庭がある。毎年日差しが暖かくなるころに庭先に植えてある赤い花にひらひらと蝶がやってきて、これでもかというくらいに熱心に花の蜜を吸うのだ。細い舌が花の中心をつつく様子を見ていると、さぞかし甘いのだろうなと感じることができて、口の中が湿っぽくなる。そしてひとしきり蜜を吸い終わると、もうあなたには用はないわとでも言いたげなほどに冷淡さを感じさせる軌道で、その蝶は遥か遠くへと飛び去ってゆく。

幸いなことに、蝶はその見た目だけで僕を楽しませてくれるので、僕としてもその黒地に薄い青の透かしが入った美しい蝶の態度に関しては特に異論はなかった。人も蝶もそんなに変わらないなとしみじみと感じる。

「それで、そのひとに会いに行くの?」

「僕にしたって散々迷ったんだ。他にもいくらだって気持ちのいい時間の使い方っていうものがあるわけだから。」

実際僕はふと先日思い立ち、プルーストの「失われた時を求めて」をちょうど読み始めたところだったのだ。図書館三階の文学コーナーに立てかけられている、十数冊の薄い青色に金の文字で書かれている背表紙を一つまた一つと進んでゆくことは、どうしようもない仲間たちとコロナを飲みながらフィッシュアンドチップスをつまんでとりとめのない話をすることにも並んで魅力的なように思える。僕たちは最近の音楽がどうも胸に訴えかけてくるものに欠けるということについて、ひと世代前のヒットソングを引き合いに出しながら、生きてもいなかった時代についてとうとうと語り合うのである。生きてしまっていた時間というものは、それだけで穢れている。どうしようもなく手垢をつけようもないような、自分が存在しなかった、自分の記憶というものが存在していない頃の純然たる無垢さにある意味僕たちは惹きつけられるのかもしれない。この感情は処女の女の子に感じるいとおしさと同じ部類のものである気もするし、重なりを持たないベン図のように全く関係ないものであるようにも思える。

とにかく、その絵葉書はエストニアから届いていたのであった。



***



「ねえ。チーズの盛り合わせをもう一皿と、ジントニックを濃いめでお願い。」

駅から家に帰る途中の真ん中あたりに、古い付き合いのある友人がバーテンをしているバーがある。どちらかと言えば少しだけ駅に近い場所にあるし、駅から家への最短ルートからは信号を余計に2つ渡らなければならない。しかし、そのせいで余計にそのバーに足しげく通うことになっているような気がする。息抜きをするときには地理的にもちょっとした日常から逸脱が必要なように思う。いつも通る道沿いではなんだかどうも息苦しい。疲れた息を吐きながらとぼとぼと歩いている道は、たばこの吸い殻や、吐き捨てられたガムの跡などで見た目にもきれいではなかったし、僕の意識の中でもよどんだ吐息がドライアイスの煙のように気だるげにいつまでもその場にどんよりと漂っているような気がする。

その淀んだ空気が漂う空間から抜け出して、そのそこそこ気の利いたバーに通うことは僕にとっては水泳選手が一連のストロークの間に行う息継ぎのようなものだった。一回や二回やり損ねたところで死ぬわけではないのだが、確実にペースが乱されるような気がしていたのだ。

「まったく。タダだからって好き勝手飲みやがって。」

「タダにしてくれるならそれに越したことはないんだけれど」

「原価で飲み食いされるのはタダ飯を出してるのとなんも変わらないんだよ。だいいち俺がいくらシェイカーを振ったって一円の得にもなりゃしないんだ。こんなに二の腕が疲れるっていうのにその対価が何もないっていうのがどういう気分かって考えたことがあるか?」

なかった。

僕は、来春に高校受験を控えている彼の妹の勉強を見てやっている。

率直に言ってかなり出来はいい方なので、教えている最中に変なところで突っかかってもどかしさを感じることも少ない。なにより話をしっかりと聞いていてくれていて、それなりに明るいしぐさで反応を示してくれる。もともと人に勉強を教えるのはわりかし好きだったのもあって、僕としてはその時間をそれなりに楽しく過ごしていた。

そして僕はその対価として、彼のバーでほとんど仕入れ値に近いような値段で飲み食いすることを許されていた。



***



恋はあらゆる物事に対して人間を盲目にさせる。相手のちょっとした欠点をも許して、受け入れていつの間にか愛らしく感じるようになるものだし(この傾向は女性において顕著にみられる。女性は、特にイノセントなハイティーンの女の子は本当に魔法にかけられたように恋に落ちてしまう。また、その恋の形をしているいわば幻想に近い何者かは、ちょっとしたきっかけによって跡形もなく消え去る。これ以上ないほど美しく理想的だと思っていた建物の内側が完全なる空洞で、卵の殻のようにもろい表面だけの殻のようなものであるかのように。それはひとたび崩れ去ってしまうと、おびただしい量の卵の殻の破片と化す。どうして好きだったのかなど考えることすらできないのだ。それはもう何の意味も持たない炭酸カルシウムのかけらと化してしまっていて、汚い部屋で暮らす二日おきにしか頭を洗わない中年の男性が横着して作る卵かけごはんの残骸と何の物的,または質的な差がないのだ。それはたとえ存在するとしても、検知できないほどに小さいものでしかない。あるいは明日着てゆく服のことだったり、ヘアゴムの色だったりを選ぶのに忙しいハイティーンの女の子にはそんな残骸でしかないような卵の殻の出自だったり、表面の質感の違いをいちいち点検するのにはいささか忙しすぎるのかもしれない。

とりあえず、終ったことは終ったこと。卵の殻の山はもはや彼女たちの心のスペースを占める邪魔者でしかないのだ。むしろ、邪魔者として注意を払われないほどに無関心なものになっている。それは、きれい好きな女の子ならば早いうちに数回に分けて塵取りの中へと掃きためられてゆくし、少しばかりものぐさな女の子であっても、他のものを入れたくなると真っ先に処分される。心の中のスペースと言われると漠然とそれなりに広い空間を想像してしまうのだが、実際のところそれはいくつかの引き出しがついた宝石箱ほどの大きさしかないように思えてならない。

彼女たちはまるで花の蜜に引き寄せられるミツバチのように移り気であり、気まぐれであり、その動きはいくつもの惑星の重力に次々に引き寄せられてどこまでもどこまでも飛んでゆく人工衛星の様子を思い起こさせる。

男たちのエネルギーを使いながら女の子はスウィング・バイして遥か彼方の恒星を目指して飛んでゆく。



***



 「お名前は?」

ホステルの看板が記されている呼び鈴を押すと、そこそこ若いと思われる女性の声が聞こえてきた。その声はいつも、平日の日中にやっている海外のフィットネス器具の通販に登場するブロンドの女性を連想させた。あの口の動きと微妙にちぐはぐな感じでブロンドの女性に声をあてている女の声である。アクセントを大げさにつけているせいか、ブロンドの青い目をした女性が日本語でぺらぺらと商品を絶賛していても、そこには何の違和感を覚えない。漫画に出てくる外国人がカタカナで話していることをごく自然に受け入れていることとちょうど同じようなものなのかもしれない。

そんなことを考えているとドアのロックが解除される音が聞こえた。暗い階段を1回分上って数回折れている通路を進むと、少し広めのリビングくらいの大きさの四角い部屋にでた。入り口と反対側にはバーカウンターがあって、高めのスツールがいくつか並べられていた。

カウンターに向かって左側の壁には壁の横幅のほぼ半分ほどを占めるような窓がしつらえてあるが、透明なものではないので外の様子はてんでわからない。本当に近いところにあるものに関してはその色と大まかな大きさくらいならどうにか認識できそうな具合だったが、窓の数十センチ向こう側のリンゴとパプリカの違いすらあいまいにするようなほどにうすぼんやりとした窓だった。全体としては良くも悪くも、どこにでもありそうなバーではあったものの、窓の左側にかけられた絵だけが異彩を放っていた。そこには山頂から山麓まできれいに白く雪で包み込まれている冬の山を背にしながら、頭を抱えて絶望する人間が描かれていた。背景の山が攻撃的な形状をしているのならまだしも、背景の山はマウナロアのようにきわめてなだらかで、ゼンマイや松茸を求める老人が杖をついて登っていそうなごくごく平和な姿をしていて、多重債務を抱えているようなポーズで絶望する男から漂う悲壮感とは似つかわしくなかった。ただ、山と男の間に対照的な要素を見出すことができるわけではなく、そこにはただただ根深い違和感だけが漂っていた。

「そうね。確かにあなたは予約をしている。いらっしゃい。」

バーカウンターの右側には、ロフトに上るときとかに使いそうな白い階段があった。その階段を登り切った先には細かく英文が書かれている紙が貼ってある赤いドアがついていて、そのドアから小柄で黒いタンクトップを着た金髪の女の子が出てきた。模範的でありながらちっとも嫌味さを感じない笑顔をばらまきながら階段を一段一段おりてくる。リズミカルに金属的な音を立てながら階段を下りる彼女の姿はどうしてか猫の姿を思わせた。彼女の靴の裏が階段の表面を打つたびに、薄いタンクトップの裏で柔らかそうな乳房が袋に入れられた猫のように暴れていた。カウンターの裏から鍵を取り出した彼女は、右手の指に鍵を束ねているリングをはめて、数本のカギをくるくると上機嫌そうに回しながら、シャワーの位置だったり部屋の場所だったりを説明して回った。相当の回数同じようなことを繰り返してきたからだろうが、かなりの速足でホステル内を歩き回るものだったから僕はそのペースに翻弄されているうちに説明が終わった。

鍵を受け取った僕は、少しだけの町を散策することにした。黒いダッフルコートを着ながら、僕は中学生の頃のことを思い出していた。



***



「それでお前はろくに用意もしないでタリンに行ったってわけだな。まあ確かにお前はいざとなると思い切りが早いよ。次に止まる木を見つける前に飛び出しちまうそそっかしいモモンガみたいだ。もちろん大概の場合はそれでうまくいくと思うんだよ、何せジャングルには腐るほどそこら中に木が生えてるからな。でもよ、何かの拍子で木の生えていない一角に飛び出しちまったらいったいどうするつもりなんだい?お前はジャングルの制空権を支配しているような気分でいるかもしれないけど、お前は燕とかトンボとかとはわけが違うんだぜ。おまえは飛んでいるようでいて、実はそうじゃないんだから。率直に言えばお前はただ長い時間をかけて落下しているだけなんだよ。自分の力で空気を漕いで上昇できるわけでもないし、着地する木の枝先にハチの巣がついてないかを確認するためにその場にとどまってその木を子細に点検できるわけでもないんだから。そのへんをよくわかっておかないと気付いた時にはお陀仏だぜ。」

「ボンベイ・サファイアのジン・トニックが欲しい。」

「ああ、わかったよ。それで結局、そこに行って何か得るものがあったのか?ヨーロッパまで行くだけでもまとまった金が必要だろう。しかもお前は喫茶店アルバイトの学生と来てる。大枚はたいてはるばるヨーロッパまで渡ったわけだから何かしらの確信だったり、それに近い何かがあったわけだろう?俺の言ってる事分かってくれるか?」

「もちろん。ただ、なんというかそこに確固たる理由があったわけではないんだ。」

僕をタリンへと運んだのは、差出人不明の絵葉書だったのだ。それがどうしたことか突然届いたのだった。それまでは家に外国からのはがきが届いたためしは一度もなかったし、そのはがきを受け取った僕は、明確な一つのイメージを驚くほど瞬時に描くことができたのだった。洋服に絵の具を垂らしてしまったときに、そのシミが想像をはるかに超えたスピードではじめは円形に、そして次第に複雑な海岸線のように入り組んだ形で広がってゆき、最終的にどのくらいの大きさのしみになるのかがわからないほどであった。そのはがきによって引き起こされた空想の世界の大きさを僕はどうも測りかねていたのだった。身を浸して、大きな通りに沿って少しずつ歩いてゆくしかない。地図を作るための測量を行う技師のような気分で、その妄想に浸ろうとしていたその時、突然その世界は外側からフェードアウトしてゆくように目に見えなくなってしまい、僕は最終的にその世界のぼんやりとしたイメージや質感を記憶の中にしか見出せなくなってしまっていた。



***



 タリンに到着したはいいものの、彼女の行方を追うにしても手掛かりが絵葉書一枚だけでは正直に言って全くもって何の役にも立ちはしない。まさに雲をつかむような話だ。少しの間、こういう時にはいったいどのようにして人を探すのだろうかと考えにふけっていたのだが、午後5時を告げる鐘の音をきいて僕は考えるのをやめた。結局、僕のやろうとしていることは、定跡もろくに知らずに将棋を指そうとしていることと同じなのだ。何かの拍子で好手、妙手の類を一度や二度は繰り出せるかもしれない。しかし、いつどこで切れるともしれない繊細な糸を伝って60億人からただ一人を探し出すのには到底そんな偶然の産物では不十分だ。いったい彼女にたどり着くためにいくつの論理の飛躍が必要なのだろうか?

鐘がなるたびに、なんだか自分がしていることがとどのつまり徒労でしかないのかもしれないという気分が次第に強まってきて、結局、夕食をとることにした。7時になってもまだまだ町は明るい。もちろん効果的に考え事をするためにも、ある程度食欲が満たされているということは必要なのだとは思うが、この時はただ単にいろいろなことがどうでもよくなっていた。他にやることもないからほっつき歩いて美味しい現地の料理でも食べようという消極的なディナーへと出かけるために、ついさっき脱いだウォーキングシューズにスリッパをはくときのように足を滑らせて、やけに重たい木製の、いつも半開きになっている部屋のドアを押し開けた。



***



夕方に目が覚めた。いつのまにか寝てしまっていたようだ。

あくびが出た。眠りにつく前のあくびと、目覚めるときのあくびとは区別することができない。

君は唐突に僕のもとを去った。その理由さえ言おうとしなかった。

そしてなぜだかエストニアにいる。



***



両足で挟み込むようにして、雨どいをよじ登ってゆく。

手を伸ばして少しでも高いところをつかみ、もう片方の手を同じ高さまで伸ばして、つややかな合成樹脂の表面をしっかりと握る。腕に力を入れて、懸垂をするような要領で足の位置を上げる。普段あまり使わない腕の外側の筋肉がきりきりときしんでいる。

ビルの表面には、様々な形の突起物がある。窓枠だったり、換気扇だったり、室外機だったり。そうしたものが全く見受けられないような建物を想像してみたが、新橋のビルの一つ一つに対して、あらゆる突起物を取り除き、丹念にやすりがけをして、最後に一番安い意図されているわけでもなく、結果として無個性な白いペンキで塗装する。そういった街並みを思い浮かべると、初めて訪れる人気のない駅のホームに降り立ち、あたりを見渡しているときのような根拠のない期待と所在のなさが入り混じったような、どことなく寂しげな気持になってしまった。(この寂しい街にはもう僕しかいないのに、ここには自分の居場所など存在しないのだという自分勝手な感傷があるならそうした気持ちに近いのかもしれない。)おそらく、火星に初めて降り立つとしても似たような気分になるのだと思う。その街を景色として空想することはそんなに困難な話ではなかったが、そこで生活する人間の姿を思い描くことはできなかった。正確に言えば実感を伴ったものとして空想することは極めて困難であり、そこに言語的な音を見出すことも到底できなかった。とにかく、きれいすぎる部屋のようにそこには人間味がない。無理矢理にそういうイメージを作り上げたところで、その光景の持つ不自然さは、中学校の学園祭でやっているような下手な劇だったり、小さな女の子が好きそうなお人形さん遊びを思いおこさせた。現実感の再現を目指してはいるのだが、どうしても作り物として知覚されてしまう。

雨どいをよじ登るだけでなく、ビルの側面にあるあらゆる突起物を使いながら少しづつ少しづつ高いところへと昇ってゆき、ほとんど同じような組み合わせを6セット終えたところで、ついに屋上に続く梯子に手をかけることができた。ビルの屋上は薄汚れていて汚く、つぶれたジュースの缶がいくつか転がっていた。いったい誰がわざわざビルの屋上に空き缶を捨ててゆくのだろうか。

どことなくぬめぬめとしているコンクリートの上を歩いて、ビルの屋上の端にたどり着いた時に遠くのマンションとビルとの隙間から小さな砂浜を見ることができた。見えないくらいの大きさで波がさざめいていた。僕は一人きりの寂しさや、懐かしい思い出の一つ一つの間をふらつきながら、夜の海に向かって一つだけ恋の歌を歌った。ヒットチャートには載らないような、歌っていて哀しくなるばかりの曲だった。ある種の哀しみには哀しみをもって寄り添うのが一番気持ちがよかった。誰のためでもなく、波は夜な夜な寄せては引いてを繰り返す。ただ、そこに孤独を持ち込んだ時には、確かに波は僕のためだけに静かに歌ってくれた。



***



ほんとうに、ばかね。なんだってじぶんのいいようにきめつけるんだから。おめでたいひと。きっとさぞかししあわせなんでしょうね。でも、それはまぼろしよ。わたしたち、あなたのことなんておちゃわんのなかのひとつぶのおこめほどにしかおもっていないわ。おこめはさいごのひとつぶまでたべないと、めがつぶれてしまいますよだなんてたいくつなことはいわないでよね。

それにしたって、あなたがただただいきていることにしたってほとんどまぼろしみたいなものなのよ。

いいかしら。あなたがうまれてくるとてもとてもまえからあなたがくることはきまっていたの。せんこうはなびってやったことあるかしら?あるわよね。あなたがよろこんだりかなしんだりしているのは、あれのさいごのせつなのきらめきのようなものなの。わかる?わかるわけないのよね。あなたにとってはそのきらめきがぜんぶなんだから。いいたいことはたくさんあるけれど、やめておくわ。とどのつまり、てごたえがないのよね。おめでたいひと。



***



本格的に寒くなってきた。いつものスツールが古いパンのように硬い。

「絵葉書は役に立ったのか?」

「いや、ただきっとぼちぼちやってるだろうから。」実際はそのことにすら確信を持つことができない。彼女と偽って手紙を書くことなんて、どこの誰にだってできる。ありがたいのは、そんなことをして喜ぶような人間が思い当たる限り誰一人としていないということだ。彼女は生きていて、人間として生活しているのだろう。

最終的に僕は彼女に会うことはできなかった。飛行機の中では、もう一度彼女に会いたいと強く思っていた。近況を知りたいというよりも、二人の間に語られなかったことを、そこにあるべきだった言葉を、重たい漬物石のように一つ一つ載せていって、一連の関係を思い出した時のやりきれない気持ちだったり、発作のような強烈な恥ずかしさを咳払いでごまかしたりするようなことが起こらなくなることを望んでいたのだと思う。ただ、二回目の機内食を食べながら、そうしたことはもはやどうしようもないことであり、また完全ではないにせよ、十分に肯定するに足りるようなことなのではないかとしみじみと思ったのだった。それは論理的に導かれたものではない。今にしたってそう思える理由を丁寧にたどることはできない。それは時間がもたらした一種の変化であるように思える。気が付いたら、物体が上に落ちるようになっていたようなものなのかもしれない。

 閉店時間を過ぎてはいたものの、彼は僕に帰ることを強いることはなかった。むしろ、閉店後の気づまりな一連の作業中には話し相手が欲しいくらいだと、カウンターの裏側にある冷蔵庫に向けてぶつくさと言っていた。

彼は最後のグラスを棚の中にしまい込んで、コロナを2本持って隣のスツールに座った。

コロナの飲み口には美しくカットされたライムが斜めに差し込まれていた。ライムの角度、切込みの深さはいつも寸分の狂いもない。職人的なこだわりがあるのだろう。

ライムを押し込んで、ちいさく一口飲んだ。甘くてさわやかなメキシコの味だった。

一年中こういうビールを飲んでいれば、誰でも陽気になりそうな気がする。

「会わなかった。」彼が瓶を傾けるタイミングをわざと狙ってつぶやいた。返答をうけとるまでにちょっとした間が欲しかった。

「そんな感じがしてた。」大げさな反応をしないのが、いい。

「それはそれでいいんだと思う。」

「お前はそういうやつだよ。」バーテンダーのいないバーで飲むのは、思っているよりもずっと貴重な経験なのかもしれない。

「それ適当だろ?」

「半分はね。でも長い付き合いじゃないか。」

「いまは俺もお前もあの子も、それぞれに生きてる。」

「まあ、どうせ近くに住んでたところでって話だ。」

「本当に。」本当にそう思う。

不思議なことに、一見矛盾しているように思えるものの関係が深まるほど、取り返しのつかないことになる。ただ、友達には戻れない。それを実感するためには実際に、本質的には表面的であろうと、相手のことを深く、深く好きになり、そして終わりを経験するほかにないのではないのだろうか。もう少し、経験を積んでから出会いたかった。今の相手と初恋に落ちていて、初恋の相手と今付き合っていられたらと思うこともある。ただ、それは二人がそっくり入れ替わっていればまた全く同じようなことを考えるような気がしてならない。

初恋の時には、ノーガードで恋をしていただけなのだと思う。

自分のより深いところまで相手を受け入れていたのだろう。

そしてそれは深い傷のようにいつまでも皮膚の内側にどんよりと残り続けて、定期的に僕をくすぐる。



***



なあ。見てくれよ。タイムマシンを発明したんだ。いや、確かにお前がそういうのもわかる。お前は文系出だからなおさらだろうな。それはわかる。ただ、まあ、古い付き合いなわけだからとりあえず見るだけ見てくれたっていいだろう?減るもんじゃないんだから。だいいち帰ったところでまたお前は株のチャートの浮き沈みをそれこそ魚釣りの老人のように延々と眺めているだけなんだろ?どうせそんなことしてたってたいして儲からないじゃないのか。なんたってお前ときたら一年中そのジーンズばっかりはいてるじゃないか。別に着ているものが安そうだからってお前が金を持ってないって決めつけてるわけじゃないんだぜ、相棒。お前は十分に余裕があれば着るものだったり、食べるものだったりにしっかりと金をかけるようなやつだと思っているだけだ。

そうそう。階段の下のそのまたずっと下においてあるんだ。誰にも見つかるわけにはいかないんだよ。これは俺の入魂の作品、一人息子の虎の子だ。空き巣に入られたってこれだけは見つかっちゃいけないんだ。こいつさえあれば俺は生きていける。もちろん精神的な話をしているんだぜ。ほら、人生の半分は20歳で終わるっていうじゃないか。俺はそれをもとに曲線を描いてみたんだよ。それはもう何通りも描いたんだ。途中で何度も方眼紙が足りなくなって、近所の文房具屋までの何もない道をそれはもう何度も何度も行ったり来たりしたさ。いっつも次の一束で足りると思うんだけど描き始めると止まらなくなって、どうしようもなかったね。それはもういろんな形があったよ。ヨーロッパのどこかで見た彫刻を思わせるようなカーブもあれば、何の面白みもないような機械的なカーブだってあった。それにだ、ここだけの話、吸い付きたくなるような色っぽい曲線も少なからずあったんだ。お前は昔からそういう話が好きだったからな。いっつも女の話ばっかりして散々俺のことをうんざりさせやがって。学生時代にベンチに座って、中途半端に温かい弁当を食べながら下着の外し方を延々と自慢げに語ってたな。あの日はそれで貴重な昼休みを丸々使っちまったんだぜ?だいいちそんなもんは適当にずらしちまえばいいんだよ。そうすりゃ女が勝手に外すだろう。まあいいか、とにもかくにもおまえはそういうやつだったよ。さすがにもう寝た女の数と自分の男の大きさとを比例させるようなことはやめたんだろうけどな。そんなころもたしかにあったんだよ。都合の悪いことってすぐに忘れちまうんだぜ。まあ、それはもういいんだ。そう。気を付けて降りろよ。人のために作ってないからその辺の階段とは一味違うんだ。その辺の梯子よりも危ないかもしれないからな。電気なんかつけるわけないだろ。何より人が寄り付かないようにすることが大事なんだ。さっきも言っただろう。とりあえずは俺の言う通りにしておけばいいんだ。ほら、気をつけろよ。そろそろ階段は終わりだ。そう。まだ底についたわけじゃない。ここがポイントなんだ。手を伸ばして暗闇を探ってみろよ。そう。棒があるんだ。ただ、その棒はフェイクなんだ。お前がよく知っているように俺はとびきり用心深いからな。階段の右端に行って、思い切り手を伸ばしてみろ。そう。その棒だ。それを伝って降りるんだ。あんまりスピードを出しすぎるんじゃないぞ。手をやけどしちまうからな。そうそう。そんな感じだ。割と長い距離を下りることになるが何も心配することはない。これもセキュリティの一環なんだ。


ドアを開けた先には、広大な空間が広がっていた。全面がつるりとしたグレーのコンクリート張りで、部屋の奥の方には25メートルプールにふたをしたような恰好の得体のしれない建造物がみえた。天井の方からかちりと鉄球の優しく触れ合うような音がして、巨大なふたは中心でわかれたあとに、すべるように左右に開いていった。

中から出てきたのは膨大な量の紙の束だった。大理石に似た質感の床をかつかつと歩いてゆき、紙束を見下ろした時にふとそのうちの一枚が目に入った。

The Time MachineⅣ no.230972 加速機構 ポンプ 使用金属の考察

人間一人に与えられた時間では、この量の設計図を読むことはできないだろう。だから僕たちは結局のところタイムマシンの実現可能性についてはどうにも語りようがない。彼の築き上げた理論やひらめきの集積は、彼とともに実際的な次元において消えたのだ。

現実味のない部屋の中で、硬い壁に反射するむなしい声だけが延々と響き続ける。

どうだ、すごいだろう。おい、何とか言ってくれよ。なあ...



***









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