枯死
今日は少しばかり寝すぎてしまったようだ。眠い目を擦りながら、女は寝室を抜け出した。
いつもより少し、肌が乾燥している。
かさつく手触りに嘆息しつつ、廊下とリビングを隔てる扉を開けた。真っ先に目に入ったのは、新聞を広げたまま食い入るようにテレビに見入る初老の男だった。
「せんせい、おはよう」
「おはよう。今日は寝坊かい? 君にしては珍しい」
饒舌な男と声を受け流すと、テレビの画面に視線を向けた。いかめしい顔つきでニュースを読み上げるキャスターの右上には「年内にも枯死者十万人越えか」という物騒な文字列が並んでいる。
このニュースは何年も前のもので、男が読んでいる新聞も過去のものだ。
「やはり多いらしいな。特に最近は勢いを増しているとのことだ」
「そう……」
気のない返事をした女と対照的に、先生と呼ばれた男は満足そうに独り頷いた。
「私が若い頃には枯死なんてなかったんだがな……」
これまで何度聞かされたかわからない愚痴に、女は曖昧な返事をする。
彼女が生まれたときには当然のように人間が枯死していたし、そうでない世界など想像もつかなかった。
人間が枯死する。
それが先生にとって重大な事件であったことは間違いはない。彼は何かにつけて「枯死時代」以前の生活を懐かしんでいたし、女との会話で頻繁に外の世界の美しさを説いた。
しかし。彼女が生まれた時分には、植物と呼ばれるものはあらかた枯れ果てていた。彼女が知る外の世界は、黄土色の埃っぽく無機質な場所だった。
そこに魅力を見出すことの方が困難だ。
現在は厳戒令が敷かれ、極力外出を避けること、やむを得ず外出する場合は乾燥防止のためマスク着用が義務付けられた。乾燥した外気に触れる機会を減らすため、換気も控えるように通告されている。
そこまでしてもなお、枯死者は減少するどころか増加の一途を辿っていた。
「聞きました? お酒は枯死率を上げるんですって」
女がぽつりと漏らしたのは、テーブルの上に酒瓶を見つけたからだった。
極力人間が暮らすためにふさわしい環境を整えているとはいえ、アルコールのように利尿作用の強いものを摂取するのは褒められたことではない。
酒自体、近年では超が付くほどの高級品になっている。そのため、先生は昔から棚の奥にしまい込んであった古い酒を引っ張り出してきて飲んでいた。
「このまま枯死に怯えて生きて、何になる? 枯死はいいぞ。火葬しなくていいから、葬式代が安く上がる」
自棄をおこしたような口ぶりに女はわずかに目を見開いた。乾いた目の端が引きつり、ほのかな痛みを生み出す。
滲んだ涙があっという間に乾いていった。
「せんせい、枯死って苦しいんですの?」
「どうだろうな。私の仲間にも色んな変わり者がいたが、その話は聞いたことがなかった。皆、枯死解決のために奔走して、文字通り散っていったよ……」
遠くを見つめながら、先生はため息を吐いた。
彼もかつては枯死を研究する学者の一人だった。原因も解決策も見つからないまま時間だけが過ぎ去り、仲間は次々に枯死していった。
一人だけ生き延びてしまった罪悪感から研究所を去り、こうして隠遁生活を送っている。……らしい、というのが女が先生に付いて知っている全てだった。
先生は脱力したようにテーブルに突っ伏した。そのままピクリとも動かなくなったので、じっと様子を見守っていた女が恐る恐る先生に近付く。
震える指先で先生の肩に触れる。すると、乾いた音と身体が脆く崩れ落ちる感触が伝わってきた。
――枯れ始めている!
驚き、戸惑いながら先生の身体を揺さぶった。こんな状況ですら涙が出ないことに女自身驚いていた。
乾いた肉は簡単に剥がれ落ち、骨が露出する。粘度の高い血液が糸を引いて床に落ちた。
血を流しているのは先生ではない。自分だ。
先生の身体を掴んでいた指先に目を留めた女は、その光景に愕然とした。
先生同様、枯れた身体が朽ち始めている。辛うじて残った生命が、血液が、みるみるうちに流れ出して乾いていく。
次第に遠ざかる意識の中、女は急な異変の原因を見つけた。
これまで開けたことがなかった窓が僅かに開いている。
いつもより余計に乾燥した部屋に、乾いた頬を撫でる風が吹き抜けていった。