7 しるし
蒼天に輝く、陽の光が眩しい、夏になった。
森に近い草原に、狼の氏族の村があった。
彼らは頭頂部に特徴的な耳と、臀部に毛並みのいい尻尾を持っており、この森に住まう人々の中で、最も強く気高い氏族として、その名を轟かせていた。
そんな彼らの族長の息子が、背中に翼を持つ女を連れて帰ってきたのが、昨年のことだった。
それから二人は、常に側に寄り添って生活を続けていたのだが、近頃は、息子の方が一人でいるのを、よく目撃されるようになっていた。
「……何の用だ」
森の中の、針葉樹の枝に横たわる男に向かって、ツァガンは声をかけたのだが、当の男は、不機嫌そうだった。
「オマエ、シャマンだろ。エルージュの様子、見てくれ」
「何で私が見なきゃいけない」
樹上の彼こと、ユーリは面倒くさそうに、そう答えた。
「エルージュ、具合悪そう。病気かも、知れないんだ」
樹の下では、ツァガンが焦った様子で、ユーリを説得している。
しかしユーリは、焦り顔の彼の言葉に耳を傾ける気は、さらさらないようで、相も変わらず樹上に横たわったままであった。
「私は、エルージュ様の従者だ。お前の言う事など聞かんぞ」
「オマエ、冷たい奴だな、こんなに頼んでるのに」
「それのどこが頼んでいる態度だ」
ユーリは胸の羽根飾りを眺めつつ、ぶっきらぼうに言った。
「もう、いい、オイラ、帰る!」
ついに怒ったツァガンは、どすどすと地面を踏みしめながら、自分の天幕へと帰っていく。
次第に小さくなるその後ろ姿を見ながら、ユーリは複雑な顔で、眠りにつこうとしていた。
一方、天幕の中で、エルージュは、一人床に伏せっていた。
「……ツァガン、どこに行ったのかしら」
目が覚めた時に、彼の姿はなかった。
起き上がろうとするも、気分が悪く、座ることすらできない有様である。
もう、何日、こうして横になっているのかも分からない。
食欲は、あるにはあるのだが、食べてもすぐに戻してしまう。
熱も微妙にあるようだが、高熱というほどではない。
ただ、ひたすらに、気分が悪い。
エルージュはため息を吐きつつ、再び目を閉じようとしていた。
「ただいま」
その時、天幕の扉が開いた。
「ツァガン、おかえりなさい」
肘をついて起き上がろうとする彼女を、ツァガンは慌てて押しとどめる。
「エルージュ、無理しないで」
青白い顔のエルージュを横にさせ、ツァガンは心配そうな様子で彼女を見た。
「大丈夫?何か、食べたいもの、ある?」
「……いらないわ」
「でも、食べないと、元気でない」
かまどの上の鍋には、ツァガンの仕留めた獲物肉が入っている。
だが、今のエルージュには、それを食べる元気すらない。
脂身が、匂いが、吐き気を増幅させ、食欲を彼女から奪い取っていく。
テングリにいた頃は、肉を食べる習慣などなかった。
専ら、蜂蜜や、木の実などの草花の葉を主食としていた。
爽やかな朝露と、たわわに実った果実に、甘い花の蜜を、身体は求めていた。
かつて住んでいたところの食事を思いだし、彼女は欲するように言った。
「木の実」
血の気のない唇が、その言葉を紡ぎだす。
「甘酸っぱい、木の実。それなら食べられそう」
「木の実だね、今すぐ採って来る」
籠を手にし、ツァガンは慌ただしく天幕を後にした。
「……いってらっしゃい」
既に彼はいなくなっていたが、エルージュはそう、呟いていた。
「おい、ツァガン」
森へと駆けだそうとするツァガンを、父が呼び止めた。
「嫁の具合はどうだ」
その言葉に、ツァガンは首を振った。
「まだ、良くならない。ご飯も、食べてくれない」
暗い顔で、ツァガンはそう答える。
息子の言葉に、父はため息をついた。
「一体、どうしたのだろうな」
「ちょっと前まで、元気だったんだけど」
「まさか、お前、嫁に無理強いしたんじゃないだろうな」
ツァガンは激しく首を振り、それを否定した。
「ふうむ、だが、このままではまずいな」
あごひげを撫でつけ、父は思案し始める。
その様子に、ツァガンは話が長くなると判断し、森へと向かおうとした。
「父さん、話長い、オイラ急ぐから」
「おい、どこへ行く」
「木の実、採って来る」
父にそう言い残し、彼は走って森へと向かって行った。
森の中で、ツァガンは必死に木の実を探し出していた。
「甘酸っぱい、木の実。きっと、木苺のことだ」
目を凝らして地面を見、赤く実ったそれを、次々と籠に放り込んだ。
たくさん、たくさん、ツァガンは一心不乱に木苺をもぎ続ける。
――これで、元気になって、欲しい。
その思いで、ひたすらに木苺をかき集めた。
そうして、籠が一杯になった頃、彼は、目の前にフクロウがいるのに気が付いた。
「あれ、お前、どこかで」
フクロウは、首をくるくると動かした。
『狼よ、お前のシャマンを連れて来い』
「え、な、なんで」
『柱で、待つ』
それだけ言うと、フクロウは空へと羽ばたいて行った。
「なんだったんだろう、柱って」
フクロウの言葉に、ツァガンは首を傾げつつ、籠一杯の木苺を手に、天幕へと戻る。
そして再び、森に静寂が訪れていた。
人のいなくなった森では、実のもがれた木苺の葉が、静かに揺れていた。
「木苺……」
ツァガンの踏み荒らしたそこを、ユーリが歩いていた。
狼の取りこぼした木苺を摘み上げて、彼はため息をつく。
赤い木苺は、彼の髪の色のような、真っ赤な実だ。
木苺を、口にしてみる。
その酸味に、眉間にしわが寄った。
息を荒らげたツァガンが、天幕へと戻って来た。
籠には一杯の木苺が入っている、彼はそれをエルージュの枕元に置くと、今度は水を汲みに外へと出て行った。
ツァガンの持ってきた、新鮮な水で喉を潤し、エルージュは木苺を口にする。
「……おいしい」
そう言って、彼女は力なく微笑んだ。
一粒、一粒と、エルージュは味わうように、ゆっくりと咀嚼する。
酸味の中に、ほんのりと甘味が広がる。夏の森の恵みは、弱った身体に染みこむように効いていくようだった。
かつて口にしていた、懐かしいその味に、彼女の身体は少しだけ元気を取り戻していた。
「もう、お腹いっぱい。ありがとう、ツァガン」
「え、もういいの?もっと食べなきゃ」
籠一杯の木苺は、大してその数を減らしてはいなかった。
「これで充分よ、ごちそうさま」
「だめだよ、これじゃあ、元気でない」
「いいのよ、もういいから」
そう言って、再び横になるエルージュの姿に、ツァガンはなすすべもなく座り込んだ。
「……どうしたの」
「死んじゃだめ、だからね」
「ええ」
青白い彼女の頬を、そっと撫でて、ツァガンは悲し気な目をしていた。
こんなに弱った姿は、見たことがない。
あの旅の時も、エルージュは笑顔で元気な姿を見せていた、
何が悪い、何が彼女をこんなに弱らせている。
食べ物か、水か、それとも、この環境なのか。
彼は考えながら、森でのことを思いだした。
「エルージュ、明日、森に行こう」
眠りに落ちようとしている彼女に、そっと語り掛ける。
「フクロウが、君を連れて来い、言った」
かつて森を蘇らせた柱がある、フクロウはそこで待つと言っていた。
「やくそく」
柔らかなエルージュの手を握り、彼は祈るように、そう呟いた。
翌日。
今日も空は快晴であった。
その空を、エルージュはツァガンに抱かれたまま、ぼんやりと見上げていた。
「エルージュ、行こう」
彼の足が、力強く大地を踏みしめる。
一歩、一歩、エルージュを抱え、その場所へ。
二人は、森の奥へと進んでいき、例の柱の前まで、やって来ていた。
『来たな』
上空から、音もなくフクロウが舞い降りてきた。
「約束通り、連れてきたぞ」
エルージュを胸に抱き、ツァガンは大声で、フクロウに声をかけた。
彼女の様子は、昨日よりも悪く、連れだすのもやっとという状態だ。
そんな彼女をここまで連れてきたのだから、このフクロウには、それ相応のことをしてもらわないといけない。
ツァガンは厳しい目で、フクロウを睨んでいた。
『そう睨むな、狼のシャマンに生命力を返そうではないか』
「えっ」
『この森を蘇らせるのに、彼女から奪った生命力。今こそ返す時だ』
驚くツァガンをよそに、森の奥から、異形のものどもが現れる。
何体も、何体も、それは現れ、次第にツァガンとエルージュを取り囲むほどの数となっていた。
『狼のシャマンよ、お前に生命力を返そう』
『この生命力で、次代を紡ぐ力を取り戻すがいい』
異形のものが、そう言うと、フクロウは柱に飛び乗り、羽毛を膨らませた。
柱が、白く輝き、次いでエルージュの身体も、白く輝き始める。
フクロウの目が、鋭くエルージュを睨むと、光は全て彼女の体内へと吸収されていった。
『確かに、生命力は返したぞ』
そう言って、フクロウの首がくるくると回った。
「な、何が起きた?」
『生命力を戻したのだ、これで腹の子も順調に育つだろう』
「え、は、腹の……子?」
思いがけない言葉に、ツァガンは動揺を隠せなかった。
腕の中のエルージュを、まじまじと見る。
腹に子がいるなど、彼女は一言も言わなかった。
そもそも、体形からして、変化がないようにも見える。
『何だ、気づいていなかったのか』
その時、彼女の目がうっすらと開き始めた。
「あ、エ、エルージュ、起きた!」
「……ツァガン」
にこりと笑うエルージュを、ツァガンは抱きしめていた。
「エルージュ、エルージュ、オイラ……」
フクロウが、翼を大きく広げた。
『狼のシャマンよ、山場は超えた。もう安心してもいい』
「私……」
『お前は、妊娠していたのだ。元の生命力が減っていたせいで、つわりが酷かっただけだ』
「やっぱり……」
エルージュは、そっと腹を撫でた。
手のひらを通して、腹の奥深くから、かすかな気配が感じられる。
「赤ちゃん、出来ていたのね……」
「ど、どういうこと?エルージュ」
問いかけるツァガンに、エルージュは優しく、諭すように話をした。
しばらく前から、体重が増え、眠る時間も多くなり、身体が目まぐるしく変化をしていたこと。
天幕内や、草原、森の中などで、時々自分以外の小さな気配があったこと、それらの予兆を、気のせいだ、白鳥が狼の子を孕むわけがないと、押し込めていたこと。
全て、目の前のツァガンに打ち明けていた。
「でも、出来ていた。私、ツァガンの子供を……」
「こ、子供、オイラの、赤ちゃん……」
フクロウは翼を広げ、大きく羽ばたいた。
『この世界、命は全て平等だ。白鳥も狼も関係ない、お前たちは次代を紡ぐ者となる』
頭上から、声がした。
フクロウは、二人を祝福し、森は生命力を与えた。
狼の氏族は、ここからまた、力を取り戻そうとしている。
エルージュの目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「ツァガン」
彼を呼ぶ、桃色の唇を、ツァガンの唇がそっと覆う。
嬉しさと、愛おしさ、それらの思いが混ざり合った、長い口づけだった。
二人は、森の中、心を一つに重ねていた。
「エルージュ、ありがとう、ありがとう……」
そう言って、抱きしめる彼の目にも、光るものがあった。
天幕に戻る途中、二人は父親とばったり出くわしていた。
「ツァガン、どうした、どこへ行っていた」
その言葉に、ツァガンは天幕の中で話すと言い、父を自分たちの天幕へと招き入れていた。
眠るエルージュを寝床に置き、彼は父に、森でのことを話し始めた。
「そ、それで、あの、エルージュ、がね」
しどろもどろになりながら、ツァガンの顔は紅くなった。
「こ、子供、で、きた」
「な、なんだと!」
「わああ、声、大きい」
親子は顔を見合わせ、次いで眠るエルージュを見やった。
「い、いつだ、いつ出来た、何か月だ!」
「分からない、さっき、出来てるの知った、ばかり」
父は顔を伏せ、肩を細かく震わせていた。
「ツァガン」
突如、ツァガンの両肩が、父によって鷲掴みにされる。
「よくやった!それでこそ、儂の息子だ!」
そう言って、父はバシバシと息子の肩を力強く叩いた。
あまりの嬉しさに、父も加減ができないのか、ツァガンの目が回りだしていた。
「と、父さん、痛い」
「こんなに嬉しいことがあるか。ツァガン、お前もようやく、父親になるのか」
ぐるぐると回る目を元に戻しながら、ふと見ると、父の尻尾が、激しく揺れていた。
滅多に動かない、父の尻尾が、ちぎれんばかりに揺れている。
あまりの珍しさに、明日は雪でも降るのではないか、とツァガンは思っていた。
「立派になりおって、これで儂も爺か」
ツァガンは、父の歳遅くに産まれた子であった。
身体も軟弱で、このままでは、孫の誕生どころか、嫁すらも娶れないのではと、父は内心不安を抱いていた。
だが、森の大火の後に、息子は長い旅に出て、ようやっと帰って来た時には、次期族長らしく力もつき、さらに体格も大きく立派になり、しかも嫁まで連れていたのだった。
態度には表さなかったが、父は嬉しさで一杯だった。
そして、その嫁は、氏族の失ったシャマン、そのものでもあった。
「エルージュさんや、ありがとう」
父は眠るエルージュに頭を下げ、労いの言葉をかけると、そのまま大喜びで表へと出て行った。
嵐のような父がいなくなった後、ツァガンは茫然とした顔で、彼女の傍らに座り込んでいた。
「エルージュ」
ツァガンの尻尾が、ゆらゆらと揺れる。
「うるさくして、ごめん」
天幕のてっぺんから、陽の光が二人を照らしていた。
何日か後。
あれから、エルージュはやっと歩けるほどにまで体力を取り戻し、笑顔を見せるようになっていた。
具合が悪かったのは、妊娠による体調の変化というのも分かり、ツァガンと父は安堵していた。
彼らの天幕には、氏族の村中から、ひっきりなしに客人が訪れ、皆口々に祝いの言葉と、妊婦の心構えをとくとくと説明していくのであった。
そして一段落ついた頃、天幕の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
扉を開け、姿を現したのは、ユーリであった。
「こんにちは、ユーリさん」
笑顔を見せる主の様子に、彼は安堵の表情を見せた。
「こんにちは、エルージュ様。体調はいかがですか」
「ええ、大分良くなったわ」
ユーリは籠一杯の木苺を、エルージュに手渡すと、頭を下げた。
「ご懐妊、おめでとうございます」
「あらあら、ユーリさんにまで、お話しが伝わっているのね」
「はい、森の中で、獣人たちが話しているのを聞きました」
彼は頭を下げたまま、そう答えた。
「こんなにたくさんの木苺をくれるなんて、ありがとう」
「いえ、従者たるもの、これぐらいは当然のことです」
そう言って、ユーリは顔を上げた。
目線の先には、エルージュの笑顔がある。
愛おしそうに腹を撫でる、幸せ一杯のその姿は、何よりも輝いていた。
ユーリはその様を、切な気に見つめる。
主の笑顔は、ユーリには向かない。笑顔の行く先は、あの獣人だからだ。
命の恩人であり、主でもある彼女の笑顔を、こちらにも向けて欲しい。
彼は思い悩み、喉から手が出そうなほどにそれを求め、思わず言葉が出ていた。
「エルージュ様、私は」
そう、言いかけた、その矢先だった。
「ただいま、エルージュ!」
扉を勢いよく開け、ツァガンが帰ってきた。
「ツァガン、おかえりなさい」
「木苺、採って……、あれ、オマエいたのか」
ツァガンは、ユーリを一瞥すると、エルージュが何かを持っているのに気が付いた。
「あれ、エルージュ、それ」
「これね、ユーリさんがくれたのよ」
彼女の籠には、一杯の木苺が見える。
そして、ツァガンの持つ籠にも、一杯の木苺がある。
「今日、木苺の数、少ないの、オマエのせいか」
「早い者勝ちだ」
そう言って横を向くユーリに対して、ツァガンは少しだけ苛立ちを覚えていた。
「エルージュ、オイラの採ってきた、木苺、食べて」
彼女の手から、ユーリの籠を奪い取り、ツァガンは自分の籠を押し付けようとした。
それに対抗するように、ユーリも自分の籠を、負けじと彼女に押し付ける。
「エルージュ様、私の採った木苺の方がおいしいです、ぜひ!」
「ううう、オマエ、邪魔するな!」
「私が先だ、お前こそ邪魔するな」
二人の意地の張り合いに、エルージュは苦笑いをし、次いで、それぞれの籠から、一つずつ木苺を取りだして、口に含んだ。
「あっ」
「えっ」
「うふふ、二人ともおいしいわ、ありがとう」
笑顔を見せるエルージュに、ツァガンは思わず彼女を抱きしめ、ユーリはひたすらに頭を下げて、感謝の意を表していた。
草原の夏は、照りつける陽射しも山場を越え、秋の気配が、そこかしこから聞こえようとしていた。




