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2 いのり

 それは、突如起きた。

 赤い巨大な蛇が、何匹ものたうち回り、森を飲み込んでいた。

 既に幾百もの木々がその腹に消え去り、後には灰塵と化した土地だけが残った。

 男はその光景を、ただ黙って見ていることしかできなかった。

 やがて、赤い蛇は男の元までやって来る。

血よりも赤い、その身をくねらせながら、男を飲みこもうと、大きな口を開けた。

『逃げろ、早く』

誰かが叫んだ。

 その言葉に、男は走りだした。

――早く、もっと早く、急がないと、追いつかれてしまう。

嫌な臭いが男の鼻孔に入り込み、呼吸を、身体を、束縛する。

――逃げないと、いきが、もっと、とおく、まで。

足がもつれ、男の身体に、赤い蛇の息がかかる。

 男の視界が真っ暗になった。


「うわあっ!」

 月明り差す天幕内に、叫び声が響いた。

思わず飛び起きた男の身体には、おびただしい汗が流れていた。

「どうしたの、うなされていたわ」

 心配そうな目で、女は男に声をかける。

「はあっ、はあっ、な、なんでもない」

 男は無用な心配は掛けさせまいと、精一杯の強がりをして見せた。

顔を背け、動揺を見せないように、息を整える。

「ツァガン、強がらないで」

 身体を支える男の手に、女の手がそっと触れる。

「……エルージュ」

 ツァガンと呼ばれた男の目が、エルージュと呼んだ女の顔を見やる。

心配気に彼を見つめる、透き通った瞳に、男の姿が映り込んでいた。

「今夜は側にいるから、安心して」

 ツァガンはエルージュの手を取った。

「手、握ってていい?」

「ええ」

 二人は寄り添いながら、眠りについていた。


 翌朝。

 エルージュは一足早く目覚めると、かまどの火を起こしていた。

白い腕を伸ばし、長い黒髪を掻き上げて、火箸を手に取った。

 灰を除け、新たな薪をくべると、くすぶっていた火が徐々に力を取り戻していくのが、ハッキリと分かった。

 かまどの火に照らされて、背中の白鳥の翼が、橙色に染まる。

 傍らでは、ツァガンが豪快なイビキを立てて眠っていた。

夜中の騒ぎはどこへやら、金色の髪から生える、頭頂部の大きな狼の耳が、ピクピクと動いていた。

 そんな彼を見て、エルージュは昨夜のことに思いを巡らせていた。

 ツァガンが夜に、うなされているのだと気づいたのは、ちょうど一月前のことだった。

 長旅を終え、共に暮らすようになった時だった。

あるいは、もっと前から、彼はそうだったのかも知れない。

 呼吸は荒く、手足は苦しそうにもがいている。

最初にそれを見た時は、彼が死んでしまうのではないかと不安になったものであった。

 だが、それは悪夢の仕業であると、すぐに分かった。

 ツァガンを悩ませる悪夢の内容が、どういうものであるか、彼は語ろうとしないが、おそらく口に出したくもない、深い心の傷なのは、エルージュにも薄々感じられた。

「薪、取りに行かなきゃ」

 最後の薪をかまどにくべると、エルージュは天幕の外へと出て行った。


 パチン。

 かまどの火が爆ぜた。

その音に、ツァガンはゆっくりと目を開け、眠い目を擦り、辺りを見回した。

 白に近い生成りのフェルトからなる天幕は、円形に建てられた柱と、円錐状に組まれた屋根で構成され、そこにフェルト地を何枚も重ね合わせた、湿気の少ない寒冷地帯特有のものだ。

 天幕内には、真新しい家具が一つ二つあり、それは彼ら二人が、共同生活を始めてまだ間もないというのが、見て取れた。

 ツァガンはその室内を見回した。

「……エルージュ?」

 いつもあるはずの、彼女の姿がない。

「エ、エルージュ、どこ!?」

 思わず飛び起き、天幕内を見るも、やはり姿は見えない。

「エルージュ!返事、して!」

 ツァガンは慌てて外へと転がり出ていた。

「何だお前、今頃起きたのか」

 天幕の外では、ツァガンよりも身体の大きな男が一人、運動をしている真っ最中であった。

「と、父さん」

 男は、ツァガンの父親で、この辺りの氏族を纏める族長でもあった。

 彼らの氏族は狼を祖霊とし、その身体には特徴的ともいえる、狼の耳と尻尾が備わっていた。

 それゆえに、西の人間たちからは獣人と呼ばれ、畏れ、蔑まされてもいた。

「お前、遅くまで嫁を構いすぎだぞ。新婚なのも分かるが、朝は早起きしないとイカンぞ」

 そう言って、父はニヤニヤとツァガンを見た。

 だが、ツァガンはそれどころではなかった。

「父さん、エルージュ見なかった?」

「天幕の中にいないのか?なら、森の中だろう」

 父の言葉に、ツァガンは森へと走りだしていた。


 森の中。

 朝日差す緑の中を、エルージュは一人、歩いていた。

そよ風が、彼女の黒髪をふわりと撫で、背中の翼をさわさわとくすぐる。

その身体は、幾重にも重ね着した麻とフェルトの服を着ており、丈の長い裾がひらひらと風に靡いた。

 両手には薪を一杯抱え込み、彼女はもう天幕に戻ろうかと、ふと振り返る。

 視線の先には、森の奥が見えた。

 一月前、この森に初めて来た時、ツァガンが言った言葉が、脳裏に蘇る。

『この森の奥に行ってはいけない』

 なぜ、あの時、彼はそう言ったのか。

 なぜ、彼はその先を恐れるのか。

エルージュは、それらを問えぬまま、その森の中にいた。

「この奥に、何かあるのかしら……」

 漆黒の瞳が、霞む木立の間を見つめていた。

「エルージュ!」

 背後から呼び止められて、彼女は振り返った。

そこには、金色の髪の、毛皮を羽織った、狼の耳と尻尾を忙しそうに動かす、一人の若い男が、息を荒げて立っていた。

「ツァガン、どうしたの?」

 エルージュは努めて冷静な顔で、そう、問いかけた。

「その奥に、行っちゃだめだ」

 喘ぐような息遣いで、彼は、答えた。

「分かっているわ」

 エルージュは、彼を安心させるように、優しく微笑む。

「帰ろう」

 彼に手を取られ、エルージュは薪がこぼれるのも構わずに、森の外へと歩きだした。

二人の背後では、森が霞に包まれようとしていた。


 二人が出会ったのは、巨悪を打ち滅ぼす、旅の途中であった。

ツァガンは聖剣を携えし勇者の仲間として、エルージュは神に仕えし従者として、人がたどり着けない、山の頂で、獣人たちがテングリと呼ぶ、その場所で。

 最初は他人行儀であったが、いつしか想いは通じ合い、やがて二人は共に生きる誓いを交わしていた。


 草原。

 風が足元の草を薙いでゆく。

 エルージュはそこで、天に、地に、祈りを捧げていた。

太鼓を打ち鳴らし、くるくると踊るように、その身を翻す。

 ツァガンは、そんな彼女の動きを、不思議そうに見守っていた。

 そうして、エルージュの太鼓が鳴り止み、草がざわめきだした時だった。

彼女の背中に生える、大きな白い翼が羽ばたきだした。

 空への旅が始まった。

 エルージュの足が、地を離れ、身体は天へと浮き上がる。

人間とも違う、異形の姿を持つ、白鳥を祖霊とする彼女の姿は、気高くも美しい。

 だが、彼女に氏族の仲間はいない。その者は唯一無二の一個体であり、孤独な一人のか弱き女でもあった。

 そんなエルージュが空を飛ぶ、どこまでも、どこまでも、世界の果てが見えるところまで。

 そこで彼女はそれを見た。

広がる草原に、雄々しく聳える山とテングリを映す湖が見え、雲は流れ行き、そして森が無限に続いている。

 彼が制した森の奥を、エルージュは、ただ見ていた。


 それから数日後のこと。

 森に近い草原で、二人は狩りをしていた。

「エルージュ、下がってて、危ないから」

 彼女をその場に残し、ツァガンは身を屈めて獲物に近づく。

彼らは氏族特有の、優れた嗅覚と視覚を有し、そして体力の強さでもって狩りを行う。

 武器と言える物を持たずに、狩猟をする様は、まさしく獣人という名に相応しきものだった。

 息を潜め、草の中に姿を隠す。

獲物の鹿は、まだ気づかない。

 じりじりと距離が縮まる。

虫たちの声が止み、鹿も察したように、微動だにしなくなる。

 鹿が逃げようとした、その刹那だった。

黄金の髪が一陣の煌めきとなって、獲物に襲い掛かった。

 角を掴み、瞬時に鹿の首をへし折る。

 動きを止めた獲物を脇に抱え、ツァガンは立ち去ろうとした。

「ツァガン、後ろ!」

 その言葉に、彼は振り返る。

 背後から、一頭の、角のない鹿が、ツァガン目がけて突進してきていた。

彼はそれを難なく抑え込むと、森の方へと逃がしてやった。

「エルージュ、ありがとう」

 ツァガンはそう言い、獲物の処理を始めた。

「ツァガンは、強いのね」

「そうでもない、オイラ、まだまだ弱い」

 血の臭いが、辺りに立ち込めた。

「オイラ、もっと強くなる、エルージュと、約束したから」

 そう言うツァガンの尻尾が、左右に揺れる。

「うふふ、尻尾」

 その仕草が可笑しかったのか、エルージュが笑った。

「うん、嬉しいんだ。獲物、捕れたしね」

 照れ臭そうに、ツァガンも笑う。

「それだけ?」

 エルージュが、意地悪気に問いかけた。

「ん……、本当はね、エルージュに、獲物、あげられるの、嬉しいんだ」

 ツァガンの頬が、紅く染まる。

「ありがとう、ツァガン」

 彼女はそれを、笑って受け止めていた。


 さらに数か月の時が流れた。

 ある日、エルージュは、ツァガンに告げた。

「ツァガン、お願いがあるの」

「どうしたの?」

 天幕の中で、エルージュはツァガンの手を取り、じっと彼の瞳を見る。

「あなたの悩みを、私に教えて欲しいの」

「そんなの、ない」

 彼の瞳が泳いでいた。

「嘘をつかないで、私、知っているのよ」

 エルージュは告げた、彼が悪夢に苛まれていることを。

故郷に戻って来たというのに、日に日にそれは激しさを増し、ついには健康にまで影響を及ぼしていることを。

 だが彼は、それらを否定した。

 悪夢など見ていない、影響は長旅の疲れなのだと。

 それでもエルージュは食い下がった。

「お願い、私なら、あなたのことを救えるわ。だから」

「エルージュ、オイラ、平気、だから」

 彼女は首を振った。

「私を信じて、私はシャマンよ。あなたの悪夢が森に原因があるならば、私は森と対話をしなければいけないの」

 シャマンとは、呪術師を表わす言葉だ。

この世界には、シャマンを抱える氏族は数多くいる。

 それらは天と地を結び、己の氏族のために、自然や精霊と言葉を交わし、祈りを捧げる。

 だが、ツァガンの氏族は、それを失くした。

彼らは森を住処とし、かつてはシャマンを有してはいたが、力を追い求めるあまり、祈りを忘れたのだ。

「ツァガン、私、あなたが心配なの」

 エルージュの澄んだ瞳が潤みだした。

「でも、オイラ……」

「これ以上、心配させないで」

 彼はうつむき、何か意を決したように、エルージュに向き直った。

「分かった、話すよ」


 それは、世界の異変の始まりであった。

何年か前の秋のことだ、突如、森の一角から火の手が上がった。

その年は雨が少なく、例年であれば、雨が降って火は鎮火するはずであったが、折からの空気の乾燥と、強い風に煽られて、火は瞬く間に燃え広がっていた。

 その時のツァガンは、父親と離れ、森の中で一人狩りをしており、獲物を追いかけるのに夢中になるあまり、炎が己の周囲を取り囲んでいるのに、気づくのが遅れていた。

 焦げ臭い匂いに、辺りを見回せば、地を這うように蠢く、紅い炎が視界に入った。

まるで意志があるかのように、それは、彼目がけて進んで来ているではないか。

 赤い、紅い、血よりも赤き、巨大な蛇のような炎だ。

あまりの恐怖に足がすくみ、彼の身体は、その場から動くことができない。

 ツァガンの目は、ただ炎のみを見つめていた。

 その時、頭上を何かが飛ぶ。

『逃げろ』

 誰かが、そう、言った。

 まるで魔法が解けたかのように、足が動いた。

炎が渦を巻く、熱風が身体に絡みつく、赤き蛇が、すぐ後ろに迫る。

 ツァガンは必死の思いで森を抜け、草原へとたどり着いた。

後ろを振り返ると、森の奥で、炎が踊り狂っているのが見えた。

 それから、冬が間もなくやって来た。

森の大火により、厳冬の間の蓄えを失った彼らの生活は、それは厳しいものであった。

 氏族の中には、この地を離れた者もいる。

 長い冬を越え、再び春が訪れた。

 だが、森は蘇らなかった。

祈ろうにも、詩は散じてしまった。シャマンを持たない彼らは、森を蘇らせる術を失っていたのだ。

 彼らは、絶望の淵に佇んでいた。

 そんな時、ツァガンは父親に言われた。

山を越えた向こうに、春の呪術師ヴィスナーシャマンと呼ばれる男がいる。その人に会え。と。

 そのシャマンならば、森のために祈ることができる、森を蘇らせることができるのだ。

 一縷の望みと、氏族の願いを託され、ツァガンは山の向こうへと旅立った。


「でも、願いは、叶えられなかった」

 かまどの火が、パチパチと音を立てた。

「オイラが、その人の家にたどり着いた時、その人は、もう、死んでいた」

 彼に膝枕をしながら、エルージュは優しくその頭を撫でていた。

「話を聞いたら、春の呪術師ヴィスナーシャマンの、弟子が、悪いことをして、殺された、らしい」

「ヴァシリーが言っていた通りね」

 ヴァシリーとは、春の呪術師の弟子で、彼らの旅の仲間の男だった。

彼もまた、世界を救うため、兄弟子を止めるために、西方の呪術師ザーパトヌイシャマンとして共に戦った。

「ヴァシリー、言ってた。森を蘇らせるには、その氏族の、シャマンでないと、ダメだって」

 エルージュの膝に顔を埋め、ツァガンは言葉を発するも、それは不安で震えていた。

 柔らかい妻の太ももを、彼は掴んでいたが、その腕に、自然と力がこもった。

「オイラたち、シャマンがいない。獲物の数も、森の木の実も、どんどん減ってる」

 彼の声が、悲しみの色に染まった。

「どうしよう、このままじゃ……」

「私がいるわ」

 その言葉に、彼は驚き、エルージュと顔を見合わせていた。

「私はシャマンよ。あなたの氏族のために、詩をうたいましょう」

「ほ、本当?」

「ええ、あなたと結婚したのだからね」

 にこりと、エルージュは微笑んだ。

「ありがとう、エルージュ」

 彼はエルージュを抱きしめた。


 翌日、森の中にて。

ツァガンとエルージュは、そこに佇んでいた。

立ったまま、炭と化した木々がある、足元は白く、雪のような灰が積もっている。

「この先から、ずーっと、こんな感じ」

 歩くと、灰がふわふわと舞った。

白と黒でできた、色のない森は、生命の痕跡など無い。この森は、死んでいるも同然だった。

 ふと、ツァガンの足が止まる。

「どうしても、行くの?」

 恐ろしい思い出が、彼の足を阻む。

「ツァガン」

 じっとりと汗をかく彼の手を、エルージュは握った。

「二人なら、怖くないわ」

「……うん」

 その森を、二人は奥へと進んだ。

「エルージュ、どこまで行くの?」

「探しているの」

「何を?」

「あるはずなのよ、かつてシャマンがいたのなら、それがあるはず」

 真っ黒な木々と、歩く度に巻き上がる灰に咽せつつ、霞む風景の中を、エルージュは探し求める。

どこまでも、色のない世界を、彼らは進む。

 そしてそれは、突然に現れた。

 森の中に、一本の柱があった。

あの炎の中、まったく焼けることなく、そこにあり続けた祈りの柱だった。

「あった……」

 それに触れようと、エルージュの手が伸びた。

――触るな。

 エルージュを制止する声がする。それは頭上から響いていた。

驚く二人の目前に、一羽のフクロウが舞い降りた。

『女、触れるな、これは我らの物だ』

 フクロウの嘴が動くことなく、声だけが響く。

『お前たち、何しに来た。ここがどこだか分かっているのか』

「分かっています。ここは祈りの場、世界の柱です」

『それも、もう古い話だ。そこの狼は祈りを忘れたようだがな』

 フクロウは首をくるくると動かし、ツァガンを見た。

「フクロウ、喋ってる」

『喋ってはいけないか、恩知らずの狼め』

 驚くツァガンとフクロウの間に、エルージュは立った。

「お願いです、私に祈ることをお許しください。私はシャマンです」

『珍しい、女のシャマンか、だが、祈りは許可できない』

「なぜです」

『お前は狼の氏族ではない、テングリの白鳥だ』

 その言葉に、エルージュは固まった。

「まて、エルージュは、オイラと結婚した!オイラたち、夫婦だ!同じ氏族だ!」

『黙れ、お前。女も知らんくせに、よくそんなことが言えるな』

 エルージュの顔が紅くなる。

『女も、男を知らんと見える。これで夫婦だとは、笑わせてくれる』

 うつむくエルージュを、ツァガンは不思議そうに見る。

 旅の終わりに、仲間たちの前で誓いはした。だが、夫婦ではないとフクロウは言う。

父も、氏族の仲間も、二人を夫婦として扱う。違うというのは、このフクロウだけ。

 疑念の目で彼はフクロウを睨んだ。

「お前、オイラたちにウソを言っているな!」

『嘘ではない、何ならその女に聞いてみればいい、本当に夫婦か否か』

 あきれた様子で、フクロウは首を掻いた。

「エルージュ、オイラたち、夫婦、だよね?」

 彼女の肩を掴み、彼はまっすぐな瞳でエルージュの顔を見た。

「ツァガン……」

 エルージュの目が閉じられ、首が左右に振られた。

「そんな……」

 愕然とした。

彼女までもが、夫婦ではないのだと、ツァガンに告げていた。

『夫婦になったら、また、ここに来い、それとも、今ここで夫婦になるか?』

 フクロウは大きく羽ばたいた。

「ツァガン、帰りましょう……」

 顔を伏せて、力なく、エルージュは呟いた。

『焦るな、時間はたくさんある』

 フクロウの声だけが、森に残された。

「エルージュ、なんで、オイラたち……」

「ツァガン、あなたは私を抱いてはくれない」

 彼に抱きしめられながら、エルージュは悲し気な目をした。

「抱く?それなら、今、してる」

「そうじゃない、そうじゃないの」

 エルージュは頭を振った。

「夫婦の契り、あなたはまだ、知らない」

 それがどういう意味なのか、ツァガンは分からずにいた。


 二人は父親の天幕にて、森の中でのことを正直に話した。

「まてまて、お前ら、その、してなかったのか?」

 あきれた顔で、父は息子を見た。

「儂は、いつ孫ができるかと思っておったのに、このバカ息子が!」

「う、ご、ごめんなさい」

 大声で怒鳴られて、ツァガンは思わず怯えた。

「エルージュさんや」

「はい」

 突如、父はエルージュに向き直り、地につかんばかりに頭を下げた。

「頼む、息子を、男にしてやってくれ」

「お、お父様」

「儂は、息子を立派に育てたつもりだった。だが、肝心なところで、コイツは何も知らん奴だと今更分かった」

「お父様、頭を上げてください」

 初めてみる、義理の父の姿に、エルージュは気が動転していた。

「だったら、父さんが教えてくれてもいいのに」

 ぼそりと、ツァガンがあらぬ方向を見つつ、不満そうに呟いた。

「うるさい。大体、こういうのは、獣を見ていれば、自然と分かるだろうが」

 父の怒りの目が、ツァガンを睨み付ける。

「そんなの、見たことない」

 大きなため息をつき、父は頭を抱えた。

「とにかく、このバカ息子をよろしく頼むぞ」

 その必死の形相に、エルージュは黙って頷くしかなかった。


 月明りの草原。

 夜風が吹き、ざわざわと、草が音を立てた。

 ツァガンとエルージュは、父の天幕を出て、ふらりと草原まで足を伸ばしていた。

 本来なら、真っ直ぐに自分たちの天幕へと戻るところなのだが、二人はこのまま帰る気にもなれず、夜の散歩と相成っていた。

「ツァガン」

 満月の光に照らされて、エルージュの身体が、ほのかに光った。

彼女の姿は、過去の旅で出会った、どの女たちよりも、美しく魅惑的だった。

「私と、夫婦になって、くれますか?」

 その言葉に、ツァガンの顔が紅くなる。頬が、熱くなった。

「も、もちろん」

 大きく頷き、やや緊張したような笑顔を、ツァガンは見せた。

「ありがとう」

 二人は微笑み合い、静かに寄り添った。

「じゃあ、天幕に戻ろう、か」

「待って」

 エルージュが、その身を離した。

「どうしたの」

「水浴び、していきたいの」

 今まで見たことのない、彼女の艶めいた仕草に、ツァガンは胸が高鳴るのを覚えた。


 草原を流れる川。

 そこでエルージュは、身体を浄める儀式に入った。

流れるせせらぎと、時おり跳ねる軽快な水しぶきの音に、ツァガンは背を向けたまま、顔を真っ赤にしていた。

――今、彼女は無防備な姿をさらけ出している。

 その事実に、身体が熱を帯びてくる。呼吸が荒くなり、後ろを振り返りたい気持ちでいっぱいになる。

 だが、見るわけにはいかなかった。

男が裸を晒すのは、力の誇示だからいいとして、女の裸は、劣情を催すものだからだ。

 それに、彼女の裸を見ると、何も考えられなくなるというのもある。

 長い葛藤の時間が過ぎ、彼女に声をかけられたツァガンは、その姿を見て驚いた。

 先ほどとは打って変わって、とても清浄な空気に包まれた、彼女の姿があった。

「エルージュ、きれい」

 思わず、言葉が、口をついて出た。

「ありがとう。ツァガンも水浴び、どうぞ」

 彼女は微笑むと、ツァガンにも水浴びをするように勧めた。

「い、いいよ、オイラしないから」

「ダメよ、こういうのは、相手のためにするのだから」

「で、でも」

「あなたの背中、流してあげるから」

 彼女の言葉に、ツァガンは渋々従った。

 分厚い毛皮の羽織りを脱ぎ、上着を取って、広い背中を彼女に向けた。

「ツァガン、あなた……」

 エルージュの顔が、凍りついていた。

「ん、これ?気にしなくていいよ。もう治ってる、から」

 彼の背中には、皮膚が大きく焼け爛れ、褐色の肌が、内側から弾けたような、薄い桃色の火傷の痕が刻まれていた。

「ごめんなさい、私、知らなくて……」

 ツァガンの悪夢の原因は、その身に、深く刻まれていた。

「エルージュ、悪くない、謝らなくて、いい」

 ツァガンは笑いながら、そう答えた。

「背中、流すんだよね?」

「ええ」

 火傷の残る、ツァガンの傷ついた背中を、彼女は優しく流し始めた。


 天幕の中で。

 かまどの火が、二人の顔を赤く照らした。

 ツァガンは緊張しているのか、先ほどから彼女に背を向けて、かまどの火をいじり続けている。

 赤い火が、パチパチと小さく爆ぜ、ツァガンの髪を鮮やかな赤銅色に染め上げた。

「ツァガン」

 火をいじる手を止め、ツァガンは声のする方を見た。

漆黒の髪の妻が、すぐ傍で寄り添うように、座っていた。

「あ、あの、エルージュ、オイラ、その」

「無理をしなくて、いいのよ」

「うん……」

 沈黙が、二人を包む。

 ツァガンは、共に暮らすと決めた、あの日を思い出した。

 勇者たちとの旅の中で、彼らは光り輝く満月の元に抱き合い、互いの思いを告げ、将来の誓いを交わした。

 あの日から月は幾度も満ち欠けを繰り返し、再び満月が二人を祝福する。

 月光の雨だった。

降り注ぐ月の光が、森を、草原を、そして彼らの天幕を柔らかく覆っていた。

「かまどの火はそこまでにして、私のことも抱きしめて」

 その言葉に、ツァガンはエルージュを見た。

 彼女の漆黒の瞳が、彼を見つめる。

 やがて女の瞳は閉じられ、男は思わずその身体を抱きしめ、口づけをした。

 天幕の中で、二人の影が重なり合っていた。

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