10 いのち
深夜。
突如始まった痛みに、エルージュは目を覚ました。
脈打つ様に、腹に響く、鈍い痛みが走る。
ただの腹痛ではない、腹の内側から、外へ出ようと訴える、子の合図だった。
――来た。
あまりの痛みに、汗が流れ、声を出したくなる。
だが、傍らには、ツァガンが眠っていた。
――起こしてはいけない、彼は昼間の狩りで、疲れているから。
声を出さず、物音も立てず、彼女はひたすらに痛みに耐えた。
そうして、しばらくした頃、不思議と痛みが和らいだ。
――今のうちに。
彼女は、まとめておいた荷物を手に、静かに天幕を後にした。
血と肉を待つ、森へ。
満月の光差す、夜の森。
荒い息を吐きながら、エルージュは一人、夜の闇を彷徨う。
もう何度、足を止めただろうか。
繰り返し襲い来る痛みに、その顔が歪んでいた。
「い、痛い……。こ、こんなに、苦しいなんて……」
お腹をさすり、大きく、息を吸い、吐く。汗が、次々と流れ落ちた。
「あ、な、何……」
内腿を伝う、生暖かい感触に、思わず膝をつく。
そっと服の下に手をやり、それが血でないことを確認した彼女は、なぜだかほっとしていた。
「血じゃ、ない、これ、破水なのかしら……」
歯を食いしばり、立ち上がろうとするが、またも来る痛みに、力が抜けてしまう。
「だ、だれ、か、ツァガン、ユーリさん、た、すけて……」
彼女の小さな声は、森の中に、消えていった。
森の中の小さな天幕。
人一人が横になれるほどの大きさの天幕内で、ユーリは眠っていた。
「……ん?」
だが、彼は唐突に目覚めた。
胸にある、羽根飾りが、チリチリと細かく振動をしている。
いつもは、動くことなどない羽根が、今宵に限って、何か訴えるように揺れている。
嫌な胸騒ぎに、彼は、羽根の指し示す方へと走りだしていた。
森に、荒い息使いが響き渡る。
エルージュの陣痛は、間隔が少しずつ狭まってきていた。
人間とも少し違う身体の彼女だが、初産のせいもあるのか、その痛みはかなり苦しいものであった。
「い、いつ、産まれるの、かしら。もう、だいぶ、時間が、経った、けれども……」
最初の痛みから数時間が経つが、目的の場所は、まだまだ先だ。
彼女は力を振り絞って立ち上がり、前へ進もうとした、その時だった。
「エルージュ様!」
木立の間から、赤毛の男が姿を現す。
「ユ、ユーリ、さん」
彼はエルージュに駆け寄ると、心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうなされたのですか」
「お、お願い、祈りの柱まで、連れて行って」
痛みに耐える彼女の顔には、粘い脂汗が光っていた。
「そんな身体で、あの場所に行くなど、無理です」
「いいから、連れて行くのです。わ、私は、そこで、この子を、産まなければ、いけないの」
彼女の言葉に、ユーリの顔色が変わる。
「産むって、まさか、お一人で産むつもりですか?」
「ええ、そのつもりよ」
「いけません、お産は命がけと聞きます。村に戻って、産婆に取りあげてもらいましょう」
「む、村は無理よ、絶対に戻らない」
瞳を輝かせ、エルージュは力強い眼差しで前を見据える。
彼女の強い決意に、ユーリの反論の余地は、無かった。
「そこまで言うのなら、私はあなたに従うしかありません。祈りの柱まで行きましょう」
「あ、ありがとう」
二人は祈りの柱へと歩きだした。
道中、激しくなる陣痛に、立ち止まりつつも、彼女らは長い時間をかけて、その場所へと辿り着いた。
「はぁ、はぁ、こ、ここで、いいわ。これから、獣除けの術を使うから、あなたは、誰も来ない、ように、見張っていて」
「承知しました」
「全てが終わったら、合図を送ります、から、それまで、来ないで、ちょうだい」
「はい、頑張ってください」
「頑張るわ」
エルージュは、精一杯の笑顔をユーリに向けると、強力な術を張り巡らせた。
雪の積もる森の中の、祈りの柱の元で、彼女は出産をしようとしていた。
森の中は、生命の、狼の力に満ち満ちているが、それは血に飢えた獣がいる場所でもある。
そこで血の匂いなどさせたら、いくら彼女とはいえ、弱った身体で抵抗できるわけもない。
なので、少しでも氏族の庇護を得ようと、柱の元で出産しようとしたのである。
夜が明けた。
天幕の中で、夢うつつのツァガンは、寝返りを打つ。
柔らかなエルージュの身体。それが、ない。
「……エルージュ?」
目を覚まして、天幕内を見回すも、彼女の姿はなかった。
眠い目を擦り、数日前に彼女が言った言葉を思いだす。
『私、森の中で産むつもりだから』
――まさか。
ツァガンは飛び起き、毛皮の羽織りを引っ掴んで、表へと飛び出していた。
森の中に、苦しそうな声が響いていた。
「はぁ、はぁ、ううっ……」
陣痛の痛みは、時間を経るごとに、激しくなる。
エルージュは、大きく息を吸いながら、ひたすらにその激痛に耐えていた。
「く、苦しい、命を産むことが、こんなに、大変だなんて。森よ、テングリよ、どうか……」
荒い息で、彼女は慈悲を請うた。
一方、ユーリは、そこへと至る道の途上に佇んでいた。
背後からは、主の苦しそうな声がしている。
その声も、彼女の張り巡らせた術の内部でしか、響かない。
術の外は、いつもの、森の静寂が広がる。
「エルージュ様、苦しそうだ。私が女であれば、手伝うこともできたのだろうが……」
だが、彼は男だった。お産を手伝うなど許されないのである。
胸の羽根が、細かく振動する。今の彼には、ただ祈ることしか、できなかった。
と、そこへ。
「エルージュ!どこ!」
「あっ、お前」
遠くから駆け寄る、金色の耳と、尻尾が見える。
エルージュを心配したツァガンが、ここまでやって来ていたのだ。
「待て、この先に行くな!」
「邪魔するな!オイラ、エルージュ、迎えにきた!」
ユーリは両腕を広げ、ツァガンを行かせないように制止する。
「どうあってもダメだ、ここを通すわけにはいかない!」
「なんで、邪魔する!通せっ!」
「エルージュ様のご命令だ、誰も通すなとのことだ!」
「オイラでもか!」
「そうだ!」
押し問答の末、ツァガンはユーリに拳を突き出す。
「オイラと勝負だ!オマエを倒して、ここを通る!」
「勝負している場合ではない!エルージュ様のことを考えろ!」
ツァガンの頭の耳が、ピクピクと動く。
遠くから聞こえるのは、愛しい妻の声だ。
その声は苦痛に満ちており、ツァガンは思わず我が耳を疑った。
「え、な、なに、何が、起きてる?」
「よく聞け、エルージュ様は、お産の真っ最中だ。お産は女にとって神聖なもの、あの方の誇りを穢すような真似はできない」
「で、でも、すごい苦しそう」
「当然だ、お産は命がけだ。私もお前も、そうやって産まれてきたのだぞ」
「し、知らなかった。お産って、狼みたいに、ぽんぽん出ると、思ってた」
ツァガンの言葉に、ユーリは呆れた顔をした。
「人間と狼は、かなり違うぞ。狼も苦しいが、人間はもっと苦しい思いをするんだ」
「じゃあ、オイラが、側にいて、励ましてあげなきゃ」
「ダメだと言っているだろう。エルージュ様も、見られたくないものがある、分かってくれ」
森の奥へと至る場所に、男が二人立つ。
彼らは、エルージュとその子の無事を祈るしかなかった。
陣痛開始から、かなりの時が過ぎた。
既に陽は登り、陽射しが森の中に差し込んでいる。
エルージュは、ますます激しさを増す、その痛みに、正気を失いかけていた。
目は光り輝き、背中の翼も大きく広がり、白い肌には、羽毛が生え始める。
祖霊である白鳥の姿が、顕現しようとしていた。
「はあ、はあ、はあ。ま、まだなの、まだ、産まれないの」
ツァガンの尻尾毛を入れたお守りを握りしめ、彼女は大きく息をした。
「ツァガン、ち、力を、貸して。私を、助けて」
思わず口をついて出たのは、愛しい人の名前だ。エルージュは無意識にツァガンに助けを求めていた。
「……エルージュ?」
ユーリの言葉通りに、おとなしく待つツァガンであったが、何か呼ばれたような気がして、森の奥へと走りだそうとしていた。
「行くな!」
その姿に、ユーリは大声で彼を諫めた。
「エ、エルージュ、助け、呼んでる、オイラを呼んでる。オイラ、行かなきゃ」
「行ったところで、お前に何ができる。待つんだ」
ユーリの言葉通りであった。助けに行っても、ツァガンには何もすることができないのだ。
ならば、ここで待つしかない。これは彼女の問題だった。
「も、もうずっと、苦しんでる。お産って、こんなに時間かかるのか?」
「当たり前だ。初産なら、一日かかっても、おかしくはない」
「そんな、オマエ、なんとかしろ」
「魔法でどうにかなるわけが……」
突如、ユーリの声が止まる。
彼は何事か考えだすと、おもむろに太鼓を叩き始めた。
「魔法ではない、シャマンの術だ」
ユーリは力強く、太鼓を叩いた。
ダン、ダン、ダン。
女神 女神 天の層 第五の梢に住まう女神
白き湖 乳湖の母 出産を司る
テングリの白鳥 乳湖の力 乞い願う
祈り 我は汝女神に祈る
男である、ユーリの祈りが、届くのかは不明であるが、彼はそれでもシャマンの祈りを続けた。
太鼓が、大きな音を立てて、木立の間に響く。
「あれ、オイラの羽根が」
エルージュの腹が膨らみだした頃、彼女が上着につけてくれた、純白の羽根がある。
その羽根が、彼女の異変に呼応するかのように、チリチリと動く。
「エルージュ、頑張って。オイラ、何もできないけど、信じてる、から」
ユーリの祈りのうたを見ながら、ツァガンは祈りを捧げていた。
絶え間なく続く、痛み。
エルージュは、ひたすらその苦しみに耐えていた。
「はあ、はあ、ツァガン、ユーリさんと、一緒にいる、のね」
背中の翼を通じて伝わる、彼の暖かな気配に、エルージュは少しだけ勇気づけられていた。
――負けられない、この痛みに負けるわけにはいかない。
お守りを握りしめ、彼女は息を大きく吸いこんだ。
――大事な、大事な、彼の子を、産まねばならない。
かつて眠りにつく前に、テングリの神々に言われた言葉を、ふと思い出した。
『お前は、次代を紡ぐもの』
その言葉の通り、彼女は今まさに、それを産み落とさんとしていた。
「ツ、ツァガン、私、が、頑張るわ、あなたのために、頑張る、から」
歯を食いしばり、痛みに合わせて彼女はいきんだ。
お腹の子も、それに合わせるように、産道へと降りてくる。
「はあ、はあ、うぅーっ、んんんーっ!」
彼女の絶叫が、森の中に響き渡る。
背中の翼が輝き出し、キレイな黒髪は樹木の枝のように逆立つ。羽毛は顔にも表れ始め、目は黄金色に光る。
その姿は、人とも、白鳥ともつかない、異形の姿と化していた。
周囲には、光の帯が流れ、空気を引き裂くような音が、そこかしこで聞こえる。
肩で大きく息を吸い、下半身に力を込める。痛みが山場を迎え、何かが通り抜けた感触がした。
足の間に敷いた、柔らかい布の上に、重たいものが落ちる音がする。
「はっ、はあっ、はあっ……」
それが何か理解した瞬間、エルージュの目から涙がこぼれた。
真っ赤な身体をした、それを、彼女は震える手で触れた。
「な、泣いて、お願い、泣いて、ちょうだい」
それの口がひくひくと動き、お腹が大きく膨らんだ。
「んぎゃああああ!」
大きく、力強い産声が、辺りに響いた。
「あ、あ、な、泣いた、赤ちゃん、泣いてる……」
涙が、次々に溢れ出る。
エルージュは赤子を抱きしめていた。
森の奥からする泣き声に、ツァガンとユーリは、思わず振り返った。
「な、泣き声、する」
「お産まれになったようだな」
「い、行かなきゃ」
森の奥へと向かおうとするツァガンを、ユーリは肩を掴んで制止する。
「まだ、行ってはダメだ。合図があるまで、行ってはいけない」
「な、なんで。オイラ、赤ちゃん、見たい」
「全てが終わったら、合図をすると言っておられた。だが合図はまだない、そういうことだ」
ユーリは引き続き太鼓を叩き、祝福のうたを森の奥に向かってうたう。
新たな命の誕生は、この森にとって、大きな出来事として刻まれた。
天より下りし、白鳥の女の初子が産まれた。
白鳥の庇護を受けし女は、狼の庇護を受けし男の、子を、産み落としたのだ。
木立の間から、泣き声が聞こえていた。
赤子を胸に抱き、エルージュはようやく異形の姿から、人の姿へと戻っていた。
かき集めた雪を、魔法で適温のお湯に変え、優しく赤子の身体を洗ってやる。
「よしよし、いい子ね」
赤子はしきりに手や足を動かし、元気な姿を見せていた。
その頭には、小さな耳があり、尻にはこれまた可愛らしい尻尾が付いており、その姿は、小さいながらも父と同じ姿であった。
「あなたは男の子なのね、お父さんそっくりだわ」
エルージュは微笑み、赤子の身体をきれいに拭って、清潔な布でくるんだ。
胸の中の新しい命は、ツァガンとエルージュの初めての子だ。狼と白鳥の血を受け継ぐ、次代の子でもある。
彼女は涙を流していた。
この子は、この世界で産まれた。テングリではなく、この世界のことわりの中で生きる、新しい命だった。
「神々よ、聞こえていますか、新しい命です。この世界の新たな御子です」
空を仰ぎ、エルージュはテングリの神々に報告をした。
神々がおわす座は、遥か遠くにあるが、産声は聞こえている。そう願って。
「そろそろ、合図をしても、いい頃合いね」
彼女は翼を通じて、二人に合図を送った。
倒木に腰かけつつ、二人はそれを待っていた。
「ん、合図がきたな」
胸の羽根飾りがほのかに光る。
その様子に、ユーリは全てが終わったのを悟った。
「あ、オイラのも光ってる」
ツァガンも、上着の羽根がほのかに光っているのを確認した。
「オマエの祈り、エルージュの助けになった。ありがとう」
「……師匠から習ったことは、無駄ではなかったな」
二人は森の奥へと歩きだした。
その道中、木立の間から、声がした。
『狼だ』
『狼の子だ』
『初子』
『血だ』
『森への供犠だ』
生ぬるい風が、二人の後を付けてくる。
「これは、よくないものだ」
ユーリの身体が強張る。
「どうする?」
ツァガンが問いかける。
「私の力如きでは、追い払うこともできない。気づかない振りをしろ」
二人は、それに警戒しつつ、その場所へと向かった。
森の奥にある、祈りの柱の元に、エルージュはいた。
腕の中の、おくるみに包まれたそれに、微笑みながら、彼女は座り込んでいた。
「エルージュ!」
ツァガンが、思わず彼女の名を呼びながら、走り寄る。
それに続いて、彼らの背後にいたものも、一斉にエルージュ目がけて襲い掛かった。
『さあ、さあ、寄越せ!』
『久方ぶりの、狼の子だ!』
『血と肉だ!』
エルージュは、おくるみに包まれたそれを頭上に掲げた。
「浅ましきものどもめ!これで、満足か!」
それが、空中に放り投げられた。
それは、ツァガンの頭上を通りすぎ、奴らに捕らえられたかと思うと、瞬く間に引き裂かれた。
血と肉が、雨のように森に振り撒かれる。
白い森は、一瞬で赤い森へと変貌していた。
「エ、エルージュ、何を!」
「ツァガン、外へ連れて行って!」
驚くツァガンに、そう言い、エルージュは彼に抱きかかえられながら、森の外へと逃げだしていた。
「ユーリさん、ここは危険よ、逃げて!」
「は、はい」
三人は、必死の体で、森の外へと飛び出していた。
背後では、血と肉を啜る音が聞こえ、森のものどもは、捧げられたそれに、いたく満足している様子だった。
森の外の、陽の光差す草原に、三人はいた。
ツァガンは肩で大きく息をし、先ほど起きたことに、動揺の色を隠せない様子だった。
「エ、エルージュ、さっき……」
草むらにうずくまり、何かをしている彼女に、ツァガンは声をかけた。
先ほど投げた、おくるみの引き裂かれた中身は、血と肉だった。
ならば、あれは、我が子なのか。
妻が胎で育てた、初子を、彼女は、贄として捧げたのか。
――信じられない、いくらシャマンとはいえ、我が子まで。
ツァガンの目に、涙が浮かんだ。
「んぎゃあぁ」
どこかで、泣き声がした。
「ツァガン」
振り向いた、エルージュの腕の中に、赤子がいた。
「この子は、無事よ」
赤子は力強く泣いている。
ツァガンの目から、どっと涙が溢れ出た。
「あ、あ、エ、エルージュ、赤ちゃん、ど、どうして……?」
言葉が詰まる。涙が邪魔をして、彼女の姿が見えない。
「あれは、身代わり。私たちの子は、森になんて渡せないわ」
「エ、エルージュ、エルージュ、オイラ」
「森に渡したのは、この間のお守りよ。あれに胞衣をつけて身代わりにしたの」
数日前に、彼女はお守りを見せてくれた。
あれには、ツァガンの尻尾毛と、エルージュの羽根が入っていた。
そして息を吹きかけた時、それは身代わりとして、生まれ出でた。
かすかに光ったのは、仮初めの命を与えられた結果なのだと。
泣きじゃくるツァガンを、優しく慰め、エルージュはそう言っていた。
「し、しかし、それは、森を欺いたことになるのでは」
ユーリの疑問に、エルージュは首を振った。
「欺いてはいません、胞衣はこの子と同一の存在、だからよ」
腕の中の赤子に、彼女は優しく微笑んだ。
「そう、だったのですね。では、改めて」
ユーリは背筋を正し、頭を深く下げた。
「おめでとうございます、エルージュ様」
「ありがとう」
従者の礼に、彼女は笑顔で答えた。
「エルージュ、オイラ、すごく、嬉しい」
涙と鼻水まみれのツァガンは、そう言って彼女に抱き着いた。
「ありがとう、ありがとう。エルージュ、オイラ、嬉しい」
「ツァガンも、祈ってくれたのね、ありがとう」
「うん、オイラ、祈った。元気に産まれますようにって、うんと祈った」
「あなたが祈ってくれたおかげかしら、見て、すごく元気な子よ」
「ほ、本当だ、赤ちゃん、小っちゃいけど、元気だ」
彼女の腕の中の子は、よく動き、よく泣いて、その存在を示していた。
「エルージュ様、性別は?」
「男の子よ」
「男の子、オイラと同じ、男の子。エルージュ、頑張ったね」
「ええ」
ツァガンは、涙を拭き、エルージュと我が子をそっと抱きしめた。
我が子は、狼の庇護を受けた子だった。
しかし、小さくとも、力強い産声は、狼の氏族の新たな希望となるだろう。
彼はそう願っていた。
「ねえ、ツァガン、この子に名前をつけてあげて」
「え、名前?」
「そう、あなたらしい素敵な名前を、この子にちょうだい」
「き、急に言われても、オイラ、出てこない」
困り果てるツァガンの顔に、エルージュは傍らの従者に向き直った。
「では、ユーリさん」
「わ、私が?」
「ええ、ツァガンの代わりに、ユーリさんが名前をつけてくれる?」
「しかし、初めての子ならば、尚更お二方が名前をつけた方がよろしいかと」
「私は、ツァガンの決定に従うわ」
「オイラも、名前、思い浮かばない。オマエ、つけろ」
「う、うーん、少し、考えさせてください」
ユーリは、指を額に当てて、しばし考え込んだ。
シャマンとしての知識や、西の国での知識はあれど、子供の名づけなど、経験したことがない。
考えあぐねて、顔を上げた時、ツァガンのふさふさの尻尾が、目に飛び込んだ。
「ヴォルク」
彼は、そう呟いた。
「という、名前はどうでしょうか」
「ヴォルク……、強そうな名前ね」
「はい、私の故郷の言葉で、狼を意味します」
「狼……。ふふ、私たちの氏族に相応しい名前ね」
エルージュは、腕の中の子に微笑んだ。
「ヴォルク、この子、今からヴォルクだ!」
ツァガンは何度も呟き、その名前を反芻するかのように、うんうんと頷いた。
「ヴォルク」
彼は、妻の抱く我が子を覗き込み、そっとその顔に指を添わせた。
触れたのが、父だと分かったのか否か、ヴォルクと名づけられた子は、にこりと笑ったように見えた。
「あ、笑った」
「ヴォルク、お父さんが触ったのよ」
昨日まで、夫婦であった彼らは、この子の誕生をもって、父となり母となった。
まだまだ年若き二人であったが、お互いに子を想い、愛する気持ちは同じだ。
二人は寄り添いながら、産まれたばかりの我が子を見守っていた。
「ツァガン、この子……、ヴォルクを、抱いてみる?」
「ええ?オイラが?」
「あなたも、お父さんになるのだから、早く慣れないと」
「う、うん、じゃあ、抱いてみる」
エルージュは、ヴォルクを驚かせないように、そっとツァガンに渡した。
「そう、首を支えてあげて。上手よ」
「わ、柔らかい。こんなにふにゃふにゃ、なんだ」
ツァガンは、おっかなびっくりで我が子を抱き上げる。
まだ抱き方はぎこちなかったが、それでも父としての自覚があるのか、力強くヴォルクを抱いていた。
初めての子供。それも愛するエルージュとの子供である。彼の感動は計り知れなかった。
「す、すごく、かわいい。エルージュに、似てる」
「私より、ツァガンに似ているわ、男の子だもの」
「えへへ、本当だ、オイラと同じ、耳がある」
頭の小さな耳は、二人の会話を聞いているのか、ちょこちょこと動いていた。
「エルージュ、この子、動いてる」
「ええ、耳も、尻尾も、元気に動くの」
「オイラと同じ、同じだあ」
二人は微笑み合った。
だが、遠くからやって来る気配に、ユーリが気づいていた。
「エルージュ様、何者かがやって来ます」
「あ、父さんだ」
ツァガンは、慌ててヴォルクをエルージュに戻すと、父を出迎えた。
「ここにいたのか」
父は、三人と赤子を見ながら、そう呟いた。
「天幕にいないから、心配したぞ。ん?その子は……」
「父さん、産まれた。この子、オイラの赤ちゃん」
エルージュの腕の中の、眠るヴォルクを見ながら、ツァガンは言った。
「今、産まれた、ばっかり」
「……性別は、どっちだ」
「男の子、です」
険しい顔で我が子を見る、義父に、エルージュはおずおずと答えた。
「名は、名前は、何とつけた」
「ヴォルク、です」
「コイツが、つけた」
父の問いに、ツァガンはユーリを指差そうとして、その手を叩かれた。
「指を差すんじゃあない、この子の名付け親だろうが」
「ご、ごめんなさい」
ユーリは近づくツァガンの父に、肩を掴まれた。
「お主、名は何と言う」
「ユ、ユーリだ」
「……西の者か。儂の孫に、いい名をつけてくれて、ありがとう」
かなり、力を加減しているような強さで、ユーリの両肩が叩かれた。
ここは、森の奥の、祈りの柱へと続く場所になる。
おそらく、この子は祈りの柱で産まれたのだろう、そしてそこは、氏族にとって、とても重要な場所でもあった。
だが、息子はそのことを知らない。嫁も知るはずがない。
息子の嫁は、氏族の重要な場所というのを、知ってか知らずか、そこを選び、氏族の子を産んだ。
これも、シャマンとしての力故か。
「ツァガン、儂は先に戻るぞ。産後の儀式もまだあるしな」
「あっ、そうだ、オイラも渡すもの、ある」
「渡すもの?」
「うん、エルージュのために、新しい服、用意しておいたんだ」
ツァガンが、近ごろ忙しく狩りに励んでいた理由は、妻の服を作るためだった。
彼女は、母となるのだから、それに相応しい服をと、ツァガンは走り回っていたのだった。
天幕へと戻る、父の後ろ姿を見送りつつ、ツァガンはエルージュを、そっと抱き上げた。
「エルージュ、オイラ達も、帰ろう」
「ええ」
「オマエも、天幕に、来い」
そう言われ、ユーリは驚いた。
「産後の、儀式、オマエも立ち会え」
「いや、しかし……」
「ユーリさんは、この子の名付け親なのだから、一緒に行きましょう」
エルージュに誘われ、ユーリは黙ってついて行くことにした。
冬の季節は過ぎ去り、暖かな春の息吹が、草原を駆けめぐる。
二人は次代の子を育むために、新たな生活を始めようとしていた。
東方世界の、樹林地帯。
狼と白鳥の物語は、始まったばかりであった。