5 夕陽に染まる
翌日。
朝にめっぽう弱いため、朝は全くもって周囲に気を配っていないわたしですら、異変には気付いた。
駅を出て高校へと向かう道すがら、昇降口。わたしを見た同じ高校の生徒たちは、揃いも揃って何かを噂しているのだった。
あからさまではない。気のせいといえば気のせいな気もしたが、それは教室に入って顕著になった。
わたしが席に着いた時、普段仲良くしている数人が固まっておずおずと近づいてきた。
でもわたしには、何でこんな事態になっているのかまだ理解出来ていない。
「あの、陽那…」
そのうちの1人がわたしに声を掛けたとき、教室に美玲が、入ってきた。
美玲はわたしの姿を見つけると、カバンも置かずにわたしのところまでやってきてわたしの首を掴んだ。
「ふぎゃっ」
「ごめん、ちょっと陽那借りてくから」
わたしの悲鳴はまるっと無視して、美玲は告げる。
わたしは首根っこを掴まえたまま美玲にずるずると引きずられていった。
「なに?何事?」
とか、
「痛い!とりあえず離して!」
などのわたしの抗議の声は、完全に無視された。
連れてこられたのは、人気の無い西階段だった。
「で」
と、美玲は威厳に満ちた声でわたしに言った。たった一文字で、わたしはびくりと震えた。
「…はい、何でしょうか」
心当たりが無いのが余計に怖い。自分が気づいていないうちに何かやらかしているのだとしたら恐ろしい。
「あんた、篠宮永遠と付き合ってるって、噂だよ」
「…………は?」
たっぷり間を空けて、わたしは間抜けな声を出した。
美玲が、畳み掛ける。
「昨日一緒に学校来たでしょ。帰りも一緒で、校門出たとこで元彼クンに絡まれたところ、篠宮くんが陽那の手を掴んで陽那は渡さないとの意思表示。その後2人はいちゃつきながら駅への道を歩いていきましたとさーー」
「う、あー」
わたしは頭を抱えた。そういえば人目に付くところで一緒にいたのは初めてだ。いつも図書館の奥深くで喋ってただけだったから…。
「実際はどうなの」
「付き合ってません」
「だと思った」
美玲は深いため息をついた。
「でもみんなはそんなこと言っても信じないわよー」
そして意味深な笑みを浮かべた。
「『とっ、永遠くんに彼女!?で、でも宮原さんなら…しょうがないのかなぁ』」
「え、と?それ何?」
突然声色が変わる。
「『あー、まぁ陽那ちゃん元彼と別れてだいぶたったもんね…篠宮なら許してもいいか』」
「何なの」
「学校のみんなの声」
美玲の声は楽しげだ。
「ちなみに元彼クンへの同情も集まってるよ。『相手が篠宮永遠じゃ大変だったよな』『お前も頑張れよ』てな具合」
「いや、あの」
まだ1日しか経っていない。なのにこの情報収集力は何だ。
それを言うと、
「わたしの友人関係なめんな」
と言われた。納得してしまった。
「あのさぁ」
美玲は髪の毛をかきあげて、憂いの滲む双眸でわたしを見やった。
「事実なんかわたしには興味無いけど。陽那はどう思ってるの?」
核心を突く言葉を、口にした。
「篠宮くんのこと」
わたしの喉がぐっと詰まったとき、張りつめた空気をぶち壊すように能天気なチャイムが鳴った。
「あっやば、HR始まっちゃう!」
慌ててカバンを掴み、美玲がわたしに言う。
「陽那もぼさっと突っ立ってないで早く!遅刻にされるよ!」
そこにいたのはいつも通りの美玲だった。
数秒前までの雰囲気はどこかに霧散して、美玲はすっかり自分がした問いのことなど忘れてしまったようだった。
業を煮やした美玲に手首を掴まれ走りながら、わたしはぼんやりと考える。
わたしが永遠をどう思ってるか?
それはーー
答えに行き着いてしまったら解けて消えていってしまいそうで、わたしは考えを断ち切った。
*
今日1日の間に、『篠宮永遠と付き合ってるのか』という意味の質問を5回された。
そのたびにわたしは、「まさか。付き合ってないよ」という回答をした。
ほっとしたり、納得したり、不審そうにしながら「そうなんだ」と言われるたびに、わたしの胸はぴりっと疼いた。疼く要素なんてどこにも無いというのに。
でも本当は、その痛みのわけをわかっていた。
ただ、認めたくないだけで。
*
そんなわたしの心中など露知らず、帰りのHR後、今日は図書館に行くもんかと決めて教室を出たわたしの前に、永遠が立ちはだかった。
永遠はにこりと笑って、「着いてきて」とわたしに言った。
それを見たクラスメイトに、
「やっぱり付き合ってるんじゃん」
とからかわれ、わたしはとても複雑な心境になった。
きっと彼はわたしのことなど好きじゃない。
視線の先には、振り返らずにてくてく歩いていく永遠。
どうしよう、とわたしは思案した。あんな噂されて、今日は会いたくなかったのに。
何考えてるんだ。
あれか、間違っても『付き合ってるの?』にイエスと言うなよ、という確認かな。
いや、でも、それならわかってる。
遠ざかる背中を視界から外し、わたしは昇降口のほうに方向転換した。
今日は真っ直ぐに家に帰る。
そのとき、頭を叩かれた。
たいして痛くなかったけど、思わず「いたっ」とつぶやく。美玲だった。
「なにすーー」
「陽那こそ何やってんの」
何って、とわたしはもごもご言う。家帰るんだし。
「バッカじゃないの」
美玲はまたわたしの頭を叩いた。ちらりと後ろを振り向いて、わたしに言い聞かせるように言った。
「行ってきなさいよ」
わたしは美玲の大きな目を見る。
「いやでも、付き合ってないっていう確認でしょ?どうせ」
「そんなの行ってみないとわかんないでしょ、バカ」
ダメ押しにでこピンされた。
「行ってきなさい」
「…うん」
あまり乗り気ではないながら、わたしは踵を返した。行き先は知っていた。
わたしの愛すべき、図書館。
「遅い」
わたしがいつも執筆作業をしている椅子に座って、永遠は不機嫌さを隠さずに言った。
「ご、ごめん…?」
思わず疑問符が付いたのはしょうがないだろう。
「別にいい」
口ではそう言っているのに、綺麗な眉が寄っている。
「何でここだと思った?」
永遠はわたしと目を合わせないまま問うてくる。わたしもあらぬ方向を見ながら答える。
「…なんとなく」
わたしの前に立ちはだかった永遠の様子から、人がいない所に行きたいのかなと思った。そうしたら、ここ以外思いつかなかったのだ。
「以心伝心、てやつか」
それはなんだか嬉しいような気がしたが、素直にそうと認めるのも癪だったので黙っていた。
「今日何回、俺と付き合ってるの?って聞かれた?」
「え…と」
わたしは指折り数える。
「5回…かな」
永遠はふふんと笑った。
「俺は6回だ。俺の勝ちかな」
勝ち負けもないだろうに、嬉しそうに笑う。
「陽那はなんて答えた?」
「え?付き合ってないよって」
事実をただ伝えただけ。その時のことを思い出して、わたしはまた胸が苦しくなる。こいつの目の前で。
「…他に答え方ないでしょ?」
「ところが俺は違ったんだな」
チッチッチッと指を振る。
「これから告白するんだから黙ってて、って言った」
カチン、とわたしは凍りついた。今の言葉を聞いて推測できないほど鈍くはなかった。
「いや、え…?」
だからといって脳がそれを理解できたわけではなく、わたしは頭を押さえて一歩後ずさった。
立ち上がった永遠が、わたしの頭を押さえている手を優しくはずした。
真っ赤になったわたしの視線が絡め取られる。
「好きだよ、陽那」
その瞳が、余りにも甘くって。
その声音が、余りにも優しくって。
どうしたらいいかわからなくなって、わたしはその肩に顔を押し付けた。
顔が熱くて、今自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
「…ばーか」
「そりゃないだろ」
口をへの字に曲げているのが目に見えるようだった。
「返事。返事は」
ふふ、とわたしは笑った。そうしたらなぜか涙が溢れてきて、永遠のセーターに染みを作った。
またわたしは泣いている。
でも今日、わたしは自分からその背に腕をまわして抱きしめた。
「わたしも好きだっての」
口にしたら、すごく楽になった。抑えきれない笑みが顔に浮かぶ。
「お前…もうちょっと可愛い言い方ないの?」
呆れ果てた声で言いながら、永遠はわたしを引き剥がす。
「…ちょっと」
わたしが唇を尖らせると、「だって」と永遠もぶすくれる。
「顔、見たかったんだし」
「……」
そんなこと言われたら、照れる。
わたしはふいっと視線を逸らす。
それから顔を戻すと、目の前に永遠の整った顔があった。うっすら夕陽に照らされて、ほんのりと紅い。わたしは驚いて仰け反り、後ろにあった机に両手を突く。
「なにすーー」
「陽那は黙ってて。黙ってたら可愛いんだから。あ、ツンツンしてる陽那もそりゃ可愛いけど」
わたしはまだ何か言い返そうとして、永遠の顔が更に近づいてきて思わず目を瞑る。
唇に、柔らかいものが一瞬だけ触れた。
停止した思考が復活したとき、わたしは絶叫した。
*
「ひどい、いくら何でも叫ぶのはひどい」
空が紅く染まる中、永遠がぶつぶつ言っていた。
「根に持ちすぎ」
わたしが言うと、キッとわたしを睨んでくる。
「陽那の叫び声に何かあったのかって司書さん来ちゃうし。肝心の陽那はあわあわ言ってるだけでなんにも説明しないし」
結局狼狽えた永遠の出した言い訳は、「な、何か、虫が出たらしい…です。彼女、大の虫嫌いで……はい。お騒がせしました」だった。悪い言い訳じゃなかったと思うけど、いかんせん目が泳ぎすぎて挙動不審だったと思う。
「本当なんですね?」とわたしにも念を押され、わたしはコクコク頷いたけれど、司書さんは「じゃあ図書館では静かにしてくださいね」と言いつつ最後まで不審そうだった。
「でもそもそも悪いのは永遠だから」
そう、わたしの大切なファースト・キスを!あんなにもあっさりと!許すまじ!
「でも陽那が可愛いのも悪いと思うけど?」
「またそうやって、意味のわからないことを」
本当に今まで彼女いなかったのだろうか。こんなにも初心な女の子(わたしのことだよ)を翻弄しといて。
わたしがそれを言うと、永遠はいたずらっ子の目をして囁いた。
「なーに言ってんの。俺は女の子の扱い方を知ってるんじゃなくて、陽那の扱い方を知ってるんだよ」
「は?」
怪訝に思って目を細める。
「だって俺は朝比奈姫凪を知ってるから。なんとなく、なんとなくだけど、主人公の女の子たちの結末は、陽那の理想なのかなって思った」
今わたしは、自分が朝比奈姫凪であることを知られるリスクを大いに感じた。小説にその人の内面が浮き出るとはまさにこれのようだ。…恥ずかしい。
照れ隠しに足元の小石を蹴った。小石はゆるい弧を描いて宙を舞い、数メートル先に落ちて転がった。
「陽那顔赤いよ」
「夕陽が当たってるだけ」
下を向いて地面に向かってあっかんべえをした。
…わたしはこの甘い彼氏を慌てるほど照れさせる方法を知らない。
…ばーか。