4 月夜
肌を刺す風は、もう秋のものではなかった。行かないで、秋。冬なんて来ないで。
わたしは高校の最寄り駅から高校までの道のりをのろのろと歩く。どんどん抜かされる。わたしは朝に弱い。
朝から元気なクラスメイトの女子を発見した。部活友達か、数人の女子と楽しそうに話している。
ふっと抜かしてきた男子を見ると、わたしの斜め前にいた女子に声を掛けた。女子の顔がぱあっと明るくなり、男子の腕に抱き着く。あぁ、そういう関係ですか。こんな時間から砂糖過多で…。
わたしと誠也の間に甘いものはほとんどなかった。友達の延長線上。スキンシップは手をつないだり、腕を絡めるが限界だった。それも、周りに知り合いがいないとき限定。でも、それに不満を覚えたこともなかったし、そんな関係が心地よかった。
気づいたら、わたしの後ろには誰もいない。おぉ、同じ電車の人の中では最後尾になったようだ。今日はいつにも増して、疲れている。昨日寝たのは何時だっけ?いや、もう昨日なわけがない。2時は過ぎてた。3時も過ぎていたかもしれない。昨晩はもはや時間の感覚があやふやだった。でもしょうがない。書ける気がしたのだ、いきなり。
もう目を閉じたい。回れ右をして帰りたい。
わたしがマフラーに顔を埋めながら長い瞬きをしていると、後ろから頭を小突かれた。
「、っ!」
声にならない叫び声を上げたわたしは、暴力を奮ってきた人の顔を見ようと半目で振り返った。半目なのは怒っているからじゃなくて、眠いからだ。
「おはよう」
そこには、爽やかな笑顔の篠宮くんがいた。こいつは朝に強そうだ。
わたしは返事をする必要性を少しも感じなかったので、前を向いてのろのろと歩き続ける。朝のわたしは非常に扱いづらいのだ。そして今日のわたしは特別扱いづらいのだ。
「え、ちょっと、無視?」
篠宮くんが追いかけてくるので、わたしはスピードアップする。と言っても、それでもわたしの歩くスピードが亀のように遅いので2歩で追いつかれる。
「…宮原さん、朝ダメな人?」
篠宮くんが恐る恐るといった感じでわたしの横に並ぶ。突き飛ばす気力も無いので放っておく。
わたしは篠宮くんの質問をまるっと無視する。見ればわかるだろう。ついでに、機嫌がすこぶる悪いことも察して欲しい。
代わりにわたしは質問する。
「…いつもこんな時間だっけ。見ないけど」
…声は思いっきり掠れていた。わたしの体はまだ寝起き気分である。でも、これは今日一番の長文だ。おはよう、いただきます、ごちそうさま、行ってきます、しかまだ喋っていなかったのに。
「声、大丈夫?」と無駄な心配をしてくれる。「朝だから」とわたしが簡潔に答えると、重症だなぁ、と可哀想な目で見られた。どっか行け。
「あ、で、いつもはもう二本早い電車なんだけど、今日は寝坊したんだ。高校生になって、初寝坊で焦った。で、しかもお弁当忘れたから、駅前のコンビニで昼ごはん買ってた」
わたしは頭の中で言葉を噛み砕く。数秒の間を空けて、結論が出た。
「…つまり、後ろから来たけど同じ電車なんだね、きっと」
「そうみたいだね」
なぜか篠宮くんは嬉しそうだ。わたしは反対にぶすくれる。ただでさえ寝不足なのに、朝からすっかり疲れちゃった。わたしはますますマフラーに顔を埋める。もう目しか出ていない。それにしても、このマフラーもそろそろ寿命みたいだ。最初はふっかふかだったのに、少し毛羽立っている。デリケートな顔の皮膚がちくちくするので良くない。
そんなわたしを見て何を思ったたのか、篠宮くんがぽんと手を打った。
「マフラーに収まりきらないストレートのロングヘアって可愛いよね」
何も知らない人が聞いたら、それはまんま今のわたしだし、ただの変態発言だ。でもわたしは知っていた。一語一句、それはーー
「『白いマフラーの彼女』ね」
わたしはため息をついた。
主人公の男子が、神秘的な少女に心を奪われたときに放った言葉ーー。
「あれ、すごい共感する」
…ただの変態だった。
「だって、可愛くない?なんか守ってあげたくなる感じ」
「…わかんない」
わたしの返事は素っ気ない。
「自分で書いたくせに」
「美玲が、マフラーに顔埋めてるの可愛いって騒いでたから。使えるなぁって」
「じゃあ瀬川さんとは意見が合うな」
「じゃあ、わたしを守ってあげたくなるの?」
篠宮くんはじっとわたしを見た。なかなか視線はずれない。わたしが居心地が悪くなって目を逸らすと、篠宮くんはうっすらと笑んだ。
「当たり前じゃん。宮原さんは外も中も可愛いから」
「……」
ぴくっとわたしの肩が跳ねる。本当に、こいつは軽い男だ。わたしは可愛いなんてほとんど言われない。綺麗だね、と。それもあんまり納得はできないけど。
怒鳴るタイミングを逃したわたしは、マフラーの中で口をもごもご動かしてつぶやく。
「ばーか」
ふっと篠宮くんがわたしを見て、また小さく笑みを見せた。
わたしはまた全力でそっぽを向く。心臓がなぜだか、どきどき脈打っていた。
*
わたしは思っていた以上に寝不足だった。
意識を明日どころか一週間くらい先に飛ばし、授業中当てられて頓珍漢な回答をして先生とクラスメイトを呆れさせ、ノートには謎の線が踊り、弁当を開けても食欲が不思議なほど湧いてこなくて美玲に心配された。
それでも図書館に行ったのは、貸出期間を大幅に過ぎた本があったからだ。
そして、図書館に行ってしまったら眠気が吹っ飛んで、本を探してしまったのはどうしようもないわたしの性。
でも、そこで篠宮永遠に会ってしまったのはわたしの運の悪さだ。
気付いたら人気のない窓際のテーブル席で本を読んでいた。
ガラス越しに傾いた太陽が照らす中、隣に人が座るのが気配で分かった。
わたしが気だるく視線をやると、篠宮くん。
感覚が本の中から現実に戻った瞬間、急速に眠気が襲って来た。
「朝も放課後も宮原さんに会えるなんて奇遇だね」
という声は、わたしの耳には雑音としか残らなかった。
申し訳ないけど、返事できない。
視界がぼやけていく中で、それでも本に栞を挟むことだけは忘れず、わたしは机に倒れ込むように突っ伏した。
*
「…寝ちゃったの?」
永遠はびくびくしながら、顔をこちらに向けて机に倒れ込んでいる陽那にそっと声を掛ける。返事の代わりに、すーすーと、気持ち良さそうな寝息が聞こえた。
「ええ…そりゃ無いでしょ」
本人が寝ているのをいいことに、永遠はその寝顔を目を細めて眺めた。
長い睫毛が肌に影を落とし、桃色の唇は少しだけ空いていた。
どうしようもなく、可愛いなぁと思う。
普段は、冷たい美貌を持った美人だ。誰もが、可愛い、ではなく、綺麗だ、と言う。だが、今の陽那を見て冷たいだなんて思えなかった。
「こんなとこで無防備に寝たら悪い男に引っかかるぞー」
永遠は手をそうっと伸ばした。一瞬躊躇ったあと、本人寝てるから、と割り切って陽那の髪に触れた。
「うっわ、さらさら…」
思わず声を漏らしてから、こんなことをしている所を瀬川さんに見つかったら冗談抜きで殺されそうだ、と苦笑する。美玲が陽那を溺愛しているのは周知の事実だ。ぐしゃっとしたい衝動に駆られて、慌てて手を離した。
「何で俺、こんなことしてるんだろうね」
永遠は返事を返してくれるはずもない陽那に向かって問いかける。
陽那からの返事はまたもや寝息だった。
締切が迫って疲れてるのかなぁ、と思いつつ、永遠は再び本を開く。
*
ずっと遠くで誰かの声が聞こえた。
それはだんだん近づいてくる。
深い微睡みの中で、わたしはゆるりと意識をそちらに向けた。
「…さんっ、…原さんっ、宮原さん!」
「……うわっ」
わたしは跳ね起きた。
きょろきょろと辺りを見まわして、意識が徐々に覚醒する。
「よく寝てたね」
隣から声を掛けられて、わたしはようやくその存在に気付く。
そうだ、篠宮くんに声を掛けられた直後に眠気に襲われて、たぶんそのまま…。
そしてわたしは、外の様子と館内の照明の雰囲気から嫌な予感がした。
「…いま、何時?」
外は真っ暗だ。
篠宮くんは腕時計に目をやった。
「7時43分」
しちじ、よんじゅうさんぷん。わたしは頭の中で反芻する。最終下校時刻は確か…8時!
どうりで人気が無いはずだ!
「もっと早く起こしてよ!」
とわたしは逆ギレする。
「起こしてやったんだから感謝しろよー」
「わ、わかってるし!」
実際、声を掛けたら寝だしたわたしのことなど置いて帰っていても文句は言えない。ーーというか、わたしが起きるのを待っていてくれたのだろうか。
「つーか、俺何回か声掛けたのに」
「は?」
全く記憶にない。本をカバンに放り込み、コートを着てマフラーを巻きながら頭を巡らす。
「大丈夫、ずーっと気持ち良さそうに寝てたから」
うぅ、恥ずかしい。何が大丈夫なんだ。
身支度を整えてわたしたちは図書館を出る。
早歩きをしながら、わたしは篠宮くんに問うた。
「下校時刻過ぎるとどうなるんだっけ?」
「んー、厳重注意かな」
「うげ」
厳重注意。それは、悪夢のように終わらない説教…。
「だから早く出よう?まだ間に合うから」
苦笑いの篠宮くんに急かされながら、わたしたちは校門を出た。7時55分、セーフ。
落ち着いたわたしは、気になっていたことを聞こうと口を開いた。
「ねぇ、わたしが…」
視線の先にいたのは、誠也だった。そうか、サッカー部は最終下校時刻ギリギリまで練習していると言っていたっけ。
誠也はじっとわたしを見ていた。
いきなり黙ったわたしを不審そうに見下ろした篠宮くんも、わたしの視線の先を見て納得したようだ。
校門前、まだまばらに人がいる中、誠也はわたしを見たままわたしに向かって歩いてきた。
周りの人が、ちらちらとこちらを気にしているのには気付いていた。
「陽那」
久しぶりに、誠也はわたしの名を呼んだ。なぜか、わたしではなく篠宮くんが小さく震えた。
「何か用?」
わたしは平坦な声で聞いた。思った以上に、わたしの心は凪いでいた。
「まだちゃんと謝れてなかった。ごめん。あの、」
「別にいいから」
わたしは誠也の言葉を遮った。言い訳なんて聞きたくなかった。わたしはこれ以上誠也に失望したくない。何を言われようと、わたしは必ず彼を軽蔑してしまう。そんな予感があった。
それなのに。
わたしは今、誠也を無感動な瞳で見つめているというのに。
彼は微笑むのだ。
「でも俺は、まだ陽那が好きなんだよ」
「…っ」
誠也の瞳はどこまでも真っ直ぐだった。嘘偽りなんてない。わたしの中の何かがぐらつく。有希とキスをした誠也、朝比奈姫凪を控えめに批判した誠也。わたしはーーわたしは、どうすれば。もうこいつは信じられない、そういう気持ちに変化があったわけじゃない。頭の中がごちゃごちゃになって、体が熱くなった。 何かを言おうと口を開いた瞬間、指先を篠宮くんに掴まれた。
わたしは咄嗟に篠宮くんを見上げる。彼はにこりと口角を上げた。
篠宮くんの指も熱いのに、わたしの頭はすっと冷えた。
指先に力を込めた。これは、わたしを引き戻してくれる。
「わたしはもう好きじゃない」
噛み締めるように言った。
わたしはもう、誠也の隣が居心地がいいとは思えない。今わたしが隣にいてほしいのは…。
わたしは頭を振って思考を途切れさせる。
誠也はまだ真剣に眼差しでわたしを見ていたが、ふっと力を緩めた。
目を細めて、自分を拒絶したわたしに笑顔を見せた。
「分かった。俺が悪かった」
そして、いきなりわたしの耳元に口を寄せた。
「お前の気持ちはそいつにあるんだろ?」
「ちょっと!」
さざ波が揺れていた気持ちから一転、わたしは怒鳴って誠也を引き剥がす。『そいつ』が誰かなんて明白だった。わたしは熱くなった頬を隠すようにマフラーを引き上げる。
誠也は微笑んだ。
「今の反応が答えだな。陽那のことなんて大体わかっちゃうんだよ。ずっと一緒だったんだから」
「…っ」
言葉に詰まった。誠也は間違いなくわたしを愛してくれた。でも、わたしはもうそれに答えることができない。
「ありがとう」
吐息のように言葉を吐き出して、口角を持ち上げる。わたしは曇りのない笑顔になれただろうか。
「あいつ、宮原さんのこと名前で呼んでるんだね、まだ」
「え…ああ。でもわたしも名前で呼んでるし。幼馴染みだから慣れてるんだよね」
駅への道を並んで歩きながら、篠宮くんがぶつぶつ言っている。
「でも…別れたのに」
なぜか篠宮くんが拗ねる。
「別にわたしはそういうの気にしないからいいの」
わたしが言うと、彼は口を尖らしていたが、急にはっとわたしの方を向いた。
「な、なに?」
「…俺も、陽那って呼んでいい?」
わたしはわかりやすく狼狽えた。陽那、陽那。この声に名前を呼ばれるのか。それは、とても…
「え、ダメ?」
篠宮くんの眉が下がる。わたしは慌てて手を振った。
「ううん、いいよ、いいけど…」
わたしはちらりと篠宮くんの目を見上げる。
「…わたしも永遠って呼びたい…」
言い始めてからびびってしまい、語尾が小さくなった。
またちらっと篠宮くんを見上げると彼は呆けていた。
どうしようもない不安に駆られてくる。
居心地の悪い沈黙の後、篠宮くんはゆっくりとうなずいた。
「いいよ」
わたしを見下ろす彼の表情は影になって見えない。でもきっと、微笑んでいるんだろうと思った。
「さっき…なんて言われたの」
篠…永遠は唐突にわたしに尋ねた。
わたしは面食らって息を止める。それは…それは、誠也が耳元で言ったあれだろうか。
「それは…ちょっと言えない」
わたしはそっぽを向く。言えるわけない。あれじゃあ、まるで、わたしが永遠のことを…。
わたす頭をよぎった考えを打ち消す。有り得ないって。
えー、と永遠は不服そうな顔をした。
「いいじゃん」
「やだ」
「いいじゃんー」
「絶対やだ」
駄々をこねたって、絶対に教えるわけにはいかない。
わたしが折れないのを見てとったのか、永遠は別のことを聞いてきた。
「じゃあ、さ。校門出たとこで言いかけてたことあったじゃん?あれは?」
わたしは頭を巡らす。すぐに思い当たった。
「ああ、あれは」
言いかけて逡巡し、目が泳ぐ。何だか恥を晒すような気がした。
「ぐーすか寝てたわたしのこと、待っててくれた?」
「陽那はどう思う?」
質問に質問で返されたことより、さらっと名前で呼ばれたことに体がむず痒くなった。
「…もしそうだったら、いいなって思った」
ちらっと見上げると、永遠はゆっくりと破顔した。
「可愛いこと言わないでよ」
「馬鹿にしないで」
はぐらかされそうな気がして、わたしは問い詰める。永遠は、囁くように言った。
「うん、待ってた」
心臓が跳ねる。こいつはこういうことを平気で言うから嫌だ。
永遠から目を背けて空を見ると、丸い月がぽつんと浮かんでいた。
「月が綺麗だね」
と永遠が言った。わたしはほんの少し身じろぎした。彼が、そのまんまの意味で言ったのか、深い意味を持たせたのか分からなかった。
普通なら前者だろうな、と思う。
だけどわたしは、後者であればいいと願った。
「ほんと…月、綺麗だね」
淡い月光が、優しく降っていた。