2 変化
*
自我を持ったとき、すでにそこには誠也がいた。隣の家の男の子。親同士も交流があり、何かにつけては遊びに行ったり遊びに来たり。誠也がいることは当たり前だった。
<ひなちゃん、すき>
<ひなも!ひなも、せいやくんすき>
大人になったら結婚しようね、と言った。指切りをした。
子供同士の、小さな約束。
小学五年生のとき、わたしの家は引っ越した。遠くはない。小学校は変わらないし、その先の中学校も変わらない。だけど、思春期に入り始めていたこともあって、『家が近い』という理由を失ったわたしたちは疎遠になった。
転機は中学二年生のときだった。
<宮原が好き。付き合ってください>
中学校では、クラスの中心人物になっていつも堂々としていた誠也が、頬を真っ赤に染めてどもりながらわたしに言った。
わたしも好き、と言った。わたしも、いつのまにか成長していた誠也に惹かれていた。
誠也といるのは楽しかった。実は照れ屋だからあんまり“好き”を言葉に出したことは無かったけど、わたしを導いてくれて、いつもわたしを一番に考えてくれていた。隣にいるだけで、幸せ、だったのだ。
*
「だから、好きだったんだぁ」
なんでこんなことを、わたしは篠宮くんに話しているのだろう。篠宮くんは黙って聞いてくれていた。
わたしたちは階段の一番上の段に腰かけていた。差し込む夕陽は細くなって、夜が近づいている。
*
同じ高校に行こうねと約束した。
わたしのほうが勉強ができなかったから頑張った。誠也の学力はトップクラスだったから。
2人とも合格したとき、誠也は言った。
<これでまた、一緒にいられるね>
そう言って笑った。
*
「宮原さん、ほんとに好きだったんだね、彼のこと」
「うん。そうみたい…」
だから、裏切られたようでショックだった。目の前が真っ暗になって、わたしの世界が光を取り戻したとき、わたしはショックを覆い隠すために元から想いを無かったことにした。
だけど、このままわたしの中から消し去っていなくて良かった。心の奥底にあった小さな棘は、今さっき涙とともに流れていったような気がする。
「お似合いだったよ」
ふいに篠宮くんが言った。
「みんなそう思ってた。だから…その、別れたって噂が流れたときは、すごい驚いたんだ」
そうなんだ、とわたしはつぶやいた。
「まだ好きなんじゃないの?」
随分突っ込んだ質問だった。でも、答えるのにつっかかる棘はもう無い。
「もう過去なんだ。好きだったから、好きだったからこそ、もう信じられない」
誠也は、なんで有希とキスしたんだろう。わたしとは、したことなかったのに。抱きしめたことも、抱きしめられたこともなかったのに。
そういえば、わたしはついさっき篠宮くんに抱き締められてしまったのだった。なんか複雑な気持ちになる。
「にしても、あっさりしてるなぁ」
篠宮くんが足を投げ出した。
「わたしもそう思うな」
ふふ、と笑うと、篠宮くんは呆れたように言う。
「ついさっきまで元彼を思い出して泣いてた人とは思えない」
ほんとにね、とつぶやいた。
「泣けばいろいろ水に流せるものだね。それにわたし、1個思い出したんだ」
「なに?」
篠宮くんは怪訝そうに眉をひそめた。
「わたし、誠也に1個だけ隠し事してたんだ」
「どんな?」
ますます眉がひそめられている。
最初から教える気は無かった。
意味深に唇を釣り上げて、わたしは立ち上がって伸びをした。外は暗くなっている。
「聞きたくもないだろうこと聞かしちゃってごめんねー。今日はありがとう」
わたしが言うと、篠宮くんも立ち上がってわたしに笑みを見せた。わたしの秘密は一旦脇にどけたみたいだ。
「別にいいよ。テンション低い宮原さんより明るい宮原さんのほうがいいし、素直な宮原さんのほうが可愛いから」
「、なっ」
頬に熱が集まるのを感じた。可愛いなんて、卑怯だ。不意打ちは罪だ。おだてたって無駄だ!
「じゃーね」
ひらりと手を振って、篠宮くんは階段を降りていった。
わたしはその背に向かって叫ぶ。
「この、チャラ男!」
<笑顔の陽那が一番いいよ>
誠也が珍しくわたしを褒めた言葉を思い出した。ぶっきらぼうに、ぼそぼそと言った言葉がすごく嬉しかったことも。
それは小説の中の文字のように、もう現実味を帯びてはいないけれど。
*
「やっばい!やばい、陽那めっちゃ可愛い!」
「え、ちょ、みれ…や、やめてよ」
「写真!写真!携帯!」
「み、美玲…?」
日曜日の朝。美玲の家でわたしはコーディネートされています。あ、されていました、かな。
発端は、火曜日の昼休みだった。美玲が隣町にできたカフェに行きたいと言い出したのだ。甘いもの大好き同盟を組んでいる者として行かないわけにはいかない。だがわたしは愕然とした。
――隣町は、すっごくJKな街ではないか!
わたしは尻込みした。嫌だ、わたしには似合わない、とごねていると、美玲がはっと目を輝かせた。
<わかった!じゃあしょうがないからわたしが陽那を可愛くしてあげる!>
しょうがないからという割には美玲はうきうきしていた。
陽那は元がいいからな〜、どうやってコーディネートしようかな〜、と、美玲はすっかり乗り気。
わたしも、女子力の高い美玲にやってもらえるなら期待できるかなぁ、というわけで、こういうことになったのだった。
まず日曜日の朝っぱらから美玲が我が家に来た。彼女はわたしのタンスを漁り、
「可愛い服いっぱい持ってるんじゃなーい」
と言いつつ、服を選んでくれた。
選んだのは、ふわふわの紺色のワンピース。太ももの真ん中あたりまでの長さで、裾が広がってなくてちょっとだけきゅっとしてるやつ。
「はい、着て」
「あのぅ、美玲さん?」
わたしは恐る恐る聞く。
「これだけですか?」
「当たり前のこと聞かないで」
ぷくっと頬を膨らませて、美玲はわたしに詰め寄る。
「い、嫌だよ。足すごい出ちゃう。寒いし」
「何言ってんの。足綺麗だから平気。まだ秋だから寒くないから平気。ほら、はやくー」
「えー…って、きゃっ」
美玲が無言でわたしの着ていたジャージの裾に手を掛けて脱がそうとしたので、わたしは慌てて部屋の隅に逃げた。
「黒っぽくて、厚底のショートブーツある?」
「あ、あります。偶然にも」
美玲の声が怖い。わたしは部屋の隅でガタガタしながら着替えた。
続いて、美玲の家に行く。
「いっつも陽那は髪いじんないから、巻くねー」
「巻くの!?」
人生初体験である。確かにわたしはいつも、起きて髪を適当に梳かしているだけで、何にもしないけど。何にもしないけど、いい感じに毛先が内側向くんだよね、これが。
うわぁ陽那の髪さらさらーなどといいながら、わたしの背中まである髪を丁寧に美玲が巻いてくれる。
そしてうっすらと化粧され、イヤリングとネックレス(美玲の)をつけてもらって、わたしは完成したのだった。
写真を撮ってご満悦な美玲は、まだ嬉しそうだ。
「これぞギャップ萌え!学校ではストレートな黒髪の清楚系美人なのに、私服はふんわり可愛い系!もうやだ惚れるー!」
などとわめいている。褒めてくれるのは嬉しいけど、ちょっと褒めすぎだ。
「はやく出かけようー」
わたしが声を掛けて、ようやく美玲は落ち着いた。ちなみに美玲は、わたしの家に来た時から完璧に完成していた。クリーム色のパーカーにジーパン、赤いチェックシャツを腰に巻いて、なんだかお姉さんみたいである。
美玲の行きたがっていたカフェは、オープンしたばかりとあって少し並んでいた。並んでいる人に配られるメニュー表を見て真剣に頭を悩ませている美玲は放置して、わたしはきょろきょろする。
この街は隣町だけどあまり来ない。駅から徒歩5分の本屋さんが地域で一番の品揃えなのでたまに来るけれど、ほとんど平日の学校終わりに来たり、休日打ち合わせのあと夜に覗いたりするくらいなので、休日の昼間というのは初めてだ。若者多い。
でもわたしの視線は本屋さんのほうに向かう。行きたいなぁ。たぶんやだって言われると思うけど、あとで美玲に言ってみよう。
「ねぇ陽那、決まんないー」
美玲さんは絶賛お悩み中だ。
「何で迷ってるの?」
わたしがメニュー表をのぞき込むと、美玲はふたつの写真を指さした。
「この店の2大名物なんだけどね。さっくさくのミルフィーユか、口の中でとろけるチーズケーキ!うぁぁぁ、選べるわけないよー」
絶叫する美玲。もう、しょうがないなぁ。
「いいよ、両方頼んでふたりで食べあいっこしよ?」
「陽那…!」
美玲が感極まっている。はっ、まずい。
わたしの危機察知は少々遅かった。美玲は全力で抱きついてきた。
「陽那イケメンすぎ!大好き!」
なんだかんだ言ってわたしは美玲に甘い気がする。大人美人な美玲の子供っぽい一面に、わたしはこっそり笑みを零した。
「美味しい!やっぱり来て良かった」
わたしの前では、蕩けるような笑顔の美玲。 壁が全面ガラス張りなので、外の通りを歩いていた男どもが美玲の笑顔にあてられてぐらついている。罪なやつめ。
でも美味しいのはほんと。
「ね、これならいっぱい食べれちゃいそう」
意図せず口元が緩む。ほっぺ落ちそう。視界の端で、店内にいた中学生くらいの女の子が頭を押さえているのが見えた。甘すぎたのかな、ケーキ。
それを美玲に言うと、
「あぁ、甘すぎたのかもね…あんたが」
「え?」
最後のほうが聞こえなかったので聞き返すが、美玲はさっぱり意味のわからないことを言っただけだった。
「普段まったく甘くないと思っていたものが激甘だったときの衝撃ってすごいよね」
わたしは首を傾げる。
「…実はたこ焼きが甘かったみたいな?」
「何言ってんの、ばーか。ばかだからもーらいっ」
「ああっ!」
わたしは悲痛の叫びを上げた。わたしの思いも虚しく、お皿に少しだけ残っていたミルフィーユは美玲の口の中に消えた。
ミルフィーユを食べた罰として、わたしが本屋さんに行くことを希望すると、美玲は案外あっさり承諾した。ただし、
「ちょっとだけだからね。これからショッピングするんだから」
とは言われた。
ルンルン気分のわたしに、美玲は呆れ顔で言う。
「どうせ、新刊の様子を見たいんでしょ。発売日、いつだっけ」
「てへ、バレたか。一昨日だよ」
美玲は、家族以外でわたしの秘密を知っている唯一だ。
「そんな最近かぁ。買ってこうかなー…」
「ぜひぜひ。今回は文庫本なのでお安いですよー」
わたしはおちゃらけて言う。
本屋さんに入ると、入り口にほど近い新刊書籍が積んであるコーナーがあった。1人の男性が立ち読みしている。
何気なくそこに近づく。見覚えのある表紙が積んであることに気づいて、心の中でガッツポーズ。後ろからひょっこり顔を出した美玲が、表紙を確認してから小さな声で「おっ」と声を上げた。嬉しいことに、書店員さん手描きのポップまで置いてあった。
それを熱心に読んでいると、後ろにいた美玲が「あら?」とつぶやいた。警戒心を解いていない声である。
わたしは振り返って美玲を見たあと、美玲の視線の先に目をやった。
さっき立ち読みしていた男性だった。
彼とわたしの目が合った。
「「あ」」
濃茶のさらさらの髪、整いすぎた顔。
「し…篠宮くん」
「み…宮原さん…?」
本日の彼は、紺のセーターに白い細身のズボンだった。私服を見るのはもちろん初めてだが、こんなにラフなのにお洒落なのか。けっ。
「何よ、知り合いなの?」
と美玲がわたしの頬をつつく。
「うん、まぁ、ちょっとだけ」
曖昧に答えるわたし。
篠宮くんは、視線をわたしの上から下までにさっと巡らせたあと、きょろきょろして、とてもとても挙動不審だった。
「どうしたの?」
「あ、いや、いつもと雰囲気違いすぎて…」
目線を泳がせる彼は、決してわたしと目を合わせない。いつも余裕ぶってる篠宮くんのイメージと合わない。
「そんなに似合ってない?」
彼の視線の先に先回りしてじいっと見ると、また慌てて視線を逸らされた。
「ち、違うから。いや、その…わっ」
慌てすぎて、立ち読みしていた文庫本を落としそうになる。その本はーー
「あ、朝比奈姫凪だ」
「う、うん。パラパラ見たけど、面白そうだから買うつもり」
「そっかぁ」
「宮原さんもじっくり見てたね」
「…ちょっと興味あって」
だんだん会話のペースが戻ってくる。さっきまでの動揺ぶりは、会うなんて露ほども思っていなかった人と会って過剰に驚きすぎたってことにしてあげよう。
わたしは黙っていた美玲に声を掛ける。
「わたしここはもういいや。あっち行かない?」
「あ、わたしここで新刊見てるから。行ってていいよ」
「りょうかーい」
わたしは美玲をその場に残して背を向ける。二歩進んでから篠宮くんの存在を思い出して振り返った。
「一応言っとく。またね、篠宮くん」
「うん、また」
「ここに残ったのは、俺と話そうと思ったから?」
永遠は美玲に聞いた。
「随分自意識過剰ね、篠宮永遠くん?」
「でも間違ってないんだろ、瀬川美玲さん?」
お互い微笑み合っているが、視線はブリザードをように冷たい。本屋に入ってきた人たちが、そっと目を逸らすくらいにはふたりの周囲の空気も冷たい。
先に口を開いたのは、美玲だった。
「今日の陽那を君に見られたのはとんだ大失敗だったわ」
「そうだね」
永遠は肩をすくめる。
「まぁ、学校の王子様の慌てぶりが見れたのは、なかなか楽しかったわ」
悠然と微笑み、美玲は永遠を見やる。永遠の顔は、何を思い出したのか若干赤い。
「普通に考えてあれは反則だろ」
もう既に、永遠の周囲に発されていたブリザードは鳴りを潜めている。
「どのへんが良かった?やっぱり生足?それともふわふわの髪?制服じゃ見えない鎖骨?」
構図は、完全に悪女モードの美玲に永遠が一方的にやられている様子。
永遠は片手で頭を押さえている。
「でも陽那はあげないからね」
悪女然とした笑みのまま美玲は言いおいて、陽那がいるであろう棚のほうに歩いていった。
永遠は美玲の後ろ姿を見送ったあと、ずっと持っていた朝比奈姫凪の新作ーー『白いマフラーの彼女』を見て、そしてレジに向かった。
空が藍色に染まってきていた。
ついこの間まで夏だったのに、秋がだいぶ深まっていたことに気付いた。
もう、誠也と別れて一ヶ月くらい経っていた。
わたしたちは、駅前でクレープを1個買ってふたりで食べていた。
本屋さんを出てから、美玲の言っていた通り、ショッピングをした。わたしは全身コーディネートしてもらったので、紙袋がとても重い。
どうでもいいことをつらつらと話していたとき、ふと美玲が言った。
「そいえばさ、篠宮永遠とはどういう関係なの?」
「どういう…?ただちょっと、図書館で本のこと話したくらいだよ」
指についた生クリームをぺろっと舐めとる。わたしの指先を見ていた美玲は首を傾げた。
「陽那から声掛けたの?」
「え、違うけど」
ますます美玲の首の傾き具合が大きくなる。
「どうしたの?」
「いや、彼、昨年ミスターコンで準グランプリ獲ってさ、有名じゃない?」
「そうなの?」
それは知らなかった。でもまぁ、あの顔なら納得できる。
美玲はため息をついた。
「ほんと、そういうの興味ないよね」
「そうだね」
わたしは苦笑する。しょうがない。わたしにはずっと誠也だけだったから。
やれやれ、と美玲が肩をすくめる。
「ま、陽那はもうちょっとそういうのに興味を持ちなさい。わたしが話す相手がいなくなるでしょ」
美玲は残っていたクレープをわたしの口に詰め込んだ。
「ふぐっ。ひょっほ、ひえい(ちょっと、みれい)!」
わたしは口いっぱいのクレープを頑張って飲み込む。殺す気か。
「今の陽那、リスみたいだった」
美玲は殺しかけたわたしのことなどどこ吹く風だ。
わたしに荷物を押し付けて、美玲はクレープの入っていた紙を小さく畳むと、ゴミ箱に捨てて来てくれる。
「もう帰ろっか」
戻ってきた美玲は疲れたように言った。そうだね、と返したわたしに、思い出したように声を掛けてきた。
「今日みたいに可愛いカッコ、学校じゃしちゃダメだから」
「はぁ?」
和訳してほしい。
「ま、陽那は髪を結ぶ気も時間も技術もなさそうだけどさ」
「っしっつれいな!」
でもわたしは否定できないのだ。




