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1  涙を流すまで

 それは偶然だった。

 夕日の差し込む教室で、わたしの彼氏である誠也(せいや)と、わたしの中学からの友達である有希ゆきがキスしているのを見てしまったのは。

 あかに染まる教室で、机に腰かけている有希と、有希に覆いかぶさっている誠也までも夕陽に染まっていて。

 入り口のところで呆然と立ち尽くすわたしに、はっと彼が気づいた。

 わたしは踵を返して、脱兎のごとく逃げ出した。

「…っ、陽那!」

 やめて。

 その口で、その唇で。

 わたしの名前を呼ばないで。


 どこをどう辿ってきたのか、気づいたら電車に乗っていた。まだ温さの残る秋風の心地が頬に残っている。

 平日の夕方の電車は空いていた。

 電車のドアのところにある窓には、空虚な瞳をしたわたしが映っている。

 高校の最寄り駅に着く直前に忘れ物に気付いていなかったらなあ、と思った。わたしのクラスが誠也や有希と違っていたらなあ、とも思った。そうしたら、何にも知らないまま、もう少し幸せな時間を過ごせただろうに、とバカなことを考える。

 幼馴染を10年以上。恋人歴は3年ちょい。高校受験も一緒に乗り越えたのに。わたしたちの関係は、いったいいつから壊れていたんだろうか。

 いつか終わりが来るとして、それがこんな形だなんて、誰が想像するだろう。

 涙は出てこなかった。悲しいとか悔しいとかそんな気持ちにはならなくて、なんだかどうでもいいような気持ちになった。

 携帯を開くと、誠也からメールが来ていた。今日のは衝動的なもので、今まで有希を恋愛対象として見たことは無かったし関係はなかった、ちゃんと謝りたい、ほんとは陽那が好きだから、と書かれていた。

 わたしはほんの少しだけ安堵した。今まで彼がわたしに嘘をつき続けていたわけではないと知って安心した。

 わたしは返信のメールを作成する。

『安心した。でももう無理そう。今までありがとうね』

 ポチッ、と送信ボタンを押した。

 そういえば、せっかく学校に戻ったのに、忘れ物を取ってくるのを忘れた。これじゃ宿題ができないや、とわたしはひとり苦笑した。



「――というわけで、別れました」

 昨日テキストその他諸々を持って帰れなかったせいで宿題ができなかったわたしは、数学のプリントを写させてもらいつつ、昨日の顛末を美玲に語った。

「ええ…彼、すごい真面目そうな人だったのに。しかもいやにあっさりしてるね、陽那。誠也くんのこと大好きだったんでしょ?」

 言いつつ、美玲はそっと横目で誠也を見ている。彼は仲のいい男友達と楽しそうに話していた。

「うんそう、わたしも自分でも不思議なんだけどね、あの光景を見た瞬間は頭が真っ白になったんだけど、ちょっと時間を置いたらなんか全部溶けてくような気がして。どうでもよくなっちゃった」

「…あーもー陽那、優しすぎ。怒鳴って殴ってもいいのに」

「やだよ面倒臭い」

 予鈴がなる。まずい、はやく写さねば。

「それに有希、すごい意外だったんだけど」

 美玲が息をひそめて言う。

「誠也くんのこと、好きだったの?」

「どうだったんだろ。中学のときも、そんな素振りは見せなかったのにな。わたしと誠也のこと、応援してくれてたんじゃなかったのかなあ…」

 ちらっと有希の方を見やる。いま彼女はひとりでぼーっとしていた。

「いやー有希、可哀想。陽那のモノのはずだった誠也くんを盗っちゃって。多方面からにらまれそうね」

 可哀想と言いつつ、美玲はどことなく楽しそうだ。思わず顔を上げて美玲を見ると、彼女は実に悪女な顔でわたしを見つめていた。学校内でも有名な西洋風美人な美玲なので、そんな表情もよく似合う。…じゃなくて。

「わたしは別に、そこまでダメージ受けてないんだけどねぇ」

 美玲はやれやれとため息のオプション付きで肩をすくめた。

「なんか誠也くんが可哀想になってきたわ」

「あ、そう」

 わたしは投げやりに返事をした。とりあえず今やるべきことは、プリントの答えを写すことだ。


 どういうわけか、しばらくすると人生初のモテ期が来た。

「あの…宮原さん!ずっと好きでした!付き合ってくださいっ」

 テンプレ中のテンプレのような、放課後の体育館裏。運動部が通りがかる可能性も低くないので、ここを指定した彼の考えはよくわからない。わたしは無気力に首を振った。

「いえ…まだ、そういう気持ちになれないんです」

 そっと目を伏せて。ここまで全部、美玲の入れ知恵だ。最初に告白されたとき動転して逃げ出したわたしに授けてくれた。「逆恨みもされにくいし、庇護欲そそるいい断り方よ」とは美玲の言葉だ。

 そそくさと立ち去りつつ、わたしは内心首を傾げる。今までわたしに告白してきたのは、誠也だけだったのに。

 でも、誰に思いを告げられても、わたしの心は動かなかった。まだ、そういう気持ちになれないんです。という、美玲が吹き込んだ台詞はわたしの思いに近いどころか、そっくりだった。

 ふっと胸が痛んだことに、わたしは気づかない振りをした。


 わたしはその足で図書館に行った。我が校の図書室は校舎と分離し、中庭にでーんとそびえている。蔵書冊数は10万冊近い。本好きにはたまらない空間だ。

 目的も無く、本棚の間をのんびりと歩きながら本を物色する。

 立ち止まったのは、いつもの棚の前だった。その棚に置いてあるのは、『朝比奈(あさひな)姫凪(ひな)』の本だ。棚にあったのは、たった5冊。もっと所蔵されているのは知っているから、誰かが借りて読んでくれているんだ、と思うと胸が温かくなる。

<朝比奈姫凪って作家、いますごい人気だから読んでみたけどさ、なんかイマイチだった>

<なんで?>

<んーなんていうか、世界が綺麗すぎるっていうか。陽那は読んだ?>

<一応読んでみたよ>

<陽那は好きなの?朝比奈姫凪>

<んー、まあ普通かな>

 不意に、いまは元彼となった人との会話がよみがえる。そういえば、誠也の言葉に反抗心を持ったのは後にも先にもあの時だけだった。心臓に針が刺さったような、痛みとも形容しがたい感情だった。


「朝比奈姫凪、好きなの?」

 いきなり低い声で耳元で囁かれて、わたしは飛び退いた。

「あ、驚かせちゃったか。ごめん。でもずっとその棚見てたから気になって」

「え、あ、いや、うーんと、ふ、普通かな」

 とんでもなくどもりながら返事をしつつ、わたしは声を掛けてきた男子をまじまじと見つめる。

 どこかで見たことがあると思った。濃茶のさらさらの髪に、整った顔立ち。身長は、160cmあるわたしより頭半分くらい高い。男のくせに綺麗だ。チャラいというほどではないけど、真面目にも見えない。ふんわりした笑みを浮かべている。でも思い出せそうにはない。

「そうなの?好きなのかと思った。俺は好きだなぁ」

 何気なく告げられた“好き”に胸がドキリとした。それは、“宮原陽那”に向かって言われた言葉ではないけれど。

 そんなわたしの心中など露知らず、正体不明の彼は見知らぬわたしに臆することなく、喋っている。

「あんなに優しくて、切なくて、強い小説書けるなんてすごいよね。しかもそれが、俺らと同じ年代の、女子高生だなんてさ」

「そうだね、高校生ってのがすごいよね」

 わたしは必死で言葉を探す。

「そうそう、やっぱり高校生が高校生を書いてるからだと思うけど、心情描写が生々しいって言うか。そうだよな!ってなる」

「あー、それ、わかる」

「いつも図書館で借りる派の俺が全部買っちゃったくらいには好き。…宮原さんも結構読んでる?」

「…一応、全部読んではみた」

 全部と言ってもデビューして一年ちょっとの朝比奈姫凪の作品数なんて大したことは無い。それに、本当は物語の隅々まで説明できるほどだけれど、そんなことは言う必要が無い。

「なんだ、好きなんじゃん、それ!俺は『檸檬は甘かった』が一番好きなんだけど、宮原さん(・・・・)は何が好き?」

「うーんと…」

 ガッツリ恋愛系来たか。ここは適当になんか言っておこう、と思ったところでわたしはぴたりと動きを止めた。

「…わたしの名前、知ってるの?」

「え、今更?」

 正体不明の彼は本気で驚いたように瞬きをした。ついでに首を傾げる。髪がさらっと流れた。うーん、さっきチャラいというほどではないと言ったのを訂正しよう。こいつは自分の顔の価値を分かってやっている。つまりは軽い。

「知らない人はいないだろうなぁ、ファンクラブまである美人なんだから」

「っ、は?何その冗談」

「それ、真面目に言ってんの?」

 彼の瞳に呆れが混ざる。そんな事言われても。わたしが美人だなんて、人違いだろう。

「いや、待って。ひょっとして俺のことも知らない?」

 どうやら今まで、話したことはないけど一応お互い知ってはいる、というのが彼の認識だったようだ。だがわたしは知らない。こんな軽い奴は知らない。首を横に振ると、彼は頭を押さえた。絵になる。

「あ~えっと俺は篠宮しのみや永遠(とわ)。隣のクラスなんだけ、ど…その顔じゃ知らなかったんだな、(わり)ぃ」

 篠宮永遠。そういえば近くの席の女子がよく噂していた。でもカッコいいカッコいいときゃあきゃあ言っていた以外には何も浮かんでこない。

 でもまぁ仕方ない。わたしはずっと誠也しか見ていなかったから。

 元彼のことを考えても、別段変わった感情は持たなかった。心臓に直接触れられたような鈍い痛みには、気づかないフリをした。


 そしてその後、わたしと篠宮永遠は、図書館で会えば好きな本や作家について話す程度の仲になった。これまで、本の趣味が合う人がなかなかいなかったので、心ゆくまで語れる篠宮永遠は居心地のいい相手だった。



 またか、と思った。美玲の気持ちが最近いやに理解できる。彼女はよく、「みんな、美玲はモテて羨ましいって言うけれど、ちっともいいことなんて無いのよ。断るのって、なかなか心が痛いもの」と言う。それはモテる人のセリフだ、とわたしも思っていた。だけど、今わたしは少し困っている。そう、断るというのはどことなく辛いものがある。

 わたしはそんなにモテる人だったのだろうか。正直いって、自分の魅力がさっぱりわからない。

 ――あぁ、そういえば篠宮永遠が、わたしを美人だと言っていたっけ。ファンクラブがどうとか。

 そうすると、わたしに告白してくれる人は、見た目で好きになったということか?ろくに話したことの無い人もいたし。

 それはそれで、なかなか悲しいものがある。

「……あのっ、宮原さんっ。…それで、返事は…」

「あ」

 わたしは意識を現実に戻した。屋上へと続く階段の踊り場。

「その…ごめんなさい」

「いいえ、わかってました。聞いてくれてありがとうございます」

 踵を返して立ち去った今日の彼は、子犬のような可愛い子だった(男子だ)。でも知らない人だった。

 わたしもその足音が聞こえなくなってから歩き出す。今日はもう帰ろうかなぁ、と思った。

 1階分降りて向きを変えたところで、わたしは人にぶつかった。

「わっ!」

「あぁ、ごめん」

 低くて飄々としたその声には聞き覚えがあった。顔を上げると微笑を浮かべた篠宮永遠。わたしはさり気なく背中に回っている腕を押しのけた。

「こちらこそ。じゃ」

 わたしがそのまま歩きだそうとすると、篠宮永遠はわたしの腕を掴んだ。痛い。

「告白されてたの」

 とりあえず腕を振り払う。真面目そうな声音だった。似合わない、と、わたしは篠宮永遠に向かって心の中で思う。いつも掴みどころのない笑みを浮かべているくせに、と。でも彼の顔は見ていないので、どんな表情をしているのかはわからない。

「聞いてたの」

 わたしが棘のある声を出すと、「別に」と小さな声が返ってきた。

「あの子、宮原さんのファンなんだよ。で、その彼が泣きながら降りてきたから、なんとなく」

「泣き、ながら…?」

 普通に考えて、わたしは悪くない。そんなことはわかっているけれど、その言葉はぐっさりとわたしに刺さった。自分ではない誰かによって恋が終わらせられるのは、辛い。――ああ、でもわたしは辛くなかったのかな。そうしたら、気づかないうちにわたしはもう終わらせていた、と?

 それは違う気がした。終わりをもたらしたのは、わたしじゃない。

「何で宮原さんのほうが泣きそうな顔してるわけ?」

 そういわれて、はっと目元をぬぐう。大丈夫、泣いてなんかない。

「わたしが泣く理由なんてどこにもないから」

わたしは突っ撥ねる。

「そうだなあ」

 篠宮永遠は真面目な顔を一転させてからからと笑った。

「宮原さん、すっげぇ強そうだし。ヒールの踵で気に食わない奴の顔面とか踏み潰してそう」

「なにそれ!」

 感傷的な気持ちが一瞬で吹っ飛ぶ。奴にこんなことを言われる筋合いなど毛頭ない。

「そういう篠宮くんは、にこにこ笑って女の子をたぶらかして遊んで捨ててそうね」

「まさか」

 彼は肩をすくめた。

「驚きかもしれないけど、俺、生まれてこの方彼女いたこと無いんだ」

「え?」

 本に関係ない篠宮永遠のことを聞くのは、初めてのような気がした。

 篠宮永遠は首を傾げてにっと笑った。

「姉が綺麗なのに男勝りすぎてさ、その結果ガツガツしてる女子がもはや恐怖の対象なんだよね。俺に告白してくれる子って割とギラギラしてるし。ま、そもそも、顔に釣られてきた奴なんて、申し訳ないけど告白を丁寧に断ってやる義理もないと思ってる」

 わたしはじいっと彼を見つめた。全力でチャラい人だと思ってた。女子恐怖症とは、なんだか面白い。

 でも、こっちの篠宮永遠のほうが絡みやすいとも思った。本の話をするのに、それ以上の関係はいらないけど。

 まぁ、軽い男は嫌いだから。

 そう思った瞬間、あの夕日の差し込む教室がフラッシュバックする。

 誠也はそういうことする人じゃないと思っていたんだけど。

 本当は、わたしの知らない間に、変わっていたのだろうか。

 ふっと窓の外を見ると、空が真っ赤に染まっていた。

 わたしの前には、差し込む夕陽であかに染まる篠宮永遠がいた。黙り込んだわたしにどう声をかけていいかわからないような顔をしていた。

 十数年続いた関係を一瞬で終わらせた光景が、頭の中で弾ける。

 頬を温い何かが流れていた。

「あ、ちょっ」

 いきなり泣き出したわたしに、篠宮永遠が焦って右往左往する。それが面白くて小さく笑ったら、せき止められていた何かが洪水のように流れ落ちてきた。

 たぶんわたしは、ずっと悲しかったのだ。

 気づいたら、篠宮永遠の肩に顔が押し付けられていた。背中に手が回っている。さっきぶつかって抱きとめられた時とは違う気がした。「絶対声出すなよ」と低い声で囁かれる。

 いつものわたしなら突き飛ばして逃げていただろうに、今はそうできなかった。温もりが、こんなにも優しい。

 わたしは声を殺して、泣いた。


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