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誰かの恋のお話

誰かの涙のお話

作者: 雪平

「小野先生?」


 街中、周りのざわめきの中で控えめに聞こえた声。呼ばれた?


「あ、やっばり小野先生だ!わー、お久しぶりです!私のこと覚えてますか?」

「まあ、久しぶり!もちろん覚えてるよ~、すっかり美人さんになったね」


 振り返った先に居たのは、私がかつて担任を受け持ったクラスの副委員長をしていた子。すっかり大人になっちゃって、スーツもよく似合ってる。


「今度同窓会をやるんです、よかったら来て下さい!みんな会いたがってるんですよ」

「本当?うれしいな、ぜひ行きたいわ」


 同窓会の詳細をメモに書いてくれた。みんな元気にしてるのかな。卒業してからもう六年。もしかしたら、結婚してる人もいるかもしれないわね。


 私が頭の中でそんな想像を巡らせていると、もっと早く会えればよかったのに、と彼女が小さく呟いた。私が聞き返すと、少し寂しそうな笑顔をしていた。


「…伊藤くん、すごく先生に会いたがってたんです」

「今回は来られないの?残念─」

「亡くなったんです」


 彼女の口から零れたその言葉は、私を深く突き刺した。






 すっかり暗くなった人のまばらな道。六年前に一度だけ訪れたその場所は何も変わっていなくて、振り返れば彼が居るんじゃないかと思ってしまう。


 いつしかと しをるる我が 袂かな 涙や恋の───






 六年前、私は初めて三年生の担任になった。二年生の時のクラスからそのまま持ち上がりだったから、クラスのみんなは仲がよくていい子達で、私は担任のくせによく支えられていた。

 そんなクラスの委員長をしていたのが、伊藤史裕くんだった。


「先生ー!助けてっ、古典ぜんぜんわかんない!!」


 体育の教師を目指していた彼は頑張り屋さんで、模試の結果は右肩上がり。だけど、国語──特に古典が足を引っ張っていた。だから国語教師である私の所にこうしてよく聞きに来ていた。


 一通り質問に答え終えると、伊藤くんはありがとうございます!といつもの明るい笑顔になった。


「そういえば、先生はなんで国語の先生になったんですか?」

「んー、教師になった理由はいろいろあるけど、国語を選んだのはやっぱり国語が好きだからかな」

「えーっ!俺、小野先生の授業じゃなかったら国語嫌いだよ…」

「おもしろいじゃない、国語」

「んー…例えばどんなところですか?」


 小野先生の授業じゃなかったら国語嫌い、つまり私の授業は好きってことかな。生徒にそう言ってもらえるのは嬉しい。


「なんていうか、こう…日本語って、独特じゃない?私は、その特有の繊細さだとか、表現の仕方が好きなの。だから、みんなにも日本語の魅力を知ってもらいたくて」

「ふうん…?」

「先生の好きな短歌にね、こういうのがあるの」


 そう言って、私はお気に入りの短歌の一つであるそれを詠んだ。


 色見えぬ 心ばかりは しづむれど 涙はえこそ しのばざりけり


「えっと……どういう意味、ですか?」

「表に現れない恋心だけはどうにか隠しているけれど、涙だけはどうにも隠すことができないよっていう意味なの。これに対して詠まれたのが、


いつしかと しをるる我が 袂かな 涙や恋の しるべなるらん」

「それはどういう意味?」

「これはね、いつの間にか私の袂はぐっしょり濡れてしまったなあ。この涙こそ、恋をしている証拠なんだろう、という意味。

あ、袂っていうのは和服の…袖みたいなところ。きっとこの歌の主人公は誰にも言えない恋をしていて、一人でこっそり泣いてしまっていたのね。それでやっぱり自分はあの人が好きなんだと認めざるを得ない…なんだか切なくて、でも表現が綺麗だなあって思わない?」


 伊藤くんは見たことのない表情をしていたように思う。だけど彼はすぐにいつもの笑顔になったから、私は特に深くは考えなかった。


「俺もその短歌好きだなあ」

「本当?自分から紹介しておいて何だけど、伊藤くんはもっと明るいのが好きかと思った」

「はは、まあ基本的にはそうなんですけど…」


 そこで言葉を切ったかと思うと、彼は慌てて立ち上がった。


「バスの時間!!やばっ、それじゃ小野先生、また明日!」

「あ、うん、気を付けてねー!」


 伊藤くんは元気に扉を開き、走り去っていった。元気だなあ、高校生。




「…のせんせい、小野先生」

「っ、はい!」

「どうしたんですか、ぼーっとして」

「石川先生…すみません、何でもないです」


 昨日、彼女と別れてから伊藤くんのことばかりを思い出している。授業も会議も問題なく終わったけど…こんなじゃ駄目よね。しっかりしなくちゃ。


「小野先生もうお帰りですか?でしたらこの後是非食事でも…」


 石川先生はとてもいい人だ。そして、とても有り難いことにこんな私を好きでいてくれている、らしい。

 だけど今の私じゃ、誰とも付き合ってはいけない。


「いえ、すみません。私この後は行くところがあるんです。お先に失礼します」


 いい加減、このままではいけないから。





「小野先生ーここわかんない!教えて!」

「教えて下さい、ね!見せて」


 いつものように伊藤くんからテキストを受け取る。受験まであと四ヶ月、彼はやっぱり毎日のように国語準備室へやってきた。


「なるほど!わかった、ありがとうございます」

「どういたしまして」

「…先生、何かあった?」

「え?」


 どきりとした。伊藤くんが心配そうに私の顔をのぞき込んでくる。


「やっぱり。目、ちょっと腫れてますね」


 バレた。一日誰にもバレなかったと思ったのに…私のばか、生徒に心配かけてどうするのよ。

 私はとっさに笑顔を作って誤魔化した。


「えへへ…バレちゃった?実は先生、昨日感動物の映画観て号泣しちゃって。やだなあ、恥ずかしい」


 だけど私はどうにも嘘が下手で。伊藤くんは困ったような、苦しいような表情で私の腕を掴んだ。


「先生もう仕事終わりました?ちょっとついてきてほしいところがあるんです」

「ま、待って、まだ仕事が…」


 本当はもう帰るつもりだった。だけどこのままだと泣いてしまいそうだし、生徒と二人で学校を出る図って、少しマズい気がして。


「…俺が泣きそうなんです。先生、話聞いてくれませんか?」


 そう言われると断れなくて。結局、私は校門を出ると伊藤くんの後ろをついて行った。


「つきましたよ、先生!」


 いつもの笑顔で私を手招きする。もう、泣きそうだなんて嘘じゃない。…気にかけてくれてるんだよね。ごめんね、伊藤くん。頼りない先生で。


「え…ついた、ってどこに?」

「何言ってるんですか、ついたって言ってるんだからここだよ」


 ケラケラ笑う伊藤くんをよそに私は混乱していた。だってここは、普通に街中で、目の前にあるのはとあるビルの裏側で。まさかビルに入るわけでもなく。


「こういうガラスのビルって、この辺にはここしかないんだよね」

「…この窓ガラスがどうかしたの?」


 伊藤くんがガラスに触れる。いつの間にか多くなった一面ガラスのビル。もちろんマジックミラーになっていて、外からはただ歪んだ鏡のように映るだけなんだけど。まさかこのガラスを見せたかったのかな?でも、どうして?

 私も伊藤くんの隣に立って、同じように触れてみる。ガラスに映った私は──


「泣いてるように見えませんか?」

「え…」

「歪んで映るから表情が泣いてるみたいっていうのもあるし、背景も全部が歪んで見えるから泣いたときと同じように見えて、泣いてる気分になるんだ、俺」


 目の前の歪んで映っている自分を見る。ひどい顔。確かに、泣いているようだった。


「先生、泣きたいのに泣くの我慢したいんでしょ?俺じゃ頼りにならないのも仕方ないから、さ。…すみません、泣かせてあげられなくて」

「そ、そんな!そんなことないよっ。私こそごめんね、先生のくせに心配かけて」

「いいんです、そんなこと。俺が勝手に心配しただけだから」


 伊藤くんは情けなさそうに笑った。落ち込んでる?


「…あのね、実は先生の恩師が亡くなったの。それで昨日…日曜日はお通夜に行ってきたんだけど、悲しくて。大好きな先生だったんだあ、すごく。私が教師目指したのも、その先生の影響だったの」


 母親しかいない私は、その先生を父親のように思っていた。中学生の時に出会ってから、ずっと連絡を取り合って、たくさんのことを教えてもらって、励まされて、叱られて、褒められて。

 昨日あんなに泣いたのに、学校という場所がどうしても先生を思い出させて。


 ぽん、と私の頭に温かい手が乗せられて、優しく撫でられる。それが大好きな先生と重なって。

 ガラスの中の自分が、一層歪んで見えた。





 ガタンゴトンと電車は揺れながら走っていく。空は綺麗なオレンジ色に染まっていて、それに染められているあの日のビルが見える。ああ、こうして見るとまるでビルが泣いているみたいね。


 私はポケットの中身をぎゅっと握って、また当時の記憶に意識を向けた。




 晴れてよかった。早いもので、今日でみんなも卒業だ。私は泣いて崩れてしまったアイメイクを軽く直して、次々と来てくれる教え子たちと写真を撮っていた。やっぱり、寂しいものね、卒業式って。


「あ、先生っ!小野先生ー!」

「伊藤くん。卒業おめでとう」

「ありがとうございます!先生には本当世話になりました」

「こちらこそ。とっても頼りになる委員長だったよ、伊藤くん」


 照れ笑いする顔はいつもよりずっと幼く見えて、成長してもこういうところは変わらないでほしいと願う。でも、本当に大人っぽくなった。伊藤くんだけじゃなくて、クラスみんな。


「一緒に写真撮ってもらっていいですか?」

「もちろん!」

「やった!じゃああの桜の下で撮ろう!」


 そう言うと伊藤くんはこの学校で一番大きい桜の木へ駆けて行き、元気に私を呼ぶ。

 もう今日でこの笑顔ともお別れね。


 その場にいた子に写真を撮ってもらい、一緒に写真を確認する。うん、よく撮れてる。お礼を言うと、その子も友達のところへ走っていった。


「こうやって伊藤くんとお話しするのも最後ね」

「そんな寂しいこと言わないで下さいよ。同窓会開くんで、先生も来て下さいね!絶対!」

「ふふ、楽しみね」

「あ、それに俺が夢叶えて教師になれたら、先生と同じ学校で働くかもしれないですよ!」

「そっか~。なんだか不思議ね、伊藤くんが生徒じゃなくて仕事仲間になるなんて」


 笑って、そんな未来を想像してみる。伊藤くん、じゃなくて、伊藤先生って呼ぶのね。ふふ、何だか変なの。


 そろそろみんなの所に戻ろう。そう言おうと振り返る──


「小野先生」

「なに?」

「…最後にもう一回だけ、先生を困らせてもいいですか」

「え?なあに??」


 何かおもしろいことかと思ったけど、伊藤くんはやけに真剣で。見たことのない表情が、遠くへ行ってしまうことを感じさせて、少し怖くなった。


「…伊藤くん?」

「俺、先生のことが好きです」


 え?

 考えてもみなかった言葉。伊藤くんは、私のこと……


「……あの、」

「ははっ。すみません、困らせちゃって。いいんです、俺が言いたかっただけだから、忘れて」


 眉を下げて笑う彼は少し泣きそうで、でも私はどうしたらいいかわからなくて。

 遠くから伊藤くんが友達に呼ばれた。元気に返事をして、走っていってしまう。遠くなっていく、離れていく。何か言わなきゃ、何か──


「先生!」

「っ」


 何かを投げられ、どうにかキャッチする。そっと掌を開き見ると、それは学生服のボタンだった。


「それ、持ってて!いつかまたどこかの学校で会えたら、もう一回言うから」


 ニコッといつもの笑顔で、彼は頭を下げた。


 先生、またね






 すっかり暗くなった人のまばらな道。六年前に一度だけ訪れたその場所は何も変わっていなくて、振り返れば彼が居るんじゃないかと思ってしまう。

 でも、居るわけがない。居るわけがないんだ。だって、彼はもう…。


「はは、変な顔」


 窓ガラスに映った自分はすごく不細工で、情けなかった。


「いつしかと しをるる我が 袂かな 涙や恋の しるべなるらん──」


 私、あのときに戻っても伊藤くんにいい返事は、きっと返せない。だって今まで一度もあのことに関して後悔したことはなかったし、あの日の私の袖は、濡れていなかったから。


 だけどね、伊藤くん。


「先生、会いたかったよ…っ」


 先生、少しだけ、ほんの少しだけ、待ってたんだ。いつか伊藤くんが夢を叶えて、私の前に現れるのを。そして、あの明るい声で、小野先生って呼んでくれるのを。


 先生、ずっと待ってたんだ。もう一度、



「小野先生?」

「っ!」


 考える前に振り返っていた。心臓が跳ねる。だけど、そんなことは当然起こらなくて。


「い、しかわ、せんせい…」

「驚きましたよ、こんな所にいるなんて。ここら辺に用事だったんですか?」


 笑って、石川先生が近づいてくる。辺りが暗くて助かった。

 何とか声を絞り出す。


「石川先生はどうして…」

「ああ、実は小野先生をお見送りした後実家から急用だと電話がありまして」


 色見えぬ 


「でも結局大した事じゃなかったので、久しぶりにこの辺を散歩してたんです」


 心ばかりは しづむれど 


「懐かしいです、二十年くらい前までは毎日のように通っていて」


 涙はえこそ


「小野先生もこの辺りに──」


 しのばざりけり


「小野先生?泣いてるんですか…?」


 あのね、伊藤くん、



   誰かの涙のお話


 (…最後にもう一回だけ、先生を困らせてもいいですか)

 (俺、先生のことが好きです)


 私は、あなたに困らせられたことなんて、一度もないの。



「小野先生…」

「…いえ、大丈夫です。泣いてなんかないですよ」


 あなたがくれたこの第二ボタンは


「泣くわけ、ないじゃないですか」


 泣き顔とともに、置いていく。




バスの中から見えたビルが泣いているように見えたので。このお話を思いついて、この短編集を書くことにしました。


お読みいただきありがとうございます。

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