偏差値1
みなさま、宜しくお願いします。
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なにとぞ、なにとぞ。。。。
玉木涼子はその表情を固くして顔を上げた。
雲ひとつない空に堂々と構えた5月の太陽が眩しい。その光を遮るように額に手をかざす。視線の先は貸しビルの三階――その窓面に貼られた看板をとらえた。白い背景に青い文字で『学習塾GROW』と書かれている。ところどころ文字が欠けているのに気付いてげんなりした。たいした年月の風雪に晒されたわけではないのにもうボロボロである。たしかあの看板は業者に頼まないで『あの人』が自分で作ったものだ。
「ひとっつも可愛くない……」
涼子は呟いて視線を落とした。
ふと周りの視線が自分に向けられていることに気付く。首だけを曲げて後方を見ると一組のカップルが慌てた様子で逃げて行く。涼子は見逃さなかった。彼らはスマホをこちらに向けていた。無断で他人の写真を撮ろうとしていたのだ。しかし追いかけて問い詰めようとか不快感に襲われたとかいうようなことはない。随分前から勝手に写真を撮られることには慣れている。だからいちいち気にはしない。
涼子は辺りを何気なく見回す。道行く誰もが彼女を横目に通り過ぎていく。多くは不思議な生き物を見るような目をしていた。
平日の昼下がり、この界隈は多くの人で賑わいを見せる。ビルの前を左右に伸びた通りは、それに沿って数多くのショップが並ぶため、特に人は多い。
「すげえ恰好してるな」
大学生くらいの男性二人がくすくすと笑いながら涼子の前を通り過ぎていく。
自分では『すげえ恰好』だと思ったことはない。
パニエを履いて、今日の青空も驚くくらいに鮮やかなサックスブルーのワンピースがふわりと浮く。胸元に大きく咲いたリボンの下から螺旋状にひらひらと巻く白いフリルは、さながら雲のように漂って見える。そして同色の長袖のボレロ、トランプ柄のタイツを身に纏い、仕上げと言わんばかりに頭部にのるのはヘッドドレスである。いわゆるロリータファッションと呼ばれるものだ。涼子はそれを心から好んでいる。変な恰好だとは一度も思ったことはない。むしろ究極的に可愛いではないかと自負している。
涼子は顔を戻してから短いため息をつく。一カ月以上前から交わしていた友人とのショッピングの約束が反故になったことを憂いているわけではない。この場に立っていることこそ彼女の気分を滅入らす。
腕時計に目をやる。チェーンにビーズで施された白いバラが散りばめられた腕時計である。針は1時15分をちょうど指していた。1時に来いと言われていたが体が言うことを聞かなかった。スマホが何回か鳴ったのも承知しているが敢えて出なかった。いや、少し怖くて出られなかった。
「なんでこんなことになっちゃったかな」
もう一度、今度は先ほどよりも深くため息をつくと、その重い足をビルの脇にあるエレベーターの方へと動かす。扉を開けて乗り込み、『3』のボタンを押した。エレベーターは一度小さく揺れると上昇を始める。涼子は壁に寄りかかってハート形のポシェットから二つ折になった紙を取り出した。
「次の塾長は任せた……って、バカじゃないの」
それは二週間前に他界した涼子の父親からの遺言状であった。