雨中
今日は傘を忘れた。
仕事帰り、いつもの公園でいつものようにベンチに座っていた。特に何をするわけでもなく、とりとめもない何かを掴むように思考を巡らせ、滑り台の横にぼんやりと立つ外灯の灯りを遠くから見つめるだけ。しばらく経ったら満足して、何事もなかったかのように帰り道を辿る予定だったのに。
なんだか昨夜は眠りが浅くて、奇妙な夢と明け方とを行ったり来たりしていた。そのせいだろうか、夜から雨が降る予報を見逃していたのかも。ベンチに座って10分も経てば、辺りは一気に大雨で煙った。
「う、わ……」
誰もいないのにうっかり声に出しながら、寂れた公衆トイレの屋根の下に逃げ込む。今日に限って折りたたみ傘もないし、夕立並みのこの雨では走って帰るのも躊躇われる。冬なのに珍しいやなんて呑気に考えてはみるものの、吹き込む雨が氷のように凍てついていた。公園に居座る気満々で着込んできてはいるけれど、雨が降るなんて想定外だ。
家まではかなりの距離を歩いて帰らなきゃいけない。タクシーを呼ぼうと思ったのは一瞬で、なんだか恥ずかしくて気が失せた。別に誰も、経緯なんて知りはしないのに。
ため息。雨は止みそうにない。
打ち付けた雨粒がみるみる地面を濡らして、公園内はむっとする土の匂いに包まれる。その中に混じって、錆の匂いも浮いている。しばらく使われていないであろうブランコの、滑り台の、あるいは砂場に突き刺さったままになっているスコップの匂いだろうか。あえて肺の奥まで吸い込んで、吐き出したら白く景色が曇った。
帰っても誰かが出迎えてくれるわけでもない、そういう状況になるとなかなか家に帰らなくなる私だ。独り暮らしを初めてすぐ、家族と住んでいた頃はある程度抑えられていた性癖がすっかり夜の生活を支配する。
おかえり、なんて。
誰かが言ってくれたら違うのだろうけど。
そんな、およそ生産的ではないことをぐるぐる考えていた私は、公園の入り口に人影を見た。
雨で濁る向こうに藍色の傘が見える。暗い暗い夜の色。そして、丈の長い黒いコート……男性だ。
頭の奥が痺れるような緊張感と、どうなってもいいやという自己防衛的な諦観がない混ぜになって私を満たす。彼はゆっくり近づいてくる。
いよいよ近くなると、私はそっと視線を落として雨に打たれる土に意識を集中させた。ああ、まだまだ止みそうにないなあ。
「傘がないの?」
雨の音が、ノイズが酷かった。その先から囁くような声で語りかけてくる誰か。知らない声で、知らない人だ。
「忘れてきちゃって」
「朝から予報が出てただろ、天気予報くらいは見ておいたほうがいいよ」
私の目と土との間に、黒色の折りたたみ傘が差し込まれた。コンビニで売ってる無骨なそれだ。
驚いて思わず彼の目を見た。呆れた様子で私を映している。
「えっと、」
「大丈夫、どうせコンビニのだから」
それは見れば分かる……けれど。
どうすればいいんだろう。
知らない人から貰うくらいならこのままずっとここに立っていたい気もする。でも、早く受け取れとばかりに傘はゆらゆら揺れているのであって。
おずおずと手を伸ばして、結局受け取る。まだどうすればいいかが見えてこない。どんな表情で、どんな動きでこの傘をどうすればいいのだろう。
「毎晩毎晩ここにいるでしょ。丁度帰り道の途中にこの前を通るから見かけてたんだけど、流石に今日は雨だからと思ったのにこれだよね」
「……すみません」
「いいよ。それより早く帰ったほうがいい」
彼が一歩引いた。傘を開けと言うことだろうか。
冷えてかじかんだ指を無理やり引っ掛けて開く。真っ黒い無地のそれは予想以上に大きい。
両手で握って雨の中に踏み出すと、打ち付ける雨粒が雨具を弾く音に耳を塞がれて、私は閉じ込められたような気分になる。何故だろう、彼と向き合っていることに変わりはないのに、さっきよりも安心感があった。
「―――、」
彼の口元が微かに動いた気がしたけれど、言葉を発したのかどうなのかは分からなかった。分からないままくるりと私に背を向けて、公園の出口へとゆっくり歩き始める。私だって帰らなければならない。不自然な程度の距離をあけて、息を殺して後ろを行く。
雨は激しく降っている。
公園のむき出しの地面は酷くぬかるんでいたけれど、やがて足の下を黒いアスファルトが覆っても、空から落ちて砕けた水滴の跳ね返りが強く勢いを増しただけだった。申し訳程度に弱々しい光を落とす外灯の光が、地面の表面で絶え間なく揺らめいている。
前方にある藍色の傘はどこに行くのだろう。今のところ私の帰り道を辿っていくけれど、まさか同じアパートだということもあるまい。
先の見えない不安に息が詰まりそうになりながらも歩き続けて、住宅街の奥へ続く曲がり角が見えてくる。あそこを左に曲がらなくてはならない私だが、彼は歩きを緩めずに真っ直ぐ行くようだ。ここでお別れらしい。
「傘、ありがとうございました」
「あげるからね」
私が何か口にする前に言い放って、彼はさっさと歩き去ってしまった。立ち止まったままちょっと上を向いてみる。
本当に、真っ黒な傘。
大きな低気圧が日本列島をうろうろするせいで、数日間は雨が続くらしい。皮肉混じりに言われた忠告通り、天気予報を食い入るようにみつめながら白米を口に詰め込む。朝は何も食べる気が起きないため、口にするのはいつも米だけである。
天気予報はなかなかに正確で、傘を貰った次の日は朝から曇天だった。降ったり止んだりを愚図るように繰り返して、夕方からは本格的な大雨になった。職場の窓から空を眺めて、かばんの中に入れておいた真っ黒な折りたたみ傘を想う。集中してないなと同僚に言い当てられ、上手く返せずに曖昧に笑った。
あの、藍色の傘。
名前も何も知らないし、傘に隠れていたせいでそもそも顔も分からないけれど、昨日のあの人はいつも私を見ていたのだろうか。そのことを想像すると胸がざわついて不安になった。何が不安なのかは自分でも説明し難いのに、でも確かに何らかの感情がそこにあるんだと思う。不思議と不快にならないのは、きっと傘をもらったせいだ。
心は行き先も告げずにお留守になったまま、何か考えているのかそうでないのかの狭間をうろうろしているうちに仕事を終えた。土砂降りの空を見上げて、取り出した傘を開く。夜との境界線が曖昧なほど真っ黒だ。
歩きながらもずっと迷っていた……本当なら今日は真っ直ぐ帰るべきだし、そうしないとおかしい。どうせベンチに座れるはずもないし。
分かっていつつも足が向くのは、習慣なんてもんじゃない。答えが見えていながらあえて気づかないふりをして、公衆トイレの屋根で雨宿りをする。傘はゆるく畳んで壁に立てかけ、同じ壁にそっと背を預けた。他の誰かと壁を共有しているような気分になる。
どうせいつものように時間を潰しているだけだと言い訳は用意していたけれど、そんなものが必要になる以前に、私は期待していたし確信に近い予感を抱いていた。だから公園の入り口に藍色の傘が見えた時は、しどろもどろに言い訳をしなくていいという安心感が大きかった。その後にのっそりと大きな緊張感が付いてきているのを気配で感じて、少しだけ俯く。
「傘がない……わけではないよね」
「はい、あの、ちゃんとあります」
はあ、と呆れたようなため息を落として傘を閉じると、彼は私の隣にあった黒い傘を手に取った。それを弄びながら、傘がもたれていた壁に代わりにもたれる。
「雨なんだからさっさと帰ればいいのに。なんで今日もいるの」
「なんででしょう……なんとなく」
「そう、なんとなくね。さっさと帰ればいいのにさ、こんな雨の中で時間つぶしすることないよ」
「ええ、ですよね……」
分かってはいるんだけれど。
「なに、家に帰りたくない事情でもあるの?あ、これは突っ込み過ぎか」
「いえ、一人暮らしなので。全然構わないです」
「そう?変なの」
変人呼ばわりは置いておいて、突っ込んだ話を訊かれるのは嫌いではない。少なくとも興味くらいは持ってくれているのだと、そう思えるから。
「毎晩毎晩よく飽きないね。寒いしさ」
「私、飽きないんですよ」
「飽きないの?僕は結構すぐに飽きるなあ……飽き性なんだよ」
「楽しいですよ、ぼーっと考え事が出来て」
「……寒い。帰ろう」
弄んでいた黒い傘をぐいっと私に押し付けて、彼はさっさと藍色のそれを開いた。そうして私を待っている。
どうやら今日は一緒に帰るらしい。昨日の距離感は、とてもじゃないけど二人で歩いていたとは言い難かった。
「考えるのは苦手でね」
傘を開くまでの間、激しいノイズに紛れるようにして呟いた。私はそれを聞き逃さないけれど、返事をするでもなく俯いただけ。何も言えなかったけど心の中では思う。この傘は新品で、昨日初めて開いた主は私だった。本当に何も考えていない人ならこんなことはしない。
傘は開かれた。雨のノイズが耳を塞いで、私と彼は隣に並んで孤立しながら帰路をゆく。傘と傘が触れ合うかどうか、この表現できない曖昧な距離を間に挟んで歩調を合わせて歩いていった。どうしようもなく近づけない安心感と寂しさに守られている私は、多分とても臆病なだけだ。そして、とてもとても狡い。
黒く濡れた地面を這う光に自分の姿が見えた。不安定に歪んでは雨粒の波紋に殴られ、形を失っていくのだ。
「静かだね、なんか」
雨が五月蝿いから、これはきっと私のことだろう。
静か……だろうか。静かって言われることは多くない。冗談も言うし笑わせるのは結構得意だ。でもこの人は、まだよく分からないから。仲良くなっていいのか分からないから。
嫌われたくないから。
「そうでもないですよ、緊張しているだけで」
「ふーん……傘、似合ってるね」
「根暗だからかな……黒色」
「そうかもね」
否定してくれなかった。私だって否定できないしね。
人のことを静かだと言っておきながら、彼とてあまり話さなかった。ぽつりぽつりと言葉を吐いても何故だろう、諦めたように途中で切ってしまったりするのだ。余程私と話しにくいのだろうか。それなら一緒に帰る空気になんてしなければよかったのに。
何を話したかは覚えていない。気づいた時には別れ道で、また明日、でもなく素っ気ない「サヨナラ」だけが放たれた。多分明日も会えるような気はするのだけれど、確証のない気のせいだったのかもしれない。ふとスマホを開いて天気を確認。深夜まで降り続く雨は徐々に勢いを失い、明日の天気は重苦しい曇り。
雨のない日は不安と期待。黒い傘が手放せない天気だ。
「星は見えないね。別に曇りじゃなくてもここじゃあ良く見ることなんて不可能なのか」
そうですね、と相槌を打つ。ベンチに並んで座るのは新鮮だった。傘がないせいで距離が近い。
珍しく怖くはなかった。ただ抑え切れない緊張と心拍数の上昇を感じながら、私は足元の石を見つめている。
「本当は何回か話しかけようとしたんだよ。でも駄目だった。だってそんなことして悲鳴でもあげられたら大変だろ?雨なのに傘も忘れて突っ立ってるところにでも遭遇しないと声なんてかけられない」
「私、知らない人に話しかけられた程度じゃ悲鳴なんてあげないですけど」
「そうだね、話をしてみて分かった。悲鳴をあげる人は、傘があろうが無かろうがおんなじだ」
こうしてみると、そこまで背の高い人ではなかった。私より少し大きいくらいだろうか、小柄だ。傘をさしているときは、なんだか化物みたいに見えていたのかもしれない。
黒髪が綺麗だった。瞳はまだ見ていない。
「でも初めて見かけた時は本当に不審だったんだ。誰かを待っている風でもない、ただそこに座っているって感じ。そりゃあじっと見ていたら失礼だから通りかかる程度で済ませていたアレだけど、何か特別な事情があるのかと思っていた」
何に疑問を感じたわけでもないけれど、私は癖で首を傾げながら答える。
「ただ考え事をしていただけですよ」
「何考えてんの?こんなところで」
「場所とかは関係ないんです。大切なのは夜であること、ここにいる事に意味がないこと、この2つだけ。2つが揃っていれば、私はどこまでも私のままで色々なことを見つめることができる。人間関係然り、自分のこと然り」
「夜であることと、ここにいるのに意味がないこと?」
「はい……昼間はなんだか追われているから。私だけじゃなくてこの街の色んな人が大方何かに追われている。夜は私を急かしたりしないし、追い詰めもしない」
「怖いんだ?」
そう、と返事をした気がする。そう、私は怖い。沢山の人が行き交っている昼、沢山の人が関わってくる昼。その大勢の中に私がいるという事実がたまらない恐怖になる。
「何も要らないんです。いくつか大切なものだけ抱えていられれば。そういうものは大抵今まで、夜にありましたから」
「ふーん、夜ねえ……」
僕は昼のが好きだけど、なんて呟いている。
「昼は色んなことができますからね」
「そうそう、遊びに行けるし、色んな人に会えるし。ほら、昼もいいだろ?」
「夜に抱えている大事な人間となら、多分楽しいですね」
「そういうのを保守的と言うんだと思うね。あと、話が抽象的でよく分からない」
「自分の心の話ですからどうしても。保守的っていうのは……確かに、そうなのかも」
もう変化なんて要らなかった。安穏とした幸せな毎日がそこにあるのなら、私はそれでよかった。
でも、と隣に座る名前も知らない彼を見つめる。この人は私の日常にとってイレギュラーな存在だ。明らかに異質。本来なら存在自体が私の日常を乱す排除すべき人なのに、どうしてか受け入れている自分がいることを知っている。というか、むしろ自ら進んで雨の中を待つのだから困りものだ。
「目的のないものが好きそうだよねえ」
私が一人考えている間にも、彼はぽんぽんと話を進めていく。
「こうして意味もなく公園にいたり、そういうのが好きなんだろう?僕も嫌いではないけど如何せん寒い」
間違ってはいないけれど完全解ではない。意味のないことは好きだけど、本当に意味のないことなんて存在しないと思っているから。私がここに来ることは意味を持っているし、それはいつしかすり替わって別の意味を持ち始めた。
「日課っていうのかな、来ないとなんだか落ち着かなくて」
「ふーん。そういうのってあるよね」
気のない彼の返事に曖昧に微笑む。
他愛のない嘘とも呼べないちいさな言い訳は、自分にしか気付かれずに消えていく。
なんだか今日の彼はヤケに饒舌だった。昨日はあれほど途切れ途切れの文章だったくせに、一人で楽しげに語っている。寒いと言いつつどこか暖かそう、つまらないと言いつつ愉快そうに。
それは何故かと問うと、彼はふっと不機嫌そうな色をよぎらせた。
「雨が降っていただろ」
雨。
確かに雨はざんざんと降っていた。私と彼を繋いでくれたのは雨だというのになんて、心の中だけで寂しげに呟くことくらいは許されるだろうか。
「あんなに降られたら五月蝿くて仕方ないよ、雨音で声も何も聞こえやしない。第一君は、傘を深く被ってさすだろ……声がこもって聞き取りにくいし表情も見えない。話しにくかったんだ」
なるほど、そういうことだったのか。
「今日は曇りだからいいよね」
「……そうですね」
雨中にある微妙な距離感、ノイズに包まれて守られたような感覚はない。いいや、そんなものはまやかしだと知っていた。傘があろうと無かろうと隣にいるのだし、ノイズがあろうと無かろうと私たちが言葉を交わしている事実に変わりはない。雨が産んだ錯覚によって勝手に安心しているだけで、彼は昨日も今日も間違いなく人間なのだ。
雨に包まれた特異な世界に甘えているだけ。
逃げているのはいつも私だ。
「まあ、雨が降っていなくても長居は良くないよね。寒いし、風邪を引きそうだ。ほら君なんてすぐ風邪を引くだろ」
「なんで分かるんですか」
「見りゃ分かるもんなんだって」
傘をさしていない今なら何かを伝えられる気がしたのに、やっぱり無理だった。言いたいことがあるような気がするのに、何をどう言えばいいのか見当もつかないのだ。考えるのは得意なくせにこういう時だけ言葉がお留守なのも、きっと私が恥ずかしさに甘えているから。
帰ろうと立ち上がって歩き始めた彼を追うように、私も慌てて公園の出口へ向かう。歩きながら既に明日のことを考えていた。
はっとした。
今までうっとおしく感じていたイベントが明日に迫っていたのだ。冬の時期に企業が活気づいて推すイベントが。
2月14日は、もう明日だった。
君はまた渋い顔をするのかも知れないけれど、バレンタイン当日は、朝から見事な雨が降っていた。何もかもがくすんでしまうような豪雨に肩を落とす人も多いのだろうけれど、私は自然と安堵のため息を漏らしている。もし晴れていたら渡せないかもしれない。
昨日の帰り道、君と別れたあとでスーパーに寄って買い込んだ材料を夜のうちにまともなチョコの形に仕上げる。バレンタイン前夜の品揃えは最悪もいいところだったが、手の込んだものを作る余裕こそ無いものの、チョコレートを形にする程度なら間に合う。友人の誕生日プレゼントを包装した余り物を引っ張り出してきて包めば、案外それらしくなるものだ。
仕事に行く前にかばんの底に忍ばせながら、ふと自分が何をしているのかが分からなくなった。今まで誰かにあげたことが無いわけではない。女友達にはそれなりに配るし、付き合っていた相手がいた時は真面目に用意をした年もあった。でも、こういう相手に渡すのは初めてなのだ。バレンタインのドキドキ感ってものに初めて直面しているとも言える……。
同僚の「また集中してないな」の言葉がいつもと違うもののように聞こえた。仕事が終われば、極力誰とも話さないように、もとい逃げるように雨中に飛び出す。こんな日は面倒ごとに巻き込まれやすいのだ。申し訳ないけれど、そんなことで邪魔されたくはない。
黒い傘のなんて艶やかなことだろう。何も聞こえないほど激しい雨音に全て包まれて、それだけが私の精神を辛うじて正常に保ってくれている感じがした。そうでなくてはおかしくなりそうだった。
歩き慣れた公園までの道をゆく間、初めてここを歩いているような気分になっていた。ヘッドライトの洪水を避けて、点々と光を落とす外灯の古びた立ち姿、並ぶ家々の塀は高くて、時折赤色の混じったレンガに似せたそれが目を引いた。誰もいない。私の前にも後ろにも、誰も。いつもなら気にならない一人の道が不思議と不安で、無意識のうちに傘の柄を握り直す。黒い傘を深くまで被れば、夜闇に隠してくれるのだろうか。雨音に負けないほどのこの心音すら脱ぎ捨てて、私からも隠してくれないだろうか。
そうしたら君は、藍色の傘をさして探してくれるのだろうか。
有り得ない妄想に急き立てられながら足早に辿り着いた公園は、一見誰もいないようだった。雨に濡れたブランコ、滑り台、砂場に突き刺さったスコップ、申し訳程度の光で照らす死にかけの外灯は、その足元の周囲の闇を濃くしている。
君は公衆トイレの屋根の下で、藍色の傘を見つめている。開いたままのそれを雨に翳して、砕けた粒が表面を伝うのをただ眺めているようだった。
今の私は公園の入り口に立って、昨日までの君になる。君は昨日までの私になって雨宿りをしている。
「僕は失敗したよ、黒い傘なんて渡すんじゃなかった。居るんだか居ないんだかよく見えないじゃんか」
近付いて顔を上げた君は、私を見つけて顔をしかめた。少し誇らしい。
「今日は早いんですね」
「やめろよ、それを言ったらまるで僕が卑しい人間みたいだ。もう一つ失敗したよね……今日こそ遅く来るべきだった」
そういう君の単純さも、出会ったばかりの私には新鮮だ。君は一体、いつから私に出会っていたのだろう。
「雨ですね」
「ああ……」
良かったとも悪かったとも言わない君は、酷く不機嫌そうだった。足元の土を見つめているその姿を見ていると、初めて君と話した数日前の自分の面影を見る。私もこんな顔をしていたのだろう。戸惑いと不安、若干の決まり悪さ。
傘をさしたまま向かいあう。今日はずっとこのままでいようと、大切な黒色のベールを手放さないようにしようと心に決めていた。少しでも油断すればそのままにしてしまいそうで。決意を鈍らせたくないのだ。
「雨は嫌いですか?」
「声は聞き取りにくいね」
「それは、そうですけど……」
君は私と似ているのかもしれない。多分怖がりなのだ。はっきりと物を言うことが怖いのだ。だから一歩引いて言葉に壁を巡らせて、距離を置くことで自分を守っているんじゃないの?
もしそうなら私と同じ。
同じだ。
「でも、嫌いというわけではない」
ぽつりと君は呟いた。
「傘をさしていると安心した顔をするよね、そんなにその安物が気に入った?」
ぶっきらぼうな言葉に、戸惑って瞬きを繰り返す。傍から見れば酷く滑稽なのかも知れない。
「ええ、気に入りました」
「変なの」
「知ってます」
「そう……いや、本当に雨は嫌いじゃない。そりゃあノイズは酷いし傘があるとなんか遠いし文句は多々あるけれども、悪くはないよ」
「私は好きですよ、雨。降るって予報も知らずに傘を持たないでぼーっとしていた私に、傘をくれる人がいる」
あの日雨が降っていなかったなら、果たして言葉を交わす日は来たのだろうか。雨中でのみ、私たちは互いを知ることができた。
彼に背を向けて歩き出す。砂場に無意味に突き刺さった錆びたスコップに近付いて、つま先で軽く蹴ってみる。抜けて倒れてしまわない程度に。
「子供が忘れてったのかな。いつからあるの?」
気付けば君はすぐ隣に立っていた。藍色の傘を私の黒と並べて、もう元の色も分からないスコップを見つめる。
「いつからなんでしょう……この公園に通って随分経ちますけど、いつからかここにあって、いつしかこんなに錆びて」
「ふーん、通って長いんだ」
「ええ、どのくらいかなんて覚えてないですよ?このスコップとおんなじ」
何故だろう、顔をしかめる君を見つけた。私を守る黒の傘と君を守る藍の傘、その間には雨が壁を作っていた。あまりに寂しく果てしない壁だった。そう簡単には越えられそうにない、揺るぎない壁。私はのあ雨音に耳を澄まし、遥かに越えてやってくる君の声を待っている。
「……帰ろう」
その言葉に呼ばれて、私は初めて君の目を見た。
そして微笑む。
以前雨脚は強まるばかりで、私と君はノイズに包囲されている。逃げ場はお互いの傘の下にしかない。
肩にかけたかばんの底から、丁寧に包装したチョコレートを取り出す。生憎、高級品を買うような時間の余裕もなかった。大して手間もかけていない手作りだ。
「知ってました?今日ってバレンタインなんですよ」
「皮肉かなあ、知ってるよ」
そりゃあもうね、なんて怒ったように言う君がたまらなく可愛かった。
出会い方など関係なかった。どうせ妙な出会いだ。
出会ってからの期間など関係なかった。わずか数日だ。仕事帰りに言葉を交わす程度。それでも私は君を待つようになったし、君だって私を待っていてくれた。
何も知らないことなど関係なかった。誰だって会ったばかりでは何も知らない。これから知るというだけの話だと信じている。
雨であることなど、関係なかった。
手を伸ばすのを躊躇う壁がそこにあって、安堵と寂しさをもたらすどうしようもない距離が横たわる。君と私の間にある雨は孤独をくれるけれど、そのくせ雨中で出会ったのだ。ここでしか出会えなかった。
偶然だ。
運命じみていると感じることくらい、自由だろう。
傘の柄を握りしめて、私の傘から君の傘へ、雨の壁をすり抜けてチョコレートを渡す。君がそれを凝視して固まるものだから、突き出した右手の袖が雨でぐっしょりと濡れた。それでもじっと待った。
息が止まりそうだった。でも、無理矢理吐き出した息は真っ白だった。
君の指が包装紙を軽く撫で、しっかりと掴んだ。
恐る恐る手を離して引っ込めて、頼るように傘の柄を両手で握った。何も言わない君の目は依然としてチョコレートに注がれている。
息を吐くこと、吸うこと。
意識して繰り返す。
ざんざんと降り続く雨音がこれほど助けてくれたことなどなかった。その絶え間ないノイズに声を溶かすようにして囁く。
「好きです」
声は白く透き通って壁に吸い込まれて消えた。君の瞳が私を映す。
「何故だろうね……」
僕もだ、と。
君は困ったように笑うのだ。
雨はやまない。
冬のそれは凍てついて、刺すような痛みをもって空から降ってくる。寒さに貫かれてしまわないように傘をさした。
そうしたら、孤独だった。
まあるく切り取った傘の下だけが私の世界で、隣にいる君とは交わらない世界だった。少なくとも雨中では、あまりに激しく寂しい雑音が孤独を強要してやまない。
「雨も悪くないものだね」
帰り道、そう呟いた君の声に耳を澄ますことは、雨音に耳を澄ますことだった。
そう。
臆病な私たちは、雨中でのみ出会えた。
毎夜の君へ、ハッピーバレンタイン。