第五話 『親友』
《なあ、今から少し時間ないか?》
維沙弥の元に峻也からそんなARMが届いてからおよそ二十分後。維沙弥は峻也に指定された公園に到着した。
まだ峻也の姿が見えない事を確認すると、維沙弥は視界左上のウィジェットを確認する。毎日自動更新されるそれは、"二一六七年五月六日水曜日十一時五十二分"と表示している。そしてその下には温度や湿度、歩数が逐一更新され、仮想投影されていた。今日はゴールデンウィーク最終日だ。明日、七日と八日学校に行けば、また休みとなる。
約束の時間まで後八分。
維沙弥は蒼穹を見上げ、太陽の眩しさに目を細めた。
暇だなと思った彼は、ほぼ無意識にミュージックプレイアプリケーションを起動しようとした。しかし、アプリケーションのアイコンを彼がタップする事はなかった。何故なら、彼はARTVのテロップを見咎めてしまったからだ。
《『烏合族(Dusk)』と疑われていた小学三年生の近藤 翔くんのDNAと合致する血液が発見。では、犯人は、『烏合族(Dusk)』は誰なのか――》
(まるで計ったみたいなタイミングだな…。…いや、実際に計ったのか)
一般市民がこのテロップを見たら、まず自身の身辺に『烏合族(Dusk)』がいるかも知れないと恐怖するところを、維沙弥は訳知り顔で冷静に見ていた。
すると、公園に入ってくる人の気配。
「おー!維沙弥!悪い、待たせたか?」
テロップから顔を上げ、声のした方を向くと、快活に手を振り公園に姿を現したのは、維沙弥をここに呼び出した張本人、峻也だった。
「いや、大丈夫」
維沙弥が端的にそう言うと、峻也はそっか、なら良かったと言って微笑んだ。
「………」
その微笑みを見て、維沙弥はここに自分が呼ばれた理由が、予想していた事で間違いないと悟った。
「とりあえず、ベンチにでも座るか?」
きっとうんとは言わないだろうと分かりながらも、維沙弥は黙りこくってしまった峻也にそう言った。
「……いや、行きたい場所があるんだ」
案の定、峻也は維沙弥の提案を拒否して言った。
「そう。どこ?」
「……中央区第一小学校」
>>>
二人は、二人の出会いの場、中央区第一小学校一年D組の教室に来ていた。卒業生と言う事で、セキュリティを簡単にパスして入室した生徒が一人もいない静寂に包まれた教室。峻也はその教室を懐かしむ様に、愛し気な顔で、今ではすっかり低くなってしまったコンソール内蔵の机を撫でた。維沙弥はそんな峻也を壁に寄りかかりながら眺めている。峻也が語り出すのを待っているのだ。
やがて、一通りの思い出をトレースしたと思しき峻也が口を開いた。
「ここで、お前と初めて会ったんだよな」
「そうだな」
「色々な事があったなぁ」
「うん」
「維沙弥にはいつもいつも助けられてた。ほんとにありがとうな」
「別に。大した事してないよ」
「いや、『あの時』だって――」
「それは違う」
峻也の言葉を、維沙弥が遮った。やや力強く、有無を言わさぬ鋭さ。
否定されるとは思っていなかったのだろう。峻也が目を瞠った。
「『あの時』、お前が止めてくれなければ、俺はきっとおかしくなってた。だから、お礼を言うのは俺の方。
ありがとう、『あの時』は」
維沙弥は『あの時』の事を思い出しながら、言葉を紡いだ。
妙に冷静な頭と、吹き上がる鮮血。
峻也の驚愕の表情。
そして、リミッターの外れた衝動。
異常に気づいた峻也が全力で止めに入る。
しかし、それでも維沙弥は――。
取り返しのつかないところまでいって、ようやく自我を取り戻した。
「お礼なんて、やめてくれよ…」
峻也が照れ隠しに、そして本当に哀切な表情で、今にも泣き出しそうに言う。
「そんな事言われたら、俺は…」
峻也の瞳が動揺に揺れ動く。
まるで、一度した決意が揺らいでいるかの様に。
「大丈夫だよ」
維沙弥が壁に寄りかかったまま、しかし峻也を真っ直ぐ捉えながら言い含める様に語る。
「俺にやらせて」
「でも、それだと、維沙弥。お前が――」
「『峻也』」
「――……!」
維沙弥が、『あの時』以降一度も呼ばなかった峻也の名を呼んだ。
峻也の瞳が驚愕に見開かれる。
「『峻也』、お前は俺の――」
>>>
***
二〇二八年、コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスの開発に成功。当初はその名の通りデバイスとしての機能しか備わっておらず、デスクトップパソコンやノートパソコン等のコンピュータと併用し、その内蔵データを保存して、持ち運ぶ事が可能となった。
二〇三四年、遂にコンタクトレンズ型ウェアラブルコンピュータの開発に成功。一昨年前に完成していた眼鏡型ウェアラブルコンピュータの需要を一気に抜き去り、ARの概念が世間に完全に定着した。
二〇六六年、プロトタイプのAR網膜の開発に成功。二〇二五年に実現されたLEDアレイの網膜搭載が実現された事と、万能細胞の完全実用化により開発された。しかし定期的なLEDアレイの検診、装着者の瞳の健診が必要であり、欠損が発見されるとその都度網膜を復元しなければならなかった上に高額であった為、あまり世間に普及はしなかった。
二〇七〇年、この年、世界に五ヶ所存在する『血統族(Dawn)』の結社本部の一部暴徒化した構成員による無差別殺戮が起こり、人間と『血統族(Dawn)』対暴徒化した『血統族(Dawn)』の世界大戦が勃発した。
『血統族(Dawn)』はその希少性から、生を受けた時に特別なデータベースに個人情報を登録され、体内にはGPSマイクロチップを埋め込まれている。
ここで悪用されてしまったのがプロトタイプのAR網膜だ。軍の構成員全員がAR網膜を付与され、GPSで暴徒化した『血統族(Dawn)』を捕捉、位置情報を得、殺害していった。この時AR網膜は世界各国からの支援もあり、当初予定されていた開発予測よりも殊更に早く開発が進み、定期検診、定期健診の回数をどんどん減らしていった。(世界機密)
二〇七二年、白旗を挙げ降伏の意を示した暴徒化した『血統族(Dawn)』の意向を完全に無視し、完膚なきまでに"裏切り者"の『血統族(Dawn)』を絶滅させた事により、この『Human War』と呼ばれた大戦は幕を閉じた。
しかし、暴徒化したとは言え、希少性が高く、また人間である『血統族(Dawn)』を絶滅させた事には未だに賛否両論別れている。
二〇七八年、『Human War』による世界的な混乱も収まりを見せ、国際会議で秘密裏に議論されたAR網膜の更なる発展に発展許可の採択がなされた。
二〇八〇年、『Augmented Reality Retina Project』――AR網膜計画――の本格始動。
二〇八六年、定期検診、定期健診の必要のないAR網膜の開発に成功。しかし、最新技術と言う事があり、一般庶民には高額であった為、一部の富裕層や政治家に多く使用された。
二〇九〇年、AR網膜計画から十年経ち、AR網膜はようやく一般庶民にも手が届く金額にプライスダウンした。これにはAR網膜の大量生産が可能になった事に加え、更に技術が進歩し経費の削減に成功した事が起因している。また、二〇九二年より出生直後の胎児にAR網膜を付与し、それを戸籍登録とする事が義務化された。
二〇九三年、『半分の言葉の子供達』騒動。
『識字』と言う言葉の半分の意味、俗に言う『書き』が出来ない子供達が続出した出来事、それにより二〇九四年に制定された『義務教育期間中のAR網膜使用禁止法』等の一連の流れを指す。
二〇九八年、『メディア・ショック』勃発。緩やかに、かつ急進的に発露し、二〇九六年に遂に世界的に問題視され、二〇九八年に巻き起こったメディア危機、及び一部の経済危機を指す。
これにより世界から物理的な媒体の殆どが消滅した。
二〇九九年、『周辺景観訴訟』開始。
これは、『メディア・ショック』により不必要となった工場跡地や倉庫跡地に建設された膨大な数の墓地が住宅を囲む様に林立した事に対し住民が起こした民事裁判。
訴訟した住民達と、墓地を侮辱されたとして反駁した一般市民と墓地管理者等で行われたこの裁判は、世論調査では後者の人々への賛成意見が多数であったが、法律で規定される様になった環境権の中の景観権に抵触するとして、判決は難航した。
しかし、同年、『人間戦争』の当事者、暴徒化した『血統族(Dawn)』により骨すら残らず殺された兵士の遺族、『None of The Bereaveds Have Bone』――骨のない遺族――が景観権を訴えた住民達を糾弾し、和解と言う形で収束した。
二一六七年現在、この激動の時代は研究対象となっている。
***
今まで文献に目を通していた維沙弥は、不意に顔を上げた。
「――……余談ですが、彼ら『血統族(Dawn)』にも欠点、の様なモノはあります。彼らはずば抜けた身体能力や頭脳を持つだけでなく、己の血を呑み込む事で武器を生成する事も出来ますよね?しかし、彼らは他人の血を口にしてはいけないのです。彼らが他人の血を吸血すると、その人間の今までの人生や、抱いてきた感情総てが彼らの内を駆け巡り、心をズタズタにしてしまうのです。つまりは廃人になってしまうと言う事ですね。しかし、その一点を除くと、言わば、『血統族(Dawn)』としても人間としても彼らは我々とは格が違うと言う事です」
五月七日木曜日、六限目。
維沙弥はこの授業は自分の知識の既知の内容しかやらないと早々に悟ると、『アクセス制限のない』自身のAR網膜で国のデータバンクにアクセスし、教科書には載せられない世界機密までをも閲覧していた。
そんな彼が顔を上げたのは、単に一通り通読したからではない。
教室に、確かな違和感、異変を感じ取ったからだ。
「無論、私が皆さんの事を劣っていると言っている訳ではありません。客観的に言うと、そう言う事になるのです。
『血統族(Dawn)』は、全員『十二人の英雄』の子孫である為、これは遺伝子上、いえ、血統上どう仕様もない事なのです」
静かなざわめきが起こる教室で、ぼそぼそ喋っているというのに、匡人教諭の声は良く響いた。
否。それは、維沙弥の耳には実際に空気の振動としての大きさだけでなく、陰鬱な闇に沈むトンネルの中で大音量で声を発しているかの様に、反響し何重にも重なって聞こえたと言う意味でも、良く響いていた。
聞こえてくる声が湾曲し、維沙弥の耳に喧しく鳴り響く。
違和感が、異変が、更に強まる。
「はい、なんでしょうか、七海さん」
手を挙げた生徒に質問を許可する匡人教諭の声が渦を巻いている。
その渦は激しさを増し、そして、遂に。
「先生のその仰り方は、私達生徒、ひいては普通の人間を――」
女子生徒の声が途切れたと同時に、ぶつりと切れた。
――来る。
「きゃああああああああ!」
瞬間、鼻腔を突く血臭。
混乱は悲鳴の波紋となって人々に降り注ぎ、一瞬遅れて浸透した。
爆発的な怒号、恐慌。
命惜しさに皆我先にと逃げ惑う。
そんな中で、維沙弥は一人、静かに席を立つと己の右手首の袖を捲くる。
そして、一分の躊躇いも見せずに右手首を噛みちぎる。
温かな美しい緋が溢れ出る。
維沙弥はそれに舌を這わせ、まるで飲料の様に呑み下した。
嚥下したそれは、通常なら有り得ない程の驚異的なスピードで彼の全身を駆け巡り、彼の力を目覚めさせる。
ぱんっと両手を打ち鳴らし、右手で何かを掴む動作をすると、開いた左の掌から水平に右手を抜き去る。
一瞬、彼の右手の軌跡の通りに緋と黒の光が閃き、次の瞬間には、彼の右手に緋の刀身の美しい刀が握られていた。
その刀が出現した事を確認もせず、維沙弥は天井にぶつからないぎりぎりの高さで跳躍し、彼の――藤野 峻也の席の近くに着地した。
『烏合族(Dusk)』と化した峻也と、目が合った。その時、彼の瞳に、喪われていた輝きが戻った。そう、自我が戻ったのだ。しかし峻也は刀を持ちこちらを見つめる維沙弥に命乞いなどせず、柔らかな笑みを浮かべると、幸せそうに、そっと瞳を閉じた。
「………」
維沙弥はそんな峻也から一度も目を逸らさず、無表情のままに、彼の首を刎ねた。そしてそのまま捕食された二名の首も刎ね上げた。
誰かが恐れ戦きながら呟く。
「なんなんだよ、お前は……」
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今日は、話したい事が沢山あるんだ。
まずは 、俺、無事に中央区第一高校に入学出来たんだ!
中央区第一高校って偏差値めっちゃ高いから絶対行けない〜〜って思ってたんだけど、維沙弥がさ。勉強教えてくれたんだ。あいつ教えるの超うめぇの!びっくりしちまったよ、ホントに。
まあ、あいつの俺の学力底上げが存分に効いて、ちゃんと入学出来ました。あ、そうそう!俺また維沙弥と同じクラスになったんだぜ!すげぇよな、ここまで来るとさ。
……だから俺、ずっと思ってたんだ。
あいつにしか、維沙弥にしか頼めないって。
………。
なあ、父さん、母さん、千歳。
三人はさ、きっと俺が三人の事喰っちまったの、赦してくれないよな。
それでも三人は優しいから、赦してあげるなんて言ってくれるのかも知んないけど、駄目なんだ。
俺は赦されちゃいけないんだ。
だって、幾ら自我を喪っていたとしても、殺人は殺人だもんな。
……あ〜あ。なんで、俺なんだろ。
なんで俺が『烏合族(Dusk)』だったんだろ?
なんで、三人を喰っちまったんだろ?
なんで……どうして……。
……なんて、今更か。
でも、もう俺、耐えられないんだ。
人を喰い殺しちまうの。
この前もさ、丁度、俺達みたいな家族構成の四人家族、見かけちゃってさ。すんげぇ幸せそうに暮らしてんの。いいなぁ羨ましいなぁって。最初はそれだけだった。でも段々嫉妬心が膨れ上がって。全然俺とは関わりのない、幸せに、当たり前に暮らしてる家族だったのに。憎悪や虚無感に苛まれて。頭が可笑しくなりそうだった時……俺は都合良く自我を手放した。
喰い殺しちまったんだ。その家族も。
しかも残虐な事に、全員バラバラの場所で。
……警察沙汰になってる。
なんかもう、俺、駄目だなって。やっていけないなって。
……人間として。
だから、あいつに……。
維沙弥に、写真、送っちゃったんだ。
総ての事情を把握しているあいつになら、総て視えてるあいつになら、写真だけでも通じるんじゃないかって。
案の定、あいつは分かったみたい。
そして、俺がどうして欲しいのかも、総て。
――……俺の事、殺して欲しいって。
分かってくれたんだ。維沙弥は。
俺、流石に自分の事だから、これだけは分かるんだ。
きっと俺の自我はもう長くは持たない。
週末からゴールデンウィークなんだ。
だから、最終日辺りにあいつにちゃんと、口に出して言おうと思う。
別れの儀式みたいなの、ちゃんとやろうと思う。
『親友』の維沙弥に、終わらせて欲しいって――。
だから、お墓参り出来るの、今日が最後なんだ。殺した犯人が墓参りってのは中々に滑稽な構図だったよな。
でも、もう来ない。
……父さん、母さん、千歳。
今までも、これからも、ずっとずっと、大好きだよ。
じゃあ、もう帰るな。
また直ぐ会えるから、って言いたいけど、きっと俺の堕ちる先は地獄だろうから、これが今生の別れかも。
……湿っぽくなりすぎたかな。ごめん。
――……じゃあ、さようなら。
ああ、最後に、俺の唯一の心残りだけ言ったら帰る。
維沙弥に、ちゃんと『峻也』って、名前で呼んで欲しかったな。あいつ俺の事『お前』とかしか言ってくれねぇんだもん。
後、一回でいいから、維沙弥の口から俺達は『親友』だって……聞きたかったな。
あれ、唯一って言ったのに一個じゃねぇな。ま、そこはご愛嬌って事で。
じゃあ、今度こそ。
さようなら。
>>>
峻也は目の前で美しい刀を携えた、恐ろしく顔立ちの整った『親友』の維沙弥を見上げ、一日前の、二人で行った小学校の教室での事を思い出していた。
――『峻也』。
『あの時』以降、一度も呼ばれなかった自分の名前。
そして。
――『峻也』、お前は俺の、ただ一人の『親友』だ。
思い出したらくすぐったくて、温かくて。嬉しくて。泣きたくなって。
峻也は幸せに心を浸し、ゆっくりと瞳を閉じた。
次の瞬間。彼は最高な幸福を噛み締めたまま、唯々罪悪感と贖罪に塗れた人生からの脱却に成功した。
(でも、維沙弥と一緒にいる時だけは、俺は普通の人間になれてた気がするよ)
――ありがとう、維沙弥。
俺の、ただ一人の『親友』。