第四話 そして
維沙弥は、高架橋に佇んでいた。
じっと虚空を見つめている様でも、ぼーっと虚空を見つめている様でもある。
彼の容姿はとにかく目立つ。
今も、彼に話しかける者こそいないが、彼の方をちらちら見たり、分かり易く彼を指差しながら会話をしている者もいる。皆が皆、色めき立った様な反応を示す。
そんな中で、しかし維沙弥の表情は完全なる無表情だった。真剣過ぎるが故の無表情でもあるし、感情が欠落したが故の無表情でもあった。
彼が今何をしているかを知る者は、彼にそれをされている者だけだ。
ふと、維沙弥が視線を上げ、沈み行く太陽を見つめる。
薄らと皮肉そうな笑みを浮かべたのは、今の自分の状況が最近視たあの不吉で酷く美しい夢と少し似ていると思ったからだろうか。まあ、あの夢の正体を彼が知るのはまだ先の話である為、ここで彼があの夢に似ていると思ったのは、本当に似ていただけなのだが。
だが、ある意味では、彼の今後はあの夢の様になる。
それを、彼も予見し、そしてそうなると知っていた。
壊れた世界。
壊した世界。
これから、彼を構成する世界は壊れる。
彼は、自身を構成する世界を壊す。壊す。
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維沙弥は高架橋から移動し、古びた神社に来ていた。
あまり大きくない神社の為、鳥居は一つしかない。維沙弥はその鳥居をくぐる際に一揖する。正中を通らない様に参道を進み、そして参道の脇にある手水舎に立ち寄った。右手で柄杓を取り、水を汲み、それをかけて左手を清める。その後左手に柄杓を持ちかえ右手を清める。 再度柄杓を右手に持ちかえ、左の掌に水を受け、その水を口にいれてすすぐ。すすぎ終り、水をもう一度左手にかけて清める。 使った柄杓を立て、柄の部分に水を伝わらせるようにして清めて柄杓を元の位置に戻す。
次に、当然ながら参拝をする。鈴を力強く鳴らすと、カランカランと言う涼やかで重厚感のある音が鳴った。
投げつけない様静かに賽銭を入れ、一揖二礼二拍手一礼一揖をする。
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現代では、電子マネーが完全に普及し、それらはAR網膜にチャージされている。
故に、精算を済ませる時などは、AR網膜にチャージされた電子マネーが引き落とされる。
その為、紙幣と言う物は、『メディア・ショック』の時に共に消えてしまった。
今でも紙幣を見る時があるとすれば、重大な機密事項は結局は信頼の置ける紙媒体や記録メディアに依るように、余程重大な取引の時くらいだろう。
つまり何が言いたいのかと言うと、ここで彼が賽銭を賽銭箱に入れた事の珍しさである。
多くの神社は、賽銭を早々に電子マネーに切り替えた。二つの意味で形だけが残っている――物理的にも形式的にも――賽銭箱に仮想的に表示されるアイコンをタップし、入れる賽銭の金額を選択する事で、今日の参拝は完了するのだ。
しかし、今彼が来ている神社は、もう神主もいないであろう古びて寂れた神社だ。
電子マネーに対応しているはずもない。
だから彼は賽銭を入れたのだ、と言う事が言いたいのではない。
ここで述べたいのは、彼は現金を使ったと言う事。
仮令それが小銭だったとしても、大昔の通貨に現在破格の価値がついている様に、今はもう消滅してしまった硬貨と言う物は価値が高く、ルートによっては表向きの価値の倍以上になる事も有り得るのだ。
彼はそんな現金を使う様なある種危険な立場にいる。
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それはさて置き――さて置いて良い様な事実かどうかは定かでないが――維沙弥は、神に何を願ったのだろうか。
そもそも、彼が神を信じているかどうかからして怪しいのだが。
それでも、確かに維沙弥は神に願った。
神に願ってそれを成就させる者は、神に願う事を課程とし、自身の努力を怠らない者だと言う事を、知りながら。
だからと言って彼は願った事をこれから努力する訳ではない。
彼にとってこれは一種の儀式であり、言うなればけじめだった。
「………」
もう暗くなり、星々が煌めき瞬き始めた。
維沙弥は空を仰ぎ見て、ゆっくり目を眇める。
桜が完全に散りすっかり葉桜となった今日、四月三十日。
ぬるい風が維沙弥の頬を撫で、髪をふわりと持ち上げる。
維沙弥はこの優しい風とは対照的な冷たい醒めた表情をしていた。
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「えー、今日は、『血統族(Dawn)』と『烏合族(Dusk)』、その背景や世界情勢について、学習していきたいと思います」
普段は日本史、世界史、政治経済、現代社会、倫理、と言う社会科系の教科全般を担当する事が出来る――専攻は倫理らしいが――クラス担任の中澤 匡人が、まず、今日の、これから始まる総合の時間に実施する授業の概要を端的に述べた。
匡人が教室に入った瞬間に、黒から緑にカラーチェンジ、正確には起動した"粉受け"のない『黒板』に『血統族(Dawn)』と『烏合族(Dusk)』と言う言葉が躍り出て、『黒板』の左上にスクロールしていき、小見出しの様な位置で停止した。
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現代では、『黒板』と言う言葉が指す物体が、大きく変わっている。昔は、"粉受け"のある、つまりはチョークで直接文字を書く事によって授業を展開していく黒板が普通だった。しかし、AR網膜が普及し、『メディア・ショック』が起こった現在では、従来の黒板は消滅した。代わりに台頭してきた『黒板』とは、AR網膜からのデータ転送に適応した、言わばモニタだ。タッチパネルも兼ねている為、何か書き足したい時はタッチペンで書く事も出来る。もっとも、転送するデータは自身のAR網膜、自身の目の前に仮想展開され、手元で書き足す事が出来るが故、タッチペンを使う者は中々いないのだが。
そして、この様な『メディア・ショック』は幼少期の識字率に――と言っても『識字』と言う言葉の半分の意味だが――多大な影響を及ぼした。自身で紙に文字を書かずともタブレットやAR網膜のアプリケーションで文字を打ったり、読めない漢字を長押しし、ルビをポップさせる事が可能となってしまってからは、文字を読む事は出来ても、その文字を書く事が出来なくなってしまった。その時代に生き、文字を書けなくなってしまった子供達の数は甚大だったと言う。この様な、識字の半分、言ってしまえば言葉の半分しか理解していない時代の子供達の事を『半分の言葉の子供達』と言う。このAR網膜による悪影響を鑑み、文部科学省では、義務教育終了までの学校でのAR網膜の使用を禁止し、タブレットのタッチパネルで文字を書く事を義務付けた。それに伴い、義務教育課程中の教員が使用する『黒板』は、AR網膜からのデータ転送は可能だが、従来の黒板の様に、タッチペンで『黒板』に文字を書く事を義務付けたのだ。それにより、児童の識字率の低下を食い止める事に成功した。
尚、義務教育が終了しても、数学や物理などの計算が必要な教科の場合はタッチペンを使用した実践型の授業方法の方が生徒の理解度が高いなど、若干のAR網膜の欠点が指摘されている。
また、学校でのAR網膜のアプリケーションの計算機の授業中の使用は、ほぼ禁止されている。
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「神話と称される程の昔、初めて人類が『烏合族(Dusk)』を発見し、『血統族(Dawn)』が『烏合族(Dusk)』を駆逐した後、『血統族(Dawn)』はこの世界に壮大な結界を張りました。大陸の形が規則的でない為、完全なる五芒星を描く事が困難だと判断した『十二人の英雄』達は一番効果のある土地を捜し出し、少し歪ではありますが、五芒星を描く事に成功します。それが、南アメリカ大陸のブラジルの首都、ブラジリア。ユーラシア大陸のロシアの首都、モスクワ。オーストラリア大陸のオーストラリアの首都、キャンベラ、北アメリカ大陸のアメリカの首都、ワシントンD.C.。そして、ユーラシア大陸の日本の首都、ここ、東京です。ちなみに、この選ばれた土地の多くは、日本がそうである様に、経済的に大きな発展をしている事が多いのです。えー、そしてそれらの首都を、昔の日本ではあまり馴染みのなかったヨーロッパを中心として描いたメルカトル図法の地図上で線で結ぶと、五芒星が出現します」
そう言うと、匡人は虚空で腕と指を動かす。すると、『黒板』にメルカトル図法で記された、日本が極東に描かれた地図が展開され、ブラジリア、モスクワ、キャンベラ、ワシントンD.C.、東京の順に赤い線が引かれる。匡人が述べた様に、少し歪な五芒星がそこには描き出された。
「東京には『血蜘蛛の契』、通称『砦』と呼ばれる『血統族(Dawn)』の結社が存在しています。『血統族(Dawn)』専用の養成機関で教育されたエリート集団の集まり、と考えて遜色ないでしょう。彼らは人間でありながら、人間とは思えない程の身体能力を有しています。現在では、『血統族(Dawn)』ではない人間と『血統族(Dawn)』とを比較した際に、ほぼ総ての項目において『血統族(Dawn)』の優位性が発見されています。余談ですが、彼ら『血統族(Dawn)』にも欠点、の様なモノはあります。彼らはずば抜けた身体能力や頭脳を持つだけでなく、己の血を呑み込む事で武器を生成する事も出来ますよね?しかし、彼らは他人の血を口にしてはいけないのです。彼らが他人の血を吸血すると、その人間の今までの人生や、抱いてきた感情総てが彼らの内を駆け巡り、心をズタズタにしてしまうのです。つまりは廃人になってしまうと言う事ですね。しかし、その一点を除くと、言わば、『血統族(Dawn)』としても人間としても彼らは我々とは格が違うと言う事です」
六限目の授業中の教室に、静かなざわめきが起こる。睡魔に襲われて眠ってしまう生徒も出てくる時間帯なのだが、しかし眠っている生徒は一人もいなかった。皆、匡人の話に聞き入り、静寂を保っていたのだ。だが、ざわめきが起こるのも無理もないだろう。匡人の言い方では、普通の人間は劣った存在だと言っているのと変わらないのだから。
匡人は、感情の読めない表情で淡々と続ける。
「無論、私が皆さんの事を劣っていると言っている訳ではありません。客観的に言うと、そう言う事になるのです。
『血統族(Dawn)』は、全員『十二人の英雄』の子孫である為、これは遺伝子上、いえ、血統上どう仕様もない事なのです」
一人の生徒が手を挙げる。横七列、縦六列の配置の窓際から二列目の一番後ろの席の生徒だ。ちなみに、維沙弥は窓際から四列目の前から二番目の席で、峻也は手を挙げた生徒の一つ前の席だ。少子化が進んだ事に加え、無作為に起こる『烏合族(Dusk)』の被害により更にその子供の数を減らした現代では珍しく、マンモス校と呼ばれる程の生徒数を誇る高校なのだ。
「はい、なんでしょうか、七海さん」
「先生のその仰り方は、私達生徒、ひいては普通の人間を――」
侮辱する発言になるのではないですか、と。HR長の彼女は言いたかったのだろうか。
七海 花音。しかし彼女が語れたのは、そこまでだった。
何故なら、彼女は左胸鎖乳突筋を喰いちぎられ、やや派手な血飛沫を上げながら席を転げ落ち、床に血の水溜まりを造って絶命したからだ。
「きゃああああああああ!」
彼女の左隣の席の少女が悲鳴を上げ、白目を剥いて失神する。
これも、無理もない。
隣の席の少女が、血まみれの少女が、自分の右隣に崩れ落ちて来た挙句、その前の席の男子生徒が口を赤く染め上げ新鮮な肉を咀嚼しているのを目の当たりにしてしまったのだから。
七海 花音の前の席の男子生徒。
――藤野 峻也。
「――……っ!み、皆さん、お、落ち着いて下さい。落ち着い――」
匡人が絶句しフリーズしてしまった生徒に投げかけた言葉が聞き取れたのはここまでだった。
突如出現した『烏合族(Dawn)』に捕食されたのではない。
教室が錯乱状態に陥ったからだ。
今までニュースや教科書でしか知らなかった『烏合族(Dusk)』が目の前にいて、しかも一人の人間を捕食し、命を奪った。これで錯乱しない者などいない。
「いやあああああああああ!」
「だ、誰か!誰か助けてくれ!」
各々派手な音を立てて椅子を倒して立ち上がりおしあいへしあいで教室から出て行こうとする。
完全な防音対策が施された現在の教室では、教室の扉が閉まっていると、外部に内部の音は聞こえない。仮令この教室の扉が開かれたとしても、廊下にこの錯乱状態が伝わるだけで、隣の教室が扉を閉めていたなら、この緊急事態を把握する事は出来ないだろう。隣の教室では今も通常通りの授業が行われているのだ。もしかしたら、自身の教室にも被害が出るかも知れないと言うのに。
「退けよ!退け!」
「あんたが退きなさいよ!」
「ああああああああああああ!」
「今度は何――きゃああああああああ!」
男子生徒の苦痛の叫びと、中々外に脱出出来ずに苛つき始めていた女子生徒の一人が上げた悲鳴の原因は、直ぐに分かった。
元々は峻也だった『烏合族(Dusk)』が、腰を抜かし、動けなくなっていた男子生徒の左橈側手根屈筋を捕食したのだ。
左腕を痙攣させ、痛みにのたうち回る男子生徒。
更に教室は恐慌状態となる。
――しかし。
そんなある種の喧騒は、一瞬にして静寂へとエディットされた。
――ガタ
一人の男子生徒が、『烏合族(Dusk)』の近くの机に"着地"した。この表現は、事実に則したもの。つまり、その男子生徒は大きく跳躍し、机の上に立ったと言う事だ。
緋く煌めく刀身を持つ、刃渡りの長い、スラリとした美しい刀を携え、机上に着地したのは、維沙弥だった。右手首のワイシャツが紅く染め上げられているが、彼の手首には血の一滴も付着してはいない。
「………」
――キン
美しく涼やかな金属音を侍らせ、緋い刀が緋の軌跡を生み出した。
――ごと
重く纏わりつく嫌な音を道連れに、紅い液体と髑髏が円弧を描き、弦と弧の終始点へと落下した。
峻也だった『烏合族(Dusk)』の首を躊躇なく、無駄のない、美しささえ感じさせる所作で跳ね飛ばす維沙弥の瞳は、恐ろしい程感情が籠らず、また残酷な程に澄み、真っ直ぐだった。そのまま舞う様に立ち回り、絶命し、形象崩壊寸前だった七海 花音と、運悪く左橈側手根屈筋を捕食されてしまった男子生徒の首もあっさりと斬り落とす。
大量の血液が零れ出すかと思われたが、何故か一向に溢れる気配がない。
何故なら、維沙弥の刀が通過した切断面が完全に凍結し、青く鬱血していたからだ。
「なんなんだよ、お前は……」
緋い刀に紅い糸を沢山絡めた維沙弥を見て。
誰かが、そう呟いた。