第一話 『事故』か『事件』か
まず目に映ったのは、あまりにも美しい夕陽。
まるで地獄の様だ。
にべもなくそう思った。
口を開き、言葉を紡ぐ。
まるで、今まで語り出すのを抑えていたかの様に、堰を切って、語り出す。
言葉の羅列が高速に展開される。
そして、総ての言葉を吐き出した瞬間。
世界が、歪んだ。
目の前に悠々と浮かび、総てのモノを照らしていた夕陽に亀裂が奔る。
しっかりと地面に足をつけていたはずなのに、気づいた時にはもう、地面がなくなっていた。
首を巡らせてみると、どうやら自分を中心に世界は壊れていっているらしいと判った。
何故なら、自分の周りには何もない空間が形成され始めているが、遠くの方ではまだ、見慣れた風景がかろうじて遺っていたからだ。
大きな音を立てて崩れ落ちる、愛しき世界。
巨大地震が起こったかの様に振動し、断末魔の叫びを上げ、まるで世界は、壊した張本人を責めているかの様だ。
けれど、その張本人の心には、世界の糾弾など響くはずもなかった。
無表情に壊れゆく世界を見詰めているだけだ。
やがて、世界は、跡形もなく消え去った。
まるで、最初からそんな世界など存在しなかったかの様に。
世界を壊した張本人は、開いていた本をぱたんと閉じた。
その時に、ちらりと本の題名が窺えた。
その本の題名は。
『The Continuous Travel』
ああ、と。
世界を壊した張本人は、本を大事に抱えながら背後を振り返る。
何もなくなったはずの世界。
けれどそこには――。
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「――……っ!?」
心臓の鼓動が急激に早鐘を打ち、澄丈 維沙弥は跳ね起きた。
「はっ……はっ……」
制服のワイシャツとネクタイを力強く握り締め、胸を抑えてなんとか呼吸を整える。
冷や汗が頬を伝う。
ワイシャツは脂汗でぐっしょりと濡れそぼっていて、維沙弥は僅かに顔をしかめた。
漆黒の、ストレートで艶のある柔らかそうな髪。やや長めの前髪から覗く髪と同じ色の、つり目がかった意志の強い印象的な鋭い瞳。病的に白くはないが、美しい彫像の様な滑らかな白い肌。正しく、同性からも異性からも羨望の眼差しを集めて止まない美貌を、維沙弥は持ち合わせていた。
「なんなんだったんだよ、今の…」
維沙弥は弛めていた首元を更に弛めようとネクタイを無造作に外した。
前髪を掻き分ける途中の様な体勢で維沙弥は思案に耽り始める。
前髪が掻き上げられた事によって見えた額には、大粒の汗が流れて、頬に伝っていった。
世界が壊れる夢を視た。
否。世界を壊す夢を視た。
夢を視ている時はとても懐かしいと感じていたが、維沙弥はあの壊れゆく世界を見た事がない。
見知らぬ世界を慈しむ様に壊す夢。
その世界を愛していながら、壊す事に何の躊躇いも見せない。
あれは、本当に自分だったのだろうか。
本当は、全く知らない人物が世界を壊し、自分はその人物の主観になっていただけではないのだろうか。
維沙弥はそう思った。
何故なら彼には全く身に覚えのない夢……否、記憶だったからだ。
夢にしては、彼の視た夢はあまりにリアル過ぎた。
予知夢にしては、壊れゆく世界の断末魔の叫びや、風の匂い、夕陽の瓦解など、あまりに現実味を帯び過ぎていた。
だから、これは、きっと誰かの記憶なのだ。
……自分の記憶が改竄されていなければ。
それに、あの本の題名。
あんな本は、知らない。
思い出すだけで何故か怖気が走った。
あれは、本当に自分だったのだろうか。
「………はぁ」
維沙弥は自分の思考が堂々巡りに陥っていると自覚すると、溜め息を一つ吐き、問題を先送りにする事に決めた。
「……帰るか」
普段維沙弥は独り言を零す事はないのだが、流石に今は、誰にともなく独り言を零した。
彼が今いる場所は、清澄な水が流れる川の河川敷。
彼は部活に所属していない為、何時もこの河川敷にやって来ては微睡んでいるのだ。『烏合族(Dusk)』がまた世に蔓延る様になった現代で、バイオメトリクス認証のみで開く自分の家や寝室以外で眠ると言う、無防備な真似をする人物は――『血統族(Dawn)』にならいるかも知れないが、維沙弥は普通の高校生だ――恐らく維沙弥だけだろう。
維沙弥は汗で濡れ、呻いていたのか皺の寄ったワイシャツを気持ち悪そうに整えると、側に置いておいたショルダーバッグをまさぐり、コードのないヘッドフォンを取り出し、耳に装着した。瞳を閉じ、自身の身体にインストールしたAR――Augmented Reality(拡張現実)――を起動させる。瞳を開けると、視覚の左上に現在時刻が表示された。十七時二十四分。維沙弥は何時も十七時三十分にアラームを設定している。あの不気味な夢の所為で早めに起きてしまったらしい。ARが身体の活動開始を察知し、アラームは自動解除されている為、アラームが鳴る心配はない。だが、僅か六分とは言え、早く起きてしまったのが勿体ないな、と維沙弥は思った。けれど完全に覚醒してしまった以上、今日はもう家路に着くことにしようと決断した。
思考から現実世界に戻ると、ARの右上に警告メッセージが表示されている事に気がついた。どうやら、先程の悪夢で急激に上がった心拍数に対しての警告メッセージの様だ。どうでも良いと判断した維沙弥は、タップすると専門の病院や症状の原因が詳細に載っている警告メッセージを右にフリックして消去した。そして、ARの左下のアイコンをタップ。アプリケーションメニュー画面が目の前に仮想的に展開される。お気に入りに登録してあるミュージックプレイアプリケーションは直ぐに見つかり、それをまたタップ。そう言えば最近新しい曲をダウンロードしていないな、と思いながら履歴の一番上にあった曲を選択。直ちに信号が装着したコードレスヘッドフォンに伝達され、曲が流れ始める。
維沙弥はショルダーバッグを肩に掛けると、河川敷を登り、今時珍しい舗装されていない砂利道を夕陽に背を向けて歩き出した。
***
この世界の人間は、生まれて直ぐ、自身の網膜からARの網膜に切り替える手術をする。
『AR網膜=出生届け』な為、まずこの手術をしていない者はいないと見て良い。
AR網膜は、世界にAR、VR――Virtual Reality(仮想現実)――、MR――Mixed Reality(複合現実)――が普及した事により完成した技術だ。
副産物として、人類の視力低下の根絶が挙げられる。
AR網膜は、通常の網膜同様の作用をする。人間が生きている限り作動し続け、初期には定期的な検診や交換が必要だったが、技術の進歩でその必要もなくなった。
それに加え、AR網膜はその名の通り、拡張現実の作用もする。
現在時刻、現在地、その他諸々のアプリケーション、自身の身分証明も、AR網膜がセキュリティにアクションしている。
様々なツールの存在するAR網膜は、その大量の情報を総て、巨大サーバで管理している。巨大サーバに管理されているデータから、アプリケーションを通じて、人類は情報を得ているのだ。
***
>>>
《よ!おはよ!》
次の日の朝。
何時もの様に、学校の解錠時間ぴったりに学校に来て、ミュージックプレイアプリケーションでランダムに曲を聴きながら今日の授業の予習をしていた維沙弥のARに、ARM――ARメッセージ――が届いた。
画面の右上に出現した吹き出しと文字。朝とは思えないテンションの高さの友人、藤野 峻也に少し辟易しながらも、維沙弥は予習をしていた手を止め、キーボードを呼び出す。
《おはよ。
どうした?こんな朝早くに》
通話モードにする事も出来たが、一応ここは学校であるし、何より相手が最初にARMで送ってきたのだ。維沙弥もそれに倣い、フリック入力でメッセージを送った。
三秒も待たない内に、次のメッセージが送られてきた。
《朝早くにって…。
どーせお前もう学校いんだろ?》
《そうだけど》
《ならいいじゃん》
《いや、意味分かんないんだけど》
《まあまあ相棒さん!これを見て下さいよ!》
そう言って送られてきたのは一つの動画。
維沙弥は吹き出しの下の動画を左にドラッグして拡大し、再生した。
「!?」
再生された動画を見て、維沙弥は戦慄する。
峻也から送られてきた動画は、ある一軒家の家の外観を写したモノ。ARC――ARカメラ――で撮ったのだろう。自身のAR網膜に映る景色をARCに連動して動画にしているのだ。一見、動画は特段特筆すべき点はないように見える。だがそれは、重要な事を見落としている事を意味する。峻也が送ってきた動画に写る一軒家。門扉の所にVRのバリケードテープが展開され、《Keep Out》の文字が右から左にスクロールしている。MRO――MRオブジェクト――となった門扉。誰もが見た瞬間にそこが『事故現場』もしくは『事件現場』になったと判るだろう。……そう、それが"問題"なのだ。現代では、普通、事故でも事件でも、起こったならば、生体反応の低下した被害者のARが直ぐに警察に自動的に通報、バリケードテープを貼った(バリケードテープはVRであるが『貼る』と言う)瞬間、その建物や道路などの現場はVR化され、何もなかった時と同じ景色を取り戻す。つまり、『事故現場』や『事件現場』は、警察と、その張本人にしか分からなくなるのである。報道される時は、場所の特定は出来ない程度の地理的情報と、その事故や事件の内容が伝えられる様になっている。
《お前、これどうやって撮ったんだ?》
だから維沙弥は峻也にそう訊ねた。
《いやぁ世の中にこんなに奇跡的な瞬間に立ち会える人間なんているんだなぁ!》
《お前な…不謹慎だぞ》
《わりぃわりぃ!》
「……はぁ」
事故か事件かはこの動画だけでは判断出来ない。何故なら、現代は事故でも事件でもバリケードテープを貼る事によって現場がVR化されるシステムになっているからだ。
維沙弥がそう思った直後。
《でもさぁやっぱ奇跡的瞬間じゃん?
嬉しくってさぁ。まあ、不謹慎なのは認めるけどw
それでなー写真も撮っちまった!》
そんなメッセージが送られ、その後に今度は写真が送信されてきた。
維沙弥はやれやれと頭を振りながらも、写真を拡大する。
そこには、先程の家と、峻也が写っていた。
「………」
その写真を見て、維沙弥は確信した。
「嗚呼、この家は『事件現場』か」