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第一話 胎動

「それじゃあ始めましょうか」


涼は陽翔をひたと見据えると、自身の力を解放した。

彼女の名前は五条涼。何を今更と思うかも知れないが、これからの説明に必要になるため敢えて明記しておく。『五条家』とは代々近接攻撃、それも肉弾戦を得意とする一族だ。彼女の姉である五条 (しずく)は『黒』いグローブを武器とし、カウンター攻撃を得意とする。では妹である涼はと言うと、彼女は『黒』いブーツを武器としている。形は西洋の甲冑の脚部に似ており、膝までの長さのブーツと膝あてが装備されている。それを用いての彼女の打突は凄まじい威力を誇るのだ。


「陽翔、武器を」


涼が涼やかにそう言うと、陽翔が自身の力を解放した。

陽翔の武器は五条雫と同タイプのグローブ。ただし武器序列は『蒼』である。


「……?」


陽翔が力を解放したのを認めて、首を傾げる者がいた。いつの間にかモニタールームに戻ってきていた維沙弥だ。


(……あれが武器なのか?)


維沙弥はそんな風に思った。もちろんこれはグローブを武器として認識出来ていないと言う訳ではない。彼は五条雫のことを知っている。ならば、何故彼はそんな風に思ったのか。それは、陽翔が具現化させた己の能力がどうにも中途半端に見えたからだ。まだ『先』があるように見えた。不完全燃焼。迷いが垣間見える。


「………」


「それじゃあ、開始しましょうか」


涼はもちろん維沙弥がそんな風に考えていることなど知る由もないため、淡々と手順を踏んでいく。

そして、静かに二人の組み手が始まった。


「………」


まずは涼が、手始めとばかりに予備動作なしに高速の踵落としを陽翔の脳天に見舞う。これで卒倒すればそれまでだという事だ。

が、陽翔は足の動きを完全に見切った。必要最低限の動きで涼の踵落としを避ける。だが見切る能力はあってもそれに身体は若干追いつかず、避けるには避けたが頬に擦過痕が生じる。

踵落としを避けられた涼はそのまま勢いを殺さず床に踵を叩きつけると、その反動を利用して床に両手をクロスさせて突き倒立。クロスさせた腕を利用して身体を回転させ、開脚蹴りを繰り出す。


「っ」


正確に陽翔の側頭部を狙った蹴りを、陽翔は認めたが身体はついていかず、グローブで受け止めるに留まった。

そして、派手に吹き飛ばされ、背中を壁に強かに打った。


「……ぐッ」


衝撃が強く、身体が跳ね返り、今度は顔面を打ちそうになったが、それは先程の衝撃で飛びそうになった意識を何とか持ち直して手を突くことで防ぐことに成功した。


「………ッ」


だがその衝撃は強かったらしく、陽翔は自身の能力を制御出来なくなってしまった。特に何をするでもなく、力が強制解除される。


「いって〜……」


陽翔は頭を振りながら膝に手を突きゆるりと起き上がった。余程強かに打ったらしく、足許が覚束ない。一瞬、彼は本当に意識を手放した。


「――……っ」


大きくぐらりと身体が傾ぎ、それを認めた涼が支えようと足を踏み出した。それをぼんやりと見つめた陽翔の形相が虚ろなものから転瞬、『恐怖』と『懺悔』に彩られた。


「え?」


陽翔の表情が豹変したこと以外は傍から見れば何の変調も見受けられなかったが、涼は陽翔の身体に触れる前に伸ばした手を止め、不思議そうな顔をした。その行動はモニタールームにいる者には理解不能で、首を傾げる者が続出した。


――二名を除いて。


「へぇ…」

「ふうん」


二名の妙に納得した声が、モニタールームに轟いた。『轟いた』というのは勿論比喩である。詳しく言うのならば、涼の行動の意味を解さない者たちにとって、その二人の漏らした小さな呟きが精神的にはとても大きく聞こえた、ということだ。呟いた二名――維沙弥と則継――以外の人間 (モニタールームにいる)が一斉に二人に顔を向けたが、その視線の終着点である張本人たちは、『左上』に向けていた視線を互いに向けた。

維沙弥は感情の読めない表情で。

則継は、面白いものを見るような顔で。


「なかなかやるねぇ、維沙弥くん」


「恐縮です」


二人は必要最低限の言葉で完全なる意思疎通を図ることに成功していたが、周りはさっぱりである。唯一、一虎が二人の視線の先にあったものがウィジェットであったことに気づいたが、それのどの情報を見ていたのかまでは、推測の域を出ない。


(ただ…日付けや天候は全員共通であるから今更確認する必要はないし、歩数も関係あるとは思えない。なら…温度か湿度、だよな。両方かも知れないけど。でも、モニタールームと訓練場は温度も湿度も同じではない。だとすると……あの二人は一瞬で涼のAR網膜をハックして、『見えているもの』を掴んだということになる……)


自分で有り得ない蓋然性を消して立てた仮説であったが、それこそ有り得ないというか、もし本当なら笑えない話だ。二人には気づかぬ内に様々な情報を抜き取られていてもおかしくないのだと思い、背筋に氷塊を入れられた気分である。

そんな硬直した一虎を見咎めて、則継が小さな声で、


「大丈夫だよ。見てるのは必要なものだけだし。まあ、澄丈維沙弥がどこまで見てるのかは、知らないけどね」


と、笑いを含んだ声で言った。

……余計に怖くなるだけであったが。


モニタールームがごちゃごちゃしている間に、正気に戻ったらしい陽翔が涼に支えられながらモニタールームに戻ってきた。


「痛いっすよー涼さん。ちゃんと手加減して下さいっす」


「ごめんなさい。思いの外見切れているものだから、少し本気を出してしまったのよ」


「あれで少しっすか…」


先程の涼の驚いた顔も、陽翔の恐怖と懺悔に彩られた顔も、今はもう全く成りを潜めていた。二人は二人で何かしらの会話をしたようで、先程のことは解決してしまったようだ。無論、表面的な、その場凌ぎの解決ではあったが。

四人だけやけに晴れ晴れ(これも見た者の精神状態を多分に含む)とした表情を見せ、さっさと次の組み手の準備に移ってしまった。


「一虎大佐、次は彩姫中佐と朔一等兵の組み手ですよね?」


「あ、ああ」


「では二人共。組み手の準備に向かって下さい」


涼がスラスラとその場を取り仕切り、質問する余地を与えなかった。

涼が上官である一虎の指示を待たずにこのような行動に出るということは、イコール訊いて欲しくない話題なのだということを意味する。そして、例えそれについて言及したとしても、彼女は決して口を割ることはない。長い付き合いでそれを把握している彩姫は、軽く肩を竦めるに留め、「それじゃあ行きましょうか〜朔ちゃん」と言って、何か訊きたげな朔の背中をぐいぐいと押してモニタールームを後にした。



>>>



そして、ややもせずに朔と彩姫の組み手が始まった。

彩姫は『第三眷属』であるため武器を生成することが出来ない。故に、彼女は満面の笑みを浮かべて朔にこう言った。


「好きなタイミングで武器を生成して好きなタイミングで攻撃してきていいよ〜」


「……了解しました」


彩姫があまりにもにこやかにそう言ったため、朔は何か不穏なものを感じ取り、にわかに反応が遅れる。彩姫とチームを組み、彼女の『鉄壁』を知っている『リアクト』のメンバーは、彩姫の発言に納得し、朔の反応を無理もないと思いながら見ている。彼女、三条彩姫は『第三使徒』の血を色濃く受け継いでいる。『第三使徒』の特殊能力『アリア』に酷似した能力を有する護りの一族。


「………」


朔は彩姫の言葉が引っかかっているようだが、行動を起こさなければ何も始まらない。静かに自身の力を解放した。

朔の固有武器はアーチェリー。身の丈よりも若干小さい程度の大きな弓矢だ。武器序列は『黒』。経験の差は埋められないが、武器を強さだけ勘案すれば、二人は互角である。

朔は、相手がどんな防御をしてくるのか、を考えていた。

『第三使徒』の再来と謳われ、『砦』のシールドを保っている一族だ。決して侮っていた訳ではない。寧ろよくよく注意していた。

……彼女の『防御』に。

まず基本的な『防御』を見ようと、試し撃ちをするため朔は弓を番えた。

番えようとした。

結果、弓を番えることは出来ず、『壁』にぶつかったかのような衝撃と共に弓は弾き飛ばされた。

弓が弾き飛ばされる瞬間、『黒』く透明で、幾何学模様を描き出す壁が見えた気がした。


「……え?」


「はい、おしま〜い」


朔が何が起こったのか理解出来ず、呆然と先程まで弓を握っていた手を見つめた。


「……何故」


――能力を発動させるモーションはなかったのに。


組み手を刹那の時間で終わらせ、軽やかに訓練場を去ろうとしている彩姫に、朔は短く疑問をぶつけた。後ろ手を組んだ格好の彩姫が踊るように振り返ると、非の打ちどころのない満点の笑みで、


「視界操作が出来るのはAR網膜だけじゃあないんだよ」


と言った。そして、朔に手を振ると今度こそ訓練場を後にした。


(しかしあの跳ね返す感覚…。どこかで感じたことがありますね…)


颯爽と訓練場を後にした彩姫に続いて、朔も訓練場を出た。そして、出た瞬間目に飛び込んできた光景は、壁に背を預けこちらを見ている則継の姿だった。


「……中将、私に何かご用ですか」


それ以外に則継が自分の目の前に現れた理由が考えられなかったため、朔はそう問うた。多分に身構えて。

朔は、則継が苦手だった。それは『二条家』と『九条家』が不仲であることも勿論関係しているのだが、それを視野に入れずとも、朔個人の感情として、朔は則継が苦手だった。常駐している深き『闇』を抱える両家である。他人の『闇』には敏いのだ。則継はその線引きを完璧にしているようだが、朔は自身の内に巣食う『後ろめたいこと』を、割り切ってはいても振り切れてはいない。則継には、それを見透かされている気がして居心地が悪いのだ。そして案の定、則継には何でもお見通しのようだった。特にオブラートに包む気もないようで、歯に絹着せず、ストレートに言葉を発した。


「釘を刺しておこうかと思って」


「釘…ですか」


「うん。脅しと取って貰っても構わないよ」


「………」


「さっさと用件を済ませてしまおうか。二条朔さん。君はさっきの彩姫との組み手に既視感を覚えなかったかな?」


「……!?」


疑問形で言いつつ妙に断定の響きを持ったその言葉に、しかし朔は驚愕した。ついさっき、朔が精査しようとしていたことだったからだ。


「ふむ。その様子察するに、考えてはいたけどその既視感の正体には気づいていないって感じかな」


「………っ」


「それじゃあ君の疑問に解答を与えよう」


「………」


「君は前にも一度だけ彩姫と戦ったことがある。一年前、君が『砦』に来ることになった日。君が『第十三眷属』だと『公』に判明した日のことだ。ここまで言えば、思い出したかな?」


「………」


朔は則継の言葉に押し黙ったままだ。しかしこれは黙秘権を行使している訳ではない。(黙秘している時点で肯定しているようなものだが)今の朔はただ単に何も言えなくなっているにすぎない。ほぼ無意識に左の脇腹を押さえた。

……忘れられるわけがない。

『あの日』のことなど。

彼女は一年前の『あの日』、『任務』に失敗して死にかけたのだ。肉体的にも、精神的にも。


「俺は君がここに来る前に何をしていたのか委細漏らさず知っている。このことを口外すれば、確実に君は抹消される。勿論、『二条家』にね。それが嫌なら俺が言うことは一つだ。ここの情報を漏らすのも、大概にしなね」


「………」


「もし、君が嫌々やってはいるけど止めることも出来ないって言うのなら、俺を訪ねればいい。何とかしてあげるよ」


「……え?」


「それじゃあ、警告はしたからね」


ひらひらと手を振ると、意味深長な言葉を残して則継はモニタールームに戻って行った。


(何とか…してあげる…ですか。それが出来るのなら私は……)


「……やっぱり、あの人は苦手ですね」



>>>



そして、最後の組み合わせである維沙弥と一虎の組み手が行われることとなった。

今日の組み手は維沙弥のために開かれたといっても過言ではない程、本日の目玉と言える組み手だ。(事実今まで『リアクト』を交えて訓練をしたことはない。いつもは仮想敵(エネミー)を相手にシュミレーション方式で訓練をしていた)


「………」


一虎が自身の力を解放すると、鮮血のような『緋』い刀身のロングブレードが生成された。


「維沙弥、武器を出して」


「はい」


促された維沙弥は自身の手首を噛み切り、能力を解放した。

両手を合わせて、武器を生成する。

これは、他の『血統族(Dawn)』と違うモーションであった。維沙弥以外の武器を生成する『血統族(Dawn)』は己の血を嚥下した後に自身の周囲に可視の粒子状の力(この粒子の色は武器の色と同じだ)が現れ、それが結合することで武器を生成する。しかし、維沙弥の場合は血を呑み込んだ後に周囲に粒子が舞うことはなく、両手を打ち鳴らし鞘から刀を抜く動作をしただけで武器の生成が完了する。武器生成の時間は一虎よりも短いのではないか。また、彼が刀を抜くような動作は両掌に力を圧縮しているようにも思われる。それが生成時間の更なる短縮を手助けしているのでは。


「………」


一虎が維沙弥の一挙手一投足を余さず観察している間に、維沙弥は刹那の時間で武器の生成を終えた。

『緋』の刀身が生きているかのように脈動している。


(維沙弥の武器の脈動に合わせて周囲の空気が振動している…)


伝播した波が一虎の全身を重く叩いた。


(こんな武器は見たことがないな……)


一虎は警戒レベルを最大限に引き上げると、静かに組み手の開始を宣言した。


「じゃあ……始めようか」


「はい」


しかし、二人は動かない。どちらも武器を構えたりはせず、だらりと腕を垂らしている。とても戦闘態勢とは思えない。



「何で二人共動かないんだ?」


静寂が支配し、その状況が一分程続いた時、陽翔が誰にともなくそう言葉を発した。沈黙に耐えられなくなったのではなく、当たり前に現状に疑問を覚えたための質問だった。維沙弥と一虎以外の組み手は開始の合図と同時に戦闘が開始され、数秒後には『リアクト』に沈められていた。別に『リアクト』に沈められることまでを通例のように想定していた訳ではないが、合図の後に両者が何のモーションも見せないのが陽翔には不思議でならなかった。


「動かない、は違うんじゃないかなぁ」


陽翔の疑問に応えたのは亜貴乃だった。怜央との組み手の時に自我を喪いかけていたように見受けられたが、今はそれすら『忘れた』ように通常運転で言葉を紡ぐ。


「どういうこった?」


「いやぁあれはどっからどう見ても『動かない』じゃなくて『動けない』だと思うよぉ」


「?」


「うーん。簡単に言うと相手の隙待ち、みたいな。お互い隙がないから動けないんだよ」


「突っ込んじゃ駄目なのか?」


「駄目じゃないと思うけど、馬鹿ではあるねぇ。死にに行くようなもんだし」


「なるほどな…」


普段からあまり戦闘術などを気にせず好きに動き回る陽翔である。勿論隙がどうとか、ともすれば敵の気配や殺気なども感じ取ったことはないのではないだろうか。


「………」


思わず、話しかけてきた今は隣に立つ亜貴乃に尊敬に似た眼差しを向ける。普段は食事のことしか考えていないのに、こと戦闘になると彼女は急に大人びる。自分と似た部類の人間だと思っていたが、ここだけは決定的に違うらしい。

それも無理はない。何故なら二人の決定的に違う部分が形成された原因は、陽翔は『強さ』を嘆き、亜貴乃は『弱さ』を嘆いたからである。原因が根本から逆ベクトルなのだ。これはどこまで伸びても平行線のように交わることはない。


「まあでも」


訓練場の二人を見下ろしながら、亜貴乃は言った。


「勝負は一瞬で終わるでしょ」


事実、その通りであった。

陽翔と亜貴乃の会話が終了した数十秒後、一虎の方に動きがあった。

一虎が、おもむろに左手をゆっくりと掲げたのだ。



「………」


維沙弥の眉がぴくりと動いた。何かを感じ取ったらしい。維沙弥の左手も一虎と同様にゆっくりと掲げられる。が、それも一瞬のことで、維沙弥は自分の腕が四十五度程持ち上がったところで、右手に握っていた自身の武器を地面に突き立てた。その瞬間、視認出来るか出来ないかの一瞬だけ『緋』の疾風が訓練場を駆け抜けた。そして、その風が奔った部分が、切り裂かれた。


(……!回避された…)


維沙弥の腕は地面に向かってだらりと垂れ下がっている。



「……ッ」


一瞬の出来事で直ぐには状況を把握出来なかった陽翔だったが、訓練場のあちこちに深々と傷が入っているのを認め、思わず息を呑んだ。


「あはは、凄い威力だ」


皆陽翔と似たり寄ったりの反応を示す中、則継だけがあけすけな感想を述べた。


(ふむ。凄い威力だけどこれを連発されると困るな。データを取りたいけど…まあ一虎の『あれ』を最速で回避したのを見られただけで今回は良しとしよう)


「武器を弾き飛ばしたり、相手を戦闘不能にしたりしてはいないけど、今回はこれで終わりにしよう」


則継が訓練場に向かってそう言ったことで、今日の『能力テスト』は終了した。メンバーの脆さが見え隠れする不完全燃焼気味の『能力テスト』であった。



>>>



同時刻。『砦』内のカフェにて。


――ガシャン


と。何かが破砕した音が響いた。実際にはそれは陶器のカップであり、中に入っていたミルクを大量に入れたブラックコーヒーが床に飛散した。ブラックコーヒーの癖にミルクが大量に入っているのは、それを飲んでいた人物が見栄を張ってブラックコーヒーを頼んだはいいが、結局苦すぎて飲めず、しかし残すのは恥ずかしいためにミルクを大量に投入することでなんとか飲もうとしていた、と言う経緯(いきさつ)があるのだけれど、今はそこはどうでも良い。

ブラックコーヒーを零した人物がいる場所は、オープンカフェのテラス席である。テラスの木にブラックコーヒーが染み込んでいる。ああ、もう少し座標を拡げると、ここは『砦』の中に存在する異様なまでに何でも揃っている『街』の中にある、リーズナブルな価格と高品質で人気のカフェである。現在時刻は十二時四十七分。昼休みに食堂ではなくこのカフェに来て食事を摂る生徒も少なくない。そんな、午後の麗らかな陽射しと柔らかな風が吹き抜ける――正確に言うと『砦』は巨大な水中都市であるため、『麗らかな陽射し』など届かないし、『柔らかな風』が吹き抜けることもない。これは『砦』にいる全員が受信しているARTV、『情報管理局』の『気象部門』の天気予報士が設定した天気をVRで作成し、AR網膜が仮想投影しているに過ぎない。また、風などの自然現象や温度設定は、総て『砦』のそこかしこに存在する機械が擬似的に作り出しているに過ぎない――昼時に、それは起こった。

ブラックコーヒーを零した張本人の名前は、久城篤。学校がある日には毎日ここで昼食を摂っている青年だ。彼は、昼食を摂り終え、ブラックコーヒーを飲んでいた。いつもは紅茶(これもミルクを大量に投入している)を飲んでいるが、今日は一緒に昼食を摂っていた友人に甘い紅茶のことを茶化され、意地を張ってブラックコーヒーを頼んだ。そこまでは別にいい。仲の良い友人との、一種のじゃれ合いのようなものだ。篤本人も、彼をからかった友人もそう認識していたし、それに間違いはなかった。では何故彼がブラックコーヒーを零したのかと言うと、それは頼んだブラックコーヒーに毒物が入れられていたとか、突然の大地震に見舞われたとかでは勿論ない。そもそも『血統族(Dawn)』は毒物程度では死なない。そりゃあ苦しみはするだろうが、それだけだ。直ぐに体内で浄化される。そして、この『砦』は第三使徒の『アリア』の鉄壁によって護られている。たとえプレートテクトニクスによる大地震が来ようと、日本列島が大災害に見舞われようと、『砦』が揺れることは一ミリだって有り得ない。

ではどこに問題があったのかと言うと、それは篤本人にあった。彼は、突然の激痛、それも頭痛などと言うように部位で説明出来るものではなく、全身を掻き混ぜられたような激痛が奔った。それ故にブラックコーヒーをカップごと床に落としたのだ。叫び声を上げなかった理由は、そんな余裕がなかったからに他ならない。悲鳴を上げる余裕すらない痛み。まるで、『自分が作り替えられる』かのような。否、『本当の自分に戻ろうとしている』かのように。

篤が意識を保っていたのは数秒だった。無言のままにのたうち回り、糸が切れたように机を巻き込みながら派手に倒れた。


「お、おい、篤ッ!」


そう声を上げたのは彼をからかっていた友人。突然苦しみ出した友人の姿をなす術もなく呆然と見やり、彼が倒れてようやく声を発することに成功した。それ程までに、見る者に恐怖を与える程の、異様な苦しみ方だった。混乱した友人は自分がブラックコーヒーを飲ませたからでは…などとおよそ論理的とは思えない思考回路になっていた。


「――手を貸します、お客様」


混乱した友人――名前は吾條(ごじょう) 敏史(さとし)と言う――に声をかけてきた人物がいた。台詞から推測出来ると思うが、声の主はこのカフェの従業員である。


「え、あ……」


敏史が言葉に詰まっている間に、声の主、高身長の好青年は倒れた篤を担ぎ上げていた。

青年の名前は杉谷(すぎや) 海斗(かいと)。『分家』である篤や敏史は家に金銭的な余裕があるため、こうして悠々自適、自由気ままに昼時を過ごすことが出来るが、この青年、海斗は、ドイツの心理学者の言葉を取った、俗に『境界人(マージナルマン)』と呼ばれる、人間と『血統族(Dawn)』が煩雑に出現する一族の出身者だ。彼らは金銭的な余裕に恵まれず、こうして街に働きに出ることも珍しくない。そして、『境界人』は『分家』に卑しい血が多分に混じった者として差別的に見られている。これは、『分家』が『純血』に近しい存在である誇りと同時に、『境界人』にも近しい存在であるという劣等感を埋めるために生じた膿のようなものだ。事実、『純血』は『分家』も『境界人』も同等に扱っている。これもただ単に『分家』も『境界人』も『純血』には足元にも及ばないと思っているのが少なからずあるのかも知れないが、それでも『純血』は厩戸皇子よろしく実力のある者の発掘を積極的に行っている。それはさておき。今敏史の目の前にいるのは、平日でも昼時にバイトに出なければならないような『境界人』だ。『分家』の一人である敏史からしてみれば、嫌悪の対象。ストレスの吐き出し口。

しかし、敏史がその青年を見つめる瞳には、嫌悪も憎悪も『純血』に対する劣等感でもなかった。そこにあるのは、ただ『尊敬』の念だけ。『賞賛』『羨望』。そんな感情が渦巻いていた。


だって、彼は。


敏史の口が無意識の内に言葉を零す。


「『翼を捥いだ英雄』…」


海斗はそう言われ哀しげな微笑を浮かべると、篤に視線を送ってその哀愁を強めた。



>>>



「………」


今、則継は『Debate Room』にいた。時刻は十七時五十七分。三分後に『解析結果』を持った部下が現れ、ディスカッションを行う予定だ。

則継は今日の出来事とこれから行われるディスカッションの議題内容を頭に思い浮かべた。


(二条朔に釘を刺すことには成功したけど…)


「………」


則継は座っている椅子の背もたれに背を預け、天井を見上げた。髪が音を立てて頬を流れる。


(澄丈維沙弥のあの能力は……)


「……っ」


則継が維沙弥の能力について思考を巡らせようとすると、頭に電流が流れるような痛みが走った。則継は思わず頭を押さえて顔を顰め、天井を見上げていた顔を正面へと戻した。


「『拒絶反応』か…」


則継の身体は、組織――正確に言うと『砦』の最高権力者――に不利益な記憶は無意識的に削除される傾向にある。思い出そうとすると今のような痛みに襲われることとなる。これは秘密保守のために則継が自然と、否、幼き頃に擦り込まされた技術の一つだ。これは則継の仕事とプライベートの線引きが異様にシビアな原因の一つである。『九条家』は他家と違い何かの戦闘術に特化せず、統率能力に長けているがために、私情を徹底的に押し殺す訓練を幼い頃から教育されるのだ。否、本当は、これは『教育』などと生易しい響きで語れるモノではないのだ。これは『教育』ではなく『地獄』。傍から見ればただの『虐待』だ。この『教育』が原因で則継は一度――。


……そんな過酷な経験の産物である『忘却能力』の症状を呟いた則継の声音は、どこか他人事めいていた。


――ピロン


と、そこで三分が経過したようで、目の前に入出許可を求めるウィンドウが現れた。反射的に則継が了承の文字をタップすると、それとほぼ同時に自動ドアのロックが解除される乾いた音が響き、則継の部下が姿を現した。


「重要案件に分類されます」


入って来た部下――久城 龍哉(たつや)――は開口一番そう言った。


「そう。どんな?」


着席を促す動作をすると、龍哉が則継の正面に腰掛けた。


「澄丈維沙弥が断罪した『烏合族(Dusk)』ですが」


ホロディスプレイを展開させ、解析結果が羅列される。それを則継に提示する前に、そこで龍哉は珍しく言い渋る仕草を見せた。が、それも一瞬のことで、検死解剖結果を告げることに専念した。出来る限り平静を装って。

しかしそれは則継をして耳を疑わざるを得ない報告内容だった。


――心臓が、ありませんでした。



>>>



「……『アヴァロン』様…」


先程まで叢雲がかかっていた月がその冴えた澄み渡る姿を現した。

一陣の風が吹き抜け、少女の薄蒼い髪が靡く。

少女がいるのは高層ビルと肩を並べる高さの電波塔。無骨な骨組みに裸足で佇んでいる。それどころか少女はノースリーブの純白のワンピースを纏っただけの格好をしていた。夜風は容赦なく少女に吹き荒いでいるはずだが、少女には寒がる様子は認められない。


「やっと…見つけた……」


夜の冷たさとは対照的に、少女の髪より濃い蒼き瞳に焰が宿る。


「今、お迎えに上がります……」


それだけ言うと、少女は無造作に歩を一歩進める。当然そこに地面はない。身体を前に倒し重力に引かれて少女はそこから飛び降りた。


少女の姿は直ぐに闇に溶けて見えなくなってしまった。

最近気づいた衝撃の事実があります。それは、今回のお話を打っている時のこと。


浮芥彼「ここの維沙弥くんはこんなことをしてて〜その理由は〜」

浮芥彼「………」

(あれ、主人公チート設定にしすぎて主人公の思考を書いたら全てネタバレになる…だと…?)


……(°д°)


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