Prologue そして世界は
何もない世界に、少女が一人、舞い降りた。
少女は酷く重厚な装丁が施された一冊の分厚い本をとても大切そうに、その細く白い白磁の両腕に抱いていた。
少女が長い睫毛を震わせて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
何もない世界に在る少女の瞳は、やはり何も映してはいない。
否。何もないという事実すら、映していない。
総てを拒絶しきり、拒絶のみで己を充たす硝子のような瞳。
少女の細い腕が、抱いている、質量のありそうな本を胸の高さに掲げ、重い表紙を開き、頁を捲る。捲る。
すると、少女が頁を捲るごとに、世界が創造されて行く。
大地が、空が、水が、焔が、風が、光が、闇が。
何もない世界は、何もなかった世界へと変貌した。
出来上がったのは、楽園のように美しい世界。
大地はそこに棲まうモノ達を優しく包み込み、空はどこまでも澄み渡り、水は清澄に、留まる場所など知らぬように軽やかに流れ、焔は生活を豊かにするために躍動し、風は安らぎを与え、光は総てのモノを照らし、闇は光によってもたらされた総てのモノの影を受け入れた。
怨み怨まれるという負の連鎖の存在しない世界。
そんな世界が、造られた。
そんな夢のような世界に、勿論人間は存在しなかった。
何故なら人間のいる世界が理想郷であることなど、有り得ないからである。
しかし、少女はそんな理想郷に、人間を造った。
すなわち、少女は自ら、自らが造り上げた理想郷を棄てたのだ。
気まぐれでそうしたのではない。
目的は、ただ一つ。
その、ただ一つのためだけに。
少女は世界の総てをその瞳に映していた。
少女は、頁の途中を開いたままの本を、静かに閉じた。
ぱん、という軽い音が鳴る。
少女は閉じた本を、今度は片手で抱くと、空いた方の手を水平に持ち上げる。
指を折り曲げ、人差し指で、指し示した。
そう、総てを、指し示した。
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これは遠い遠い昔の噺。
どれくらい昔の噺かと言うと、それは世界の創世記に遡る程の昔。
今では神話として語られる、一つの真実。
かつてこの世界で人間は森羅万象を崇め、その恩恵を承って生きていた。
怨み怨まれが完全にないとは言い切れないが、それでも皆が幸せを感じていた。噛み締めていた。
しかし、そんな平和で幸福に充ちていた生活は、あまりにもあっさりと、一瞬で瓦解した。
ある不幸な男を例に取ってみるならば、その男には、愛する妻と、守るべき子供がいた。妻と子供を守る事を生き甲斐とし、良く働き、良く笑う。そんな好青年だった。
毎日が幸せ。
そんな不安定で不確定な感覚を、絶対だと信じられる程には、言える程には、彼はとても幸せを感じていた。
だがそんな幸せな生活は、唐突に終わりを迎える事となる。
男の幸せに終止符を打ったのは、男の最愛の妻だった。
ある日、男が仕事から帰り、何時もの様に妻の作る温かい夕餉を楽しみに、食卓のある部屋へと入ると、辺りには、血臭が充満していた。
ぐちゃ、ねちゃ、と言う、普通に生活していたならばおよそ聞く機会のない音が、食卓から洩れ聞こえていた。
勿論男がその音を聞いた事などなく、音の正体が判らぬまま、男は食卓に足を踏み入れた。
何時もは温かな灯りの灯る食卓は、冷たい闇に覆われていた。
男は言い様のない恐怖に身を竦ませながら、それでも中へと歩を進める。
何も見えない暗闇。
異様な音が木霊する食卓。
丁度中央付近に到達した頃だろうか。
男の足は何かにぶつかった。
無意識に、身体がびくりと跳ね上がる。
動悸も、跳ね上がる。
段々夜闇に慣れてきた男の目が、それを捉えた。
そこには、男の愛する妻がいた。
そこには、男の愛する妻だったナニカがいた。
妻だったナニカは、ナニカを喰っていた。
男がそれを自分の子供だと認識した瞬間と、妻だったナニカが男の足を喰いちぎったのは、どちらが先だったのだろうか。
男は何も分からないまま、ナニカに喰い尽くされた。
足の肉、腕の肉、顔面の肉、舌、眼球、脳、血液、骨。
ナニカは男の総てを取り込んだ。
人間と全く同じ姿形をしたナニカの、人間と同じ形、作用をする口と思しきナニカの周りに、男と男の子供の血液がべっとりとつき、糸を引いていた。
ナニカはそれを拭わず、血肉を求め、四つん這いの格好で、何事かを喚きながら食卓から出ていった。
これが、確認されている中では最古の事例。
人間と全く見分けのつかない、人間を喰らうナニカの出現。
何故、男は喰われたと言うのに、この噺が伝承されているのかは、定かでない。
そして、この出現を皮切りに、まるで待ってましたと言わんばかりに、人間と良く似たナニカはぞくぞくとその姿を現した。多くの幸せに暮らしていた者達が、喰われていった。
ある者は、愛する夫に。
ある者は、大切に育ててきた子供に。
ある者は、介護をしていた老人に。
ある者は、産まれたばかりでまだ名もなき赤子に。
ナニカももしかしたら人間なのかも知れない。だが、人間はナニカを人間とは認めなかった。
認めると言う事は、ナニカに恐怖する人間がなんとか繋ぎ留めている理性の鎖を引きちぎる事に他ならないからだ。大量の殺し合いを防ぐ為なのだ。
しかしそれでも、疑心暗鬼に呑まれた人間の間では大量の殺し合いが勃発したものだ。
人間は、狂ってしまった。
ナニカは人間を喰らい、人間は人間を殺した。
人間は、急速にその数を減らしていった。
最早誰もが人類の滅亡を予見していた、そんな時。
一筋の、希望の光が差し込めた。
それは、後に『血統族(Dawn)』と呼ばれる事となる人間達。
そして、現在も存在する『血統族(Dawn)』の祖先とされる者達。
彼らは、己を傷つけ、その傷から零れる自身の血液を嚥下する事により、人外の身体能力と武器を精製する事の出来る六組の男女。
彼らに血の繋がりはない。
ナニカに血族的な繋がりがない様に『血統族(Dawn)』にも、ない。
しかし、彼らはあたかも血統があるかの様に、武器に違いはあれど、同じ方法でナニカを殲滅していった為、『血統族(Dawn)』と呼ばれているのだ。
彼らは、知性をなくしたナニカを、その圧倒的な身体能力と、己から造り上げた武器を駆使して蹂躙していった。
人類は彼らを崇めた。
森羅万象が人類に与えた、崇高なる救世主として。
しかし、人類の意見が一致する事などあるはずもなく。
大多数の人類は彼らを救世主と崇めたが、中には己の血液を操る彼らを"吸血鬼"と呼ぶ者達もいた。
ナニカを"食人鬼"と呼んだ様に。
『血統族(Dawn)』はそんな二律背反の評価を受けながらも、人類が生き残る為に懸命に、後に『烏合族(Dusk)』と呼ばれる"食人鬼"を葬っていった。
そして、遂に『血統族(Dawn)』は、『烏合族(Dusk)』を総て駆除し、人類には新たな安寧がもたらされた。
『血統族(Dawn)』はその功績を讃えられ、五芒星を描く様に、五芒星の頂点と、その中央に位置する様に大陸全土に散らばり、その土地の守護を務める事となった。
これが、この世界の創世記から第一世代への移行期に見られた第一次聖戦(First Crusade)である。
『血統族(Dawn)』は純血を守り抜き、『血統族(Dawn)』としての誇りと、また『烏合族(Dusk)』が現れた時に闘える様にその血を受け継いでいった。
それ故、世界に六つある大陸には、それぞれその大陸を守護した『血統族(Dawn)』の子孫が住んでいる。
驚異的な繁殖力、と揶揄される事もあったが、事実、『血統族(Dawn)』は驚異的なスピードでその数を増やした。
そうは言っても所詮は一組の男女が祖先。
世に存在する人間達と比べれば、やはり少なく、能力に差はあれど、とても希少性がある存在だ。
そして、そんな勇猛な先祖を持つ現在の『血統族(Dawn)』は、能力を持たない人間達とは別の、『血統族(Dawn)』専用の育成機関――つまりは学校だ――で、日々、何時訪れるとも知れぬ敵を討つ為に訓練を積んでいる。
否。もう、その時は来た。
今から十五年前、『烏合族(Dusk)』が突如として大量に発見された。
またしても、今まで普段通りに生活をしていた隣人や大切な人が、いきなり理性を喪ったかの様に人間を喰らい始めたのだ。
第二次聖戦(Second Crusade)が幕を開ける。
『血統族(Dawn)』は古からの盟約に従い、『烏合族(Dusk)』の掃討に乗り出した。
だが、未だ『烏合族(Dusk)』の数は減らないどころか、益々増殖し、何時人間達の疑心暗鬼が爆発するとも知れない危険な状況が続いている。
『烏合族(Dusk)』を見分ける方法は、ない。
隣人が、愛する者が、子供が、名前も知らぬ誰かが。
自分を、喰うかも知れない。
そんな不安が、胸中に垂れ込め充満し、渦を巻く。
しかし、世の中に例外はつき物なのが、世の常と言うべきなのかも知れない。