甲虫の屍
殺傷、流血等の描写があります。気をつけて下さい。
誤字脱字や感想等ありましたら、どんな些細なことでも構いませんので、書いて頂けると幸いです。
心霊現象などの類の物ではありませんが、ホラーの要素も含まれていますので、そちらにも十分注意して下さい。
苦手な方は、ここで引き返すことをお勧め致します。
それでは、大丈夫だ、と言う方のみお進み下さい。
木の葉が揺れる音の狭間に蝉の声が鳴り響く。
それはより暑さを引き立てる。しかし何処か心地の良い物でもあった。
そんな場所には今も煌々と太陽の光が降り注ぎ、俺の汗を流し続けた。
夏はまだ半ば。そんな時でも俺はしっかりとネクタイを締めて鞄を手に持ち、一人で仕事のために歩き続けていた。
中都市の中心部から少し離れた場所で、俺は取引先へと足を向かわせていた。
妻が居るわけでもなければ、彼女も居ない。そんな三十路過ぎの俺は、毎日仕事に入り浸っていた。
田舎で両親が心配しているようだが、俺は結婚なんか出来なくともいいと思っていた。兄貴が結婚して跡取り息子をつくったから尚更そう思っている。
だからこその仕事だ。婚活なんぞ一度もせずに、仕事ばかりの生活を今まで送ってきた。
結婚をしないからこそ、金くらいは貯めて俺は両親に親孝行をと思っていた。
そんな時、俺の足下で何かが蠢いていたのが見えた。何か黒っぽい生き物である。
俺はそれを見つけると、俯きその生物を凝視した。するとそこにあったのは、
一匹の甲虫だった。
それは地面に背を向けて、六本の細く固い足をばたつかせ苦しそうに藻掻いていた。
俺はすぐ近くにあった樹液の出る椚に目をやった。するとそこには、色鮮やかな蝶や黄色と黒色をした体を持つ蜂の姿と共に、一匹の立派な甲虫が居た。どうやら今し方藻掻いているこの甲虫は、彼奴にやられたらしい。
俺はそれを見ると一旦足を止めてしゃがみ込み、その藻掻く甲虫に手を伸ばした。
腹が地面の方を向くようにひっくり返してやると、近くの木の幹につけてやる。と、その甲虫はさっきまで苦しそうに藻掻いていたことなど忘れたように、元気よくまた幹の上を這い始めた。
俺はそれを見て薄く微笑む。と、その時何気なく田舎にいた頃のまだ小さかった自分のことを思いだした。
あの頃は家にテレビゲームなんてハイカラな物は無かったから、よく虫取り網片手に虫籠を肩にぶら下げて、昆虫採集に夢中になったものだった。真っ黒になるまで日焼けして、暗くなる頃まで時間を忘れ野山をかけずりまわった。
そんなことを思いだした俺は、その時同時に夏の日のある記憶も共に思いだした。
あれは、悪夢のようなものだった。子どもながらそう感じ、恐怖に顔を歪めたものだ。 今でもその悪夢のような記憶を思い出すと切ない気持ちが込み上げる。
大人になった今でもそう思うのだから、当時子どもだった俺は、相当な恐怖を感じたことだろう。
そう、あれは悪夢だった。しかしあの出来事は俺の他に彼奴しか知らないのだ。それは、一生変わらない。あの悪夢は、他人に話してはいけないのだ。
過去――とある田舎町の山の中。
篠山 謙―――9歳。
蝉の声が鳴り響く森の中を、やんわりと湿った地面の上を踏みしめながら歩いて行く。 額をするすると汗が流れてゆき、しかし僕はそんなことには全く気にかけずに森の中を進んでいった。
半ズボンに所々土に汚れた白のティシャツ、使い古された麦わら帽子に片手に虫取り網、肩には虫籠と、何処の田舎でも居そうな格好に身を包んだ僕はある場所へと向かっていた。
木の間をぬって歩いて、笑顔でずんずんと。まるでそこに引き寄せられているかのように僕は森の中を進んでゆく。
そして暫くすると、太陽の鋭い光が降り注ぐひらけた場所へと着いた。その場所には何百年もの時を生き抜いてきたらしいとても太く立派な木がそびえ立っており、そしてその前に一人の少年が立っていた。
僕はその少年の姿を見つけると、一目散に駆け寄ってゆく。と、そこでやっと口を開いた。
「雅樹くーんっ!ごめんねっ、待った?」
そう言うと大きな木のそばに立っていた少年は僕に気づき、言葉を返した。
「謙っ!俺も今来たとこさっ、待ってねぇよっ」
そう言って少年―――雅樹は笑って返事を返した。元気の良い、とても子どもらしい明るい笑顔だった。
雅樹は、僕の友達だった。近所に住む二つ上のお兄さんだったが、そんなことは気にせずに、まるで兄弟のように仲が良かった。
いつも一緒に野山を駆け回っては、夏は虫取りをして遊んだ。蝉に甲虫に鍬形虫・・・・・・いろんな虫を採ってまわって、日焼けと土で真っ黒になるまで遊び回った。
そして今日もそれは例外なく、いつもの大きな木の前に集合して虫取りに出掛けた。
「おっ、このカブトでっけぇーっ!やっぱりワナを作っといて良かったなーっ」
「ほんとだーっ!雅樹くんすごいやっ!僕のワナの所にはハチしかいなかったよー」
そんなことを言いながら、次から次へと木の間をぬって進んで樹液の出る木や罠を仕掛けておいた木を順々にまわる。
雅樹はやはり凄かった。僕よりも多く虫を見つけて捕まえる事が出来るし、罠もしっかりとしていていろんな虫が集まってきていた。そして僕が捕まえられないでると虫を分けてくれたり、虫が良そうな場所へ僕を連れて行ってくれて、僕にさり気なく虫の居るところを教えてくれた。
雅樹は僕のあこがれの存在でもあった。いつか雅樹のように優しく、逞しくなりたいとそう思っていた。
「ひぃ・・・ふぅ・・・みぃ・・・・・・。僕は五匹だっ」
「ひぃ・・・ふぅ・・・みぃ・・・・・・。俺は八匹だっ」
「雅樹くんそんなに捕ったのーっ!やっぱりすごいやっ、しかもおっきいオスばっかりっ」
「謙もすごいじゃんかっ!いつもよりも多く捕れてんじゃんっ、さすが、やっぱり覚えが早いなっ。俺が抜かされるのも時間の問題だっ」
「えーっ、そんなことないよっ、雅樹くんは抜かせないやっ」
少しの間休憩するために近くの木に寄り掛かって自分達の虫籠の中を観察しながらそんなことを話し合っていた。
僕が捕まえたのは、甲虫の雄が一匹、ルテタテハが一匹、カナブンが一匹に、それぞれミンミンゼミとニイニイゼミが一匹ずつ。
そして雅樹が捕まえたのは、甲虫の雄が三匹にカラスアゲハとゴマダラチョウが一匹ずつ、鍬形虫の雄が一匹にアブラゼミとミンミンゼミだった。
圧倒的に雅人の方が量的にも、質的にも勝っていたが、しかし僕はそんな雅樹に褒められとても嬉しかった。
家から持ってきていた麦茶を飲みながら話を続けていると、その時何処からか誰かの荒い息使いと独り言のような声が聞こえてきた。
それを聞いたとき、僕達二人は黙り込む。と、今度は先ほどよりもその声が良く聞こえてきた。
「・・・・・・はぁ、はぁ・・・・・・。や・・・・・・やっちまった・・・・・・。だが、俺が悪いんじゃないんだ・・・・・・、はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・。でも・・・・・・、やるつもりは無かったんだ・・・・・・」
そんな焦りをも感じさせる男の人の声が聞こえてきた。はっきりと鮮明に聞こえたわけではないが、その男はそのようなことを言っていた。そしてこれは確証無いことだが、何となく、僕はその声を何処かで聞いたことがあるような気がした。
男の人の声に息を潜めていた二人だが、しかし、雅樹があることに気がついてゆっくりと立ち上がっては、その声のした方に近づいて行った。それに男も気づいたらしい。男は慌てたような声を口から漏らして、勢いよく振り返った。その時、雅樹が口を開く。
「・・・・・・・・・とう・・・・・・さん?」
「・・・・・・・・・雅樹・・・・・・っ!?」
その男がこちらを振り返ったとき、僕にも顔がちらりと見えた。それは、僕にも見覚えのある顔だった。
「・・・・・・とうさん?こんなところで何をしてるの?」
雅樹がそう尋ねる。と、その男の顔が段々蒼白になり、途轍もなく焦った様子で僕達とは逆方向に勢いよく逃げ去っていった。
「あ゛っ、あ゛あぁぁぁああぁぁぁぁああああっっ!!」
そんな断末魔のような叫び声をあげながら。
その男は、雅樹の父親だった。いつものように見ている顔であるから間違いない。
暫く雅樹が立ち尽くしていた。僕もその場に座り込んで先ほどの状況に驚いていた。
しかし暫くすると、雅樹が先ほど父親がいた場所に向かって歩き出した。それを見て、僕も雅樹の後を追いかけるように続いて歩き始めた。
と、雅樹が父親のいた場所に着いたとき、ピタッと立ち止まった。
僕もそれを見ると、雅樹のすぐ後ろで立ち止まる。
「雅樹くんっ、どうしたの?」
僕はそう尋ねて、そして雅樹が見つめていた先に目をやった。
僕はそこへ目をやったとき、思わず短い悲鳴をあげて絶句した。
そこにあったのは、木にもたれ掛かるように頭をクタッと傾けた、あちこちを真っ赤な己の血で染め上げた男の死体だった。
「ひぃっ!!なっ・・・・・・なにこれっ!?」
僕はそう言って雅樹の後ろに隠れた。しかし雅樹は全く悲鳴を上げずに、少し驚いた様子でその死体を見下ろしていた。そして暫くしたとき、雅樹がそっと口を開いた。
「・・・・・・こいつ、とうさんに借金を押し付けてばっくれてたやつだ」
「・・・・・・え・・・っ?」
唐突に雅樹がそう言った。悲鳴も何も上げずに立ち尽くしていた、死体を見た雅樹の第一声は、そんな言葉だった。
「・・・・・・こいつ、何年もばっくれて借金を返そうとしなかったんだよ」
雅樹は僕の疑問符を無視してそんなことを口から零した。そしてそう言った雅樹は、近くにあった凶器らしき包丁を手にとった。
「・・・・・・まっ・・・雅樹くん・・・・・・っ?なにをして・・・・・・」
僕が不思議そうにそう言った瞬間、その時雅樹が包丁をその死体に向かって振り落とした。グシャっと、嫌な音がその場に響き渡った。
僕は、その時何が起こったのか分からなかった。しかしその後、雅樹の表情を見て僕は恐怖に顔を歪ませた。
「こいつっ、とうさんを困らせやがってっ、泣かせやがってっ」
雅樹がまた包丁を振り落とす。再びグシャッという気味の悪い音が響いた。
「お前のせいでとうさんは借金の返済を肩代わりする羽目になったんだぞっ」
そして最後にもう一度、雅樹が包丁を振り下ろす。
その時の雅樹の顔に浮かんでいたのは、悔しさと悲しさ、そして、真っ赤な返り血が所々付いたその中に浮かぶ笑みだった。
雅樹がしっかりと立ち上がって包丁をコトンと落とした。そして最後に死体の肩に両手を乗せて、その瞳孔が開き、恐怖の表情を浮かべたままのその顔に向かって一言言葉を吐いた。
「ざまあみやがれっ」
はっきりとそう言い捨てた。先ほどと同じ表情のまま。そこには、いつものように元気いっぱいの優しい雅樹は居なかった。
「・・・・・・あ゛・・・・・・・・・あぁ・・・・・・・・・っ」
その地獄のような風景に、僕は恐怖に顔を歪ませて動けずにいた。すると、そんな様子の僕に気づいた雅樹が僕に近寄ってきた。僕は膠着して動くことの出来ないその体を、ガタガタと全身痙攣のように振るわせた。
「・・・・・・見たよな?絶対に」
今度は雅樹が表情を全く無くした顔でそう言った。そして、僕の虫籠を肩からスルッと抜き取った。
「・・・・・・俺のやったことは、絶対誰にも言うなよ?」
雅樹は僕に向かってそう言うと、僕の虫籠の蓋を外してそれを逆さにした。蝶や蝉が飛んで逃げてゆき、遅れてカナブンも地面に落ちたその直後に飛び立っていった。残るは地面にボトッと落ち、ひっくり返ったまま藻掻く一匹の甲虫のみ。そして雅樹はそれを見ると、土だらけのその靴でその甲虫をグシャッと踏み潰し、そして足首をグリグリと捻っては足を上げた。
雅樹が上げたその足の下には、見るも無惨に潰された甲虫だった残骸が残っていた。
そしてそれを見て、雅樹は僕に目線を戻した。そして僕に告げる。
「・・・・・・言ったら、お前はこうなるからな?」
そう言って、雅樹はニィッと笑った。全く笑った様子のないその目を顔に残したまま。
「まぁ、お前が言ったところできっとどうにもならないだろうな。俺は死体に刃物を差しただけで人は殺してない。殺人じゃないんだから、悪いことはしてないさっ。それに、餓鬼の戯言なんて誰も聞き入れはしないだろうな」
そう言いながら雅樹は僕に虫籠だけを返した。そして僕に問う。
「・・・・・・それともなんだ、お前もやってみるか?」
雅樹が僕にそう尋ねたとき、今度、僕の足はまるでさっきとは別人の物のように良く動き、その場から一目散に逃げていた。
「あ゛・・・っうあ゛あぁぁぁあああぁぁぁぁああっっ!!」
大声でそう叫びながら森を一目散に抜けていく。怖かった。途轍もなく怖かった。その恐怖だけが、今僕の足を動かしている。僕の本能が、とにかく逃げろとだけ伝えていた。
暫く駆け抜けていくと、いつも見慣れている風景が見えてきた。人家だ、いつもの村だ。
それが見えたとき、僕の気が少しだけ緩んだ。そしてその緩みが原因だったのか、僕は岩のような大きな石に躓いた。そしてバランスを崩すと、そのまま転がり落ちていって一本の木の根元に思いっ切り頭をぶつけた。そしてその時、僕の記憶がぶっ飛んだ。
気づくと、僕は病院のベットの上だった。
目を開けるとそこには両親の顔があって、僕が目を覚ましたことを知った途端にその顔は安心したように嬉しそうな表情へと変わった。
しかし僕には、この場所へ来るまでの記憶が全くなかった。この病院までは、偶々近くを通りかかった近所のおじさんが、倒れていた僕を発見し運んでくれたらしい。だが僕の記憶は、あの日森の中に出掛けていった事までしか残っていなかった。
玄関を閉めたことは憶えている。森の中へ入っていった事も憶えている。しかしそれから今までの記憶は全く憶えていなかった。
医者は、ショックによる記憶喪失だろうと言った。どうやらその間、僕は雅樹と共に死体を発見したらしい。
僕は全く憶えていないが、雅樹と共に死体を発見して、その後驚いた僕は一目散に逃げだして途中で転び気を失い、その後僕とは別に森を抜けた雅樹が警察にその出来事を伝えたらしい。その時の雅樹の格好は所々血にぬれていたそうだが、警察は被害者の肩に残っていた指紋から、雅樹が安否確認の為に死体に触れたからだと判断した。凶器にも雅樹の指紋が残っていたが、それも包丁を見つけて不審に思い拾い上げたのだろうと判断された。
そして凶器に残った指紋と目撃証言により、雅樹の父親が逮捕されたのだという。原因は借金関連のトラブルだったらしい。借金の保証人になって欲しいと頼まれた雅樹の父親が仕方なくその願いを引き受けたところ、その人物が何処かへ雲隠れしてしまったために借金を肩代わりすることになり、そしてその後になってひょっこりとその人物が現れ、話し合いの末にカッとなってしまったのだという。
始め雅樹の父は殺すつもりはなく、刺したのは一度のみと証言したが、刺し傷が四つあったことから、カッとなったときの記憶が曖昧なので刺したのは一度では無かったのかもしれないと後に供述し、殺すつもりは無かったという彼の言葉は呆気なく否定された。そして彼の罪はより重くなっていった。
この事実の殆どは、大人たちの話を盗み聞きしたりして後に知ったことだが、その内ほんの幾つかは、入院中に雅樹に教えて貰ったことだった。
雅樹は僕があの日の記憶を失い入院していると聞いて、わざわざ隣町の病院までよくお見舞いに来てくれた。僕の顔を見るなりほっとしたように肩を下ろして、そしてそれからはいつものようにいろんな話をしてくれた。そこにあったのは、いつもの雅樹の優しそうな元気な笑顔だった。
暫くしたとき、雅樹は引っ越していった。内縁者に殺人者がいると知れ渡っているこの小さな町では住みにくかったのだろう。雅樹は笑顔で僕に手を振って去っていった。
僕も笑顔で手を振ってお別れを告げた。僕は最後泣きそうになっていたのだが、しかし雅樹は最後までその笑顔を崩さなかった。そして雅樹は最後に言った。
「謙の記憶の中に、俺はいつまでもずっと一緒にいるからな」
そう言って、雅樹は笑って僕の前から去っていった。
それから何年後だっただろうか。あれは、高校生の時だった。
俺は田舎を出て一人暮らしを始め、東京の学校に通っていた。
それまでは、田舎から東京に出てきて大都会と地元の違いの差に驚きながらも、しかし何でもないごく普通の生活を送っていた。
しかしそんなある日、何でもないような夏の日に、ふと俺は思い出してしまった。
あの悪夢のような、あの日の事件の本当の真実を――――。
それから毎日魘された。雅樹のあの血にまみれた笑顔、雅樹の元気で優しそうな明るい笑顔、雅樹の血にまみれた無表情・・・・・・。それが浮かんでは、消え、そしてまた新たな雅樹の顔が蘇る。
俺は怖かった。雅樹が言った通り、俺の記憶の中には嫌というほど雅樹の事がこびり付いていた。
しかし、今更それを思いだしたところで遅かった。俺は雅樹が今何処に居るのかなんて知らないし、知識がないからあれが犯罪として取り扱われるのかも分からない。それに今更そんな昔の事件の事を話し出したところで誰も聞いてはくれないだろう。わけの分からん寝言や世迷い事だと言われて軽く一蹴されるのがきっとオチだ。
そう考えた俺は、きっぱりそれを忘れようと努めた。恐ろしいことは、さっさと忘れてしまえばいい。
俺は様々なことに打ち込んで、そしてあの日のことを忘れるようにした。ひたすら勉強をして、バイトをして、趣味や部活に勤しんで、友達と遊んで・・・・・・。一日を精一杯活用して、成る可く一人で考え事をするような暇な時間を減らすようにした。
俺は逃げたかった。とても怖かったのだ。
しかし何をしても俺はあの日のことを忘れることは出来無かった。どうしても、ふとした瞬間に何気なく思いだしてしまうのだ。随時頭にあの日のことが頭に浮かぶ事は無くなったが、俺の頭からその記憶が消えることは無かった。
俺はそんな昔の記憶を思いだして、暫くその場に佇んでいた。そしてさっきよりも幾らか騒がしくなった蝉の声で気を取り戻しハッとすると、また道を前へと歩き出す。
早くしないと約束の時間に遅れてしまう。そう思い、俺は道を歩く足を速めた。
そしてその途中に、俺はこの前テレビで見た事件をふと思い出していた。
つい数日前テレビでやっていた事件のことだった。とある関東圏内の町で、無差別殺傷事件があり、そしてその犯人――麻薬やDVなどのその他の悪事も働いていた凶悪が、警察に取り押さえられる寸前で自殺した、と言うものだった。
その事件の報道で俺が目を惹かれたのは、その犯人の名前だった。名字が違っているので考えすぎだと思い、首を振って気にしないことにしたのだが、その男の名前は、あの雅樹と全く同じ名前だった。
しかし、雅樹なんて名前は在り来たりで珍しいものでもないから、きっと別人物だろう。それに、俺の記憶が正しければ雅樹は中部地方に引っ越した筈だ。
そう思って、俺がその事件について特に関心を持つことは無くなった。いつも見ているニュース番組でその報道を耳にするばかりである。
そんな事を何気なく思い出しながら、俺は急いで取引先へと向かっていった。
―――――しかし、その時の俺は知らなかった。その犯人が、あの雅樹と同じ年齢であることと、ニュースで報道された顔写真が、あの雅樹とどことなく似ていることは。
だが、それを俺が知るのは、まだ少し先の事である。