船旅
眼下に広がるのは一面の闇だった。
耳にはただ船が波を切る音が届くだけ。
甲板に佇み、ローゼスはただ水面の闇を見つめていた。
一面の星空。
何が起きても変わることなく瞬き続ける星。
手摺に手をかけ船の後方を見やるが、一面の闇に飲まれた先には何も見えない。
この後方にはサラスティアがあるのだ。今は遠く何もかもが懐かしい。
──もう帰ることは無いのかもしれない。
何度も、毎夜考えてしまう。
唇をかみ締め、ローゼスは嫌な考えを打ち消すように頭を振る。月明かりと、甲板に置かれた篝火で照らされた亜麻色の髪が頬に当たった。
「ローゼス様」
名を呼ばれて振り向けばアンナがランタンを持って静かに立っていた。
「・・・ごめんなさい」
黙って抜け出したことを素直に謝罪すれば部屋に戻るように促される。
ローゼスは静かに首を横に振った。
「もう少しだけ」
その返答にアンナは目を見開き、返答の代わりに黙って主の後ろに佇んだ。
ローゼスはその気配を背に感じながら再び此方を見つめた。今度は船の進む先を。
「まだ見えないけれどこの先にクラスト皇国があるのね」
それはひどく不思議に感じられた。行く先は自分には見ることが出来ないが、この船は着々と目的の場所へと進んでいるのだ。
自分の運命と共に。
「アンナ。私はちゃんと役目を果たせると思う?」
「ローゼス様なら、必ず果たせましょう」
寸分をおかずに返答したアンナに苦笑しつつ一面に広がる闇色の海から眼を離す。
顔を上げ、静かに瞬く星を見つめた。
──そう、果たさなければならない。
「やり遂げてみせる」
それは誰かに言ったのではなく、自分に言い聞かせるため。
船旅は一月かかった。
普通の商船とはつくりが違い、安全と優美さ、乗り心地を優先させているために倍かかったらしい。
途中、他の船から水や食料を補給しながらの旅だった。
サラスティア王国からクラスト皇国までの航路には立ち寄るための小さな島がない。
わずかに小さな島はあるのだが、人は住んでおらず、舗装もされていない。
船からいくつかの小さな島影を見かけたときにローゼスは近くを通りかかった船乗りに声をかけた。
「ねえ」
「へえ」
真っ黒に日焼けした男は急に話しかけられて驚いたようだが、すぐに人懐っこい笑顔で答えた。日焼けした顔に白い歯が目立っていた。
「なぜ、あの島には立ち寄らないの?」
そう言ってローゼスが指差す先の島を見てああ、とつぶやいた。
「あそこは、不可侵なんでさ」
「不可侵?」
「ここらの小さな島には海の神様が住んでるってことにして極力立ち寄らないんでさ」
船乗りの男は少し困った顔をしながら頭を掻いた。
「そういう事にしとかないと、クラストの奴らと喧嘩になってしまうんで」
実際数十年前に取り合いになって殺傷沙汰になったのでお互いの国の船乗り同士で取り決めたのだという。
「それでも、嵐のときに避難したりはしますがね」
男がいなくなってからも、ローゼスはしばらく海を見つめ続けていた。
自室に戻ったローゼスは、クラスト皇国の歴史や文化の書かれた本を読み勉強している。クラスト皇国に着くまでの間欠かさず行っていることだ。
初めての船旅で、船酔いで動けないこともあったが今では慣れてしまっていた。
ローゼスは時折、船乗りと話したり、炊事係の女性に料理を習ったりした。初めは咎めていたアンナだったがそのうちに諦めて最近では炊事係の女性と親しく話すようになっていた。
「ああ、イモは回すんじゃなくて、ナイフを自分の方に向けて縦に皮を剥くんですよ」
言われた通りにしてみると確かに先程よりは剥きやすい。
それでも炊事係達の仕事に比べると皮が厚く剥けてしまう。
「いやいや、それでも十分ですよ」
私らもこれで飯を食っているんでね、と言って笑った。
「それにしても、王家の血を引くお姫様だと聞いていたからどんなにお嬢様っぽい方がいらっしゃるのかと思ったけれど・・・」
その先の言葉を想像してかアンナがきろり、とみやると、恰幅の良い身体を増やしながら炊事係の女性は声を上げて笑った。
「褒めてるんですよ。私らはほとんど海の上で生活しているから噂でしか聞いたことが無かったけれど聡明で、私らにも優しくしてくれる。それも女性でも最年少の薬剤師ときたもんだ」
顔を赤くして無心でイモを剥くローゼスに、隣で食器を磨いていたアンナがそうでしょうとも、と頷いた。
「他の船乗り連中も姫様の事、憧れていますよ」
「無粋な真似はいたしませんよう」
アンナがピシャリと言い放つと冷たい印象を受けるが、それも気にせずに微笑みながら答えた。
「みんなあれで紳士的なんで、大丈夫ですよ」
実際船旅は快適であった。
今までクレースの屋敷回りと研究所辺りで一日のほとんどを過ごしていたローゼスにとっては新鮮であった。
船乗りたちも気さくで、それでも失礼な行為は無かった。
そのため、船旅が終わるときには別れが悲しかった。
一月の航海が終わり、クラスト皇国に到着した。
正装をし、船を降りるときに船乗りたちが皆静かに頭を下げ見送った。
仕方がないこととはいえ、一人一人に挨拶ができないことが悔やまれた。
アンナに手を引かれながら船の出口に向かうと後ろから、炊事係の女性の小さな声がした。
「お気をつけて」
その声に促されるように小さく頷いてから一歩ずつ足を動かした。
一月ぶりの陸地は、クラストの地であった。