イレーネ
それからはローゼスたちは早々に王宮を辞した。
急ぎ自宅へ戻り、着替えもせずに出迎えに出た妻に次第をダリウスが告げると、イレーネは半狂乱になった。
それをダリウスが支え、ローゼスに自室に下がるように鋭く命じるとローゼスはアンナを伴って母を気遣いながらも部屋へ戻った。
ローゼスが自室へ戻ったのを確認してから、ダリウスは妻を自分たちの寝室へ連れて行き横にならせた。
しばらくして落ち着いたのか、ローゼスと同じ色の髪を持つイレーネはいまだ青い顔をしながらダリウ
スを見つめる。
「それで、いつ」
「再来月には出発することになる。準備を急がなくては」
震える声で尋ねたイレーネにダリウスは毅然と返す。その言葉に今度こそ卒倒しそうな妻をダリウスはしっかりと抱き留めた。
「イレーネ、仕方がないのだ。国のためには」
「何が仕方がないのです。貴方は、貴方方はローゼスを、私達の娘を人質に、利用するおつもりですか!」
薄い色の瞳から涙がこぼれ、語気を荒くするイレーネにダリウスは静かに言った。
「妾になることはないだろう。かの国の皇太子は妃候補を次々と後宮から追い出したらしい」
「だとしても!あの子はいわれのない中傷や酷い目に合うかも知れない。そして暗殺される可能性とてあるのですよ!」
何よりも、イレーネはローゼスが王宮に入ることなど考えたこともない。
サラスティアの王子は幼く、その王子にローゼスが嫁ぐことは無いからである。ましてや他国の、それも王族からそのような打診があるなどと夢にも思っていなかった。
ローゼスには貴族のできるだけ年の近い、優しい人物に嫁がせるつもりであった。いや、もしもローゼスが望むのであれば、貴族でなくとも良いとも思っていた。
「あの子は、植物が好きな、物静かな子です。社交も苦手です。それでもそれがローゼスの良い所だと思って何も言いませんでした。苦手な人付き合いとて、必要最低限の事はきちんとこなしていましたから」
ダリウスはイレーネの激昂を黙って聞いていた。
「でも、王宮は違います。私とて、詳しいわけではありません。けれども熾烈な女の争いはこの国でもございます。ただでさえ、人付き合いが苦手なあの子がそんな駆け引きに耐えられるはずもありません」
「・・・・・・・クラストの皇子は確かローゼスよりも一つ年下のはず。それに今は後宮には誰も入っておらず、皇太子妃候補は一人もいないという」
「ならば、ローゼスは本当にただの人質ではありませんか!」
泣き出してしまった妻の細い肩を、ダリウスは不器用に抱き寄せた。
その腕が震え、耳にあたる硬い胸の鼓動が早まっているのを感じ、イレーネはどうしようもないのだと悟り、己の無力と短慮を悔いた。
これ以上夫であるダリウスを責める訳にはいかなかった。
この苦渋の決断にダリウスが憤り、悲しんでいることが分かっているから。
余り表情には出さないがイレーネは夫が子供達を愛していることをよく知っていた。そしてこの国を愛
し、領主としての責任を理解していることも分かっていた。
「・・・・あの子は、もっと勉強がしたいと言っていました。今度の薬剤師の国家試験を受けてみたいと、最近申しております」
「ローゼスが?」
ローゼスは幼いころから植物が好きな子供であった。
庭園を手入れしている庭師について、自分で花々を育て、更に独学で知識を身に着けていた。今ではクレースにある国立の植物研究所に時折足を運んでは職員と論議している。
貴族の子女としては褒められたことではなく、アンナをはじめとした教育係はイレーネにも苦言を呈していたが、イレーネは敢えて好きにさせ、ダリウスの耳にも入らないようにしていた。ローゼスがあまりにも楽しそうだからこそ、母心から好きにさせていたのだ。
「せめて、好きにさせては頂けませんか?」
国家試験を受けるには如何に貴族であろうと、身元がしっかりしていなくてはならない。学校を出ていれば学校が保証してくれるが、貴族の子女であるローゼスは学校には通っていないため、ダリウスの承認が必要であった。
「女で薬剤師の試験を受ける気なのか?」
学校に通っている男でさえ難関とされ、何度も挑戦するものがいるというのに。と言外に言うダリウスにイレーネは頭を下げた。
「あの子は、本当に優しい子です。あの子には私たちの勝手を押し付けるのです。どうか、どうかお許しください」
ダリウスは静かに考え込んでいた。サラスティアは農業国であることもあり、あまり女性で学校に進学する者はいない。国の定めた期間の教育を終えると家の手伝いをし、結婚して家庭を守ることが通例である。
ましてや、国家資格である薬剤師は難関の試験を突破しなくてはならない。それも知識だけではなく、実技も必要だ。今まで独学と家庭教師による勉強しかしたことのないローゼスが受かるとは考えにくかった。
いくらローゼスが優秀でも、望みはほとんどないだろう。
それでも
「・・・・分かった。後で承認書を書いておこう」
「ありがとうございます」
それでも、今は少しでもローゼスが残りわずかの間を楽しめるように、後悔の無いようにしてあげたいという、気持ちがダリウスにはあった。
「イレーネ」
「はい」
妻の涙を指でそっと拭ってやったダリウスはイレーネの瞳をしっかりと見つめた。
「あの子を愛妾のようにさせる気も、人質にさせる気もない。きっと、ローゼスは役目を果たして戻ってくる。それに、暗殺されないようにする手も直ぐに打てるから安心してくれ」
夫の真摯な瞳を受けてイレーネは静かに、だがしっかりと首を縦に振った。
私生活が忙しく、なかなか更新ができませんでした。申し訳ありません。
これからもゆっくりの更新となると思いますがよろしかったらお付き合いください。