第1話 名もなき弱者たちへ
「バルゴン兵士補佐官!敵の軍隊がすぐそこまで迫っていますっ……!」
「特別兵部隊西部戦線、予行通り三手に分離し攻撃をしかけろ!」
「おいっ、東が全滅してる。兵長、このままでは作戦が実行出来ません!」
「あ、ああああぁぁっ……!誰かっ!こっちに援軍を送って、早くっ!」
「前衛の防御も間に合いません、後衛もいつ崩壊するか」
軍馬の大地を駆ける振動が、矢の刺さった右腰にドンドンと痛いほど伝わってくる。膝まで覆っている薄い灰色の革靴に、深紅の液体がボタボタと川のように残酷なまでに流れ伝っていた。
左目はとうにやられた。霞ゆく右目でなんとか前は向いているものの、この状態ももはやいつまで持続できるか定かではない。予想を遥かに上回る長期戦に、己の体力の限界が近づいているのをうすうすと感じていた。
「決して踏みとどまるな!我らが兵士よ、果てるまで血肉を焼き殺すのだ!」
泥にまみれた手綱を離さぬようしかと握りしめながら、自分の右前方で剣を片手に空気を張り裂かんばかりに叫ぶ団長を見やる。勇猛な彼に、片腕は無かった。
ブラウニー団長。
誰よりもこの戦いに多くの兵を投じ、さることながら多くの者に無残な死を分け与えた。冷酷無慈悲。彼を表す言葉はこの世にそれだけであると、訓練兵の時代から苦々しく嫌悪していたが、今、この急死の状況に陥ってからは考えを少し改める。
この場にいる私の方こそ、冷酷で残忍な人間ではないか。
馬で走っている横目に、自分の脇腹を抑えながら死にゆく同期を見捨てている。
悲しいとか、辛いとか。
そんな人間味のある感情は既に機能を成しておらず、次々と浮かぶのは名前も顔も思い出せない、古き友人の後ろ姿であった。
帰りたい?
いいや、帰る場所なんてとっくの昔に置いてきただろう。
生きたい?
……いいや、明日へ生きる希望なんてあってもごめんだよ。
シャッシャッシャッシャッシャッシャッ
美しいはずだった緑土の草原は、無念に死んでいった兵士たちの無数の屍で穢れている。飛び出た腸。有り得ない方向へ折れ曲がった脚の骨に、驚きと恐怖で飛び出たままの丸い眼球。血の付いた親指と薬指。えぐられた背骨の肉。
「…………すまない」
ふいに、今にもかき消えそうな呟きが聴こえて顔を上げる。
表情を隠した大きな逞しい背中から、再び先の言葉が紡がれることは二度と訪れなかった。無駄な瞬きをした瞬間には、彼の左横腹は大砲の弾で射抜かれていたのだ。
ああ。
どうしてこの世界はこんな終焉を迎えることになったのだろうな。
左で躍動していた馬もいつの間にか姿を消している。直後、背後で断末魔が響く。
なぜ。
なぜ。
なぜ、私だけが、殺されずに、今も………走っているのだ?
わからない。
自分は誰だ。ここに何をしに来ている。仲間は?団長は?
皆、どうして姿が確認できないんだ。
先ほどまで共に敵地へ疾走していたのではなかったのか?
任務の放棄とは一体どういうことだ。
訳の分からぬあまりの重圧と苦しさに、手綱を自身の胸の上で思い切り引き寄せると、闇の落ちた地に音もなく静止する。ブルブルと鼻を震わせる長年の愛馬のたてがみを、場に似つかないほど優しい手つきで梳いてやる。
それから、腰に刺さったままの矢を力まかせに引っこ抜き投げ捨て、ジクジクと痛む体を無視しながら鞍から降りた。知性ある賢い馬は、自分がこの場を離れようとしているのを敏感に察知したのか、赤子のように頬に顔を擦り付けてくる。
「レジーク、悲しいが私たちはここでお別れだ」
擦り傷を残しながらも、色艶の失われていない黒い巨体をそっと抱きしめる。
極限まで鍛えあげてきた皮膚は硬く、流動する筋肉は若さゆえの力強さを存分に秘めていた。この状態であれば三晩とかからず、主あるじなくとも彼方南方の湿地まで一人で駆けてゆけるはず。
祈るような気持ちで、相棒の額に右手のひらを当てた。
「ここまで共に戦ってくれたこと、心から感謝する」
背に装備したままの鉄の鞍を外し、口を縛っていた窮屈な手綱も取り払う。一気に身軽になったレジークは呼気荒く足踏みを始めたが、命令なくして無断で離れることは躊躇っている様子だ。
……さすが私が選んだ子だ、生きていくには十分な協調性と忍耐がある。
これなら、こちらも潔く手を離すことができよう。
一切の感慨を感じるまでもなく、ルスダは戦友から半歩身を引く。
つぶらな藍色の瞳が、こちらの胸の奥を見透かすように見つめていた。
「お行き。お前は生きたい場所へ行くんだ」
遠くで雷鳴が轟き鳴いた。降り始めた雨に交じり合って、敵兵の軍歌が耳に届く。
「これからは自由な道を歩め、私のことなど忘れてくれて構わない」
最後の合図として、汗で湿った黒く瘤のある鼻先を撫でさする。温かな命の在処が、少なくともここにはしっかりと息づいていた。
「………さあ、早く!」
掛け声と同時に、黒馬は大股に霧の中を進んでいく。かつて己を乗せていた騎士の如く果敢な後ろ姿は次第に点と化していき、中央に残ったのは、ボロボロに変わり果て、力も尽きた自分というただ一人の無力な存在だけであった。
たいして意味もなく頭上を振り仰ぐ。
厚い雲に覆われた空は、無常にも体中に水滴を落とす。
長き戦いは、一人の戦士を残したまま多くの犠牲とともに水に流されていった。




