第九章: 誰も予想しなかった、Arisuの最初の言葉
Reizel最高評議会の会議室は、息苦しいほどの沈黙に支配されていた。
消毒薬の匂い。
冷え切った空気。
帝国でもっとも冷徹な頭脳たちが集まる場所。
その中央で、Arisuは金属製の椅子に座っていた。
十六歳。
「Zインシデント」が起きた日の幼さは、もうない。
背は伸び、体つきも変わった。
だが――
深い黒の瞳だけは、底の見えない湖のように、何も映さず静まり返っていた。
二年前。
民間システムへ解放された直後、Arisuは姿を消した。
生体位置信号は遮断。
監視カメラはすべて突破。
帝国は必死に捜索した。
自らが生み出した“兵器”が、同盟勢力に奪われることを恐れて。
そして今朝。
Arisuは、自分の足で基地の正門へ向かい、扉を叩いた。
ただ一言だけ告げて。
「……戻りました」
机を叩く音が、会議室に響き渡る。
司令官Kurobaneが、書類の束を叩きつけていた。
「二年だ」
低く、重い声。
「七百三十日。どこへ消えていた?」
視線が突き刺さる。
「Reizelの情報網ですら、お前を見つけられなかった。
監視を回避した理由は何だ?」
Arisuは背筋を伸ばした。
両手を膝の上に揃える。
Kurobaneの殺気を前にしても、表情は変わらない。
「監視システムには欠陥があります」
淡々と。
「郊外居住区の走査周波数です。
それを利用して……私的な空間を確保しました」
Mikage Anikioが眼鏡を押し上げる。
その視線は、解剖用の刃のようだった。
「私的空間?」
嘲りを含んだ声。
「実験体に、プライバシーは不要だ。
二年間、何をしていた?
誰と接触した?
Solariaに情報を売ったのか?」
Arisuは一度だけ瞬きをする。
そして答えた。
「……観察です」
「何を観察した?」
「一般市民です」
声は平坦。
「起床。食事。口論。
そして――互いを気遣う行動」
沈黙。
テーブルの端で、Akabane ShunがArisuを見つめていた。
亡き息子と同じ名を持つ存在。
彼は気づいていた。
かつてのArisuは、完全な空白だった。
感情も、迷いもない機械。
今のArisuも、空白だ。
だが――
その空白を、埋めようとしている。
「……なら、なぜ戻った?」
Shunの声は、かすれていた。
「逃げ切れたはずだ。
なぜ、またこの檻に戻る?」
Arisuは、彼を見た。
「観察だけでは、不十分だと理解しました」
一拍。
「次は――実験が必要です」
空気が凍りつく。
Arisuは立ち上がった。
命令もなく、姿勢を変えたのは初めてだった。
「……学校に行きたいです」
短い沈黙。
Mikageが鼻で笑う。
Kurobaneは眉をひそめた。
「学校だと?」
Kurobaneの声が低くなる。
「お前は戦争の神として造られた。
文学や歴史を学ぶために、子供と机を並べる存在じゃない」
「なぜだ?」
Shunが問う。
虚ろな瞳の奥に、かすかな希望を探すように。
「なぜ、Jujika Academyなのだ?」
ArisuはShunを見つめた。
そしてKurobane、Mikageへと視線を移す。
脳裏に浮かぶのは――
何の見返りもなく、食事を分け与え、微笑んだ女性の姿。
Arisuは口を開く。
この場にいる誰もが、予想しなかった言葉を。
「……人は」
一拍。
「笑うとき、
どんなふうに、感じているのかを――理解したい」
沈黙。
Reizel評議会は、完全に言葉を失った。
十六年間。
Arisuは感情について、一度も問わなかった。
彼が求めたのは、戦術。
耐久限界。
そして、最も効率的な殺戮方法。
Mikageの手から、ペンが落ちる。
Kurobaneは椅子にもたれ、視線を揺らす。
Shunは顔を背けた。
目元の震えを、隠すために。
誰にも分からなかった。
それが――
何の始まりなのか。
進化か。
欠陥か。
それとも――
兵器が“魂”を持ち始めたという、想定外の兆候か。
Arisuは続けた。
声は静か。
だが、重い。
「研究室では、破壊を学びました」
「民間区域では、生存を観察しました」
一呼吸。
「ですが学院――
最も優秀な者たちが集う場所で、
彼らの動機を分析したい」
「なぜ笑うのか」
「なぜ泣くのか」
「そして――
『友情』や『愛』のために、
なぜ戦うのかを」
Kurobaneは目を閉じる。
利害を計算する。
感情を思考する兵器。
それは、諸刃の剣。
だが――
制御できれば、帝国は最強の怪物を得る。
「……いいだろう」
Kurobaneは目を開いた。
「特別交換学生として送り込む」
身を乗り出す。
「だが覚えておけ、Arisu」
声が、低くなる。
「正体を露見させた場合。
あるいは、失敗した場合――
私が直々に、殲滅命令を発動する」
Arisuは頭を下げた。
誰かから学んだ、仕草で。
「了解しました」
扉が開く。
廊下の光が、差し込む。
その中を、Arisuは一人、歩き出した。
研究室の世界を離れ。
敵対する国家の天才たちが集う場所へ。
すべての一歩が、均衡を揺るがす場所。
そして――
自分自身の“本当の笑顔”を探す、旅の始まりだった。




