第七章「0」――存在のパラドックス
異常なパラメータ
中央評価室に、重苦しい沈黙が降り積もった。
生体スキャナーの低いノイズが途切れ、空気が凍りつく。
巨大モニターには、本来なら数百から数千の数値が並ぶはずだった。
だが、そこに表示されていたのは――
ただ一つの文字だけ。
HVI:0
若い研究員がキーボードを叩きつけ、震える声で叫ぶ。
「システムエラーだ! 今すぐ再起動しろ! こんな数値、あり得るはずがない!」
HVIシステムは、これまで一度も「0」を記録したことがなかった。
先天的な重度障害者、植物状態の患者、極度に虚弱な早産児でさえ、最低値は10から40。
「0」は低い数値ではない。
機械言語においてそれは――**Null(非存在)**を意味する。
「機械は壊れていない」
分析部門の責任者が、刷りたての報告書を手に歩み出る。
「六回スキャンした。結果はすべて同じだ」
彼が机に投げた書類の数値は、科学者たちの目を嘲笑うかのようだった。
精神波指数:測定不能
(感情の揺らぎが検出されない)
筋反射速度:0.011秒
(最精鋭特殊部隊員の約20倍)
筋密度:常人の10倍
(小柄な身体に極限まで圧縮)
分析能力:第四世代戦術スーパーコンピュータ相当
脳構造:論理・観測領域は強烈に活性化、感情領域は完全沈黙
「これは……」
白髪の教授が、厚い強化ガラス越しに検査椅子に座る少年を見つめ、呟いた。
「人間ではない。HVIが測定できないのは、脳構造が根本的に異なるからだ。
――人間の皮を被った怪物だ」
「違う」
混乱を断ち切る声が響いた。
赤羽俊博士が立っていた。
眼鏡の奥の瞳には、歪んだ熱狂が宿っている。
彼はモニターに映る「0」を見つめ、静かに言い切った。
「それは欠陥ではない。完成形だ」
「完全な白紙――我々が、どんな命令でも書き込める存在」
「決して裏切らない、最高の“道具”だ」
アリスの個人記録は即座に機密指定された。
創造過程に関する資料の多くは、直後にシステムから抹消される。
理由は誰にも知らされなかった。
だが、上級研究者の間では、ひそひそと噂が広まり始める。
――アリスは完成品ではない。
――彼は、いずれ世界を破壊する災厄だ。
第二節
第23層――生きた人形のためのガラスの檻
戦争六年目
赤羽アリスは、首都ライゼル地下研究施設・第23層で育った。
太陽はなく、風もなく、緑もない世界。
そこにあるのは、白い壁、銀色の金属、そして灰色の実験服だけ。
家族はいない。
友達もいない。
寝る前の物語もない。
「母」や「父」という言葉は、
アリスにとって生物学の教科書に出てくる関係性を示す名詞でしかなく、
感情的な意味は一切持たなかった。
彼の日常は、秒単位で管理された無慈悲なループだった。
06:00 ――反射神経検査
音速で動くレーザーと機械腕が飛び交う部屋。
恐怖で避ける必要はない。
必要なのは、軌道計算だけだ。
アリスは影のように滑る。
鋼の刃が皮膚すれすれを掠めても、心拍は一切変化しない。
12:00 ――戦術分析
巨大スクリーンの前で、戦争シミュレーションを解く。
「A拠点制圧のため、兵士200名を犠牲にする」
淡々と告げる声。
アリスにとって、人命は資源単位に過ぎなかった。
研究員たちが震える理由を、彼は理解できなかった。
18:00 ――耐久試験
最も過酷な時間。
血清を投与され、電流で神経を刺激され、限界を測られる。
アリスは痛みを感じる。
それが神経信号であることは理解している。
だが、「苦しみ」が何なのかは分からない。
泣かない。
懇願もしない。
ただ、黒い瞳を見開いたまま白い天井を見つめ、
雨が止むのを待つように、痛みが過ぎるのを待つ。
毎日が同じ。
単調で残酷な繰り返し。
ベテラン研究員でさえ狂気に飲まれる環境で、
アリスだけは平然としていた。
彼に「疲れたか」と尋ねる者はいない。
ライゼルでは、機械は疲れないのだから。
観察記録には、次第に奇妙な文言が増えていく。
「対象は防衛反応を示さず、損傷のみを記録する」
「暴力映像に対する情動反応なし」
「笑顔を理解しない。指示された際、顔面筋が不自然に収縮」
「環境適応能力:全項目規格外」
アリスは、鏡のように成長した。
研究者の表情を観察し、記憶する。
眉をひそめる角度。
声を荒げる周波数。
言語を学び、適切な抑揚で会話する。
だが、それはすべて模倣に過ぎない。
精巧な磁器人形。
中身は空虚なまま、
人間を完璧に反射しながら、意味は理解しない。
彼は存在している。
だが――生きてはいない。
そして、ある日。
第23層を揺るがす“事件”が起きる。
それは、「0番」の運命を、永遠に変える引き金だった。




