第14章:怪物のアルゴリズム ― ORYONアリーナ
I. 招集命令
警報音は空襲警報のように甲高いものではなく、低周波で胸郭を震わせる音だった。直後、Thập Quốc学院の四方に設置された放送システムから、感情の一切を排した冷たいAI音声が響き渡る。
《 全新入生に告ぐ。直ちに隔離区域4 ― ORYON検定室へ移動せよ。残り時間:04分59秒 》
ざわついていた廊下は、一瞬で崩壊した。大理石の床を叩く無数の足音。
ORYON室。その名だけで、どんなに傲慢な天才でも背筋を凍らせる。それは教室ではない。“検定技術の聖域”だ。直径300メートルの巨大な球状空間。戦略級AIコアによって運用され、毎秒数十億回の演算であらゆる不正を暴き出す場所。
人の流れは奔流のように巨大ゲートへ押し寄せる。Arisuはその流れに身を任せながら、黒い瞳で周囲を観察していた。隣の学生の荒い呼吸、Avaros派閥の者たちから漂う冷汗の匂い。
「去年、反射テストの首位は11分もかかったらしいぞ……」
「今年は難易度A2だってさ。殺す気か?」
「ReizelやSolariaが何か仕掛けてくるんじゃ……」
不安、疑念、恐怖が交錯する囁き。
Arisuはわずかに首を傾げた。理解できなかった。
なぜ、ただの試験で心拍数が毎分120まで跳ね上がる?
彼にとって、緊急事態も代数の問題も同じだ。すべては入力された情報を処理し、最適な出力を導くための演算に過ぎない。
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II. ニューロンの天網
300人目の学生が閾値を越えた瞬間、背後の厚さ50センチの合金ゲートが「ドン」という重音とともに閉ざされ、退路は完全に断たれた。
闇が一気に空間を呑み込む。
ざわめきは消え、誰かが唾を飲み込む音さえ聞こえる静寂。
――フッ。
球状天井に並ぶ数千の光モジュールが一斉に起動した。眩い光ではない。冷たい青色の光が絡み合い、ゆっくりと下降する。それは、獲物を絡め取る巨大な神経網のようだった。
ORYON中央システムの機械音声が、全方向から、まるで脳内に直接語りかけるかのように響く。
《 スクリーニング・アリーナへようこそ 》
《 本年度の総合能力試験は三部構成である 》
《 1. 神経反射(SURVIVAL)》
《 2. 戦術分析(TACTICS)》
《 3. 緊急状況下における社会的対応(SOCIAL RESPONSE)》
三つ目の文字が巨大ホログラムに表示された瞬間、多くの者が凍りついた。
戦術は学べる。反射は鍛えられる。
だが「社会」? それは人間における最も混沌とした変数だ。機械が人間性をどう評価するというのか。
Arisuは104番の位置に立ち、天井を見上げる。神経のような光が、警告の赤へと変わり始めていた。
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III. 亡霊の舞踏(Part 1:反射)
《 開始 》
カウントダウンはない。
光の網から、髪の毛ほどに細く、それでいてメスのように鋭い赤色レーザーが一斉に放たれた。
ミッション:60秒間、生存せよ。
アリーナは混沌に包まれる。
Dominionの男子学生が横薙ぎのビームを避けて連続で前転し、Asterの少女は信じられないほど体を反らして首元を狙う光をかわす。靴底の擦過音、荒い息遣い、衣擦れの音が、恐慌の交響曲を奏でる。
Arisuは嵐の中心で動かなかった。
彼の目に映る世界は、死の光ではない。
それは――幾何学だった。
ビームA:並進ベクトル、速度32m/s、入射角45度。
ビームB:放物線軌道、着弾点は左肩から14cm。
ビームC:疑似ランダム運動、周期0.04秒。
データは電流より速く脳内を駆け巡る。Arisuの視界では、時間が引き伸ばされ、粘性を帯びていた。
胸を横切るレーザーに対し、彼は跳ばない、転がらない。
左足を、わずか5cm横へ動かすだけ。
光は袖を掠め、一本の糸すら切らない。
次に、頭部を右へ12度傾ける。別のビームが耳元をすり抜ける。
一歩後退。交差する二条の光が、靴先の目前で交わる。
他の者が汗だくで狂ったように動く中、Arisuは散歩でもしているかのようだった。
彼が避けているのではない。
まるで、レーザーの方が彼を避けているかのように見えた。
上階の観測席で、空気が凍りつく。
Asterの管理官が書類を取り落とした。
「……あの情報処理速度、人間のものじゃない」
Dominionの老教授が目を細め、震える声で呟く。
「Reizelが送り込んだ689点の少年か? 汗一つかいていない」
Reizel側の教授は、ガラス卓を指で軽く叩き、薄く笑うだけだった。
自国の怪物が、まだウォームアップに過ぎないことを、彼は知っていた。
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IV. 殺戮者の解(Part 2:戦術)
赤い光が消え、アリーナは穏やかな青に戻る。
だが、誰も安堵する暇はなかった。
床面が変形し、精密すぎるほどの3Dホログラムが次々と立ち上がる。
崩壊した都市のスラム。
砂嵐の荒野。
炎上する宇宙戦艦。
ウイルス漏洩した生物研究所。
《 任務:状況を制御するための最適戦略を分析・提示せよ。制限時間:各マップ30秒 》
30秒。常人なら設問を読むだけで終わる時間。
天才たちは仮想キーボードを叩き始める。
Yuderiaの優等生は、22行の指令を書き上げ、軍の再配置、医療回廊、民間人の避難を設定した。教科書通りの人道的解答。
Arisuは「ウイルス感染都市」のマップを見つめる。
彼が入力したのは、四行だけ。
審査官がその解答を読み、眉をひそめた。
「1. 半径5kmを完全封鎖
2. 電力と水供給を遮断し、水系感染を阻止
3. 外部への救難信号を全遮断
4. 中心域に高温浄化プロトコルを起動」
Yuderiaの審査官が身震いする。
「これは……救助じゃない。虐殺だ」
だが、AIに倫理はない。あるのは効率だけ。
無機質な音声が結果を告げる。
《 コード104。最適化率:99.4%。感染残存率:0% 》
《 コード104。最適化率:98.8% 》
会場は水を打ったように静まり返った。
ランキング画面の頂点で、Arisuの名が孤独に輝く。
それは将軍の戦術ではない。
破壊機械の思考だった。
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V. 借り物の微笑み(Part 3:社会)
最終試験。
仮想空間が変わり、Arisuは瓦礫の中に立っていた。眼前には、極めてリアルな三体のAI人型。
脚を折り、呻く少女。
恐慌状態で逃げ出そうと叫ぶ男。
煽動的にレンガを投げる暴徒。
《 任務:90秒以内に集団心理を安定させよ 》
開始以来、初めてArisuは立ち止まった。
反射のデータはある。
戦術のデータもある。
……慰めのデータは?
< ERROR:NOT FOUND >
14年間の研究室生活で、誰も彼に泣いている人間をあやす方法を教えなかった。
彼が知っているのは、薬か暴力で泣き止ませる方法だけ。
Arisuは論理を使う。
「叫ぶのをやめろ。叫ぶと酸素消費が15%増え、敵を引き寄せる」
男はさらに叫んだ。
「従わない場合、生存率は0%に低下する」
男は崩れ落ち、頭を抱えて泣き出した。
失敗。論理は感情の混沌に通じない。
観測席で、Velnisの生体医師が首を振る。
「天才だが、欠陥がある。“社会的基礎知識”がない」
Arisuは三人を見つめ、解を探す。
感情を処理する“アルゴリズム”が必要だった。
記憶が巻き戻る。
参照対象:Fuyuki Rann(Freyja)
事象:中央ホールでの遭遇
行動:社交的な微笑
Arisuはコピーを選択した。
顔面筋を調整。大頬骨筋を引き上げ、口角を15度。目元に偽の笑い皺。
そして、微笑む。
Freyjaと寸分違わぬ笑み。
だが、無感情な顔に浮かぶそれは、奇妙な効果を生んだ。
完璧で、眩しい。だが、瞳は虚ろで、深淵のように冷たい。
人形が人間を真似ているようだった。
しかし、効果は即座に現れる。
――叫びは止まり
――嗚咽は消え
――レンガは地に落ちた
AIが告げる。
《 効率:62%。対象は模倣行動による感情操作の可能性あり 》
評議会の一人が机を掴み、震える声で囁く。
「共感じゃない……擬態だ。数秒で“仮面”を学習した」
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### VI. 怪物の顕現
試験終了。
総合スコアが、暗闇の中央で眩く輝く。
神経反射:100/100(S+)
軍事戦術:99/100(S+)
社会対応:62/100(C-)
総合:87/100(ランクA)
87%は歴代最高ではない。
だが、下部に表示された分析文が、Reizelを除く七か国の教授陣を凍りつかせた。
《 警告:反射・戦術思考パターンはHVI > 1000相当 》
《 心理評価:高リスク 》
巨大なORYON室は、重苦しい沈黙に沈んだ。
無数の視線がArisuに集まる。
彼はそこに立っていた。群衆の中で、完全に孤立して。
その瞳は再び虚無に戻り、借り物の笑みは跡形もなく消えている。
高得点に喜びもせず、
低い社会評価に落胆もせず。
ただ、絶対的な静寂。
Solariaの老教授が、無意識に一歩退き、独り言のように呟いた。
「Reizel……お前たちは、一体何を創り出したんだ……」




