7、新たな仮説
麻雀をしながら自摸が読めたり、相手の辺りは胃が読める不思議な感覚を味わった菊池は、聡明な感覚の中で暗闇の中で江戸時代の松平忠直に遭遇する。そして彼から当時どんなことがあったのか、聞き及ぶことになる。はたしてどんな内容を話すのか。
麻雀をしながら次の自摸が予測でき、相手の当たり牌が見えるような感覚。今、菊池は頭の中がそう状態ですべてが見通せる気がしていた。そして江戸時代の松平忠直と話ができるということは過去も見通せる感覚でいたのである。麻雀も大切だが今を逃したら忠直にまた会えるかどうかはわからない。
「もう少し聞きたいことがある。もう一度忠直が出て来てくれないかな。」
と集中して考えると程なく先ほどの松平忠直が煙の中から出てきてくれた。
「私はあなたの奇行について、若き藩主の孤独感などで精神的に追い詰められていった結果として小説を書きましたが、実際にはそれだけではないという事ですか。」
と問いかけてみると、白装束の忠直公は
「江戸からやってきた家臣たちによる謀と考えていたが、その首謀者は幕府内にいたのかもしれないと考えておる。関ケ原の戦いの後、越前に入った父である秀康に付家老として本多富正を派遣したのは祖父の家康様だが2代将軍の秀忠様は兄にあたる秀康を何かにつけて目の敵にされていた。秀忠様は早くに江戸幕府の後継者に決まっていたが、父秀康は幼いころから養子に出されたり冷遇されてはいたものの、関ケ原の乱では東国での守りを固め、武功を上げている。このことが秀忠様にライバル心を煽ることにつながってしまった。秀忠様は関ケ原の乱で信州で足止めされ、合戦に間に合わなかった負い目が残されてしまった。そんな恨みが家康公亡き後の越前藩に対する秀忠様の対応に現れているのだ。だから、私を追い出すことになった家臣の謀は黒幕が将軍秀忠様ではないかと考えておる。」
忠直公の言葉を聞き、菊池は忠直の心の奥底を見た感じがしたが、その反面疑問もわいた。
「忠直公はそうお考えかも知れませんが、秀忠公は忠直公に幼いころから愛着をもち、親しい関係を保たれていたのではありませんか。信頼されていたからこそ秀忠公のご息女、勝姫様をお輿入れされたのではありませんか。」
と問いかけてみた。すると
「幼いころはそうであった。勝姫が嫁いできたのは慶弔16年(1611年)私が16歳、勝姫は11歳であった。嫁いできたとはいえ、江戸城内で越前藩邸に越してきたにすぎない。あのころは叔父の秀忠様は親しげにしてくださった。しかし、越前の国は大きくなりすぎた。父秀康が家康様から頂いた所領は68万石、私の弟が高田でいただいたのが25万石、3男直正が5万石、4男直基が3万石、5男直良が2万5千石、全部合わせると100万石を越えてしまい、大きくなりすぎて幕府にとって脅威になってしまったのです。だから、大坂の陣で私が真田丸を切り崩し、真田信繁の首を討ち取った際に恩賞として領地を求めたが、天下の名品と言われた茶道具を受け取ることになった。信長殿や明智光秀殿、家康様などの手に渡った名品であるから、考えようによっては素晴らしいものを頂いたのかもしれないが、茶では腹は膨れぬ。戦功を立てた家臣たちに分ける領地にはならぬ。これ以上の領地の拡大は幕府としては安全保障の面から出来ぬことになったのだ。あのあたりから幕府や将軍秀忠様の態度が豹変したのだ。菊池殿にはその当時のことはわからないだろう。書物には書けぬ内容だからのう。越前藩の切り崩しがこのあたりから始まるのだ。私が大分に流された時にはわずかな減封であったが、私たちが死んで、時を経て綱吉公の時代には25万石まで減らされ、爪も牙も抜き取られてしまう事となったのだ。幕府が主導して何の咎もないものを減封したのでは大義名分が立たないので、奇行、発狂などと難癖をつけ減封に追い込んでいったのだ。菊池殿、おわかりかな。」
菊池の頭の中で白装束の忠直は自分の無念を晴らすべく、幕府の所業を打ち明けた。
「そうだったんですか。忠直様のご心中、お察知いたします。しかし、忠直公からのお話だけで決めつけることは危険でございます。幕府のサイドの調査もしてみないと片手落ちになってしまいます。」
と言ったところで忠直公は消えてしまった。菊池の親はまだ続いていた。一連の忠直公との話は何分くらいだったのだろう。8連荘したあたりで忠直公が出てきたが、消えたときにはまだ9連荘目を始めるところだった。随分話した感じがしたがほんの1,2分しか経っていなかった。この日の麻雀は菊池の大勝で終わった。「くちきかん」状態だった菊池は嬉しかったが、顔面は蒼白になっていた。