4,松平慶民の訪問
菊池寛の元へ松平慶民が尋ねてくる。松平は越前福井藩の末裔で松平忠直は慶民の先祖にあたる。菊池が描いた「忠直卿行状記」で忠直は乱心の大名として有名になってしまったことについての話をしに来た。はたしてどうなるのか。
芥川の自殺以来あまりいいことがなかった菊池だったが、雑誌「文芸春秋」は好調な売れ行きで,出版社「文芸春秋社」も業績を伸ばして、社屋は麹町区内幸町大阪ビル 2階に移転していた。芥川の自殺の翌年、2月、菊池が本社事務所で編集作業に熱中していると、事務職員の女性が
「社長、お電話です。宮内庁の方です。」
と伝言してきた。菊池は
「宮内庁に知り合いなんていないけどな。勲章でもくれるのかな。」
と軽口をたたいて電話に出た。
「もしもし、菊池ですけど、どちら様でしょうか。」
と問い返すと
「宮内庁の松平と申します。折り入ってお話したいことがあるのですが、お伺いさせていただくわけにはいきませんか。」
と打診してきた。菊池は
「今は仕事中ですので、午後3時ごろなら手が空くと思いますが、それでもよろしいでしょうか。」
と返答した。すると松平と名乗る人物は
「では3時に御社に出向きますのでよろしくお願いします。」
と言って電話を切った。菊池の頭の中には松平と名乗る人物についての憶測が飛び交っていたが、宮内庁と言うのがひっかかった。宮内庁に勤めるとなると旧貴族か大名家か、さらに松平という事は徳川幕府の縁戚関係者か、文芸春秋社を訪れるという事は雑誌記事に対するクレームなのか、いろいろ考えるが思い当たる節がない。ただ、一つだけ思い返してみると10年ほど前、1918年にまだ時事公論の記者をしながら作品を書いていた時代、「忠直卿行状記」を書いたが、あの作品は越前福井藩第2代藩主の松平忠直について書いたものだった。
徳川家康の次男秀康は長男信康が謀反の疑いで信長によって自害させられてからは長子であったが、3男秀忠の母の方が身分が高かったので後継者とは認められず、小牧長久手の戦いの後、豊臣家との和睦の代償として豊臣家に養子に出されている。さらに豊臣家に跡継ぎの鶴丸が生まれると秀康は豊臣家から関東の結城家へ養子に出され、関ケ原の乱は結城秀康として参加している。その秀康が関ケ原での活躍を認められ、越前68万石の大大名として越前に赴任するが、その長男として生まれるのが忠直である。生まれながらに大大名の子で自分の思い通りにならないことなど経験したことがないような生活で少年時代を過ごした。しかし父秀康は早くにして亡くなり、忠直は12歳で藩主に就任する。しかし12歳では68万石の大所帯を取り仕切るには無理があり、徐々に精神的に追い込まれていき孤独感にさいなまれていく。ある日、家臣の本音を厠の窓で聞いてしまったことから、自分が周りの家臣たちにまつりあげられているだけであることを知ってしまう。また、父は徳川家の長子だったので、もし父が2代将軍になっていたら自分も将軍になる血筋であったことなどが忠直を苦しめる。決定的だったのは大坂夏の陣で大活躍したにもかかわらず褒美が名品とは言え茶道具だけだったことが忠直のプライドを傷つけた。そこからは江戸幕府のいう事を聞かず参勤交代をしなかったり、将軍家から御輿入れした妻の勝姫を殺害しようとしたり、不祥事が多く続き幕府は忠直に対し改易で大分へ行くことを命じた。
この作品は菊池が小説家として歩き出そうとする頃に発表した作品だが、心理描写が鋭く、傑作のひとつに数えられている。しかしこの忠直の末裔が電話してきた松平さんだとしたら作品に対するクレームかも知れない。心してかからなければいけないかもしれない。そんな思いを巡らせながら、編集作業は手につかないまま午後を迎えた。
宮内庁のある皇居東側から麹町までは皇居内を抜けて半蔵門から出てくれば近いのだが、さすがに宮内庁職員とは言え、皇居を突き抜けることはできず、桔梗門から出てバスや路面電車を乗り継いで麹町へ来ることになるだろう。皇居のお堀の周りを歩いてもそう遠い距離ではない。菊池はそわそわしながら社長室で松平と名乗る人物を待っていた。3時直前にその男はやってきた。電車かバス、もしくは歩いてくると思っていたが意外にも黒塗りの大きな車に乗ってきた。かなり裕福な人物である。社屋の前に車を止めて事務室で菊池を訪ねて来たことを告げたのだろう。すぐに事務員が社長室をノックして
「松平様がおいでです。」
と言うので
「入っていただいてください。」
というと松平は悠然と入ってきた。パリッとした舶来の背広を着こなしている。おそらくロンドンのセビルローの老舗仕立て店で仕立てたと思われる明らかに日本製とは物が違う生地だ。ワイシャツも体にフィットし、ネクタイはバーバリー柄の一流品だ。背筋をピンとのばして開口一番
「宮内庁の松平慶民です。」
と言って右手を伸ばし握手を求めてきた。靴も一流品を履き、ヨーロッパ調のいでたちである。ソファーに座るように手招きすると来客用のソファーに座って話を始めた。
「どのようなご用件でしょうか。」
と切り出すと菊池の顔をしっかりと見つめ、自信に満ち溢れたような力強い声で
「私は幕末の越前松平藩松平慶永(春嶽)の三男で越前松平本家の人間です。現在は松平家を離れ、宮内庁に勤め、陛下の身の回りのお世話をしております。幕末の動乱で明治になりますと私は日本を離れイギリスのオックスフォードに留学しておりましたが、帰国して陸軍に勤めていました。その途中から侍従として宮内庁にいたのですが、30歳のころに正式に宮内庁職員になっております。父慶永の弟が尾張徳川家に養子に入っておりますので、私の叔父にあたります。爵位は子爵を頂いております。ちなみに今日お伺いしたのは菊池様がお書きになった『忠直卿行状記』についてです。1918年(大正7年)に書かれた『忠直卿行状記』の松平忠直は越前松平家の私たちの先祖にあたります。小説をお書きになったのですから時代背景はよくご存じなのでしょうが、福井藩と言うのは松平秀康を初代として2代目が忠直ですが、忠直が失脚して弟の忠昌が高田藩から国替えになって福井に入っていますものですから、忠昌を初代福井藩主とする見方もあります。忠直の血筋の長男松平光長は福井に来た忠昌と入れ替わりに高田藩に入っているのです。ですから越前松平藩の末裔を名乗る私たちは失脚した忠直の家系ではなく、弟の忠昌の家系という事になります。直接は関係ないのですが福井藩にかかわることだし、菊池様が書かれたこの本で松平忠直の乱行が全国的に有名になってしまったわけです。しかし、あなたがこの物語を書いてくれるまでは実はもっとおぞましい忠直像が福井にははびこっていました。側室にした『一国』という美女がいたのですが、この側室の美しさは越前の国、一国に値するほど美しかったという事でなずけられたのですが、その側室はほとんど笑顔を見せなかった。唯一笑ったのが家臣を刀で切り殺した時だったことから、徐々にエスカレートして、腹に子を宿した妊婦の腹を切り裂いてその側室の機嫌をとったというような逸話が江戸時代の滑稽本に記されています。しかし、これらは中国の故事をヒントにでっち上げられた作り話です。幸いにしてあなたは物語を書くにあたりきっとそのような話も聞き及んでいたのではないかと思うのですが、そんなエピソードは取り上げなかった。あくまでも忠直の孤独な心情を中心に物語が進んでいます。今となってはありがたい限りですが、その当時のあなたの創作の意図をお聞かせ願いますでしょうか。」
と聞いてきた。
「10年ほど前の事ですね。僕がまだ時事新報に勤めながら小説を書き始めていたころです。ちょうど前の年に結婚して、何とか稼がないといけないと考えていたころです。あのころ小説の題材は自分の生活から見つけるか、書物を読んでその中身からヒントを見つけるしかなかったんです。そこで、たくさんの本を読みましたが、その中で福井藩の歴史書の中で忠直のことを知ったんです。『片聾記』や『越藩史略』、『福井県史』などから徳川幕府側の『徳川実記』までいろいろ読んで公正な立場で考えたうえで、忠直公を大金持ちの長男の単なる人格破綻者として描くのではなく、若くして巨大な藩を継承してしまった大名ゆえの孤独から精神を病み、奇行に走らせてしまった悲劇的人物として描こうと考えたんだったと思います。そうでないと大分に改易になったあとの大分での評判のよさや、若き大名として土木事業を率先して、鯖江の領民などから尊敬される忠直の姿は見えてこないと思ったんです。10年も前のことだからはっきりとは覚えていませんが、たしか鳥羽野とかいうところの開拓を進めたのが忠直でしたね。」
10年も前の記憶を呼び起こしながら話してくれる菊池の話に松平慶民は感心しながら、末裔である自分よりも良く調べていることに感謝した。
「そこまで調べて書いてくださっていたことに感謝します。福井の皆さんの話では忠直公のご乱行を全国的に有名にしてしまったのは菊池寛の小説だというのが定説のように言われているようですが、その小説をあらためてじっくりと読んでみると、人間味のある青年として書かれていると思うんです。そういう意味では菊池さんは忠直公のイメージを上げていただいたのかもしれません。私が今日お伺いしたのは、忠直公の名誉回復にご尽力いただけないかをご相談したかったんです。わたくしの家に残る資料なども精査しますと、菊池先生がおっしゃるように忠直公には幕府に対する批判的な行動や家臣を手討ちにするような行動があったことは確かかも知れませんが、決して人格破綻を起こした人物だとは考えられません。是非、先生の創作意欲に火が付いたならば『忠直卿行状記』の続作のような形でもいいので、忠直公の名誉を回復できるような作品を手掛けていただくわけにはいかないでしょうか。」
とお願いしてきた。菊池は
「おっしゃる通り、忠直公は創作意欲をかき立たせる魅力的な人物だと思います。長編小説として書くには一度書いているので難しいかもしれませんが、論文形式で書くことはできるかもしれません。ただ、お約束することはできません。また、再調査してみたら逆に名誉を傷つけるような内容になるかもしれません。あまり期待しないでいただきたい。」
歯切れの悪い回答になったが、言えることはそこまでだった。
「ところで、松平さんはロンドンへご留学した経験があるとおっしゃっていましたが、何年ごろ、ロンドンにいらっしゃったのですか。」
と聞くと
「1896年にイギリスにわたり、その後1908年にロンドンのオックスフォード大学を卒業しました。だから12年ほどロンドンに住んでいたことになります。」
と松平が答えると
「私たち、現代の文学者にとって先駆者である夏目漱石先生は1900年から1903年までイギリスのロンドンに文部省の英語教育法研究の公費留学生として渡っています。年齢的には松平さんよりも15歳ほど上ですが教員として松山や熊本で働いてから行っています。ロンドンで1900年から1903年までロンドン滞在がかぶっていますが、向こうで交流はあったんですか。」
と問いかけてみた。
「夏目先生はロンドンの日本人社会では有名でした。ただ、英語教育法の研究のために渡英したのですが現地では文学論や演劇論に熱中されていたみたいで、生活には苦労されていたようです。特に親しくさせていただいたことはありません。」
という答えだった。菊池が考えるに、いかに夏目漱石でも一般庶民の家庭出身であり、松平のように旧大名家で子爵の家系の人間は裕福さがまるで違う事を感じさせられてた。約1時間の対談で松平慶民は帰っていった。菊池の頭には松平忠直のことがこびりついたが、いそがしい文芸春秋の仕事の合間にそんなことができるかどうかが不安だった。