3,弔辞を読む菊池寛
菊池寛は芥川龍之介の葬儀で弔辞を読むそして芥川との出会いから別れまでを思い出していく。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」とは一体何を意味するのか。菊池に課せられた大きな宿題のように頭から離れなかった。1921年に中国に行ったあたりから体調を崩し、不眠に陥っていったとは聞いていたが、そんなに苦しんでいたのだろうか。思い悩みながら通夜の行われた巣鴨の慈眼寺に向かった。人気作家の突然の自殺で大きなニュースになったこともあり、通夜会場には多くの文芸家や雑誌社関係、報道関係も多く集まっていた。
会場に着いた菊池は家族に挨拶を済ませ、遺体が眠る祭壇に手を合わせ、棺の中の芥川の顔を眺めると涙がこみあげてきた。友人一同が集まって座っているあたりに久米を発見した菊池は久米の近くに行って座って話した。久米は
「菊池君、明日の葬儀だが家族の意向で、誰かに弔辞を読んでほしいと言われているんだ。さっきからみんなで話しているんだけど、やっぱり菊池君が適任ではないかとみんなが言ってます。どうですか。」
と眉をひそめて久米が小声で言ってきた。
「弔辞ですか。彼とは長い付き合いだし、雑誌を立ち上げてからはお世話になりっぱなしだから僕がやるのは仕方ないだろうね。わかったよ。」
と承諾した。
「それにしても原因は何なんだい。将来に対するぼんやりした不安って何だい。理解ができないね。それにさっきニュースで聞いたけど、後追い自殺する若者が何人かいたというじゃないか。社会に対する影響が大きすぎるよ。」
と言うと久米は
「会場に入るときも報道陣がごった返していて、入ってこれなかっただろ。ぼんやりとした不安は遺書を読み解いてもよくわからないよ。菊池君には個人あてに遺書があったらしいね。」と久米が菊池宛の遺書の中身を聞かせて欲しがった。菊池は久米に
「さっき夫人から渡されて少し読んだけど、よくわからない。理解不能だ。ただ我々凡人を超越した思考回路を持つ天才だけが、理解できる考え方なのかもしれないと思うけど案外単純かも知れないよ。」
と菊池が言うと久米たちは
「どういう事なんだい。何かあったという事かい。」
と聞き返してきた。菊池は静かに解説した。
「僕は文芸家だけど麻雀もするし将棋もする。世俗的なことが大好きだ。少々の辛いことも酒を飲んでパーと忘れることもできる。これは凡人だからだ。しかし、芥川君は世俗的なことが嫌いで、嫌なことも忘れることができず、気に病んでしまう。天才ゆえに繊細過ぎたのかもしれないと思うよ。うちの会社で『小学生全集』の編集を頼んだけど、ゴタゴタしてしまって申し訳なかった。だけど、凡人なら『俺のせいじゃない』って考えるけど、彼は自分のせいだと考えこんでしまう。『近代日本文芸読本』の編集もみんなのためを思って多くの作家を余すことなく入れようとして頑張ったのに『他の人の作品を集めて自分だけ利益を上げた。』なんて影口をたたかれ気に病んでいた。真面目過ぎるっていうか、利益なんかこれっぽっちも上がってなくて作業しただけ損しているんだから、『外野の声なんか気にするな』って言ってたのに、いろいろ気にしてしまったんだよ。天才ゆえに挫折を知らないからね。現役の大学生のころから売れっ子作家だったから。」と自分なりの芥川評を表した。
翌日、告別式当日、朝から東京は晴れ渡っていた。巣鴨の慈眼寺は大勢の参列者でごった返した。天才小説家の早すぎる死を関係者は勿論、文芸愛好家が悼んだ。会場周辺には多くの花輪が飾られ、会場の外まで列を成していた。僧侶の読経に続き、参列者の焼香、焼香台は10ヶ所準備されていたが、あまりの参列者の数に読経が終わるまでに全員終わることができず、読経後も焼香は続いた。最後に友人代表で菊池が弔辞を読む番が来た。祭壇中央には芥川の大きな写真が飾られ多数の花がその周りを飾り、写真の下には遺体が安置された棺が置かれている。礼服の菊池はその中央に立ち用意してきた弔辞を読み上げた。
「芥川龍之介君よ。
君が自ら擇み 自ら決したる死について
我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て
甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して
君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺
とみに蕭篠たるを如何せん 友人總代 菊池寛」
涙ながらに弔辞を読み上げた菊池はかつての芥川との交流を思い返していた。いい思い出、つらい思い出、一瞬のうちに思い出がよみがえってきた。
(第1高等学校での出会い)
私が芥川くんと初めて出会ったのは第1高等学校の入学の時だった。私は文学を志して第1高等学校に入る前に東京高等師範や明治大学、早稲田大学などに籍を置いた期間があったため3学年も下の芥川君と同級生として第1高等学校に入学することになった。芥川君は両国の第3中学校で成績優秀で第1高等学校入学だったけど、私は苦労の末の入学だった。だから芥川君は私にとって入ったときから雲の上の存在だった。寮生活を謳歌していた私とちがい、芥川君は寮生活にはあまりなじめなかったみたいですね。あのころはそれほど仲が良かったわけではなかったけれど、私にとって芥川君は目標であり、あこがれの天才でした。しかも、卒業を目前にしてあのような事件に巻き込まれ、東京をあとにして京都へ旅立ってしまった私は大きな挫折を味わいました。その後も芥川君は東京帝国大学、私は京都帝国大学でともに英文科で文学を志していましたが、雑誌「新思潮」で作品を発表していきました。学生のころに芥川君は「羅生門」や「鼻」などで夏目漱石先生からも大絶賛をいただき、早熟の天才の名を欲しいままにしていました。あのころ芥川君と私を比較して「将来に対する唯ぼんやりした不安」を抱えていたのは圧倒的に私の方だった。私は創作を多数して雑誌に掲載はされていましたが、芥川君の活躍に比べたら全く歯が立ちませんでした。まさしく天才と凡人の違いがありました。どこまで追いかけてもどんどん先を進まれてしまい、追いつきようのない差がはっきりと見えていました。
(木曜会での再会)
私が京都大学を卒業し東京に出て時事新報に入って記者をしていたころは芥川君は海軍機関学校の嘱託教官として英語の教鞭を執っていました。そのころ夏目漱石先生の木曜会に参加させていただき、ご一緒させていただきました。そこでも漱石先生の評価は芥川君に対するものは非常に高く、漱石先生が芥川君に今後の文学界に対して大いに期待していたことがうかがわれました。私などは木曜会のメンバーとして正式に認められるものでもなかったのですが、芥川君は学生時代から漱石先生の自宅に足しげく通い、先生の教えを受けていたことが私には羨ましかったものです。
(毎日新聞社での執筆)
その後、私も1917年(大正6年)に「新思潮」に「父帰る」を発表し1918年には「忠直卿行状記」1919年(大正8年)には「中央公論」に「恩讐の彼方に」を発表して自信を得て、創作活動に専念するため毎日新聞に客外社員として入社しました。その時は芥川君も一緒でした。あのころは仕事として新聞連載の小説を書くことに熱中できたのでお互い最高でした。長崎旅行に一緒に出掛けたことは最高の思い出です。翌年、「真珠婦人」を連載して作家として生きていく自信が付き、ようやく芥川君に追いついたかもしれないなと感じました。生涯の友として日本の文芸界のために力を注ぎこもうとしていた時代でした。
(巻頭ページを書く芥川)
2人とも人気作家の端くれとして名声を高めていたころ、私が若手の作品発表の場として雑誌「文芸春秋」を創刊した時、芥川君は協力してくれました。あの頃、最も人気の高い作家だった芥川君が私の雑誌のために巻頭の連載小説を書いてくれました。『侏儒の言葉』(しゅじゅのことば)は、大正12年から、つい最近まで書いてくれました。大正10年に中国を視察旅行してから体調を崩して神経を病んでいたにもかかわらず、毎月毎月締め切りに間に合わせるように命を削って書いてくれていたんだろうね。心から感謝します。今後は芥川君への感謝の気持ちを込めて文芸春秋に芥川君のコーナーを毎号特設し、芥川君の文学界の貢献を記念して若手作家を育成する賞を創設しようと思う。
このあと菊池は芥川の死について文芸春秋の紙面で「芥川の事ども」という論文を発表して、彼との思い出や自殺についての思い当たる節を書いている。