2,芥川龍之介の自殺
菊池寛の発行した文芸春秋は順調な滑り出しを見せ、発行部数を伸ばしていった。そのころ中国へ視察に行って体調を壊した芥川龍之介は悩んで友人である菊池の元を訪ねるのだが・・・・・
1926年(昭和2年) 文芸春秋社が創設され雑誌「文芸春秋」の売り上げも順調に伸び、菊池は実業家の道を歩み始める。同年文芸作家の中心的存在となった菊池は劇作家協会と小説家協会が合併して設立された日本文芸家協会の初代会長に就いている。しかし順風満帆の菊池の実業家人生に陰りが見え始めるのは、翌年1927年(昭和3年)のことである。
7月初め、芥川は菊池を訪ねて文芸春秋社を訪れた。社屋と言ってもそれまで有島武郎が使っていた一般の家屋を会社事務所にしたものなので、玄関を開けるとすぐに編集の事務室である。芥川はそれまでにも何回か菊池の家兼事務所を訪れたことはあったが、菊池邸から独立して麹町に引っ越したこの事務所ははじめてだった。
「ごめんください。芥川ですが菊池君はいますか。」
編集作業で忙しそうにしている社員たちは、ぼさぼさの頭にどてらのような服装の芥川の訪問に誰も気が付かないでいた。気が付いていても誰かが対応してくれればいいのにとお互いに人任せになっていたのかもしれない。
「あの・・・すいません・・・」
と芥川が訪問を知らせると、中の一人がようやく来訪者に対応してくれた。
「はい、どなた様でしょうか。」
「芥川ですけど、菊池社長はいますか。」
「作家の芥川先生ですか、これは失礼いたしました。あいにく菊池社長は今日は文芸家協会の打ち合わせで神田の方へ出かけております。ご伝言などございましたらお承ります。」
「大した用事ではないので結構です。また、出直します。」
と言って芥川は帰っていった。数日後にも同様に菊池をたずねて芥川は文芸春秋社を訪れたがやはり菊池は留守だった。
芥川は2度も訪れたのに学生時代以来の友人である菊池に合えなかったことで大いに落胆した。早熟の作家として学生時代から「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」「杜子春」などの有名な短編小説を世に出していたが、1921年海外視察で中国を訪れて以降、体調を崩し神経衰弱を患い、作風も私小説風のものが増えていったのは精神的に不安定になっていったことの証だった。前年に義理の兄の自殺で残された借金を被ることになったことも精神的に芥川を追い込んだかもしれない。さらに、2度も菊池を訪ねて来たのに社員が芥川の訪問を知らせなかったので菊池は芥川を訪ねることはなかった。この年、芥川は女性問題もからみ、帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。7月24日には近所に住んでいた室生犀星を訪ねたがここでも会えずに寂しい思いをしている。
ついに7月25日 芥川龍之介が自殺した。一緒に歩んできた仲間である芥川の死を知った菊池は落胆したと同時に芥川が会社を訪ねていたことを知り、後悔の念が走った。
「どうして、芥川を訪ねて、悩んでいることはないのか。辛いことはないのか。」
と話しかけてやらなかったのか。社員が訪問を知らせなかったとはいえ、大親友の心の苦しみをわかってあげられなかった自分を大いに罵った。遺書の中にあった「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を分かち合えていたならばこのような大きな才能を失うことはなかったと悔やんだ。
芥川の死を知った菊池は大きな後悔を残す。そして葬儀では弔辞を読むことになる。その様子は次のエピソードで。