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10、松平氏を訪ねて

菊池寛は2度の不思議な体験を経て、松平忠直について考えてみた。すると松平慶民にあってはなしたくなってくる。宮内庁に慶民を訪ね話し合いを持つ。いよいよ最終章です。

1935年(昭和10年)、芥川賞と直木賞の第1回表彰式の直後に麻雀をしている最中に松平忠直が出てきた。また1940年(昭和15年)、競馬の帝室御賞典(春)のゴール直前に徳川秀忠が出てきた。5年、間が空いたが2回の不思議な体験をして、松平忠直について新たな考え方が菊池の中に芽生えてきていた。久しぶりに松平慶民氏に会いたくなった。調べてみると松平氏は宮内庁の式部長官になっていた。事務方のトップである。

 徳川秀忠が出て来た翌日、5月20日(月)、菊池は宮内庁に電話を掛けた。

「もしもし、宮内庁ですか。文芸春秋社の菊池と申しますが、式部長官の松平様はいらっしゃいますか。」

「はい、長官は執務中でございます。問い合わせいたしますのでこのままお待ちください。」

しばらく保留もまま、待っていると電話に松平氏が出てきた。

「ご無沙汰いたしております。松平です。そちらにお伺いしてお話しさせていただいたのは10年ほど前になりますかね。」

イギリス帰りの紳士は官僚として宮内庁のトップに上り詰め、声にも風格を漂わせている感じがした。

「そんなになりますかね。忠直公の名誉回復になるような書籍の発表をしてくれというようなお話をいただきましたが、なかなか機会がなくてそのままになってしまっていて申し訳ありません。実は今回、少し不思議な体験をいたしまして、松平さんにその時のことをお話しさせていただきたいなと考えたわけです。どこかでお時間を頂けませんか。」

電話なので詳しい話はできなかったが、菊池の興奮は伝わっただろう。

「そうですか。文士部隊を編成して日本陸軍や海軍の戦意高揚のために慰問活動などをしていただいている文芸春秋社社長さんのご意向とあれば、万難を排して時間を空けます。陛下とのお時間以外でお願いしたいとは思います。午後でしたらほとんど大丈夫です。明日の午後2時くらいはどうですか。」

さすがに式部長官である。昭和天皇と直接に接しておられるのである。菊池は背筋が伸びる思いがした。

「それならこちらも大丈夫です。今度は私の方から宮内庁へ出向きましょうか。」

式部長官に対する礼儀として宮内庁へ出向くことを提案した。

「それではそうしましょう。社用車でおいでならば警備と受付の方には私から連絡を入れておきますので、桔梗門からお入りください。」

長官への来訪者と言う連絡さえ入っていれば、警備の人たちの対応も大きく変わるだろう。

「それでは明日の2時、よろしくお願いいたします。」

と言って電話を切った。宮内庁へ行くのは初めてなので、高揚感から少しワクワクする気持ちになった。と同時に自分が体験した不思議な体験をどう説明するかを迷い始めていた。

 翌日、1時半に社用車で会社の前から出発した。昭和14年には菊池寛賞も制定され、大出版社としての地位を確立していた。社用車も立派なものが用意され、運転は専門の運転手が雇われていた。文芸春秋社とドアに金文字で記された黒塗りの高級車が紀尾井町の本社前から社長を載せ、国会前を通り桜田門前を通り過ぎ、日比谷から皇居外苑を通り桔梗門へ向かった。桔梗門前の警備派出所で警備員は車のナンバーと文芸春秋社と言う社名が入っていることを確認した。運転手が文芸春秋社の社長の菊池であることを述べると車は門を抜け皇居内に入ることを許された。道なりに左へ抜けると宮内庁の大きな建物が現れた。正門前に車をつけると警備の職員が近づき、菊地寛であることを確かめると車のドアを開けてエスコートしてくれた。菊池は車を降りると警備の職員の案内に従って中に入り、正面の階段を登った先の応接室に案内された。さすがは式部長官からの連絡が行き届いているなと感心してソファーに座っていると、すぐに松平氏は現れた。

「ようこそ菊池さん、わざわざ来ていただきまして有難うございます。」と言って松平氏が右手を出して紳士的な態度で握手を求めてきた。さすがにイギリス留学の長かった紳士であり大名家末裔の子爵だと思いながら菊池も右手を出し固く握手を交わした。10年前と変わらず、イギリス製の高級そうな背広にネクタイ。靴も高級な革の光り方が重厚で、良いものを長く着こなす貴族的な装いを感じた。

「本日はお招きを頂きありがとうございます。それから式部長官ご就任おめでとうございます。前回お会いしたのはもう10年以上たちますかね。」

1928年、芥川の葬式の翌年に文芸春秋社の事務所に松平が来てくれたので正確には12年経っていた。菊池は続けて

「松平忠直公の名誉回復の著作をお願いされましたね。あれからこれと言って何もできていなかったことをお詫び申し上げます。あれから社会情勢も大きく変わり、日本は岐路に立っています。1931年(昭和6年)に満州事変があり1937年(昭和12年)には日中戦争がはじまり、日本は大陸を生命線として大東亜共栄圏の建設にむけて歩み始めています。社会が国力向上に向けて動き出しているさなかであり、出版物も国威高揚に向けたものが求められる時代の真っ最中であります。忠直公のものを出版したくてもなかなかできない時代だったわけでありましたことをご容赦ください。」

菊池は忠直公関連の著作をできなかったことを謝った。

「それはもう当然の事であります。この12年、まだ景気の良かった時代だったのに1929年の株価の大暴落から一変しましたね。ヨーロッパの国々はブロック経済で自分たちの利益だけを確保し、アメリカはニューディール政策で内需を拡大させ経済回復を計り、ソビエトは計画経済で社会主義経済を実践しています。大国は植民地や自国の内需に依存して経済回復を目論んできました。しかし、日本やドイツは大きな植民地もなく内需拡大には人口が少なすぎる。いままさに日本は転換期にあります。」

松平氏は菊池の謝罪に理解を示した。

「日本は今まさに正念場。頑張ろうとしているこの時に、私たち出版業界も何らかの形でお国のために貢献できないかと考えているわけであります。しかし、今日お伺いしたのは、私が不思議な体験をしたことをお話ししたかったからであります。」

菊池の提案に松平氏は

「不思議な体験と言いますとどんなことがあったんでしょうか。」

と興味を示した。菊池は言葉を選びながら自身の不思議な体験を話し始めた。

「松平さんは超常現象を信じますか。」

「どっちかというと信じるほうかもしれないね。父は福井藩で占星術などもしていたからね。イギリスに留学していた時にはあまり信じないようになっていたかもしれないけれど、イギリスの王室も宗教上の首長でもあるわけです。日本に帰ってきてからは陸軍にもいましたが主に皇室関係の仕事についてきました。神職の最高位である天皇にお仕えしていたわけですから超常現象も信じないと言ったらうそになるでしょうね。」

突然の超常現象の話に戸惑いを見せた松平慶民だったが、意外にもスムーズに話に入って行けたので菊池は安心した。

「そう言っていただけると話はしやすいんですが、デジャブというのは目の前にある風景やなどが何年か前に見たことがあるような気がするというものです。また、スポーツ選手などにはゾーンに入るという状態があります。野球選手の調子が絶好調になると打撃においてボールが止まったように見えることがあります。集中するとそれまでできなかったことが不思議とできるようになる。そんな体験です。私は5年ほど前、麻雀をしているときに突然、次に来る牌が予測できるようになり、相手の待ち牌が手にとるようにわかる状態になったことがあるんです。そんな時、瞬間的に頭の中に松平忠直公が現れたんです。意識の中では5分程度話していた気がするんですが、実際にはほんの数秒の事だったんですが、私は忠直公に会ったんです。」

「忠直公が出てきたんですか。幽霊とは違うんですね。」

突然、忠直にあったと言われ、松平氏は呆気にとられた。超常現象にも程がある。夢で出てきたと言うだけじゃないのか、そんな思いで話を聞き続けることにした。

「はい、幽霊ではありません。寝ている途中の夢でもありません。絶好調の状態で麻雀をしていたわけですから。しかし、その忠直公が『口惜しい、私は家臣に諮られた。幕府の仕業だ。』と言っていたんです。つまり、ご乱行と言われていますが、実のところは幕府の密命を受けた家臣がでっち上げた物であり、忠直公は気がふれたわけではないというのです。」

真顔で真剣に言葉を選びながら自分の体験を話す菊池だったが

「あなたの思い過ごしではないんですか。」

松平氏は半信半疑の思いがした。

「僕もそう思っていたんです。僕の深層心理の中に忠直公の無実を信じたいという思いが幻を見させたんだと思ったんです。だから、無視していたんですが、一昨日、大阪の阪神競馬場で春の帝室御賞典のレースがありました。その時、再び未来が見えるような不思議な感覚にとらわれ、徳川秀忠公が現れたんです。秀忠公は『かわいがっていた忠直にはかわいそうなことをした。しかし、幕府としては越前松平藩に100万石も背負わせて置くわけにはいかなくなった。時代の変化でどこかの藩を改易しなくてはいけなかったんだが、ちょうど越前松平藩の忠直が不祥事を起こしたという報告があったので、豊後大分へ配流することになった。ただ、越前に使わしておいた家臣たちには何かあったら逐一報告するようにと言う命令は発していた。』と言っていました。」

荒唐無稽な話かもしれないが、真剣なまなざしで話す菊池の表情を見て松平氏は

「忠直公からも秀忠公からも同じような証言を得たというわけですね。」

とやや理解を示しかけて来た。

「そうなんです。両方の言い分が合致したので忠直公の無実での謹慎処分の疑いに確信を持てたわけです。」

警察の捜査で言えば裏を取ったとでも言うのだろうが、どちらも菊池の頭の中での出来事である。空想に過ぎないと言えばそれまでの事なのである。

「でも死んだはずの人物が白昼、夢のような体験で現れて証言したことをだれが信じてくれるんでしょうか。」

松平氏が疑問を投げかけた。真っ当な見方である。

「おそらく誰も信じてくれないでしょうね。でも私は確信しています。自分で会いたいと思っていたわけでもなく、突然現れたんです。松平さんが訪ねてこられてからすぐなら意識的に白昼夢を見たのかもしれないと思いますが、7年もたってからです。しかも、説明がつかない不思議な能力で頭の中にアドレナリンが出ていた時です。信じないわけにはいきません。松平さんは信じてくれますか。」

福井藩の末裔である松平氏だからこそ信じてくれるだろうと思っていたし、特別な人間にだけ起こりうる超常現象なのだと思っていた。

「私は信じますよ。菊池さんが特別な能力を持った方だと思ってますからね。」

松平氏は理解を示してくれた。その根底には松平氏自身の調査で忠直公の無実と無念を確信していたことがあったからだろう。

「有難うございます。最低限、私たち2人は信じているという事で、心強いです。松平さんが以前おっしゃっていた著作の発表ですが、今のまま発表しても世間の笑いものでしょうね。でも、フィクションとして物語風に書く分には出せるかもしれません。ただ、この戦時体制時に出版するには夢物語かも知れません。もうしばらく時期を見たいと思うのですがどうでしょうか。」

菊池は真顔で、戦時体制が終わり平和な世の中になっていろいろな作風の物語が許されるようになってからの出版を提案した。松平氏は

「お任せします。私がとやかく言えるものではありません。出版業界の専門家である菊池さんにお願いするしかありませんので。」

笑顔で松平氏は答えた。いつか平和な世の中でこのフィクションが出版されることを願っていた。

 自らの超常現象体験をまじめに聞いてもらい、その体験を信じてもらったことで、菊池は胸をなでおろした。宮内庁での訪問は1時間ほどであった。玄関まで松平氏は見送ってくれた。正面玄関に乗ってきた黒塗りの車が横付けし、運転手がドアを開けた。最後に松平氏と固い握手を交わし、車に乗り込み会社へ帰っていった。

 その後の菊池寛は多忙を極めた。文士部隊を編成して国内外の部隊に著作者たちを派遣し、講演活動などを兵士たちの前で行わせた。その後、日本文芸家協会は日本文学報国会と名前を改め、本格的に戦時下にあるお国への協力を全面に押し出していく。

1943年(昭和18年)には映画会社大映社長に就任し、戦意高揚を宣伝する映画作りに奔走する。戦後は戦時下で戦争継続に協力したとして公職追放になるが、「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤ったと言われている。しかし1948年(昭和23年)突然の狭心症で死んでしまった。ついに忠直公に関する著作は発行されないままに人生を終えてしまった。世間に松平忠直の無念を公表することはできなかった。

 はたして、菊池寛は作家だったのか実業家だったのか。評価が分かれる大きな問題である。どちらにしても彼が文学界に残した功績は偉大なものがあり、尊敬に値することは間違いない。

 松平慶民は最後の宮内省の宮内大臣を務め、戦後も宮内府の初代長官を勤めている。宮内府のなかでも珍しい外国通だったらしい。皇室の権威を損なう事件が頻発した戦前昭和期には厳しく責任を追及し、皇室内で天皇にも意見することができる数少ない人物だった。

 菊池も松平も戦後、1948年に永眠しているが、自らの信念で戦前の時代を走り抜けてきた人物で、戦後の日本の復興に欠くことのできない人物だったろうに、もう少し生きていることが出来ていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。2人の猛者のご冥福を祈りたい。



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