42.番の証明
ヤーナが語る帝国貴族の在り方は、帝国で一般的に知られている常識とは大きくかけ離れている。それは、ヤーナが男爵令嬢であることに不満を持っていた教育係たちが、いずれ公爵夫人となっても社交界を牽引しようという考えを持たせないために必要以上に抑えつけた教育を施した。何かおかしいと感じても確認のための発言の許可を取ることができない。ビリワナ王国できちんとした令嬢教育を受けていれば気づいただろうが、ファルコ男爵家では放置されていた。ヤーナにとって真実を話しているだけだ。
「それなら仕方ない。国には国の決まりごとがある。そこに口を挟むのは越権行為だな。皇帝陛下には、国際法を無視するのか? と書状を送るとしよう」
「お待ちになって。叔父様」
「どうした? フリジット」
「それでは、わたくしの義娘の嫁ぐ相手がいなくなってしまうわ。だから、考えたの。婚姻という恩赦を以て死刑を免除する。だけど、心配なのが親心。それで、ヤーナに持たせる嫁入り道具のこの短剣に誓って欲しいの。贖罪のために、どんなことでも受け入れる、と」
フリジットは鞘に入っていない抜き身の短剣をヤーナに差し出した。手を切らないように短剣を納めた箱の蓋を開けた。柄を握るとヤーナは席を立ち、ローベルトの側に寄る。ヤーナが手に入ることに喜んだローベルトは膝をついて一度もしたことがない位置でヤーナを見上げた。
「誓ってくださいますか?」
「もちろんだ。ヤーナ」
「誓ってくださいますか?」
「ヤーナ。番が手に入るならいくらでも誓おう。グルベンキアン公爵は諦めろと言っていたが、それは持つ者の傲慢だ」
騎士が主君に忠誠を誓うときに首に刀身を当てて命を捧げることの証を示すことがある。ローベルトもヤーナがその真似事で首に当てるのだと思い、自然と目を閉じた。真似事の儀式をするだけでヤーナが側にいるならとローベルトは笑みすら浮かべていた。ヤーナは一度も笑顔を崩さずにローベルトに話しかけている。
「これで安心だわ。良かったわね。ヤーナ」
「はい。フリジット様、いえ、お義母様」
「皇帝陛下、ヤーナとマクガレー公爵子息との婚姻を認めてもらえるだろうか?」
「ああ。認めよう」
皇帝の宣言を聞いてヤーナは、短剣をゆっくりと両手で握り締めた。剣は片手で持つのだが、両手で握ったことにマクガレー公爵夫妻は小さな違和感を覚える。それでもヤーナのことを止めることはしない。
「ぐっ」
「何を!」
「ヤーナ嬢!」
剣の切っ先をローベルトの右肩の付け根に差し込んだ。殺気もなく笑みすら浮かべていることでヤーナの凶行を誰も気づけなかった。刺さったのは、ほんの数センチで重要な腱を切ることもなかったことで塞がれば再び剣を振るうことはできる。
「ヤーナ?」
「番が番のためにすることは、どんなことでも許される。違いまして?」
「違わないが、番を傷つけることはしない。ヤーナ、どうしたんだ?」
「わたくし、婚約を一方的に破棄されて帝国を追い出されて、傷つきましたわ。番を傷つけることはしない……つまり、婚約破棄で傷つくわたくしが間違っているのかしら?」
ヤーナは短剣を抜いた。血が溢れ、服を赤く染めていく。ローベルトは傷口を手で押さえるが止まりそうにない。マクガレー公爵夫妻はヤーナを睨み付けるが、ヤーナは無視をする。
「自分が何をしたのか分かっているのか!」
「何を? 番が番のためにすることは全て許される。わたくしは番を思って」
「詭弁を! おい、この女を捕まえろ! 公爵令息に傷を負わせた!」
「わたくしは、タルルダ王国王族のフリジットが義娘のヤーナですわ。その意味がお分かりになられて? ああ、もうひとつありましたわね。マクガレー公爵の嫡男の妻という肩書きが」
ローベルトたちを見張っていた近衛騎士がヤーナを拘束しようと、腕を掴む寸前でヤーナは身分を口にした。他国の王族を罪人として捕らえた場合は、冤罪というのはあり得ない。ヤーナは確かにローベルトを刺したが、それは番のためという帝国特有の法が働き、もし拘束すれば冤罪となる。
「都合よく番を名乗るな。匂いも分からない人族のくせに」
「そうですわね。ですが、番の匂いが分からない獣人族もいらっしゃるようですわよ」
「そんな者はいない。番の匂いを間違えるなど、死んでもあり得ん」
「だそうですよ? お父上の言うことが正しいのですか? それとも間違っているのですか? 匂いの分からないわたくしに教えてくださいませ。ローベルト様」
激昂していたバルドワだが、番の匂いを間違えて本物を殺そうとまでしたのが自分の息子だと気付き、冷静になった。皇帝は場を収めるために咳払いをする。視線が向いたことを確認すると、宰相に目配せをする。
「番のことは、皇帝であっても関わることができないと法で定められている。だが、その法を破った最初の皇帝となろう。ヤーナ嬢が番のためと言うならば、それは罪に問われない。マクガレー公爵」
「はい」
「番について、理解ある人族であることを感謝せねばならんな。そう、思わんか?」
「……そうで、ございます」
「あなた!」
「ローベルト、そこまで番から愛を注いでもらえるとは果報者だな。これは王家から祝いの品だ。他国から嫁いでくれるヤーナ嬢へ。受け取ってくれ」
宰相が持ってきたのは帝国の地方領地の権利書だった。見る人が見れば、そこが森と川しかないと分かるものだが、マクガレー公爵夫妻は分からないらしく割譲されることを純粋に喜んでいた。ヤーナは、どんなところか分かった上で受け取ることを決める。
「喜んで受け取らせていただきますわ」
ヤーナは、署名の部分を名前だけ記した。これで、アンダルト帝国の領地でありながらタルルダ王国の王族に権利がある土地となる。さらに、タルルダ王国と隣接した領地であることでヤーナは自由に出入りができる。
「ローベルト様、誓ってくださいましたよね? 贖罪のために、どんなことでも受け入れる、と」
ヤーナは短剣を箱に仕舞うと宝物のように抱えた。成り行きを見ていた医療員がローベルトに駆け寄り傷の確認をする。出血は多いが傷口が小さいため獣人族の回復力ならば後遺症も残さずに治癒できる。それを聞いて安心したマクガレー公爵夫妻だった。
「いくら番のためと言っても……」
「シンディア」
「申し訳ありません」
「…………ヤーナ」
「ローベルト様、結婚した記念に陛下より賜りました領地に行きませんか? きっと素敵ですわ」
「そうだな。傷が治れば行こう」
「今から行ってはくださいませんの? わたくしはビリワナ王国から番だと言われた翌日には出発しましたのに。番のために出発してくださらないなんて……わたくしは番ではないのでしょうか?」
「何を言う! ヤーナは番だ」
「良かったですわ。また違うと言われるのかと思いましたの」
ヤーナの願いを叶えるために公爵家の馬車が用意された。今から出発すれば夜は野宿になりかねない。それを理由にバルドワは日程の延期を提案したが、ヤーナは夜通し走れば問題ないと返した。実際、ヤーナがビリワナ王国からアンダルト帝国に来たときは夜通し馬車に揺られていた。
「楽しみですわね。馬車で寝ていれば着きますよ」
ヤーナの言葉を否定できないローベルトは押し黙った。過去に自分がヤーナに強制したことだからだ。それも番だからと言って強行した。ヤーナが自分で動き出したことを見届けたフリジットは、ゆっくりと立ち上がった。タルルダ王国側が退席したことで謁見は終了した。
「ローベルト、傷が治ってからでも」
「いや、ヤーナが望んでくれたんだ。番のためにするのは当然だ」
ローベルトはヤーナに手を差し出すが、首を傾げて不思議そうにされる。右肩を動かせないため、左手を差し出したのだが、ヤーナは静かに見下ろす。
「ヤーナ、手を貸してくれないか?」
「申し訳ございません。いくら誉れであっても番に触れたという理由で殺されたくないので、手を貸すことはできませんわ」
ヤーナは至極当たり前と思って言ったが、ローベルトは何を意味しているのか分からなかった。マクガレー公爵夫妻は分かったが、ヤーナに声をかけることができない。
「わたくし、先に行かせていただきますわね」
ローベルトはヤーナを追いかけようと立ち上がるが失った血が多いのか立ちくらみを起こした。ヤーナはタルルダ王国から乗ってきた馬車に一人で乗り込むと出発する。ローベルトも急ぎ追いかけたが、傷の痛みから思うように進めない。ヤーナは、ゆっくりと進み森の中に立つ皇族がかつて利用した別荘でローベルトを待った。




