40.薄氷の足跡
サブルは感慨深げに宛先の字を見るが、ミアナの字だと判断することはできない。子どもの頃の字しか知らないサブルは、貴族婦人が書く飾りのある字を見て、妹が成長したのだと推し量るだけだ。
「これをミアナ夫人が書いたものだという証拠は?」
「私の番の名を呼ばないでいただけますか?」
「ここは、タルルダ王国だ。それに、私はタルルダ王国の王弟だ。ああ、正確には元国王の弟だが、貴公は王族に何か言える立場なのか? 外交官でありながら、ここ数十年は帝国に引き込もっていたようだが。さらに非公式の訪れということは私的な願い。貴公と私はいつ友人になった? 私としては貴公が間接的に私の姪の婚姻を壊したことに思うところはあるが、それで、これをミアナ夫人が書いたものだという証拠は?」
「……」
「見せれば信じてもらえるとでも思っていたか。本当なら手紙を持って帰れ、と言いたいが、ここで開封し、中に危険なものが仕込まれていないことを証明しろ。そうすれば手紙を受け取ってはやろう」
ザービスは手紙を手に持ち、封蝋を破り便箋を取り出し一枚ずつ置いていく。内容については目に入らないように伏せて広げる。ヤーナが帝国から出るときには番のくせに離れるなどあり得ないと考えていて、これだから匂いの分からない人族は劣っているとさえ思っていた。
「ヤーナ嬢に会わせてもらえないだろうか」
「会ってどうする? 番なのだから帝国に来いとでも言うのか?」
「行き違いはあったが、番として唯一無二の存在として求められているのに何が不満なのか。聞けば公爵夫人となることを受け入れてもらっていたというではないか」
「っ!」
「サブル」
「申し訳ございません」
堂々と言い切ったザービスの言葉にサブルが立ち上がった。ナディックが止めなければ殴りかかっていたことは間違いない。ザービスの言葉はヤーナのことを言っているようにみえてミアナへの本心が含まれていた。
「ここまで思われている番は、帝国を探してもそう居ない。今すぐにでも帝国に行くべきだ」
「その点なら問題ない。ヤーナ嬢は誰よりも理解している。だが、乙女の心とは我々男には時として理解できないものだ。その手助けをするのがミアナ夫人の手紙なのではないか? なぜならミアナ夫人は帝国でもそう居ない愛され方をした女性なのだから」
「王弟殿下は分かっているようだ」
「これでも王族なのでね」
ミアナが望んだヤーナへの手紙を届けられたことに満足したザービスは、タルルダ王国を後にした。ナディックが告げた国王の退位に関する嫌味もザービスの耳は通り過ぎた。一番の関心事がミアナの手紙を渡すことだからだ。
「帝国の傲慢さには呆れ返る他ないな」
「あんな男にミアナは連れて行かれたのは兄として納得できません」
「それでも今のこの状況はミアナ夫人……妹君の意思なのだろうな」
「きっと亡き婚約者の──外交官の妻として帝国に赴任しているのでしょう。そうでなければビリワナ王国があそこまで他国と対等に取引ができるとは思えませんから」
サブルは丁寧に便箋を束ねると封筒に入れる。まだ本調子ではないヤーナに手紙を渡せば、また心に負担をかけてしまう。手紙の内容を含めての判断はフリジットに任せることにした。
「ミアナ様からの手紙……初めてですね」
「そうだな」
「ヤーナには私から話しておきますね」
「頼んだ」
フリジットは手紙を見て穏やかに微笑んだ。ミアナとは年齢が近いということもあり王宮で何度かお茶をしたことがあった。常に護衛や使用人がいたため踏み込んだ話はできなかったが、フリジットが王妃となればもう少し親しくなれると待ち望んでいた。そんな機会は永遠に来ないまま関係が切れてしまった。
「ヤーナ」
「フリジット様」
「座っても良いかしら」
「はい」
「ありがとう。ヤーナにね、ミアナ様から手紙が届いたの」
封蝋の開いた手紙を手に取るとヤーナは宛名を指先でなぞった。フリジットはヤーナに静かに告げる。
「内容は、わたくしたちも知らないわ。ただ、中に不審なものが無いか確認させてもらったの。読むのが怖ければ代読するわ。どうする?」
「お願いしても良いですか?」
「失礼して、読むわね」
フリジットは受け取ると丁寧に便箋を取り出し柔らかい声で代読する。ヤーナを気遣う言葉から始まり、今回のことを心配する言葉に変わる。
「……──ヤーナはとても悩んだことでしょう。でも、貴女は貴女の思うようにしなさい。番のためと言えば、どんなことも許されるのがアンダルト帝国よ。番を刺したことも番のためと言えば罪に問われることは無いわ。番のために他人を死なせても何事も無かったかのように時は進む。それならば、番が番のために番を刺しても何事も無く時が進まないとおかしいじゃない。私は貴女の味方よ。私の大切な友人であるヤーナに愛を込めて」
ヤーナは手紙を受け取ると、静かに涙を溢す。手紙に落ちないように抱えてヤーナは声を上げた。どれだけ許せない思いがあってもナイフで刺したことに罪悪感があった。夜、一人になると押し潰されそうになりながら過ごしていたヤーナにとってミアナの言葉は何よりも強い慰めだった。
「ビリワナ王国が、どうして周りの国から攻め入られないか知っていて?」
「いいえ」
「グルベンキアン公爵閣下が手を回しているからよ。恐らくミアナ様が望み、そして番を喜ばせたい一心でビリワナ王国の外交に口を出した。周りの国もビリワナ王国単体なら無視したでしょうけど、背後には帝国がいる。アンダルト帝国とビリワナ王国は友好国ではあるけれど、属国ではない。なのに、真っ先に助けられるのはビリワナ王国よ。これがミアナ様の復讐なのだと思うわ。帝国と王国、どちらに対しても」
「番のためなら、ローベルト様に何をしても許されるのですよね」
「番のためを思えば、どんなことでも」
「帝国に行きます」
「二度と出してもらえないかもしれないわ」
「それでも、このままでは逃げ続けるだけになってしまいます。そして、また誰かが死ぬかもしれない。それは、嫌なんです」
「優しいわね。自分じゃない誰かが死ぬのは、自分じゃないからと捨て置けば良いのに。その優しさは貴女の武器よ。いつでも帰って来なさい。ここは貴女の家なのだから、疲れたら休んで良いのよ」
ヤーナは帝国に行くと決めたが、自分から行くことはしない。ローベルトがもう一度、タルルダ王国に来たら一緒に行くことにした。それまではフリジットと観劇をしたり本を読んだり、リュシアレーデとお茶をしたりと令嬢らしいことを楽しんだ。




