29.追い込んだ駒
ナイドンは小さく息を吐くと、選択肢として出された紹介状を受け取り、帝国に帰る道を選んだ。サブルは近日中に用意する旨を伝えて最後に、帝国に帰ることを選んだ理由を聞く。
「王家に言えば、いくらでも滞在できただろうに。どうしてしなかった? ヤーナを連れて行くとでも言えば簡単だろう」
「これ以上、ビリワナ王国に貸しを作るわけにはいかなかったことと……良心の呵責に耐えきれなかったのです」
「良心の呵責?」
「はい。ローベルト様の独占欲から友人を作ることも赦されませんでした。一人で孤独と戦い泣いている姿を見るのは辛いことです。ハンカチを差し出そうものなら叱られるのは、私ではない」
「愛していると言えば聞こえは良いが、人族の常識からだと常軌を逸してるな」
サブルは何もかも飲み込んで耐えようとするヤーナの姿を思い浮かべる。諦める以外に選べなかった少女は、自分の意見というものを持つことに慣れていない。
「これが獣人同士なら同じ熱量で歩むことができる。せめて大人になってからなら上手くいったかもしれない。だから、シュリナとエルザには何があってもヤーナ様を優先するようにと申し付けました」
「だが、命令されれば無理だろう」
「はい。なので、ローベルト様がヤーナ様の意にそぐわないことをすれば、片方が逃がし、片方が足止めをする」
「そんなことをすれば、命の危険が・・・」
「元より承知の上でございます」
「だからか。ナイドンは帝国に手紙を出しているのに、二人は出すこともしていなかった」
「お気づきでありながら自由にさせていただき感謝します」
ナイドンは深く頭を下げた。マクガレー公爵夫妻に向けてヤーナの状況を報告していた。息子のために帝国に戻って欲しい思いはあるが、ローベルトが振り回したことに傷ついていることも分かっている。自分の意思で帝国に戻るまで見守るつもりの公爵夫妻は、ナイドンにヤーナの精神状態を報告させていた。
「さて、そろそろ待たせるのも限界か」
サブルは執務室の扉をしつこく叩く音に溜め息を吐いた。こんな非常識なことをするのは先触れも無く来た宰相しかいない。一日待たされても文句を言える立場ではないのに、国王の代弁者を続けてきたせいで自身も王家であると勘違いしている節があった。
「応接室にお戻りいただくよう誘導いたしますか?」
「そうだな」
「では、わたしめが。これでも帝国貴族でございますので」
ナイドンは企んだ笑みを浮かべて扉を押した。扉が開き、避けられなかった宰相は額を打ち付けた。鈍い音がしたことで当たっていることに気づいているナイドンだが、何事も無かったかのように宰相に話しかける。
「何か急ぎの用でございましょうか?」
「……ジリタニス侯爵当主は在宅だと分かっている。いつまで待たせるつもりだ?」
「これは異なことを。帝国貴族であるわたしめが先に約束をしておりましたが、御当主より次の約束があるとは聞いておりません。先触れの訪れも無かったようにお見受けしますが、ビリワナ王国では先触れも無く貴族の家に行って良いとは、この年になっても知らぬことはまだまだありますな」
「……無礼な」
「応接室に戻られた方が良いのではないですかな? 他家の廊下をふらふら出歩くなど探っていますと公言するようなものですから」
ナイドンは笑顔で宰相に畳み掛ける。宰相の方が分が悪く、言われるままに応接室に戻る。手持ち無沙汰にジョルジオが膝を揺すっていて居心地は最悪だった。
「それで、サブルはまだなのか?」
「……帝国貴族との約束があったようです」
「帝国貴族と? あれだけ言っておきながら、義娘を帝国に嫁がせて縁戚になるつもりだったのか」
「ジョルジオ様、今日の訪問はタルルダ王国王女であるフリジット様に今までの非礼を詫びて、抗議を撤回していただくのが目的です。戦争となれば、我が国は負けます」
「分かっている」
不満そうにジョルジオは宰相の言葉に返事をするが、本当に危機的状況だとは思っていない。戦争になるというならば三十年前にも一触即発だとかなり言われ、国王である父親からも叱られた。その時から年月が経っているのに蒸し返すはずがないと楽観的に考えている。
「待たせてしまいましたか?」
「一体、いつまで――っ」
「いえ、待っておりませんよ」
サブルが問いかけと共に応接室に入る。反射的に上に立つ者としての返答をしようとするジョルジオの脇腹を突いて、宰相は言葉を止めた。サブルの機嫌を損ねて交渉が決裂となれば、ビリワナ王国は確実に終わる。
「先触れも無く来られたので、持て成しの準備もできず、良ければ準備させますので、お待ちくださいますか?」
「何を言っている。っ」
「要件のみですので、お気持ちだけ」
「そうか」
「ジョルジオ様」
「謝罪しよう。許せ」
ジョルジオは生まれたときから上に立つ者は頭を下げてはいけないと教えられてきた。王籍を外れても公爵という立場と積極的に交流してくれる貴族がいなかったため、貴族としての立ち振舞いを身に付けて披露する場所が無いまま年月だけが過ぎる。
「謝罪は、受け取りますが、すでにそのような段階は過ぎております」
「謝罪だけ受け取って何もしないとは、どういう了見だ」
「ジョルジオ様、お言葉が」
「ジリタニス侯爵当主として受け取ることはできますが、本来受け取るべきジリタニス侯爵夫人がいないのです」
「いないとは、どう言うことだ! まさかタルルダ王国に帰ったのか。なぜ引き留めなかった!」
「宰相。引き留めるも何も。ジリタニス侯爵夫人は、もう存在しないのですよ」
ジョルジオと宰相が来るよりも前に離縁しているから侯爵夫人が存在しないのは、間違っていない。そのことを調べていない二人は勝手にフリジットが死んだと勘違いした。言葉を失い、謝罪する相手を永遠に失ったことを本質とは異なるが理解する。
「私も近々、爵位を譲り、フリジットの側で過ごそうと思います」
「そうか。爵位を譲るとなると、誰に譲るのだ? ヤーナは帝国に嫁がせるのだろう?」
「ジョルジオ様」
「あぁ。義娘のことは言わないよう言っていたな。忘れろ」
「心配していただかなくとも爵位に関してはヘルロッツ公爵の血筋の方に引き継いでもらう手続きが済んでおります」
ジョルジオは宰相に止められていたヤーナのことを話題にした。失言だと気づいてジョルジオは命令して、無かったことにする。発言そのものが無ければ謝罪する必要も無い。
「爵位を譲るなら王家に返上でも良かっただろう」
「王家に臣籍降下できる方はいらっしゃらないので、返上したところで同じことでしたよ」
「何を言っている。私が治めてやると言っているんだ」
「ご冗談を。すでに公爵という爵位を持っている以上、さらに侯爵領まで治めるには体がいくつあっても足りませんよ」
ジョルジオはサブルの返しに拳を強く握った。公爵の爵位を持っている者は、それに見合った領地を管理している。さらに侯爵が治める領地となると目端が行き届かず、杜撰な管理となってしまう。サブルは治めている領地を持っていないことを分かった上で断った。
「ヘルロッツ公爵は隣の領地ですから特産品なども似ていますので、引き継ぎもそう混乱することも無いでしょう」
「ジョルジオ様、今日のところは、ここまでにしましょう。謝罪を受け取っていただきたくとも叶わないようですから」
「そうだな。今後のことは、次期侯爵当主と話すことにしよう」
もっと居座るかとサブルは思ったが、ジョルジオは宰相も驚くほどすんなりと引き下がった。フリジットと結婚していたジリタニス侯爵に命じようとしても、やんわりと流されてきた。そこに同じ公爵だとしても国王の実子である自分の方が立場としては上だと判断したジョルジオは、サブル相手に会話をするより簡単だと考えた。




