11.王国のヤーナ
清められたアティカスは客間の一室に寝かされた。側には無気力にアティカスを見つめるヤーナが座っている。着替えることも断ったヤーナのドレスは血で染まっていた。
「アティカス」
呼び掛けても返事はなく、ただ静寂が広がる。ナイドンがアティカスの両親を案内してきた。ヤーナは機械的に立ち上がり、無言で挨拶をする。
「アティカス! あぁ、あぁ、あぁなんということに」
「侯爵家として正式に抗議をさせてもらう。君が王国に帰って来なければ悲劇は起きなかった。君が番として自覚を持っていればと思うよ」
「返して、わたくしの息子を返して。お前のせいで! お前のせいだぁ!」
アティカスの母親はヤーナを思い切り殴った。ナイドンはヤーナを庇って夫人を押さえるが、侯爵の方は妻を宥めることも咎めることもしない。憎悪の目でヤーナを見下ろすだけだった。
「ヤーナ様、大丈夫ですか?」
「執事なら主人の愚かな行動を止めろ。甘やかすから我が儘に育つんだ」
「我が儘? ヤーナ様は――」
「ナイドン。もう良いの。もう、良いわ」
ヤーナはふらりと立ち上がり静かに部屋を出た。アティカスと笑いながら向かい合っていたテーブルまで歩く。いつもの席に座り、ヤーナは静かに泣いた。涙が溢れて止めどなく流れるにつれて声が大きくなる。
「どうして、私なの? 私が番になんてならなければ――」
体を冷やさないようにヤーナの肩にショールをかける。ただ何もせずに座っている間に、アティカスは両親に引き取られた。ヤーナは一睡もしないまま朝を迎える。
「ヤーナ様、温かいお飲み物を用意しましょうか」
「いらないわ」
「ヤーナ様……」
「番って何なのかしらね? 簡単に変えられるもの? 泣いて泣いて泣いて涙が枯れたら決める……決めたわ」
ヤーナは立ち上がると、朝日を眩しそうに見つめた。強張った体は歩くのも一苦労だが、エルザの手を借りて部屋に戻る。血に濡れたドレスを脱いで、湯浴みをして洗い流す。
「エルザ」
「はい。ヤーナ様」
「あのドレス、そのまま残しておいてちょうだい」
「かしこまりました」
喪服を持っていないヤーナは、紺色のドレスを着て、丁寧に畳まれて箱に入れられたドレスを眺める。乾いた血を指でなぞった。
「ローベルト様は、客室かしら?」
「いえ。警察隊に拘束されています」
「警察隊に?」
「はい。アティカス様のご両親が手配をされたようです。ローベルト様は、公爵家なので通常は拘束されることは無いのですが、ペリグレイ家は特別なのだそうです」
ビリワナ王国の貴族のことは、十二歳のときの記憶で止まっている。ペリグレイ侯爵家がファルコ男爵家と同じように外交部に所属することは知っていた。それ以上のことは分からない。
「アティカス様にお会いしたいわ。ペリグレイ侯爵夫妻にもきちんと挨拶をしていないもの」
「ナイドンさんに確認して来ます」
「お願いね」
エルザが確認のために部屋を出ると、ヤーナは窓から庭を見た。すぐ下はアティカスと勉強をしていたテーブルが見える。一昨日までは早く次の日にならないかと、寝るまで窓から庭を眺めていた。
「もう涙も出てこない。枯れてしまったのね」
「ヤーナ様」
「ナイドン、侯爵夫妻は何と?」
「ペリグレイ侯爵夫妻は、昨夜のうちにアティカス様を連れて帰られました」
「えっ? でも、挨拶を」
「今のヤーナ様にお伝えするのは忍びないのですが、葬儀にも参列はしないで欲しいとのことです。理由は、番の側にいたというだけで親族の男を殺される可能性があるから、と」
ナイドンはヤーナがしなければならないことを代わりに引き受けてくれていた。侯爵夫人に殴られたヤーナを心配もしてくれた。アティカスの最後を見送ることもできないヤーナのことに悔しさを滲ませている。
「そう。ありがとう。伝えてくれて」
「ヤーナ様……」
「アティカス様は、きっと立派な外交官になられたと思わない? 私が苦労した帝国語の文法も簡単に覚えてしまわれて…………どうして奪われなければならなかったのかしら。番だから許される。頭では知っていても理解するのは難しいわ」
ヤーナは静かに呟き、泣くことも取り乱すこともなく、アティカスが居たときと同じ日々を繰り返した。アティカスの最期のときに着ていたドレスの箱を抱えて、庭のテーブルに座り、日が陰ると屋敷に入る。
来ないと分かっていても同じ日々を過ごすことで、かろうじてヤーナは精神を保っていた。このまま穏やかにアティカスの死を乗り越えて欲しいと考えてナイドンたちはヤーナを支える日々を過ごす。
「ヤーナ様……登城命令が来ました」
「登城命令が? 処刑されるのかしら?」
「ありえません! ヤーナ様に落ち度など無いのです」
「ペリグレイ侯爵家からすれば、他国の公爵家に罪を問えない以上、原因のわたくしに罪を問うのではなくて?」
ビリワナ王国としてアンダルト帝国に抗議をすることはできても、ローベルトを罪人として引き渡しを請求することはできない。国力が違いすぎるからだ。アンダルト帝国が厳重に処罰すると宣言すれば、それがどんなに軽い罰であっても受け入れるしかない。
だから王国としてはヤーナを処刑し、ペリグレイ侯爵家の溜飲を下げさせる意向があった。ヤーナが死ねば、ローベルトが番のために人を殺すということも起きない。この一週間は王国としての対応を協議していたのだろう。
「登城の日は、いつかしら?」
「三日後です」
「あの服を着て行ったら不敬かしら?」
「ヤーナ様」
「ふふふ、冗談よ。本気にしないで。登城に失礼の無いドレスを用意しないといけないわね。でも、選ぶ気力も無いの」
「シュリナとエルザにお任せいただいてもよろしいでしょうか。生粋の王国使用人ほどではありませんが、ビリワナ王国のマナーなどは頭に入っておりますので」
男爵家のヤーナが、王家主催の夜会に出ることはあったかもしれないが、個人的に登城することはない。この五年はアンダルト帝国のことを学ぶので手一杯だったため、ビリワナ王国のことには、随分と疎くなってしまっている。




