10.罪にならぬ罪
庭園でヤーナとアティカスは、午後のお茶と一緒に帝国語を教えることが日課になった。知らずともビリワナ王国で暮らす分には困らないがアティカスは、外交部に入ることを目標としている。
入ってから学ぶことはできるが、先に学んでおいて損はしない。ヤーナだから分かる躓く部分や帝国語を母国語としているナイドンの発音などは、役に立った。学院に通うことの無かったヤーナは、同世代と勉強することを楽しみにしている。塞ぎ込むことの多かったヤーナに笑顔が戻ったのならと、エルザとシュリナは少し離れたところで見守る。
「このときは、発音が変わるのよ」
「うーん。なかなか難しいね」
「覚えてしまえば簡単よ」
勉強をするのなら図書室などが良いのだが、アティカスが婚約者でもない令嬢と二人きりになるのは紳士としてあり得ないと頑なに固辞した。毎日、本を庭園に運んだり、日除けを立てる苦労はあるもののヤーナを大切にしてくれていることが伝わり、使用人たちは率先して準備をしている。
「そろそろ日が陰って来ましたので、お開きにしてはいかがでしょう」
「もうそんな時間か」
「楽しい時間はすぐに過ぎてしまうわ」
「僕も楽しかったよ。また明日もお願いするよ」
裏口に停めている馬車までヤーナは、アティカスを送って別れる。通いの庭師も若い二人のために花の手入れを欠かさず、見事な見頃を向かえていた。一つずつ花を見ながら歩く姿は、さながら恋人同士に見える。
「お待ちください!」
「離せ!」
「入ることは許可されていません! ローベルト様」
アティカスが来ているときは、屋敷内にいるナイドンの大きな声が聞こえる。思わず振り返ったヤーナは、ローベルトがナイドンを突き飛ばし、血相を変えて走る様だった。なぜ、居るのかという疑問を訊ねるよりも前に、視界にナイフが見える。
「えっ?」
「う、ぐっ」
「ヤーナ、迎えに来た。さあ、帰ろう」
「あ、あ、あぁぁぁぁぁ! アティカス! アティカス! しっかりして!」
首を深く切られたアティカスは、悲鳴を上げることもなく倒れる。血が勢いよく吹き出し、隣にいたヤーナの顔や服を赤く染める。ローベルトはヤーナに手を差し出し、今、人を切ったことなど感じさせない満面の笑顔を浮かべた。
「血が、血が、いや、止まらない」
「ヤーナ! 何をしているんだ。他の男に触れるな」
「ローベルト様! 離れてください」
「ナイドン、離せ。私はヤーナのために――」
エルザとシュリナもすぐにアティカスを助けようと止血したが、ローベルトが切った傷は深く、医者の到着を待たずに死を向かえた。ヤーナは冷たくなっていくアティカスの手を握り締めながら声を上げずに泣く。涙が流れたところだけアティカスの血が洗い流された。
「ヤーナ、馬車を待たせている。そいつのことは、ナイドンに任せて帝国に帰ろう」
「なぜ、なぜ、アティカスを殺したのですか?」
「番に触れたのだから当然だろう」
「番? 私は番じゃないと半年前に貴方自身に追い出されました」
ローベルトは座り込んでいるヤーナの腕を掴んで連れて行こうとした。手から逃げるようにヤーナは体を反らす。逃げられたことにローベルトは驚いた顔をした。
「私は番じゃないのですよね」
「ヤーナが番だ。あの女は、番を偽っていた」
「番というのは簡単に偽れるものなのですね。私には番というのは、生涯に一人だけだと言い、間違いだったと言い、私は何を信じれば良いのでしょうか」
「ヤーナ様、屋敷に入りましょう」
シュリナがヤーナの肩を抱いて立つように促す。ナイドンはアティカスを担架に乗せて運ぶように指示を出す。エルザはローベルトがヤーナについて行かないように見張った。
「なぜだ。番だと言うのに」
「それを貴方が言うのですか? ナイドンさんが何かの間違いだと、きちんと調べてからと、何度もです。それを無視して、ヤーナ様に出ていくように命じ、番の破棄! 婚約破棄をしたのは、ローベルト様です」
「だからそれは、間違いだったと言っているだろう!」
「間違いだった? だから番になれ? ヤーナ様がこの半年、どれだけ大変な思いをされたか分かりもしないで良く言えますね」
獣人族にとって番のためというのは、全て許される大義名分だ。だが、それは帝国での常識であり、他国である王国には、通用しない。帝国の常識を押し通せば、国として立ち行かなくなってしまう。
「どうして、ヤーナは分かってくれない! 番なら分かるだろう」
「ヤーナ様は、人族です。番の匂いを感じることができません。それに、ヤーナ様は分かっていらっしゃいます。ご自分がローベルト様にとって番だということを。誰よりも」
「分かっているならどうして戻って来ない!」
「番だから側に置いて、番じゃなかったら追い出す。番なら誰でも良いと、ローベルト様が証明なさったんです」
エルザはローベルトが番のためという理由でアティカスを殺したことが帝国では受け入れられることは嫌というほど分かっている。わざわざ騒ぐことではないが、ここはアンダルト帝国ではない。さらに、ヤーナが受け入れられないことは、側で見てきて理解していた。
「番だからと言って、一方的にされるのは納得できません」
「一方的になどしていない」
「番のために、邪魔な者を殺すのですか?」
「当然だ」
「番のために、本物の番を殺そうとした方の言葉は、説得力がありますね」
エルザは半年前にヤーナに刺客を送って来たことを忘れていない。幸いにもヤーナには気づかれていないが、ローベルトが指示をしていたことを知っていた。誘拐同然に連れて来られたが、ヤーナはちゃんとローベルトを好きになっていた。
「だから、間違いだったと言っている!」
「簡単に! 簡単に、番を変える方の言葉を信じるなど、どうやって信じれば良いのですか! 同じ獣人族である私でも許しがたいというのに!」
「匂いで分かると言っている!」
「その匂いで、偽物を本物だと言ったのは、ローベルト様です」
番のためであっても帝国貴族が王国貴族を初対面で殺したのは事実だ。ローベルトは貴族専門の警察隊に拘束された。客観的に考えれば、国際問題を引き起こしたことには変わりない。
大人しく凶器を渡し、警察隊について行った。入れ替わりに連絡を受けたアティカスの両親が来る。




