黄金時代、聖域の恋
人生に黄金時代というものが存在するならば水代康介にとってそれは文芸部に所属した高校三年間だった。
小学校や中学校でイジメにあったわけではない。大学で孤立したわけでもない。
だが過去を振り返る時、夢を見る時、康介の頭に浮かぶ情景はいつも高校時代のことだった。
文芸部の活動場所は図書室の横にあった準備室。
OSが更新されていないパソコンには歴代の生徒が勝手に入れた様々なゲームがインストールされていた。
公式の活動日は火曜と木曜だったが部員たちは用事がなければ毎日集まった。
同級生の部員は6人。男子3人、女子3人の小さなコミュニティ。
そこは不思議な共同体だった。
はっきりと確認しあったことはないが部員たちは互いに好意を抱いていた。
誰と誰がではない。
3人の男子は3人の女子全員が好きだったし女子3人の方もそれは同じだった。
だが康介たちは結局最後まで誰とも付き合わずに卒業を迎えた。
3人の女子は決して美人ではなかった。
むしろ器量は良くない部類になるだろう。
なのに彼女たちと過ごす毎日は掛け値なしに素晴らしい。
可愛くも美しくもない女の子に恋する自分に康介は驚いた。
恋愛は自分が思っていた以上に複雑なものだと少年は知った。
高校に入るまで康介にとって恋はガラスの宝石のようなものだった。
自分のものにしたいと必死で手を伸ばしては壊してしまい、そのたびに傷つき血を流す。
文芸部の恋は聖域だった。
欲しいものは手を伸ばすまでもなくそこにあり、それだけで心は満たされていた。
そんな経験は初めてのことだった。
聖域の均衡が崩れる機会は何度もあった。
3年の部長が女子全員に告白した時。
他校の生徒から言い寄られてるので彼氏のフリをして欲しいと頼まれた時。
合宿旅行で布団に寝転びながら目を合わせた時。
けれど最後まで均衡は崩れなかった。
それを告白する勇気を持てない少年少女の臆病さで片付けてしまうのは簡単だ。
実際それが理由だと思っていた時期もある。
しかし時が流れ過去を客観視できるようになった今、康介はそれが間違いだと断言できた。
あのバランスは決して後ろ向きな感情で作られたものではない。
あれは奇跡のような時間を守るために6人の意志が作り出した黄金の均衡だった。
高校を卒業してから20年の時が経ち中年となった康介は未だに女性と付き合ったことがない。
劣等感はあるし結婚式などに出た際は言いようのない寂しさを感じることもある。
式の帰りに独身仲間の後輩から聞かれたことがあった。
「先輩は学生時代に戻れたら好きな子に勇気を出して告白しますか?」
「たぶん、しないね」
脳裏に浮かんだのは高校3年の文化祭の夜だ。
その年の文化祭実行委員長は気合の入った人物で打ち上げ花火とキャンプファイヤーを囲んでのダンスパーティを企画した。
煌々とした明かりの周りをBGMに合わせて楽しげに踊る生徒たち。
そこに文芸部員たちの姿はなかった。
康介たちは文化祭の展示を行った3階の教室からその様子を眺めていた。
傍から見ればきっと残念で寂しい光景だろう。
しかし康介にとってその時間は人生で最良の一時だった。
記憶に残るような会話があったわけではない。特別な出来事が起きたわけでもない。
ただあの瞬間、6人の間に境界線はなかった。
花火が上がり笑顔が浮かぶ。みんな笑っている。それがたまらなく嬉しい。
あの時間を繰り返せるならば、きっと自分は何度でも黄金の均衡を守るだろう。
それが水代康介の聖域の恋に対する勇気の在り方だった。