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未完

作者: 春花とおく

あの日のことを僕は一生忘れないだろう。


あの日の給食はカレーだった。次の時間割は体育だった。運動場に出て、ウォーミングアップに並んでランニングをした。僕は背が低かったから、前の方だ。でも、その日僕は列の後ろにいた。走っているうちに気がつけば、1番後ろの子の背中を見ていた。先頭を走っていたはずなのに、何故。頭の中で何かが暴れていた。脚を必死で動かす度、感覚が薄れていった。前の子の背中が現実から遠のいてゆくみたいに離れてゆく。追えば追おうとするほど、自分が何を追っているのかわからなくなった。目の前は暗くないのに、何も見えない。見えているのに、見えない、理解出来ない。とても奇妙な感覚。頭の痛みは消えていた。どうやら僕は地面に崩れ落ちたようだった。辛うじて僕の肌は砂利の凹凸を感じていた。それ以外の感覚は失われた。


そこからの記憶は乏しい。どこか知らぬ所で天井の灯りを見ていた気がする。服を脱がされ僕は、何かを訴えていた。しかし、それは丁度目覚めた直後に見ていた夢を思い返すように、朧気な記憶だ。その時現実にハッキリとわかったのは、僕はベッドに寝ていること。身体を上手く動かせないこと。頭に違和感があること。そして、母親が「大丈夫だからね」と涙声で語りかけているということだ。わけがわからなかった。「まだ寝てていいから」母親の言葉に僕は、身体の全てを預け眠りについた。


次に目が覚めることが出来たのは、非常に幸運なことだったのだろう。僕が僕のままで目が覚めることが出来たのは。いや、今思うとその時から既に僕は当時十三年生きてきた僕ではなく、また違う僕に生まれ変わったと言えるのかもしれない。とにかく、頭に管を生やしながらも生き長らえたことは確かだ。

その後、母親から事の顛末を聞いた。僕は授業中に倒れた。原因は、脳腫瘍だ。救急車に運ばれた末の緊急手術は無事成功。しかしそれはあくまで応急処置的なものであり、僕の中の悪魔は依然脳の中に安住の楽園を築いているらしい。

僕は母親に幾つか質問をした。内容はよく覚えていない。しかし、母親が時折涙を流し励ましの言葉をかけてくれたのは記憶に刻まれている。

僕は泣いた。中学生になったとはいえ、まだまだ幼い当時のことだ。わけもわからないままに涙を流した。漠然と死を感じとった。恐怖に震え、それは僕の感情を揺らし、また涙が溢れた。しかし、目がいくら脳に近く繋がっているとはいえ、それは僕の中の病魔を洗い流してはくれない。先にはまだ暗い死と隣り合わせの道が続いている。

その後、医者に詳しい説明とこれからの治療について聞くまでの日をどのように過ごしただろう。少なくとも未来に希望を持って暮らしたことはあるまい。

医者は僕から採集した腫瘍を検査すると言った。それが良性か悪性かわからないからと。前者であることを願ったが、残念ながらそれは叶わない。癌だ。テレビや本ではその恐ろしさはこれ程かとまで強調され、その患者には哀れみのシャワーが向けられる病。とても理不尽で、どこか他人事な病。不幸な、本当に残酷なことに、僕は数万人に一人の「可哀想な人」に選ばれた。

治療方針は以下のようなものだった。まず、手術により腫瘍を取り除く。その後は所謂化学療法というもので、抗がん剤を投与しつつ放射線治療を行う。入院期間は凡そ半年。十三年そこらしか生きていない僕にとっては非常に長い時間だ。


少し時を遡る。小学生の僕は、それなりに明るい子供だったのでは無いかと思う。それは今との比較からくる推量であり、実際はそれ程でもないのかもしれない。しかし、幼少より始めたサッカーに精を出し、休日には友人と遊びに出かけるくらいには、満たされた生活を送っていた。

中学生になってもそれは基本的には変わらない。やはりサッカーをしていたし、それなりに友達もいた。小学校の異なる同級生とも仲良くなりつつあった。そんな中の三月、あの日が訪れた。

ただ、まるで予想だにしないことではなかった。僕は癌という病に罹ったことを理不尽だと述べた。その点については間違いない。前述の通り僕はかなり運動をしていたし、生活習慣も悪くなかった。

ただ、その病に対し最大限のことを成したかと言われると、はいと答えれば嘘になる。実の所同年の夏には、違和感を覚えていた。理由のわからぬ吐き気や運動後の頭痛、目が急激に悪くなるなど、僕の身体は明らかな異常をきたしていた。しかし、知識の浅薄だった当時の僕はこれを不安定な精神状態、例えばストレスのせいだとして病院に行くことを遅らせた。結果病の進行に追い抜かされたのだから、僕にも幾らかの落ち度はある。少なくとも、状態を少しでも緩和出来たという点では。もし上記の症状に心当たりのある者がいれば、早急に医者にかかることをおすすめする。


さて、無事手術は成功した。何もないように説明されたものの、それはとても難しい手術だったのではないだろうか。半日以上かかったという、大手術だ。恐らく精神的に未成熟な僕を慮ってのことだろう。それでも不安はあったが、とにかく主治医たちには感謝してもしきれない。

病室で目が覚めた時には頭の管は無くなり、代わりに胸の辺りから飛び出ていた。それはキャスター付きの点滴に伸びている。これから半年お世話になる相棒だ。

しばらくして、抗がん剤が投与された。それはとても辛い治療だった。点滴に薬が取り付けられ、ぽたぽたと、身体に流れてゆくとやがて、身体がだるく重くなった。気持ちが悪い。痛みなどはない。ただ、不快だ。何をする気力も奪われてしまう。

髪の毛が抜け落ちた。覚悟していたとはいえ、そして楽観的に考えていたとはいえ、それは思いの外悲しいことだった。するりと抜け落ち手に残る髪を見ると涙が滲んだ。大丈夫、また生えてくる。そう言い聞かせたが、今、僕の頭に髪はまばらだ。

それは放射線を頭にあてたせいだ、この治療が特に辛かった記憶はない。当然何らかの影響はあったのだろうが、抗がん剤などによるものと判断がつかなかった。だから、それが最も僕を苦しめたとするならば、毛根を焼き払ってしまったということに尽きるだろう。いくつかの後遺症が残る中で髪の喪失は最も小さく、であるが時折現れては心を抉ってゆく厄介なものだ。大学生になり髪を染めたり、スタイルを変える友人は眩しい。しかし光を反射するものすら持たぬ僕は己の影を濃くするばかりだ。

総括すると、それら治療は辛かった。これまでで受けたことの無い種の辛さだ。だが、しかし、テレビなどでよく見るような──まさに毎日が地獄のような日々かと問われると──例えば現在人に同情をもって問われる時には、僕はノーと答える。決して耐えられないレベルでは無い。しかし、健康で文化的な人権として認められる範囲での生活は諦めねばなるまい。

個人的に最も辛いのは、食事が何も手につかないことだった。何かを口にすると、吐き気がする。一日に十回嘔吐することもざらにあった。口にしなくてもそうなるのが特に辛いところだ。食事は毎日三度、おやつが一度あるのだが、その度食事を想像するだけで吐き気を催せた。チョコチップスティックパンの一本をちびちびと、口の中で原始に帰すレベルまで噛み砕いてから食べていたのをよく覚えている。それが殆ど限界だった。また、それすらも吐いた。

他には、例えば抗がん剤を投与する際は早くに薬を排出するために大量の水分を与えられる。そのために排尿が盛んになるのだが、その際は尿量を記録しなければならない。点滴は二十四時間ずっと流れているから、頻尿もフルタイム勤務だ。それに付き合わされる僕は毎夜一時間毎に目覚め、トイレに行き、尿量を計る。容器を洗い流した頃には少しばかり目が覚める。少し眠れた頃にはまた尿意が押し寄せ…といった具合で、社畜と呼ばれる彼らがそうであるように、僕も寝不足になる。

全ての苦しみを挙げればきりがないと思われる。僕がこの治療に関して辛いと思うのは、激しい痛みや耐え凌げぬ苦難ではない。案外些細なことだ。ただ慢性的に続くそれは、点滴石を穿つというように、僕の人間らしさを間違いなく抉りとっていった。

また、学校という外界から絶たれた僕が孤独に過ごしたかというと、これもそうでは無い。病院には院内学級という長期入院患者が義務教育を受ける施設があり、そこで僕は二人ばかりの同級生や下級生と学んだ。それ以上に、僕はこの病院でかけがえない友人と出会ったのだ。

病名は伏せるが、彼も「可哀想な人」に値する病にかかり、入院していた。歳は僕より二つ下だ。

彼と知り合ったきっかけは、偶然病室が一緒になったことだった。歳も近く、また親同士の世代も同じ、さらには住む場所も近いということで、家族ぐるみで仲良くなるのに時間はかからなかった。特に僕は、当時同じゲームをしていたことから、かなり長い時を共に過ごした。

彼は親の仕事の都合で海外へ行ってしまったが、そちらの病院で病に打ち勝ったらしい。退院から六年ほど経つ今でも連絡はとりあっている。丁度これを書いている今、彼がしばらくすると日本に帰ってくるという報せを聞き、会う約束を取り付けた。その時には僕は成人。彼は高校生。光陰矢の如しとは言うが、紆余曲折あった僕たちの矢も無事軌道にのっているようで嬉しい。

主治医他看護師の方々も非常に親身になってくれた。若い看護師の方は僕と友人を弟のように可愛がってくれたものだ。

今や僕は二十歳を目前としているが、当時の彼女らと歳を同じくせんとすることに驚きを禁じ得ない。退院の際、その喜びよりも別れの悲しみで涙したことも良い思い出だ。とは言っても再び患者として相見えることになるとは考えもしていなかったからそう言えるし、そして二度目の入院から帰還し三年経とうとする今だからこそ思えるものだが。

そう、僕は二度入院した。つまり、二度癌にかかった。二度目のそれは高校一年生の冬。一度目の罹患、そして退院から二年たった時の話だ。


これから始まるのはその二年間の物語。言い換えれば束の間の安寧、嵐の前の静けさ。或いは、厄災へのカウントダウンに過ぎなかった日常だ。

初めは何を楽しみにしているのかわからなかった。ただ、三、二、一と、読み上げるうちに胸が踊るようだった。何が起こるかわからぬ未来。今楽しいのだからずっともっと楽しくなるはずだ。そう盲信して生きていた。ゼロを唱える時には全てを失わなければならないのに。運良く生き延びても、再びカウントを始めなければならないだけなのに。


退院した時には、僕は中学二年生になっていた。がん患者が被る帽子──当事者の僕だから言うのを許して欲しいが、あの病的と言わざるを得ない帽子を被って半年ぶりに登校してきた僕を、クラスメートは暖かく迎えてくれた。初登校時には黒板に歓迎のコメントが寄せられていたし、レクレーションまで開いてくれた。しかし、子供にとってあまりに長い半年間、殊思春期真っ盛りのこの時期の半年間は、かつての友人をよそよそしくさせるに十分だった。そして、半年間も人との関わりを断った僕にそれを修復する技量は失われていた。

その時までにおよそ九年続けていたサッカーを辞めた。理由は目の不調だ。視力が急激に落ち、斜視が入った。それだけじゃない──僕は、どのような顔をしてチームの元へ戻ればよいのかわからなかった。

入院中一度、チームメイトが病院にお見舞いに来てくれたことがあった。しかし、不幸にも僕はその時かなり不調をきたしていて、会うことが出来なかった。 目が覚めると、病室に写真と千羽鶴が飾られていた。それらは今も大切に置いてある。部屋の壁にかかる千羽鶴を見る度に、今でも後悔の念に駆られる。何度も──それこそ、千の鶴を一羽一羽射殺してしまわんばかりには。もし、あの時体調を崩さなければ、或いは、長く会えなかったとて。

今も夢に見る。グラウンドを駆ける自分を。ドリブルで相手を抜き去り、華麗にシュートを決める姿を。チームメイトに迎えられ、喜びと誇らしさに満ちた笑顔を。目が覚めなお朧に残る高揚は、何度も僕を落胆させる。意気揚と飛び立った紙飛行機がその機首を地につけるように。

中学二年生を僕は失意のままに過ごした。毎日をつまらないと唾棄するように生きた。成長期前に脳に放射線を受けたからだろうか。身長はとまり、恐らくは成長も緩やかになっていた。ただ歳だけを食い、僕は十四になる。はやく中学校を卒業したい。卒業さえすれば。また一から、一緒の号砲で走り出すことが出来る──だが皮肉にも、僕が少しばかり立ち直ったのは、中学生として最後の年のことであった。やっと手に入れつつあった春を、まだ青くもはならない内に手放さなければならなかった。

その年の春、教室に入り。愕然とした。知っている者が殆どと言っていいくらいにいなかったからだ。それはより大きな可能性に満ちた方舟に他ならなかったのだが、早急で穏便な卒業を望む僕にとっては、ただ乗り心地の悪い貨物船に過ぎなかった。

昨年と同じように、ただ居るだけの生活を送った。勉強はそれなりに出来たので、境遇も相まって先生にはよくしてもらった。それでも、初めのうちはやはり、つまらないと毎日呟いて帰った。そんな僕に変革が訪れたのは夏前のことだ。

あれは体育祭だかの練習だった。放課後に居残り練習をすることになり、僕もその場に残ったのだった。

他のメンツは殆ど知らないものが数人。本心は早急な帰宅を希求していたのだが、「出来れば残って欲しい」との言葉、そして自身の「人に迷惑はかけたくない」という小心をオブラートに包んだ善意故に、その場に留まってしまった。

当時から今も続く自身の優柔不断さを褒めるのは恐らく最初で最後のことになる。

事の結果を述べると、一緒にいた男子生徒二人──彼らを僕は全く知らなかったのだが、彼らと大層ウマがあった。放課後、少人数でダンスの練習をするという体験。それは三人の距離を縮めるに十分だった。

それまで体育会系一筋を駆け抜けてきた僕は、所謂オタク、彼ら二人のような者を、正直忌避──とまでは行かずとも、一歩距離を置いてきた。その日は個人的異文化交流の場となったわけだ。なるほど、胡散臭いレクレーションの類には純新無垢の白眼を向けてきたものだが、振り返るとあれにも中々の意義があるものやもしれぬ。

以降、学生生活の殆どを彼らと過ごすようになる。そして、彼らと触れ合ううちに僕は人と付き合うやり方を──そして楽しみを、再び取り戻していく。

その内に僕は、僕の中で他者の占める割合が大きくなってゆくのを感じていた。

今でも僕は他者に尽くすことに喜びを覚えるタイプだが、恐らくそれはこの時期に起因するものだろう。僕はクラスで自ら縁の下にもぐりつつ、それによって関係を作ろうとした。他者に与えてもらう一方で自分からも何か与えたかった。それは繋がって喜びを生んだ。他者の喜びこそ僕の喜びであり生きる意味だった。その年の冬、通学路で僕は思うようになる。卒業したくない。もっと一緒にいたい。楽しい。なんて人生は楽しいんだ!


その楽しみに満ちた半年はスグに過ぎ去った。卒業後、かの友人とは殆ど会っていない。やはり、半年という時間は親密な関係を作るには短すぎた。もう少し寝かせて、水分を飛ばなくては、スグに瓦解してしまうに違いなかった。こればかりは悔やんでもどうしようもない。僕たちは別々の高校に行った。そして、疎遠になった。しかし、人生の喜びは失われた訳ではないのだ。高校生!なんと素敵な響きなことか。新しい環境、新しい出会い。それは、現状に絶望した退院直後の憧れと何ら変わらない──いや、寧ろ失うのを惜しむ時間が出来たからこそ、新たな時の訪れはより心躍るものとなるのだ。


少し話を変えよう。これは僕の恋の話だ。時期としては中学三年生の夏前となる。これを僕の初恋と言っても差し支えない。ここまでに異性を好きになるということは他になかった。

当時はかの友人と出会う前であった。つまり、時の器に空虚を注ぎ込むような日々を送っていた頃だ。

つまらない毎日に、流石の僕も辟易していた。そして、ふと思いついたのだった。魔が差したと言ってもいい。今、毎日がとても楽しいとはいえない。学校に行きたくない。しかし、もし恋をすれば──クラスメートの内で誰かを好きになれば、学校に来ることが楽しくなるのではないだろうか。そして日々が薔薇色に鮮やかに、彩られるのではないだろうか。

その発想は些か利己的で、おこがましいような気がする。だが、それを実行してしまうのが当時の僕であり、これくらいの時分には大なり小なり謎の行動力を持ち合わせているのが中学生というものだ。僕は密かにこう決めた。この席替えで女子生徒が隣になった暁には──彼女を好きになろう。好きになって、恋をしよう。恋をすれば──きっとこの世は鮮やかに染まるはずだ。

この世が色付くというのは間違いではなかった。しかし、棘に血を流す覚悟の持たぬ、そしてその手を守る手袋すらないような者が、薔薇に手を出すべきではなかった。ほんの思いつきだった。若いうちに恋をするのは悪くないことだ。命短し恋せよ乙女とは、なにかの歌だったか。恋する乙女の傍らには大抵の場合青年がいる。だがそれは普通の男女の話。僕は普通でない。


幸か不幸か、隣の席になったのは女子生徒だった。僕は彼女を好きになると決めた。好きだと思い込んだ。

彼女と僕は中学二年時に同じクラスだった。とはいえ、漫画『聲の形』風にいえばクラスメートの顔にバッテンをつけているような僕だ。名前すらも覚えていなかったのを、後ほど彼女が同じクラスであったと教えてくれた。彼女は決して派手ではなく、忌憚なくいえば地味な方。どちらかと言えば大人しい生徒だった。

結論から言えば、僕はものの見事に恋をした。恋は意図してするものではなく、落ちるものだと人はいうだろう。それに対し異論はない。しかし、思い込みとはいえ恋をしたという事実から、僕は遡及的に「恋に登った」、つまり彼女を好きだという確信が何故好きなのかという理由の探求となり、彼女の魅力への気づきとなった。そしてそれを理由として好きを強化する。教化と言っても差し支えないのは恋らしからぬ点であるが、言わば恋のフィードバックだ。

僕は恣意的に恋をした。だが、それは結果論である。彼女は間違いなく魅力的で、それなくして僕は彼女を好きにはならなかっただろう。僕は恋に登るつもりで、しかし滑落していたのだ。彼女は僕にとって魅力に満ちていた──些細な仕草は彼女の奥ゆかしさを表していた。派手でないからこその、豊かさ。また聡明であった。彼女の一挙一投足──と言えば大袈裟で少々気が引けるが、それらは僕の空虚に生まれた恋に意味を与えた。彼女の笑顔はそれに色を与えた。少々大袈裟に書いた。実際は三分の二程度に考えて欲しい。

具体的な話は気恥ずかしいので控えたい。しかし、謎の行動力が遺憾無く発揮されたことだけは述べておこう。かと言って、この一年で特別何かが発展したわけではない。せいぜい連絡先を交換して、少しは話すようになった程度だ。あとは想像におまかせする。

色付いた恋は、同時に僕の生に色彩を加えた。丁度できたかの友人らとの交友も加わって、端的に言えばとても楽しかった。それ以上的確に言い表す言葉を僕は知らない。だが、往々にして楽しい時は刹那の内に去ってしまうもの。やっと手に入れた日々は、一年と経たず終わりを迎えてしまう。

卒業後、意を決し彼女に個人的に会うことを申し出た。この頃で言えば、殆ど最大の決心だった。デートと言える代物ではないが、異性と二人だけで会うなどということは凡そ初めての経験だったのだ。これはその決戦日前日の話だ。

正直に言うと僕は、その日告白しようと思っていた。ついに、僕の恋は順当な分岐点に差し掛かりつつあったのだ。「思っていた」とわざわざ過去形で言うあたりお察しだが、翌日僕は本懐を遂げることなく帰宅することになる。しかし、僕は本気で使命を遂行する気でいた──当日、鏡の前に立つまでは。

この初恋から今までに、人を好きになったことがないと言えばそれは嘘になる。そして、どの恋に際しても、この日のことを思わない日がないと言えば、それもまた嘘になる。それほどまでにこの体験は僕の中に根をおろし──しかし、瑣末だ。

その日、言葉と想いを胸に秘め、鏡の前に立った。身だしなみの最終確認だ。そして、まじまじと己をみた。そこにはチンケな図体の、肌の青白い男がいた。いや、男と言えるのか。彼はあの病的な帽子を被っていて、実際病的に見える。その映像は僕にあるはずない未来を見せた。彼女の隣にいる男──僕だ。彼女は見下ろしがちに笑顔を向ける。至って普通のカップルのように。だが僕には違和感しか感じさせない。どこか完成していない。その理由は明らかだった──僕だ。僕は彼女の隣に立つ僕を許せなかった。彼女に恋をしたのは、他ならぬ僕なのに。

こうして僕は我に帰った。僕は恋をしてよい人間では──いや、せいぜい片想いしか許されない人間だった。そうだった。僕の恋愛成就権は、かつての病魔を道連れに失われたのだ。

言い換えればそれは、ただただ臆しただけで、つまりとても瑣末な問題だ。それをかつての病と、あるはずだった未来──普通の男としての恋との隔壁を、言い訳に利用しているだけだと謗る者も出てこよう。その通りだ。しかし、それが瑣末な、卑小な男の悲恋で済んでいるのは、僕が今まで何度も我に帰っていたからだ。表に出る、細く些末に見える芽。しかしその地下には太く入り組んだ根がおりている。僕はその芽を何度も摘んだ。『どうせ僕なんか』と。だが根を取りきらない限り、何度もそれは芽吹く。それを放置すればそれは巨大に成長し──毒を撒き散らすに違いない。根を取り除かねばならない。しかし、それは叶わない──それはあまりに僕の身体の髄までに張り巡らされているから──僕の死をもって他には。

昨夜刻んだ決意も、当時のちっぽけな語彙を捻り出し編んだ言葉も飲み下して臨んだ悲願の逢瀬は、果たしてとても楽しい時間だった。楽しくて、少しばかり虚しい。恋が叶わないことは辛いことだ。でも僕は言い訳があるから幾分いい。恋愛に臨まない、ただ小心の傷心を生暖かい舌で慰める手段が己にはある。その恋が、心が、熱く熟れることはないが──そのような体験をする前にこうなれてしまって良かった。もしその味を知ってしまったら、僕は羨み他者を誹るに違いなかった。酸っぱい葡萄しか知らない僕は、これが葡萄だと顔を顰め己のものを食べていればよい。


しかし、そのような僕の自慰行為とも呼べる恋に付き合わせた彼女には申し訳ない思いでいっぱいだ。実の所彼女とは中学卒業後も親交がある。会う度にかつての記憶が思い起こされ、少しばかり辛くなる。それでも、やはり彼女を好きなのだ。付き合いたいとは思わない。思わないようにしてきた。友達として──赤い「好き」を何とか橙色の「好き」にして、僕は彼女と会う。いや、順序が逆だ。会う度にやっぱり彼女が好きだと確信して──それを無理なく、己の生存を危ぶませることなく否定するために色をかえる。更に告白すると、今年に入ってからも彼女と会うことがあった。僕はいったい何がしたいのだろう。もしかするとあの葡萄に届くかもしれない。そういう幻想を抱いているのだとすれば、僕は大層利己的で卑小な男だ。懲りずに付き合ってくれる彼女には感謝しかない。この物語は、僕に近しいものが読めば僕の話とわかる位には詳細に書いているつもりだ。万が一この物語を彼女が読むことになり、そしてこれが僕の話だと気付くことがあるならば──ごめん。それから、ありがとう。僕は今も君のことが好きだ。願わくば、もう少しだけ付き合って欲しい。この「好き」に折り合いをつけられるようになるまで。そして、それが恋としての好きでも或いは友としての好きでも、いずれにしても、出来るだけずっと一緒にいたいと思う。願わくば、ずっと嫌いにならないで欲しい。


こんなことは閑話休題として──と言いたいところではあるが、無駄話には留められないのがうら若き青年の性。やはり思春期となれば恋もする。周囲の者が着々と恋人をこしらえているのを見れば羨ましくもなる。

それを僕は前述の『どうせ』の精神で乗り越えた。波は一つ越えてもまたやってくる。ザブン、ザブンと、いつか溺れてしまう前に僕は諦めた。カッコよくはないが、浮き輪によがって波に揺られることにした。

このある種諦観は、恋愛事に関わらず僕の中にいつもつきまとう。例えば運転免許を取れなかったり(可能ではあるが、目が悪いためあまりに不安だ)、スポーツをしたり、その様な「普通」はとっくに諦めた。諦めて、「普通の」人生を歩む友人をどこか冷めた目で見ていた。

僕が何らかの考えを述べた時、友人によく言われたことがある。「人生何周目だよ」これ以上的確に僕を表した言葉はない。その点で彼らはよく僕を理解してくれている。嬉しい。しかし、もう少し正確には「人生何周した気になってんだよ」だ。僕はただ、果敢に大波に挑む者を浅瀬から見ていたに過ぎない。言い訳がある事が憎らしい。「浮き輪が取れなくなっちゃった」そう冗談めかして言えば僕は安泰だ。とても、恨めしい。


さて、中学校を卒業した僕は無事高校生となる。それなりに頭は良かったから、地元では褒められる程度の進学校に進んだ。それだけあって、周りの同級生は皆聡明だった──ということはない。正直、わからない。ただもし癌の罹患は避けられないものとしても過去に戻りたいかと聞かれれば、僕は「うん」と、そして高校時代──特に高校一年生の頃に戻りたいと答える。

それはそれは充実した一年だった。かの「人生何周目」発言をした友人たちと出会ったのもこの時期だ。とても楽しかった。僕の人生で、限りなく青く染まっていた時だった。中学三年生の時も大変楽しいものだったが、それ以上のものだった。部活、新しい友人、体育祭、文化祭!そのどれも中学の頃とは比べ物にならず、新鮮で刺激的だ。この一年間は──正確には八ヶ月程度なのだが、それは一瞬で過ぎ去った。そして終わりは突然だった。癌だ。かの病魔は再び僕を蝕んで、この時を奪っていった。

中学校を卒業した後、心に決めたことがある。それは変わること。あの陰鬱な中学二年生から一年で僕の生活は一変した。とはいえ、それは友人という環境の変化のおかげであり、正直に言って僕自身は受け身がちにその歓びを享受していた過ぎない。

しかし、その体験は変化の素晴らしき効用を知るに十分だった。卒業、そして高校入学を機にまたリセットが起こった。かつて待ち望んだ日がついに来た。だがいくらリセットボタンを押したとて、同じやり方ではゲームは進まない。手法を変えなければならない。己の記憶を攻略本として──とても迂遠だが、それは未来への示唆を与えてくれる。

僕が数ある反省から学んだのは、己で選択するということ。愛憎夢象有象無象を煮詰めた末に出来たものとしては、些か低次元かもしれない。等価交換の法則に従えば真理の扉位は開いて然るべきだろう。ただ、僕が出来ることを僕なりにやった。

それが功を奏したか、それなりに滑り出しは順調だった。新しい友人が出来た。体育祭や文化祭といった行事にも積極的に参加した。それは連帯感を生んだ。僕が欲していたのはこれだ。多数の内の、しがない一人でいい。ただの独りになりたくなかった。僕は僕の中の何かが青く澄み渡ってゆくのを感じた。爽やかだった。楽しかった。喜びに満ちていた。


先にも述べたが、中学生の時にサッカーを辞めた。当時僕は学校の部活ではなく、地域のクラブチームに所属していた。だから、そこに行かなくなった後の繋がりが希薄になり、結果積み上げた関係を失う結果に繋がった。僕がそのことについて後悔しつくしてもし足りないことは既に記したが、この悔恨から学ぶものがある中で、それは僕の中で最大の成果と言える。僕は部活動に入った。切っても切れない縁だ。例え部活動を継続出来ない状況にあろうと、登校さえすれば会うことが出来る、そんな関係を作ること。それが僕の最大の目的で、同時に戦果だった。当時はまさか癌が再発するなど思ってもなかったから、この戦績は本意とも不本意ともとれる。だが、後悔が後悔の避け方を教えてくれた、最初の事例であることは間違いない。

そんな利しかないと思える部活動だが、その中でも葛藤はあった。僕はサッカーから転向、ハンドボールを始めた。兼ねてからの友人に誘われたというのも多分にあるが、初心者が多かったのも魅力的だった。それなら自分でもと思ってしまったのだ。しかし、始めてみると僕は一番、それも圧倒的に下手だった。その原因は明らかだった。目だ。遺された斜視は飛んでくるボールを不明瞭にして、見えなくさせる。おかげで僕は球技の基礎と言えるキャッチが下手だった。

土台を築けない者に上達などあるものだろうか。毎日の練習には、必ずパス練習がある。球技経験者にはわかってもらえると思うが、落とさずに何回といったノルマがしばしば課される。そして、あとほんの数回で失敗してしまう のはいつもアイツだ──なんてこともよくある話だろう。それが僕だ。先輩から怒られるのはあまり苦ではなかった。やはり僕は言い訳達者だったから。そしてそれは本当だったから。何が辛かったか。それは、かつての──病魔に蝕まれぬ僕ならば失敗しなかった、その確信が、そして現実との乖離が、僕を絶望の縁へと追いやるのだ。初めから出来なければどれほど良かっただろう。だが、かつての僕は運動が出来た。光明を知るだけに僕はその暗闇に恐怖し、憤った。ただ間違えて欲しくないのは、僕の怒りは尽く己に向けられていたということだ。天性の馬鹿真面目は放擲を許さなかった。『なぜそんなことも出来ないんだ』と。僕は深淵の中で上空のほの灯りを眺め続けた。光を夢見た。そして己に鞭打った。

その辛苦の日々に終わりをもたらしたのは、皮肉にも更なる厄災だ。去り難き時も、苦痛の日々も、全てを水に流し後に残るは生の残骸。それがかつての歓びと比べいかに「酷い」か。或いは、それがかつての苦しみと比べいかに「まし」か。その答えは今もでない。叶うならば、歓びだけをさんさんとこの身に受けて、生をまっとうしたかった。しかしそれが出来るのは一部の、本当に幸運な者だけだ。だから、ただ幸運にも生き延びた僕たちは、せめて生きなければならない。


あの日のことを僕は一生忘れないだろう。


あの日は退院後の定期検診の日だった。三、四ヶ月に一度、MRIを撮りに病院へ行くのだ。

これは余談なのだが、MRIを撮るのは見た目以上にしんどい。CTは多くの者が経験しているだろう。見た目は同じようなものなのに、その内実はあまりに違う。というのは、MRIの場合造影剤という薬剤を事前に投与されるのだが、それを入れるのは当然血管からである。毎度の点滴は、幾分慣れるとは言え、地味に辛いものである。そして撮影に際して、まず身体をガチガチに拘束される。痒い所を掻くことも出来ない。そのまま、けたたましい機械音の巣窟に投入されるのだ。せめてもの気休めにと音楽を流してくれるのだが、そのヘッドホンも付け方の加減でただ頭を締め付ける拷問器具へと変わる。そもそも機械音で歌が聞こえないことなどしょっちゅうだ。それが一時間から一時間半程続く。眠れたら幸運だが、それもスグに目が覚める。その後は身体の発する熱との戦いだ。初めての時は、あまりの苦しさに根を上げたものだ。

MRI、と言うよりは定期検診の辛い所はもうひとつある。毎度、定期検診が近づく度に体が変調をきたすのだ。恐らく、万が一再発していたらという不安やストレスから来るものだろう。しかし、そんなことは百も承知で僕は悩んだ。それが精神的なものなのか、それとも病魔なのか、完全な判別はつかないのだ。その上、僕はかつて癌による苦痛を精神のせいにして、結果命の危機に瀕している。

ふと頭痛が三日続いていることに気がつくと、途端に僕は恐ろしくなる。全てを飲み込む波がすぐ背後に押し寄せてはいないかと、足がすくむ。それでも僕は何も出来ない。次の定期検診を待って、すっかり仲良くなった主治医の笑顔を見るまでは。それでもまた二ヶ月には、夜寝床で震えている。まるで何か依存症の禁断症状みたいだ。この場合、僕が心の底から欲してるのは「普通」なのだから、なんと理不尽なことだろう。

あの日は、その恐れていたことが起こった、しかし僕の恐怖が無駄にならなかったという意味では記念すべき日になる。

また嫌なことにそれは予想外の展開で僕の前に登場した。というのは、その時の僕は何ら身体的不調を感じておらず、寧ろすこぶる好調だった。検診のおかげで行けなかった部活動を惜しみながら、明日について考えていた。それが陰鬱な告白の日になるとは思いもしなかった。

診察室のドアを開けて違和感に気づいたのは、いつもは懇意にしている主治医一人なのが、その日は外科の主治医加えての二人だったからだ。

とは言え、そこで再発を告げられるとは考えてもない僕は、いつも通り椅子に座った。

それは、とても淡々と告げられた。前回は頭にあった腫瘍が、今回は背中の辺りに出来ていた。痛みも何もないのに。僕は不思議な気持ちになった。布団にくるまり怯えた恐怖を忘れていたのだ。

主治医の顔からいつもの子供のような笑顔はなかった。外科医の高い声もこの日ばかりは控えめだった。僕は未だに、あの日ほど現実感に乏しい現実を体験したことが無い。それは物語の主人公の悲劇に、頭で胸を痛めるみたいに、ちょうどこの話を聞いてくれる人がいたら、あなたが今感じているように、他人事だった。心と身体が一致していない。真に理解出来ない。

診察室のドアを再び開いたのが、堰を切ったようだった。恐怖はなかったのではなく、実の所着実に溜まっていたのだ。

ただ、時のダムが常にあるはずの厄災を忘れさせていた。管理出来ていると油断しているうちに、自然の脅威はゆらゆらと僕に迫っていた。寸分遅れて、涙が出てきた。人目をはばかる余裕もなかった。訳がわからなかった。「何故」が頭の中でぐるぐる回っていた。「何故、僕が、また」しかし、それもやがて流されていった。厄災に理由なんてない。


前回と異なるのは、今回に限って入院、手術までに時間があったということだ。これは僕に再発を受け入れる、そして別れを覚悟する猶予が残されていたということであり、逆に、友人たちが僕を送り出すことが出来たということでもある。これはとても幸運だった。いや、現代医療が僕を救ってくれたのだ。

癌が再発したことを友人に告白したのは次の日のことだったろうか。詳しくは覚えていない。何せ、その間までの時間はとても嫌なものだったから。

その日は夕方から夜まで練習があった。練習の日は着替えを済ませ、駅までの帰り道で談笑するのが何よりの楽しみだった。ただその日に限っては憂鬱だった。練習にも当然身が入らない。それもそうだろう。

身体とは不思議なもので、今まで何もなかったのが、癌があると思うと背中が痛くなる。急激に悪化してやいないかと、また不安になる。

「定期検診だから、大丈夫って言ったのだけど」

そう、切り出すだけで校門までかかった。練習を終え一休みして、着替えるまでの鬱々たる時間を想像してもらえれば、そこまでの葛藤がわかるだろう。

「癌が、再発した」

やっとその言葉を捻り出した。

赤子が産声をあげるように、次の言葉はすらすらと出た。今度は背中に癌ができたこと、しばらく検査入院して、手術をすること、その後は治療で会えなくなること。

ややあって、友人は言った。

「頑張れ、帰ってこい」

圧倒的物量の感情を前に人は無力だ。親しい者の死、或いは己に降り掛かる災いに際して──例えば僕のように。思うに、同じことが言葉にもいえる。つまり、伝えたい言葉があればあるほど、伝える手段があればあるほど、僕らは口を閉ざしてしまう。そうであるならば僕たちはいっそ、言葉の選択を放棄すべきである。いくらほどの修辞に満ちた告白も「好き」の一言に勝るまい。何故なら、僕たちは自己完結の手段として言葉を編むのではない。「私」と「あなた」でひとつの作品を作り上げんとして僕たちは言葉を交わすのである。各々の言葉が単純でも、それが結果として紡ぎ出す関係性、その美しさこそが言葉を操る人間として目指すものなのだ。

友人の言葉は簡素だった。だが、それで良かった。何故ならば、僕は今の僕の苦しみを理解してもらいたくて言葉を発したのでは無く、これからの僕たちについて意思の共有を図りたかったのだ。そして僕の意思とは、僕がしばらくいなくなっても、例え一緒に部活が出来なくなっても、それでも、今までのような関係でいたいということ。

それは僕だけで完結しえない問題だ。いくら流麗な言葉も、ひとつ返事の前に無意味だ──僕の望んだ言葉の前に。

彼らの糸を受け取り僕は決意した。どうなっても、絶対に帰ってくると。あの時──中学時代の後悔を、繰り返さないと。僕は友人の想いにあてられ泣いた。何故涙が溢れるのか、それは理解を超えて、悟り、もはや天啓と言えるまでに明らかだった。彼らと別れたくない、一緒にいたい──彼らが大好きだから。そうやって泣けるのは、とても幸せなことだと思う。

もうひとつ、生涯記憶に残るであろう出来事があった。当時少しばかり交友のあった女子部の部員たちが僕の入院に際して、ある贈り物をくれた。写真とメッセージカード、それから松岡修造の日めくりカレンダーだ。

特別に彼女らと仲良くしていたかと言えば、そうでは無い。練習などでよく一緒になり、たまに話す程度だ。

そんな間柄に関わらず、彼女らは非常に丁寧にも僕を送り出してくれた。

小学生以来、一部を除き異性との交流が途絶えたからだろうか、あるいは単に自分という人間の生を肯定してくれたからだろうか、どちらでもいい。大層励まされた。当時涙することは無かったが、感動でいえば友人たちのそれと同等だった。感謝の二文字で足るものでは無いが、それ以上的確に僕の想いを表す術を知らない。日毎に僕を励ましてくれた松岡修造は、今も僕の部屋を笑顔で照らしてくれている。


さて、手術は無事終わった。その次に待つは苦難に満ちた治療の日々。と思われたが、存外に苦しみは小さかった。あくまで、暑さによる苦と寒さのそれとの比較のようなものだが。

外科から内科に病棟が移って、思わぬ人と出会った。それは、かつて世話になった看護師たちだ。当たり前と言えば、当たり前だが、彼女らは働き続けていた。かつて退院をひとつの大きな区切り、それも不可逆的な別れと考え涙した僕は驚いた。そして時の流れにおののいた。

かつて新入りだった彼女らは既に後輩を指導する立場にあり、また初々しい看護師たちが僕を受け入れてくれたから。そして当の僕も既に高校生で、身長こそ当時と変わらないものの、はるかに大人びていたから。なのにまたこの病院にいるということが、不思議で、残念でならなかった。なのにどこか再会を喜ぶ僕がいる。

治療内容は前回と少し変わる。正しいかはわからないが、恐らく前回よりも強行手段と言える治療だ。抗がん剤で血液の細胞をがん細胞ごとあらかた全て殺してしまう。それでは死んでしまうから、事前に自己の造血幹細胞を採取しておき、培養。後にそれらを自分の血液に戻す、自家移植というものをした。

そんな治療だからさぞ辛いものと思われた。しかし、僕の、そして周囲の人間の予想は良い意味で裏切られた。比較的、体調を崩すことがなかったのだ。無論、完全にとは言えない。食べ物は口と思考を通らないし、夜の寝不足はあいも変わらない。しかし、嘔吐の回数などは格段に少なかった上、気分もまだ良かった。

おかげでずっとベッドに臥せるということもなく、漫画を読んだり勉強したりと自分の時間を持てた。当時はあまりに薬の副作用が弱いものだから、これは果たして効いているのだろうかと不安になった。しかし、退院後三年経とうとする今まで再発がないことを鑑みるに、これはよく効いたが故のものだったのだろう。大変幸運だったと言わざるをえない。

不幸なことを敢えて述べるなら──いや、述べなければならない。いつだって、幸福の裏には不幸せがある。どちらを見つめるかは自由だが、一方から目を背けていてはもう片方を真の意味で享受などできない。僕の場合は尚更だ。か弱い光に強い憧憬を抱くには、己の身を闇夜のうちに置かねばならない。

それは抗がん剤ではなく、手術による治療の後遺症だ。

前回は脳の手術という割に後遺症は無かった。今回は背中であるが、こちらもまた多くの神経が通る場所。どうしても、何らかの障害が残ってしまうリスクは避けられなかった。

結果として、二つ、後遺症が残った。

ひとつ、左半身の軽度麻痺。特に左足は明らかに反応が悪く、凡そのスポーツは困難となった。

ふたつ、耳が悪くなった。日常生活に支障が出るものでは無い。しかし、様々な音の混在する空間などで、音を拾うのが困難となった。お陰様で人の会話に入れない、空気が読めない人間になってしまった。

これらふたつ、前回の斜視や禿げを含めよっつの後遺症はどれも生活に特別の対応を迫るようなものでは無い。その点では世間一般で問題視される障害者のそれとは雲泥の差と言える。しかし、軽微だからこその苦しみというのは確かに存在すると僕は思う。つまり、初めから見えない、聞こえない、運動できない、そんな状況であればそれらが「出来る」状態、「出来る自分」の気持ちを知らない。初めから希望が、いや、希望や絶望といった概念もないのかもしれない、それがスタンダードなのだから。

僕の障害は軽微だ。しかし、後天的だ。僕は自分が「出来る自分」をスタンダードとして生きてきた。それを突然奪われる。「出来たのに出来ない」その苦しみと元から「出来ない」苦しみを比べることなどできようか。

先天、後天の話ならば障害の軽重は関係ないかもしれない。では、軽微な障害だからこそ、少しは「出来てしまう」苦しみはどうだろう。「出来る」が決して完璧には出来ない。そのもどかしさは時に己を呪い殺したくさせる。夢に見て、現実に絶望させる。諦められない。そして、諦めたくない。天性の馬鹿真面目は僕に放擲を許さない。手指の間から零れ落ちる得られるはずだった栄光を、僕は取り逃すまいと慌てて宙を掻く。何度もそうやる内に僕は、自らが地に這いつくばっているのに気が付くのだ。そして涙する。とても、幸福だとは言えない。


退院した時には既に二年生の夏も終わろうとしていた。もうかつてのように号泣することはなかった。ただ、少しばかりの寂寥と共に、「もう会わなければいいな」と思った。半年以上に渡り、また一部は数年来僕を支えてくれた看護師たちを、僕はとても好きだったし、本心ではまた会って話したいと思った。でもそれは嫌な妄想を喚起させるものだから、思うまいとした。幸いにして、あれ以来彼女らと会っていない。もうそろそろ、いいだろうか。会いたいと思って。おかげさまで何とか大人になれそうですと伝えて。

僕は高校に復帰した。同時に、部活にも復帰した。しかし、先に述べた通り脚は既に運動出来る代物でなかった。そこで僕は、決断をする。僕はマネージャーになった。それは、高校生活の中数ある選択のうち、最も素晴らしきものだと今なお思う。間違いなく退院後僕の人生の転機と言えた。

もし仮に、プレイヤーとしての道を閉ざされた僕が部を離れたら──中学生の僕のように──きっと僕はかつてと同じような人生を歩んでいただろう。つまり、毎日を退屈の中で暮らし、人生のリセットボタンを希求するような生活だ。

というのは、やはり復帰したての僕は人付き合いレベルが格段に落ちていて、教室で一人といったことがよくあった。勿論学校の皆は優しかった。しかし、気遣いは行き過ぎるとどこか距離を置かれているような気持ちになる。それは傲慢な考えに違いない。だがこれは僕に問題があることだ。気遣いを受けると、申し訳なくなってこちらも相手を気遣う。それは一見好ましいようだが、実の所すれ違っている。僕は気遣いを純粋の感謝で受け取れるほど強くはなかった。僕には、それこそ「気の置けない」友人が必要だった。

そんな存在が、部活の仲間だった。プレイヤーとしての道を絶たれた僕は、マネージャーの道を選んだ。これは中学生の頃の反省の結果だ。つまり、切っても切れない縁を僕は辿った。その助けとなってくれたのが彼らだ。彼らは僕を、数少なの労いと、無言の肯定で受け入れてくれた。

相変わらず、クラスでは一人だった。いや、幾人の友人は出来たけれども。それでも、放課後になれば──部活にも行けば、それだけで一日が楽しかった。楽しい。なんて人生は楽しいんだ!

青春の日々を謳歌するに、3年という月日はあまりに短い。僕の場合2年そこら。受験期間を入れるともっと短い。僕の高校はそれなりの進学校だった。僕は地元の、世間一般で見れば優秀な方の大学に合格した。友人たちも同様だ。何人かは同じ大学だったものの、大方は別れた。

別れ──とはいえ、僕たちはもう選挙権まで持つ歳。かつてほどの寂しみを覚えるものではなかった。むしろ、大学生という、とても輝かしく芳醇な響き、それは僕を楽しくさせた。受験の苦労もこの時のため。勉学の日々に語らった憧れが、今や目の前に。この四年間はきっと、素晴らしいものになるに違いない。そうしてみせる。合格通知に胸を躍らせたあの時から一年、まさか今これ程までに冷めた気持ちでいるとは思いもしなかった。まさか、このような形で僕の時間が奪われてしまうなんて、ちっとも。これは厄災だ。それは全てを流し去って、スタート地点さえ消してしまう。


ここから今に至る一年は、わざわざ振り返ることもあるまい。端的に言えば、緩やかに僕の時間は奪われていった。期待に胸を膨らませた大学生活は、どこからか空気が漏れだしていて、残ったのはヨレヨレのゴムだけだ。僕は仕方がないからそれを伸ばしたり縮めたりして、暇を持て余している。退屈極まりない。初めて大学に学びに行ったのは入学から半年後。それも週に三回、ほんの二時間足らず。勿論入学式はなかったし、新歓や学園祭も中止。先日掃除の際に出てきた大学の資料を見て、はて大学とはこのようなものだったのかと首を傾げるような有様だ。

唯一幸運だったのは、部活に入れたことだろう。高校以来の──同じ部活の友人と、ハンドボール部に入った。僕は彼に、お前が入部するなら俺も入ると言っていた。ハンドボールを続けるなら、俺は支え続けると。多少他力本願ではあるが、僕は再びマネージャーとしての道を歩む。不本意に選んだ道ではあったが、マネージャーというのは僕の性分にあっていた。どうやら僕は自分の存在意義を他人に求めるきらいがあるようだ。自信のなさの表れとも言えるが、よく捉えれば他人に尽くすことが自己確立の手段であったのだ。

マネージャーの仕事はひとつひとつの仕事は地味で単調だが、選手のためと思えば光栄な仕事と思えた。彼らの成長は僕の成長だったし、彼らの感謝は僕の存在意義だった。

そんな天職を得たという他に、部活はひとつ大きな恩恵を与えてくれた。それは人との繋がりだ。僕たち新入生は、大学内に知り合いが殆どいないという状況で、互いに顔を合わせることを禁じられた。当然、やっと対面授業が始まった半年後まで、部活関係を除いた友人は一人たりとも出来なかった。

唯一対面を許された場が部活動だ。僕は能動的他力本願により、幸いにも友人を作ることが出来た。とても幸いだ。しかし、それは本来得るはずだったものと比べれば、小さく限定的だ。本当ならば──本当ならば?


僕の人生は理不尽に奪われてばかりだ。では、奪われてしまった「本当の」人生こそ真なる僕の人生なのだろうか。もし十年前に戻れるとして、そして癌にならない人生を歩めるのだとしたら、僕はあの日に戻りたいのか。何度も、何度も、自らに問うた。眠れぬ夜、腐乱死体みたいに思考の海から浮かんできた。それはもはや呪いだ。そんなの、決まっている──本当に?

この問いにイエスと答えるのは簡単だ。僕が癌にならなければ、僕はもっと明るく広い道を進んでいたに違いない。長く続けていたサッカーを辞めることなく、スーパープレイヤーになれはせずとも、部活でそれなりに評価されるような選手にはなれただろう。中学生を終える頃には身長も人並みに伸びて、もっと男らしい姿になっていただろう。上手く聞き取れないからとおしゃべりの輪から離れることもなかったろう。きっと友達ももっと出来たことだろう。その当然の帰結として、傍らには美しき黒髪の乙女。とても素晴らしい人生を歩んでいたことだろう。

でも、だ。もし僕が別の人生を歩んだとしたら、僕は今僕が大好きな人と出会わなかったのではないだろう。少なくとも、僕が己の存在立脚を望むような関係には至らなかった。もし僕が癌にならなかったら、ハンドボール部に入ることも恐らくなかっただろう。性格や振る舞いが異なれば、気が合う友人も変わっただろう。恋人がいないからこそ逆に過ごせた時間も失われただろう。それら「あるはずだった人生」にとって「あるはずだった」もの、彼方の僕にとっての僕は羨ましく、素晴らしいものに違いないのだ。何故なら、僕は今を生きる僕が、そして僕の周りの人たちが、大好きだ。たとえ十年近く続けたサッカーが出来なくなろうとも、己の非力に涙を流そうとも、同性の誰よりも身長が低くとも、会話についていけず一人黙ろうとも、友達は少なくとも、恋人はずっといなくとも、それでも、少なくとも彼らがいなくては生きている意味が無いと思える程に、彼らを好きになってしまった。だから僕は、彼方の僕に憧れを抱きながら、ノーと答える。

森見登美彦の四畳半神話大系で樋口師匠が言っていた。

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」と。

ちょうど、これを書いている頃だ。もし僕が作中の主人公ならば、「薔薇色のキャンパスライフ」を放棄してでも、彼を師と仰ぐであろう程に心打たれた。不可能性が僕を規定するのならば、この世界はいったい、どれほど僕を鮮やかに描きたいのだろう。それは僕が何かを可能にしようとする度に、貪欲に奪ってゆく。ああ、彼らの思惑通り、僕はこのような傍目恥ずかしい手記を遺すほど、内向的になってしまった。もうそろそろ許して欲しい。いささか、見るに堪えない。

師匠は同時に仰った。

「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ」と。

僕は師匠に一生ついて行くことを誓った。たとえ黒髪の乙女は彼方にいようとも、桃色遊戯を体験することなく青春を終えようとも──そうした、自虐に見せかけた羨望も諸悪の根源に違いない。口惜しいが、彼方の僕には消えてもらおう。くよくよと考えそれらしい事を言っていれば格好がつくのは子どもの特権だ。僕はもう子どもじゃない。地に足をつけなければならない。しかし、年に一度、夢の中で相見えるくらいならば許して欲しい。その暁には、僕は彼を羨み、彼は僕に称えるだろう。それぞれの、あり得べきだった素晴らしき人生を思って。


もうしばらく、あと数時間足らずで二十歳を迎える。

これを書き始めたのはまだ桜の咲かない季節だから、あれから一、二ヶ月は経ったことになる。元々は1万字程で想定していたが、倍以上長くなってしまった。流石にしつこいので、この辺りで終わりにしたい。いるかわからぬ読者もそんな唾棄すべきものを読んで、貴重な時間を溝に捨てたくはないだろう。成就した恋ほど語るに値しないものはない。と、言いたいところだが、残念ながら僕の恋愛空模様は変わらない。そろそろ梅雨の季節がやってくる。

あれからまた状況は変わった──全く、悪い方向に。うんざりするほどの自粛、自粛、隠し味に自粛を加えて、香り付けに自粛。出来上がったのは何のフルコースだ。よくわからぬ間に時間を溝に捨ててしまった。後輩を堪能する間もなく僕は先輩になった。ようやく始まったと思った大学は一週間で閉鎖し、唯一頼みの綱たる部活も禁止。バイトをしようにも店は時短営業。はてさて、僕たちのキャンパスライフはいずこ?

刻々と酷酷と悪くなる状況に、もはや悲しみすら感じなくなってきた。そんな保証はないというのにどこか、この危機を乗り越えれば何らかの救済があると信じている。これは正常性バイアスというやつのひとつだろうか。中学、高校、そして大学、ここまで徹底して青春を奪われた者というのは、かなり珍しいのではないだろうか。その現実感のなさからいずれ救済措置が後払いされるものと思い込んでしまう。人生はソシャゲとは違うのに。詫び石を待つ侘しい光陰の矢は目標もなく飛び続けている。いつか、素敵な乙女の心を射止めてくれんことを祈るばかりだ。

などと客観ぶりつつ冗談めかして書くあたり、かなり重症だ。もはやこの現実に滑稽みすら感じる。カラカラと笑って、お道化てそのままビルからダイブしてもおかしくないと思う。いつだって退屈は嫌な妄想を掻き立てる。

ただ、僕は二十歳を目前にして喜びを感じている。正直生きて成人を迎えられるか不安に思っていた。それが可能になったことに喜びと、感謝をここに記したい。親や先生、国、そして愛すべき友人たちへ、二万字の内たった五文字だけど、四千倍に濃い感謝を。ありがとう。あなたたちのおかげで、時々辛くても、その中に咲く幸せを愛でられる。嫌な想像がふと頭をもたげても、現実に帰ってこられる。


最後に。


これまでに綴った話は、全て僕という人間に起こった現実である。しかし、これは物語であり、つまりフィクションに過ぎない。何故ならば、僕本人がこれをノンフィクションであると言おうと、ここに記された僕の全ての感情を汲み取って貰うことは土台無理な話だからだ。人生は人によって千差万別、その濃淡や明暗、幸不幸の度合いは異なる。当然その受容のされ方も異なってくる。同じ湯でも、ぬるま湯に浸かった者と冷水に浸かった者ではその感じ方が異なるように。つまり、どこまで行っても究極、他者の人生など他人事に過ぎないということ。その意味で、僕の人生は誰かにとっての物語だ。ここに僕がこの物語を記す意味がある。


僕がこの世に産まれ落ちて二十年。この間に数え切れぬほどの後悔をした。ああすればよかった。こうすればよかった。彼方の僕の成功を夢想して、僕は嘆いた。それは、樋口師匠にすれば愚かしいことであろう。だが、後悔から学んだものが多いのも確かだ。

ご覧の通り僕は、比較的辛く苦しい道を歩いてきたつもりだ。だから、人より多く後悔をしてきたと思う。そうでなくともわかる事だが、やはり、後悔しないで済むならその方がよい。

そして、その後悔しないで済むためのツールというのが物語であると僕は思う。つまり、人はある物語──それはジャンルとしてフィクションでも、そうでなくともよい。それを読み、他人の後悔を汲み取ることで己の道に埋まる後悔の種を避けることが出来る。

先日僕は思った。後悔は先に立たない。けれど、物語は先に立ってその避け方を教えてくれる。

僕は、僕の人生が誰かの道の先に立って、その道標となることを切に望む。そうなれば、僕もわざわざ険しい道を登ってきた甲斐があったというものだ。欲を言うならば、その時は少しばかり感謝してくれたら嬉しい。


本当に、これで最後にする。去年になるが、大学の合格体験記を書いた。簡単に書きあげたのが三月。その一月後、状況が変わった。中国からやってきたというウイルスが猛威を振るい始めて、学校がなくなった。そこで僕は先生に無理を言って、原稿を書き直させてもらった。これから受験という苦難に挑む後輩が更なる苦しみを負うことに対し、僕なりに何か出来ないかと思った。それで僕は僕の闘病生活のことを書いて、それから最後にこう記した。


「溺れる中、例え藁であっても掴む気概を持って欲しい──掴んだ藁が虻を捕え、蜜柑になり、ゆくゆくは大きな財産とならんことを、切に願います」


あの時から状況は更に悪くなった。この物語は誰とも知らぬ人の道標となるものである。そして、僕の決意の証である。


未完。





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