忘れ物
「じゃあ、佐藤さん。今日は数学からね」
「うん」
「先生に呼ばれているから、終わってからでもいい?」
全部の授業が終わると、約束通り内山くんが声をかけてきた。
「あ、うん」
頷いたけれど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
だって昨日、正確には一昨日の放課後に王子と別れてから何も手に付かない。
勉強もできているのかわからない。
チラッと王子の席を見る。
王子は相変わらずみんなに囲まれて、楽しそうにしている。
私のことなんて、気にしてない。
ぼんやり王子をみていると、王子がふっと顔を動かして私へ顔を向けて、視線があった。
「あ……」
何か言わないと、そう思って口を開こうとしたら、それより先に視線がそらされた。
そのことにショックを受けていると、王子の部活仲間達が王子に声をかけてきた。
「五十嵐、どうする?帰る?」
「図書館行く?」
「試験期間って部活ないけど、結局勉強しないよな」
それを聞いてあっと驚いた。
王子は今、部活が休みだったんだって。
じゃあ、帰るのかなと思って、急にそわそわしてしまう。
昨日は一人で帰ってしまったけれど、今日は一緒に帰ろうって迎えにきてくれるんじゃないかと思って、都合が良いと思われても、つい期待してしまった。
王子がチラリと私をみて、また視線があった。
だけど、何も言わずに友達の方を見ると
「じゃあ、帰るか」
そう言って荷物を手に取った。
「あ、でも、いいの?」
王子の友達がちょっと言いにくそうに口を開いて、その場の視線が私に集まった。
もちろん、王子も。
だけど、王子は誰よりも先に私から視線をそらす。
「いや、いい」
そのままドアへ向かって歩き出した。
「え。いいの?」
友達の声に返事もしないで教室を出て行ってしまった。
「ちょっと、五十嵐」
そんな声とともに追いかける音がした。
でも、それ以上見ていられなかった。
王子とは、お世辞にも付き合っているとは言えないくらいの関係で
彼女らしいことといえば、名前を呼ばれるくらいで
みんなには笑顔で優しくてとってもいい人なのに
私の前では訳わからないことで怒ったり不機嫌になったり、さっきみたいにものすごく冷たい顔をしたり
……こんなの彼女なんて言えない。
「もう、知らない」
私だって、つい最近までは王子となんの関係もない人間だった訳だし、今更王子と話さなくなっても、別になんとも思わない……。
例えば、いつの間にか王子が他の人と付き合ってても、きっと何も……思わない、はず。
ジメジメした気持ちを払うように頭を振ると、ノートを開いた。
「勉強しよう」
だけど何も頭に入らなかった。
頭の中は王子のことばっかりで。
どうでもいいって思うくせに、どうしても、どうしてもこのままにできなかった。
大きく音を立てて、私は椅子から立ち上がった。
机の上の教科書やノートをリュックに放り込むと、急いで教室をでた。
教室を出たところで内山くんとすれ違う。
「え、佐藤さん?」
驚いた顔をした内山くんに、私は大きく頭を下げた。
「ごめんなさい」
内山くんは困った顔で私を見つめていた。
「佐藤さん、勉強は?」
「あ、あの……」
私はもう一度頭を下げる。
「ごめん、勉強はやっぱり、いい」
「え、試験大丈夫なの?」
「あ、ええと……」
私は息をついて、内山くんをみた。
「試験勉強は、自分でなんとかする。せっかく気を遣ってくれたのに、ごめんなさい」
「一人で大丈夫?」
内山くんの目が少し探るように私をみた。
大丈夫じゃない。
試験勉強は今の所ボロボロだ。
だけど、このまま勉強しても、きっとうまくいかない。
頭の中は王子のことばっかりで、どんな数式も英単語も入ってくれない。
いまこの瞬間は、試験より勉強より王子を優先したい。
「なんとかする」
私はキッパリと宣言した。
「だから、今日は帰る。ありがとう」
それだけ言って、私は走り出した。
なんの取り柄もない私だけど、意外にも走るのは早い。
だけど、ずいぶん前に学校を出たはずの王子に追いつくのは、さすがにキツい。
連絡しようにも、私は王子の連絡先すら、知らない。
だから走るしか、ない。
駅まで歩いている人たちの間を縫うようにして走っていく。
息が上がって、苦しくなる。
でもどうしても、捕まえたくて、私は必死になって走った。
駅までもう少し、というところで、私は反対側から歩いてくる人を見て、驚いた。
「王子!」
思わず声が出た。
それはどう見ても王子で。
どうして人の流れに逆らって歩いてくるのか理解できない。
だけど、私を見て思いっきり苦い顔をした。
王子のところで立ち止まると、私は膝に手を当てて呼吸を整える。
「……何してんの?」
「お……おう、じに」
途切れ途切れに話す私を、王子は苦い顔のまま見ている。
少しして呼吸が落ち着いてから、ようやく私は顔を上げた。
「王子は、どうして?」
「忘れ物した」
「あ、そ」
「真依は?いいの?勉強」
その顔は私から逸らされて、少しだけ不機嫌に映った。
「内山に教わりたいんだろ?勉強」
吐き捨てるように言って、王子はため息をついた。
「違う」
「何が違うの」
「勉強はしたい…というか、しないとまずいんだけど、内山くんと勉強したいわけでは」
「へえ、あいつはそう言っていたけどね」
王子はまた苦い顔をした。その目が冷たい。
それに怯みそうになって、だけど私は勇気を振り絞って王子をみた。
「私、王子とがいい」
王子は少しだけ目を丸くして、私へ向き直った。
「何言ってんの?」
「私、王子と勉強したい。内山くんじゃなくて、他の人でもなくて、王子がいい……だめ?」
王子はじっと私を見ていた。私は王子の視線を見つめ直した。
たっぷり1分以上、王子はじっと考えて、それから私を見て笑った。
「真依がどうしても俺と勉強したいっていうなら、教えてあげてもいいよ」
「……え?」
王子は満足そうにニヤリと笑って頷く。
「言っとくけど、俺は厳しいからね。手加減しないから」
「え?」
王子は私の腕をガシッと掴んだ。
「じゃあ、もう試験まで時間もないし、早速今日から始めよう」
そうして私を引きずるようにして歩いていく。
「ちょっと、王子」
「彼女だからって甘くしないからね」
「えええ?」
そのまま駅へ向かう王子を、私は慌てて引き止めた。
「あのさ、王子」
「何?」
「お願いがあって」
私は王子の手を引いた。
「連絡先、教えて」
「は?」
「王子の連絡先、教えて」
そのお願いに王子はふっと顔を綻ばせた。
そしてポケットからスマホを出すと、私と連絡先を交換した。
「よかった」
これで何かあっても連絡が取れる、と安心する私の横で、王子の声がした。
「いつでも連絡していいから」
「いつでもいいの?」
驚いて聞き返すと、王子は片眉を上げて笑った。
「連絡したいならしてもいい。出ない時もある」
「後で連絡してくれないの?」
「時と場合による」
えええ?
やっぱり王子は王子だ。
いつまでも召使いポジションから抜け出せない。
思い切り情けない顔をしてしまうと、王子はおかしそうに笑った。
それは気取ったところも、意地悪なところもない、楽しそうな笑顔で
その笑顔が好きだな、と思った。
王子はあっという間に真面目な顔になって私を見た。
「じゃあ、時間もったいないから、いくよ」
そうしてとても自然に私の手を取って歩き出した。
駅の方に。
だからつい、気になって聞いてしまった。
「え、忘れ物あったんじゃないの?取りに行かなくていいの?」
隣を歩いていた王子が私へ顔を向けた。
そうして肩をすくめて笑った。
「もう回収した」
「え?」
「いいから行くよ」
「え、でも」
「時間がもったいない」
意味がわからなくて、何回か聞き返したけれど、
王子はそれ以上、この質問には答えてくれなかった。
代わりに今度の試験範囲の内容を質問されて、一つも満足に答えられなかった私は、
早速王子からスパルタ教育を受けることになった。
交換した連絡先は、試験勉強用に使われるようになった。
むしろそれ以外の使用法は、今のところない。
選ぶ人、間違えたかも、と思ってしまったのは、王子には絶対に秘密だ。




