北へ
帰りの道での師匠は無言だった。「馬鹿者」くらいは言って欲しいが、それを言ってくれというのも変なので、こちらも無言になるしかない。
返してもらった背嚢の中からはメモと地図が無くなっていた。泥棒じゃないか。師匠がいなければ中身を改めたときに暴れていたかもしれない。しかし地図もメモも既に頭の中に入っているのだ。白竜さんが眠った後、一人でにやけながらメモは何度も読み返した。忘れている事などないだろう。ざまあ見ろ、だ。帰ったら別のメモに書いて大事に隠しておこう。
自分の家と師匠の家との別れ道でやっと師匠が口を開いた。
「今晩は家に来るか?」
「そうですね。おかみさんにも心配かけたでしょうからあやまらなきゃいけないし」
「わしはまだあやまってもらってないぞ」
「心配してたんですか?」
「馬鹿者」
やっといってくれた。涙がでてくる。
「お金は絶対返します。すいませんでした」
言い終わると同時に声を出して大泣きしてしまった。こんなに泣いたのは図書館の完成披露以来だ。嬉しさや悲しさではなく、悔しい気持ちで泣いたのなんて初めてだろう。
おかみさんは優しく慰めてくれた。温めたスープを出してくれて、今夜は泊まりなさいと頭をやさしく抱き締めてくれた。今度はその優しさに大泣きした。
次の日の朝、居間へ行くと師匠が難しい顔をして手紙のようなものを読んでいる。
「難しい顔をして、読めない字でもありますか?」
「……馬鹿者」
なんだかいつもの「馬鹿者」ではない。
「これを読め」
渡された手紙には「白竜教の過激な一派がヴェセミアさんへ天誅をと動きだしたようです。お早くこの皇都より離れた方がよろしいでしょう」と書いてある。顔から血の気が引くのが分かった。
師匠の顔を見ると師匠も青ざめている。
「とりあえずどこかへ逃げておれ。居場所が決まったら手紙をくれればこちらの状況は知らせる」
「逃げろっていわれても、どこへ?」
「南のエテラ国へでも行ったらどうだ。あの国の建築物でも見て勉強してくればいい」
「戻って来られますかね?」
「……なんとかする。……とにかく今は逃げるんだ」
村から戻って家に帰っていない。白竜の祠へ行ったときに用意した背嚢だけだ。これで逃げなければならないのか。
「兎に角、急げ」
師匠も門まで来るといったが私から断った。これ以上、師匠やおかみさんに迷惑を掛けられない。玄関の扉の内側へ師匠を残して閉め「それじゃお元気で」と云い残してその場を走り去った。
数分程走って、向っているのが南とは逆の北側だと気付く。この皇都を出なければならないことは判っているが頭が混乱していた。
南のエテラ国に行けと言われたが、あまり行く気にはなれない。ふと白竜の言っていた「創成の竜」のことを思いだすと戻ることなく北の門を目指していた。
自分でも、なぜ創成の竜のことを思いだしたのか判らないが、混乱している頭では考えることもできない。兎に角、北門を目指すだけだ。
ふいに後ろから「いたぞ。こっちだ」という声が聞こえる。
「え。私? 嘘でしょ?」
通りには人影はない。まずい、走らなきゃ。
少し走ると前方の路地への入り口にロヒさんの顔が見えた。ロヒさんは左手の人指し指で口を押さえ「声を出すな」という仕草と、右手で「こちらへ来い」という手招きをしている。
「助けてくれるんですか?」
息を切らしながら尋ねると軽く頷き、塀に立て掛けていた木戸らしき板を地面に置いた。
「これを捜していて遅くなったんです。さあ乗ってください」
「乗るって、これに乗って、どうするんですか?」
「乗れば判ります。さあ、早く」
子供の頃に読んだ絵本に出てくる魔法の絨毯だろうか? 少し怖い。
その木戸へ乗るとロヒさんも隣に乗った。乗ったかと思うと、ふわっとした感覚を身体に感じ、その木戸ごと二人は空を昇っていった。
「魔法の、――木戸?」
「絨毯じゃ柔らかすぎて人の身体を支えられませんからね。夢がなくて悪いけど我慢してください」
「とんでもない。助けが来るなんて思ってもいませんでしたから、今、すごく嬉しいんです。でも、どうして私が危ないって知っていたのですか?」
「どうやら私の悪戯が招いた事態のようですからね。責任は取らせてもらいます。しかし申し訳ないとしか云えませんが、数ヶ月はこの町を離れていてもらえますか?」
この話し振りだと、この「事態」の全容は知っているようだ。
「それじゃ、今朝、師匠宛ての危険を知らせてくれた手紙もロヒさんが?」
「はい。私が直接言っても、その師匠さんとは面識が無いですから。怪しまれるよりは手紙の方が良いだろうと思って」
この事態を招いたというのは地図のことだろうか?
「白竜さんに聞きました、あの地図はロヒさんが描かれたものだと。本当なのですか? それならこの事態を招いたというのは確かにロヒさんだと思われるのも判りますが」
「白竜が……。――白竜からはどこまで聞かれましたか?」
「どこまでというと?」
「あ、いえ。なんでもありません」
この人は色々と隠し事が多いらしい。しかし地図を描いてくれた事には感謝すらしている。悪い人でなければ良いのだけれど。
「ところで、私は北門を出ようと思っていたのですが、向っているのは……南でしょうか?」
「はい。一旦南へ向います。その後、西門あたりから出ましょう。町の外を周って北を目指した方が相手の目を誤魔化すことができるでしょう」
「あ、はい。お願いします」
さすがは冒険者だ。こういう荒事でも慌てることなく冷静な判断をしてくれている。私一人だったら北門を出てからも追手に追われつづけていたことだろう。ロヒさんがこれまでに経験した冒険談をぜひ訊きたくなった。
魔法の木戸はいつのまにか西門近くを飛んでいた。この木戸の下側を見ると、埃や枯葉などの塵が忙しそうに舞っている。確か風の魔法のようなものがあったはずだが、それを応用したものなのだろう。
下を見ると何人かはこの空飛ぶ木戸を見つけて指を指しているのが見えたが、朝早いというのもあってか、少ない人通りの上に、忙しい時間では空を気にする人はあまり居ないようだった。
ふいに木戸が速度を上げ、上昇を開始し、そのまま城壁を越えてしまった。
木戸はそのまま西へ進み林の中へ入ると、今度は北を目指すように方向を変えた。これほど便利な魔法があるのならば、もっと見掛けそうなものだが、これまでに見た記憶はない。
「この魔法はロヒさんだけが使える魔法ですか?」
「そうですね……。まあ、他にも使える人はいるかもしれませんが、知っている人には居ません」
「ロヒさん……。なに者なんですか?」
「冒険者ですよ」
きっとこの人は冒険者以上のなにかなのだろう。そのなにかは私が考えても頭には浮かぶような簡単なものではないはずだ。